HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第六幕 消えたように見えていただけ


 ――それは。

 一瞬でも注意を逸らしたら見失う程度の、瑣末な問題に過ぎないと思っていた。

     *

 ペルカ大通り沿いの賑やかな露店街を、ゴゼットは彼女と歩いていた。
 競い合うかのように響き渡るいくつもの呼び声と、この街の全ての人間が集まったので
はないかと錯覚しそうになる人出の中を、まるで泳ぐように掻き分けながら進んでいく。
雨を忘れたかのように雲ひとつ無い青空と、汚れることを知らないかのように白い石造り
の街並みが、なぜか妙に心地良い。
 ゴゼットがロイダリウムと呼ばれるこの街で暮らすようになって、ひと月ほどが経過し
ていた。だが、この街の誰ひとり、彼と、彼のロイドについて詮索したり、口出ししたり
する者はいない。親や祖父母の代からこの街に住んでいたかのように、街は二人の存在を
自然に受け入れていた。
 この街は、あなた方の味方ですよ――彼女を作り上げた少年の言葉は、確かに事実だっ
たと言えるだろう。
 彼女との生活は、予想以上に順調なスタートを切った。ゴゼットの想像を遥かに超える
完成度を以って、彼女は彼の前に存在していた。生前の彼女を知るゴゼットさえ、彼女が
ロイドであることを忘れて話し掛けてしまうほどに。
 時おり、本物の彼女が迎えた最期を、忘れそうになる。
 実は彼女は、最初から何事も無く自分の傍に存在し続けていたのではないか。そんなふ
うに思えてしまう。だが、そういう、どこか現実味に欠けた、浮き足立ったような夢見心
地に気付かされると、今度は突き落とされたような寒気が背中を伝う。
 この感覚が、一体どのような精神的反応によるものなのか。それをゴゼットは、何かの
タイミングであの少年に聞いてみようと思っていた。ところが、何かしらの都合でその機
会を逃しているうちに、いつの間にか一ヶ月という時間が過ぎ去ってしまった。今となっ
てはどこか今さらな感が拭えず、結局、彼には何も伝えていない。
 しかし、だからといって、それが自分と彼女との生活に極めて重大な支障をもたらした
ことはなく、だからこそ、この問題を先送りにしてしまっていたわけだが。
 ――聞いておくべきだったのかもしれない。
 それこそ今さらながらに、ゴゼットは思った。
 その最たるものが、あの日の違和感だ。
 あの日――彼女が完成した日に感じた違和感。
 あのときは、すぐに溶けて消えてしまったのだと思っていた。その実体はすでに消え、
その本質が何なのかさえわからないほど、それは一瞬で消えてしまったのだと、そう思っ
ていた。
 しかし、それは違った。
 消えたように見えていただけだったのだ。
 考えてみれば、当たり前のことなのかもしれない。
 イメージとして最初に浮かんだ「溶けた」という現象は、「消えた」という現象と同一
ではない。「溶けた」ものは、存在そのものが消えたわけではなかったのだ。
 それが。
 今さら、顕現してくるなんて。
「――ねえ、ゴゼットさん」
 不意に呼ばれて振り向く。
 彼を呼んだのは、彼女に間違いなかった。
 見慣れた笑顔だ。
 見慣れた仕種だ。
 生前の彼女と、一片の違いも感じ取れないほどに。
「なんだい?」
「来週のお祭り、ぜひ見に行きましょう。この街だからこそのお祭りですもの。どんなも
のか楽しみだわ」
 ……ええと。
「……お祭り? って、なんだっけ?」
「もう、やっぱりゴゼットさん、何も聞いていないのね」
「やっぱり?」
「さっきからゴゼットさん、何を話しかけても上の空なんですもの」
「……そうかな?」
「そうです」
 上目遣いに口を尖らせる。
 優しい彼女は、いくら怒ったように見せても、全く恐く見えない。
「さっき、果物屋の奥さんが言っていたじゃありませんか。グリーフ大広場で毎年この時
期に行われるお祭りですよ。活動限界を迎えたり、不慮の事故で壊れたり、不具合で活動
不能になったロイドを慰労するんです」
 ……言われてみると、そういえば、曖昧な記憶の中にそんな情報があるような、ないよ
うな。
「――ああ、なんだかそんなことを耳にしたような気がする」
「もう、しっかりしてください」
 彼女は苦笑のようなものを見せて、しかし次の瞬間、今度は心底心配するような表情で
ゴゼットの顔を覗き込んだ。
「もしかして、どこか具合でも悪いのですか?」
「いや、そんなことはないと思うけど」
「そんなこと言って。ゴゼットさんはいつも気付かないうちに身体を壊すんですから」
「……いや、そんなこともないと思うけど」
「そんなことあります」
 言うが早いか。
 彼女は右手で、ゴゼットの頬に触れていた。
「熱は……無さそうですね」
 とても気持ちいいよ、冷たくて――という言葉を、飲み込んで、代わりに違う言葉を口
から吐き出す。
「だから言ったじゃないか。大丈夫だよ。いつも心配性なんだ、君は」
「そうでしょうか?」
「そうです」
 彼女は照れ笑いのようなものを見せて、「そうかもしれませんね」と呟く。
 その姿も、普段の彼女で。
「さ、早く帰りましょう、ゴゼットさん。今日も腕によりをかけて、お料理、作りますか
ら」
「ちなみに、今晩のメニューは?」
「今持っている材料で作ることができるもの、です」
 彼女は笑顔ではぐらかして、ゴゼットの手を掴んだ。

 ――冷たい。
 見ているだけなら、その肌は柔らかく、そして温かく感じられる。しかし、触れてみる
と、それは硬く冷たい鉱物の感触で、想像と実際の差異の大きさは、ゴゼットの中に、あ
るイメージを強く叩きつける。

 ――何故だろう。

 何故、彼女と触れ合った瞬間。

 ――その感触を、死体のようだなどと、思ってしまうのだろう。