HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第八幕 ありがとう、それでも私を、愛してくれて


 何かに引かれるように、ゴゼットもまた炎の柱を見つめ直した。
 長く見ていると、赤い光が眼球に焼きつく。
 しかし、目を閉じると目蓋の裏側に炎の残像が揺らいで、物悲しく思える。
 そしてもう一度、炎を見てしまう。
 その繰り返し。
 ただ、その繰り返し。
「……こちらを見ずに、そのまま聞いてください」
 呟くように、ともすれば周囲の声に掻き消されそうなトーンで、彼女が言った。
 周囲の喧騒が、なぜか急に、遠ざかったような気がした。
「ゴゼットさん、今まで本当にありがとうございます」
「え? 何を?」
「私を――愛してくださったこと」
 それは。
 なんというか。
「……唐突な話だね。どうかしたの? さっきから、少し様子が変だ」
 彼女のことを見ようとして、彼女がそれを望んでいないことに思い至り、思い止まる。
 彼女は、「そうかもしれません」と言って、クスリと笑った。
「この炎を前にすると、不思議な気持ちになります。今日まで蓄積してきた時間の、様々
な一瞬を思い出すんです。脈絡もなく、次々に。けれど」
 左手の感触に、わすかに力が込められる。
「一瞬一瞬を思い返すうち、そのほとんどに、あなたの存在があることに気付きました。
それで私、ようやくわかったんです」
「何に?」
「私にとって、あなたがどれほど大切な存在であったか」
 彼女が今どのような表情をしているのか、それが気になる。
 彼女が何を考えているのか、それが気になる。
 しかし。
「あなたに私の気持ちを伝えたいと思ったんです。もし、私が今ここに存在している理由
があるとしたら、それはきっと、そういうことじゃないかと思ったの。だから――」
 耳から入ってくる唯一の情報は、それを伝えてはくれない。今も左手にある感触は、た
だ冷たいだけだ。
「ありがとうございます。今の私を見てくれて。かつての私を今も想い続けてくれて。そ
して――」
 ――ああ。
 気付いてしまった。
 これは、良くない。
 このまま彼女に続けさせるのは、良くない。
 だが、しかし、だからといって、何をするべきなのか、わからない。何から手を付ける
べきなのか、それがわからない。
 混乱している。それは理解している。
 しかし、ひとつだけはっきりしていることがある。
 彼女の言葉を聞くこと以外に、何が優先できるというのだ。
「――ありがとう、それでも私を、愛してくれて」
 左手の感触が消える。
 彼女が大きく一歩、前に出る。
 遊ぶように。
 おどけるように。
 ゴゼットを振り返る彼女の表情は、驚くほど優しい。
 なのに。
 どうしたら良いのかわからない。まだわからない。
 今なら、手を伸ばせば、届くのに。
 彼女に、まだ、届くのに。
「……あ、」
 彼女に向かって何かを言いかけて、言葉に詰まる。
 ……何か? いや、それは違う。
 薄々感じてはいた。理解してもいた。しかし、どうしても認めることができなかった。
 この街で暮らしている間、それが全く不都合にならなかったのは、ある意味で救いだっ
たと言える。だからこそ今日まで彼女と生活することができていたはずだ。
 しかし、今では遅い。遅過ぎるのだ。今この場では、もう覆すことができない。
 ロイド技師の少年の工房で初めて彼女を目にしたとき、ゴゼットは夢心地で口にした。
 彼女の名を。
 だが、それだけだ。あのときだけだ。あの一回だけだ。
 今はもう呼べない。呼べなくなってしまった。
 最初から、呼べるはずなどなかったのだ。
 彼女と彼女は、本質が違うのだから。
 しかし、本質が違っていても、彼女は確かに彼女だった。
 彼女に向かって彼女の名を口にしようとするたびに、違和感に襲われる自分を思い知ら
された。彼女に彼女の名を付けたのは自分なのに、彼女を名前で呼ぶことが一切できなか
った。自分は彼女の名を呼べないのに、街の人間が親しげに彼女を名前で呼ぶのが耐えら
れなかった。それでも、それでもなんとか誤魔化し続けていれば、いずれ時間が解決して
くれると信じていた。彼女との時間を再び手にした自分が、そんな小さなことで悩むなん
て身勝手な話だと、言い聞かせるように、自分に向けて。
 なのに。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 何が、いけなかったというのだろう。
 自分はこんなにも彼女を愛していたのに。
 今でもこんなに愛しているというのに。
 今でも――
「何も間違ってはいませんよ。ゴゼットさん」
 激しく燃え上がる炎の柱を背後に、彼女は笑った。
 それはまるで、最初から何もかもわかっていたと、言っているかのようで。
「あなたには、何も非はありません」
「何も? ……でも、」
「もし、何か間違っていることがあったとしたら」
 わざとらしく彼の言葉を遮って、彼女は一歩、後ろ向きに歩を進めた。
「――それはきっと、もう一度あなたと同じ時間を共有したいと思った、私の分不相応な
期待のことだわ」
 彼女が小さく手を振った。
 またね、と言われたような気がした。
 彼女は振り返り、駆け出す。
 軽やかに。
 楽しげに。
 一片の迷いも感じられない。
 両腕を少し広げた姿は、まるで抱擁を求めるかのようだ。
 その彼女の前には、しかし、巨大な炎の柱がある。
「ま――」
 そこに思い至ったとき、彼はようやく彼女に向かって声を張り上げた。
「待って! 待ってくれ!」
 言葉は、きっと届いたのだろう。
 しかし、彼女は止まらなかった。
 抱き寄せようとした彼女が、逆に抱き寄せられる。
 炎に。
 衣類が一瞬で燃え尽き、女性特有の滑らかな体のラインが露になり、それでも彼女は、
動かなくなったロイドたちの山を登っていく。少しずつ鈍くなる彼女の動きを見ながら、
ゴゼットは呆然と自らに問いかけていた。
 彼女に呼びかけた。
 例え一言だけでも、彼女が思い止まるよう呼びかけたことに変わりはない。
 しかし、自分の手は、足は、体は、最後まで彼女を止めようと動きはしなかった。

 ――どうして。

 どうして彼女を、止めようとしなかったのだろう。