HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第五幕 ランディング・ポイント


 グリーフ大広場から西に伸びるペルカ大通りを進んでいくと、その喫茶店がある。
 通りから地下へ潜る階段の先、まるで穴倉のような隠れ家的たたずまいのその店には、
黄色い花と綿毛のような種を付ける植物の名が冠されている。
 店内はそれほど大きくはない。カウンター席が六つと、二人掛けのテーブル席が八つあ
る程度である。おそらく故意であろう薄暗い雰囲気と相俟って、ますます狭いという印象
が強い。それでも、太陽が天頂を通過する頃には、それらの席も全て埋まり、店内は賑や
かになる。
 店の主をしている男は、ムジナと呼ばれている。無論、本名ではない。だが、誰もが彼
をムジナと呼ぶ。ずんぐりとした体格に似合った柔らかい物腰の男だが、こと珈琲と紅茶
の香りにだけはうるさく、他人の淹れたものは絶対に飲まないという変わったこだわりを
持っている。だが、そんな彼の淹れるこだわりの一杯を求めて、店を訪れる客は多い。
 そしてそれは、セスタも同様なわけで。
「――よう、久しぶりじゃないか。まあ、座れよ」
 客が少ない時間帯を見計らって店を訪れると、案の定、店内にはまったりと時間を過ご
す店主の姿のみがあり、その店主に促されたセスタは、カウンター席の一番右端に座る。
「珈琲でいいか?」
「ええ、お願いします」
 ムジナが準備を始める。ほどなくして香ばしい匂いが漂い始めると、彼はセスタの表情
を窺って、ニヤリと口の端を上げた。
「少し疲れているか?」
「正直、少し」セスタは苦笑して肩を竦めた。「久しぶりの大仕事だったもので」
「今回はだいぶかかったみたいだな」
「ヒューマノイドですからね。製作だけで四十五日かかりました。先週やっと完成したば
かりです。いやはや、今回ばかりは本当に疲れましたよ」
「街の外から来た男にくれてやったって?」
「無料で提供したわけじゃありませんよ。ちゃんと作業に見合う報酬は戴いています」
「……あのな、そういう話じゃなくて」
 焦れてきた様子のムジナに、セスタは小さく笑った。
「分かっています。もちろん、その点について忠告はしました。彼は一週間ほど考えた結
果として、僕にヒューマノイドの製作を正式に依頼してきたのです」
「……ふむ」
「それに、彼は確かに街の外から来ましたが、今はもうこの街の人間です。この街に住ん
でいる。何も、問題はないでしょう?」
「問題を議論する前に、何を問題とするかを議論する必要があるか?」
「今さら、ですか?」
 目を細めて尋ねると、ムジナは、ふんと鼻を鳴らして、セスタの前に淹れたばかりの珈
琲を差し出した。セスタはそれを香りから楽しみ、一口飲んで一息つく。
「――意味はあるのか?」
 前置きを取り払ったムジナの問い掛け。しかしセスタは落ち着いた様子で顔を上げる。
「何に対する意味ですか?」
「忠告に、だ」
 気が付くと、ムジナも珈琲のカップを片手に持っていた。どうやら彼は、始めから自分
が珈琲を飲むつもりであったようだ。
「前々から気になっている。過去にどれほどの者がその選択を求められたかはわからん。
だが、今のロイダリウムを見れば、それは自明を言えるんじゃないか?」
「それはヒューマノイドに限った話ではありません。アニマロイドやプラントイドでも、
同様の事例はあります」
「その事例の大多数がヒューマノイドによるものだ。違うか?」
「いいえ、違いません」
 柔らかく否定して、セスタは珈琲をもう一口飲む。
「ムジナさん。この議論は、多数か少数かを基準にしているのですか? 少数なら仕方な
いが多数では見過ごすことができない、と? 仮にそのポイントを受け入れるとして、で
は具体的に、どれだけの事例を基準にするのですか?」
 むう、とムジナが唸る。
 その間に、セスタはさらにもう一口、珈琲を飲んだ。漆黒の液体は早くも温度が低下し
始めているが、それでも味と香りは損なわれていない。
「さて」セスタは小さく前置きを挟んだ。「論点を本来の位置に戻しましょうか」
「本来の論点?」
 怪訝に聞き返すムジナに、セスタは笑顔で頷いた。
「ええ、本来の論点です。
 そもそもムジナさんがおっしゃっているのは、あの忠告がどれほどの意味を持っている
のか、ということでした。その点について間違いはありませんよね?」
「ああ、そこについて間違いはない。話を続けてくれ」
「わかりました。では――」
 ここでセスタは、残りの珈琲を一気に飲み干した。こういったタイミングでこういう思
い切った行動に出る自分は、なんだかんだと言っても年齢相応の稚拙な精神を持ち合わせ
ているのだなと実感する。
「――その忠告が誰のためにあるのか、その点を特に考慮されたことはありますか?」
 ムジナの怪訝そうな表情が、頭痛でも抱えたような渋面に変わった。
 対するセスタの表情は、変わらない。
「……本当は、最初から解が分かっていて、この話をしましたね?」
 ムジナがわずかに視線を泳がせる。こうしたかわいらしい一面を持つこの男の存在は心
地良く、またそれは、非常に得難いものだとセスタは思う。
「忠告が誰のためにあるのか。これは、ある事象に対するひとつの側面と言えると思いま
す」
「その事象の実体は?」
「自分から他人に対する厚意である、ということです」
「なら、その本質は?」
 ようやく見え始めた、議論の着地点。
 だが――ここはまだ違う。
「簡単です。突き詰めて考えれば、それは相手のためであるように見えて、実は自分のた
めでもある――さて」
 セスタは席を立った。
「帰るのか?」
「ええ。実はリックスから、ロイドの製作を頼まれているんです」
「……ヒューマノイドじゃあるまいな」
「まさか」
 セスタは小さく笑った。
「鳥のアニマロイドですよ。普通のね。値段も非常に手頃です」
「……そうか」
 どこかホッとした様子のムジナに、セスタは思わず吹き出した。
「まるで父親ですね」
「阿呆」
 ムジナは虫でも払うような仕種。
 だが、また来ますと一言置いて立ち去ろうとするセスタを、再びムジナが呼び止めた。
「仮に、少しの曇りもない厚意があるとしたら、それはどうなる?」
 ――なるほど、着地点はここか。
 セスタは目を細め、口の端を上げて微笑んだ。
「何にしても言えることですが、偏っているというのは、バランスが良くありません。
 ですから――

 ――それはとても、危険な状態と言えますね」