HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第七幕 彼女はよく今のような表情を見せた


 その日、慰労祭と呼ばれるイベントが開始されたのは、太陽がだいぶ傾いた、まだ薄明
るい夕方だった。
 祭とは言っても、馬鹿のように盛り上がるものではなかった。夜店が出ているわけでも
ないし、誰もアルコールを飲んではいない。しかし、何かしらの理由で活動不能になった
ロイドを労う祭のわりには、誰もが酷く穏やかだった。
 慰労祭の会場であるグリーフ大広場の中央には、数日前から妙に巨大な櫓が組まれてい
た。それが何に使われるものなのか、ゴゼットは街の者たちに何度か尋ねてみたが、誰も
が「当日になれば嫌でもわかるさ。初めてなんだから楽しみにして待ってな」とはぐらか
すばかりで、結局、あの櫓の意味するところは分からぬまま、今日のこの日を迎えた。
 大々的に開始を告げられることもなく、気付いたときには祭が開催されていた。
 活動不能になったロイドを持つ人々が、誰彼構わず話しかけては、自分のロイドがいか
に尽くしてくれたかを嬉しそうに語っていた。ときおり動かなくなったロイドを撫でてみ
たり、頬を寄せたりしている姿は本当に労いを込めた親愛であり、名残惜しいという感傷
は無いように見える。そして話を聞いていた側も、相手のロイドを手放しで褒め、よく今
日まで働いてくれたと労っている。その姿にも悲哀はなく、また相手に無理をして合わせ
ている様子でもない。
 ――まるで、この街そのものが真の意味でひとつになったことを示すかのようだった。

     *

 太陽が完全に傾いて、地平線の向こう側へと消えてしまった頃、祭に変化が訪れた。
 この日だけ特別に弱められたという街灯が、申し訳程度に闇を照らす中、動かなくなっ
たロイドの持ち主たちが、それまで肌身離さず持ち歩いていたロイドを、一人また一人と
櫓に積み重ねていく。ゆっくりと、しかし確実に高さを増していく。
「何をするのかな」
「これから、あそこに火を放つのです」
 誰に対してというわけでもなく――強いて言えば、彼女に対して言ったのかも知れない
が――呟いたゴゼットに、彼女でない誰かが答えた。
 声が聞こえた方向を振り向くと、少し離れたところから二つの人影が近付いてくる。
 一人はセスタ。もう一人は、彼のパートナ、アイサである。
「火を放つ? どうしてです?」
「クラミニウムには、いくつかの特徴がありますが、そのひとつです」
 セスタは相変わらずの笑顔で答えた。
「一定以上の温度に晒すと、クラミニウムに刻み込んだ加工の情報が消えるんです。言っ
てみれば、初期化をするわけですね」
「初期化?」
「ええ。初期化されたクラミニウムは、もう一度、加工することが可能になります。……
まあ、なんと言いますか、クラミニウムもそれほど大量に存在するわけではないので、無
駄遣いを防ぐために、こうした方法を取っているんです」
 そういえば、と、ゴゼットは思い至る。
 この街で暮らすようになってそれなりに経つが、複数のロイドを所持してはいる人間を
見たことがない。もしかすると、そういった決まりが、この街にはあるのかも知れない。
「始まりますよ」
 促されて、ゴゼットは再び櫓を見た。
 五人の男が櫓の周囲を独特のステップで回り始める。タイミングを合わせて、櫓に向か
って何かを撒いているのが見えた。
「あれは?」
「発火性のある水です。クラミニウム自体には耐火性があるので、ああいったものを使用
して炎を安定させて、クラミニウムを高温で包むのです」
 セスタの返答は、ゴゼットの疑問を見透かしていたかのように滑らかだった。
 やがて潮が引くように、男たちが一人ずつ退場していく。最後の一人と入れ違いに入っ
てきた六人目は、赤々と輝く松明を持っていた。
 松明を器用に回転させながら、男が舞う。えらく時間をかけて、ゆっくりと、その軌跡
で櫓を囲っていく。
 そしてその軌跡が、ついに閉じられた瞬間。
 男は、驚くほどあっさりと、櫓に向かって松明を投げ入れた。
 夜の闇に、弾けるように、赤い炎の華が燃え上がる。
 観客たちの歓声が、一斉に沸き起こる。
 狂ったように拍手を贈る者がいて。
 静かに祈りを捧げる者がいて。
 そうして。
 各々が各々の価値観を以って、消えゆく存在を送り出そうとする。
 ああ。
 それは酷く儚げで。
 それは酷く、神聖なものに見えた。
「……」
 それを、どこか遠い世界のように感じているのは、きっと自分がこの街で暮らし始めて
間もないせいだろうと、ゴゼットは自分を納得させた。納得することはできたが、この空
間に完全に同調できていない自分を認めるには、少し労力が要った。そこで初めて、自分
がその光景に尋常ならざる魅力を感じているのだと、彼はようやく気付いた。
 ――そうだ。
 彼女は、どう思っているだろう。
 この光景を、彼女の目はどう捉えているのだろう。
 気付いて、気になって、彼は彼女に尋ねようとした。
 と。
「――ゴゼットさん」
 聞き慣れた声と同時に、ゴゼットの手に何かが触れた。
 わずかに速まる鼓動を実感しながら、彼は自分の左手に視線を向ける。
 鉱物のように、硬く、冷たい。しかし、そこにあるのは、確かに人間の――少なくとも
人間のものと認識できる、いわゆる右手と呼べるものだった。
「……」
 白くて細い、透き通りそうな指先から、磁器のように滑らかな手の甲へ。
 手首はまた細く、絶妙な腕のラインを這い上がると、途中から衣服がそれを乱す。
 柔らかではあるが決して複雑ではないラインは、しかし首筋に到達すると、再び本来の
姿を取り戻す。
 折れそうで折れない首の上に乗った笑顔が、彼を見ていた。
「……どうしたの?」
 尋ねる。
 彼女は。
 笑顔のまま、答えない。
 そうしているだけで満たされていると、そう言っているように見えた。
「……僕の顔に、何か付いている?」
 尋ねることといったら、その程度のことしか思いつかない。それくらい、今この瞬間の
彼と彼女には、特別なことなど何もない。
 何もない、はずだ。
 しかし、彼女はさらに数秒ほど彼の顔を見たかと思うと、まるで何事もなかったかのよ
うに首を九十度動かし、大広場の中心で燃え盛る炎の柱を見つめる。
 そういえば、と、ゴゼットは思い至る。
 今の彼女の横顔を、以前はよく見かけた記憶がある。
 大好きな花を眺めているとき、彼女はよく今のような表情を見せた。
 ――ああ、そうだ。
 さらに記憶は呼び起こされる。
 そうだ。花だけではない。
 彼女は、愛しいものを見るとき、必ず今のような表情を見せるのだ。
 それはそれは、穏やかな表情を。