HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第四幕 一滴の泥水と同じように


 街の中心にあるグリーフ大広場から北に伸びるアルマ大通りは、大小様々なロイド工房
が軒を連ねて建っており、街の者には「工房通り」と呼ばれ親しまれている。その白を基
調とした石造りの街並みを進み、二つ目の大きな十字路を左に曲がると、右側に向かって
ゆっくりとカーブを描く道の三軒目に見えてくるのが、セスタのロイド工房〈白練工房〉
である。数あるロイド工房の中でも指折りの小工房だが、その主をしている少年の感性と
技術は、同業者を含めた街の誰もが認めている。
 その〈白練工房〉で四十五日をかけて製作された一体のヒューマノイドが完成の瞬間を
迎えた日、街の外から来たという依頼者――ゴゼットもまた、工房主の確かな腕による驚
異の造形に魅せられていた。
「まだ最終段階が終わっていないのですけどね」
 というセスタの言葉通り、そこにあるのは、確かにまだ自発的な動きを見せない人形の
領域にあった。しかし、それを差し引いてなお、そのヒューマノイドは人間としか思えな
い圧倒的な生々しさを、そして懐かしい彼女の雰囲気さえも、ゴゼットに叩き付けるので
あった。
「――この街に住まれるのですか?」
 呆然とヒューマノイドに見入っていたゴゼットは、平坦な問いかけにビクリと震えた。
 なぜだろう。少年の声が、やけに冷たく響いたような気がした。
「……どこでそのような話を?」
「街で、少し噂になっているのを耳にしました。決して小さい街ではありませんが、あま
り外部との接触が多いわけでもないので、そういった話題は注目されやすいんです。それ
に、僕が知る限り、ここ最近で街の外から来たというのは、あなた以外にいませんから、
なんとなく」
「なるほど、そうでしたか」
「街での生活について聞いて回っているそうですね」
「ああ、いや、お恥ずかしい」
 頬を指先で掻きながら、ゴゼットは照れ笑いをする。
「なぜ、そのような結論に?」
「いやあ……その、なんと言いますか……正直に申し上げてしまえば、身内の理解を得ら
れませんでした」
 ゴゼットの照れ笑いが、絶妙な遷移で苦笑に変化する。
「死者を冒涜するつもりかと。中には、気が触れたのかとまで言ってくる者もいました」
「なるほど」
 セスタの相槌は、恐ろしく和やかだった。
「つまり、この街なら、そういった心配が無くなると判断されたわけですね」
「ええ。この街には私を知る者も、彼女を知る者もいませんから。それに、ロイドについ
て知らないことが多い私にとって、この街はとても心強い」
 話すだけ話すと、気持ちが少し軽くなったような気がした。眼前の少年は「なるほど」
と頷くばかりだが、それはゴゼットの考えに立ち入るつもりがないという意思表示であろ
うと判断する。
「ところで、なぜ私が呼ばれたのでしょうか? 先ほどもおっしゃっていましたが、彼女
はまだ完成していないのでは?」
 素朴な疑問をぶつけると、セスタは小さく笑った。
「その通りです。このヒューマノイドを完成させるために、あなたの協力が必要なので」
 協力? と眉をひそめたゴゼットに、セスタは、ええ、と笑顔で頷く。
「このまま完成させても、ただのヒューマノイドにしかなりません。実在のオリジナルに
近付けるため、これからあなたの中にある奥様の情報を書き込みます」
「……あの、私は具体的に何を?」
「大丈夫、そう緊張なさらないでください。あなたは奥様のことだけを考えながら、この
ヒューマノイドに触れていれば良いのです」
「彼女のことを?」
 セスタは滑らかに頷いた。
「奥様の声、癖や仕種、共通の思い出、そうしたものを思い浮かべていてください」
「……」
 そのまま数秒ほど待ってみたが、セスタが二の句を継ぐ様子はない。
「……それだけ、ですか?」
「ええ、それだけですよ?」
 耐え切れずに尋ねると、セスタはあっさりと肯定した。むしろ、これ以上の何をするの
かと、逆に疑問に思ってすらいそうである。
 何をさせられるのかと身構えかけたが、思いのほかシンプルな作業で拍子抜けした。
「ああ……まったく、どんな大変なことをさせられるのかと思いましたよ」
「確かに簡単な作業です。しかし、絶対に欠くことのできない作業でもあるんですよ」
 セスタは表情を崩すことなく、ゴゼットをヒューマノイドの前に促す。
 ゴゼットはセスタに言わるまま、右手でヒューマノイドの頬に触れた。
 クラミニウムと呼ばれる鉱物独特のひんやりとした感触に、体温以外にも何かを奪われ
るような実感を覚えながら、目を閉じて愛する女性の記憶を呼び起こす。
 卵のように柔らかく微笑む繊細な彼女を。
 小さなミスに慌てふためくかわいらしい彼女を。
 いつか花屋をやりたいと言っていた優しい彼女を。
 ただ耳にするだけで心地良い声音の彼女を。
 そして――そうだ、今でも鮮明に思い出す。利き手が左手の彼女と最初に手を繋いだと
きの――
「――ええ、私もよく覚えています」
 鼓膜を振動させた声が誰のものかなど、わざわざ問うまでもなかった。
 見開いたゴゼットの視界に、穏やかに微笑む女性の姿がある。そのすぐ後ろに、セスタ
の姿があった。
「お疲れ様でした。作業は全て終了です」
「ああ――」
 力が抜けるような吐息が、ゴゼットの口から漏れた。
「エレアナ――」
 彼女を呼ぶ声が、震える。そもそも振動しているものが、さらに震えている。これは何
かの冗談だろうか。
「お久しぶりです、ゴゼットさん」
 ゴゼットを呼ぶ彼女の声は、彼のイメージと寸分の狂いもない。
 久しぶり――ああ、そうか、久しぶりか。
 なんてことだ。
 こんな奇跡が、本当に起こるなんて。
 彼女ともう一度、言葉を交わす日が訪れるなんて。
 彼女ともう一度、同じ時間を共有できる日が訪れるなんて。
 ……しかし、なんだろう。
 今、彼女に名前を呼ばれた瞬間、ゴゼットの中で何かが引っ掛かった。
 透明な水に一滴の泥水が落ちたような感覚。しかしすぐに溶けて消えて、今ではそれが
本当に実感だったのかさえ怪しい。
 ――尋ねるべきだろうか、このことを。彼に。
 自問して、一瞬、迷う。
 迷った、間に。
「とりあえず、お二人で街を散策されてはいかがですか? 色々な話をしながら。誰も気
にする必要はありません。この街は、あなた方の味方ですよ」
 耳元で囁くようなセスタの甘い言葉に、エリアナは嬉しそうに賛同し、左手でゴゼット
の右手を優しく包んで、行きましょうと促した。
 ――手、同じですよね、繋ぐと。私もゴゼットさんも利き手同士。
 彼女を特別な女性として意識した最初の言葉を思い出しながら、ゴゼットは引っ張られ
るようにしてセスタの工房を後にした。

 一体、何が引っ掛かったのか。

 それは、一滴の泥水と同じように、ゴゼットの中に溶けて、消えた。