HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


第九幕 もしかしたら、と、そう思ったんです


「それ見たことかと、俺は言うべきなのかな?」
 苦笑いのような皮肉った笑みを見せたムジナに、セスタはいつもと変わらない穏やかな
笑顔を返した。
 慰労祭から数日後の昼下がり、セスタがムジナの店を訪ねた際のことである。
 慰労祭での一件は、既に街の誰もが知るところとなっていた。慰労祭自体に参加しなか
ったムジナも、その例外ではない。いや、むしろ彼はその仕事上、多くの情報を逸早く手
に入れられる立場にある。噂話の類は特にそうだ。
「……あの男は、街を出ていったらしいな」
 ――そう、彼は街を出ていった。
 街の外からやってきた男は、街の外へと帰っていったのだ。この街には既に、彼の存在
を示すものは、何も残っていない。
 人々の中にある記憶という、曖昧なもの以外には、何ひとつ。
「――ええ。街を出る直前に、僕の工房へ挨拶に来てくれました」
 言いながらセスタは、街の外から来た男との最後の会話を思い出す。

 ――近いうちに、街を出ようと思います。
 ――そうですか。
 ――ただ、その前に、あなたにだけは一言お礼を申し上げておきたくて。
 ――僕に?
 ――ええ。……彼女と同じ時間を過ごす機会を、もう一度くれたことに。

「礼だと?」
「ええ」
 セスタは頷く。
「彼はとても穏やかでした。初めて会ったときとは比較にならないほどに」
「なるほど。とりあえずは、何かしらのケリをつけて帰ったというところか」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」
 事も無げに呟くセスタに、ムジナは怪訝な表情を見せる。
「なんだ、聞いていないのか?」
「理由がありません」
 セスタは肩を竦めた。
「それに、本人が自ら口に出さないことは、大概において踏み込まれたくない事情である
可能性が高い。興味本位で掻き回すものではないでしょう」
「それは確かにな」
 会話に一瞬の間が空く。セスタは、ムジナの出した珈琲に口をつける。さらにもう一口
というところで、再びムジナが口を開いた。
「……で、どこまでわかっていた?」
「何をです?」
「わかってて聞くな。今回のヒューマノイドの一件に関してだ」
「確率論の話なら、それはムジナさんもおわかりでしょう。箱を開けてみなければ生きて
いるのか死んでいるのかわからない猫と同義です」
「なら、今回の破綻も予想範囲内か?」
「それは結果論になりますが、これまでの事例からも考えて、その可能性は決して低くな
いと思っていました」
 ただ、とセスタは前置きして、珈琲に口をつけた。一息ついて、続きを語り始める。
「破綻の経過については、非常に興味深いものがありました」
「……」
 ムジナは押し黙る。件のヒューマノイドがどのような最期を迎えたのか、話には聞いて
知っていたためだ。
「今回に限ってみれば、彼の側に破綻の可能性は低かった。いや、極端なことを言ってし
まえば、その可能性は無かったとすら言えるかもしれません。生前の彼女と現在の彼女と
いう二つの存在は、彼にとって確かに精神的な抵抗はあったでしょうが、彼はそれを受け
入れようとしていましたから。
 ところが、彼女はそういうわけにはいかなかった。彼女は、自分がかつて生身の人間だ
ったという事実、一度は死んだ身であるという事実、そして理由はどうあれ生き返ったと
いう事実、この三つの事実を、どうにかして処理しなければならなかったんですから」
 珍しく饒舌なセスタの言葉を、ムジナはただ黙って聞いていた。聞きながら、ひとつの
疑念が凄まじい勢いをもって確信に変わっていくのを実感していた。
 言及すれば、きっと彼は謙遜しながら否定するだろう。しかし、ムジナにはなんとなく
わかっていた。
 ――彼は、きっと、今回の一件に関わることを決めた段階から、あの二人がああなるこ
とを予想していたのだろう。
「彼も彼女も、最初は瑣末な問題だと思っていたことでしょう。現に彼は彼女の存在を喜
んでいたし、彼を見た彼女もまた、とても嬉しそうに見えましたし。
 しかし、その問題は、致命的だった」
「……」
「新しい時間を紡ぐうちに、二人は気付いてしまったんです。自分たちがいくら努力して
も、かつての二人に戻ることは叶わないという、決定的な真実に。付き合えば付き合うほ
ど、彼は彼女がかつて愛した女性とは全くの別人――別物なのだと思い知らされ、彼女は
彼のそうした心の迷いをどうしても解きほぐすことができなかった」
「……それが、あのヒューマノイドが自らの機能停止を選んだ理由か」
 ようやく、それだけを口に出したムジナに、しかしセスタは、首を横に振る。
「わかりません。これはあくまで僕の予想ですし、可能性の一端でしかありません。
 彼女は機能を停止し、彼は街を去った――それだけが、揺るがしようのない事実です」
 一通り話して落ち着いたのか、セスタは椅子の背にもたれ掛かって、深く吐息する。い
つの間にか空になったカップに、ムジナが無言で珈琲を注ぐ。視線を上げるセスタに、ム
ジナは苦笑しながら「奢りだ」と告げた。
「奢りついでに、ひとつ聞いていいか?」
 カップに口を付けた状態のセスタは、目を細めて小さく頷く。
「どうして、あの男の希望通りにロイドを作った?」
 率直な問いに、セスタはカップから口を離し、自嘲気味に笑った。
「もしかしたら、と、そう思ったんです。
 彼や彼女の想いが、もしかしたら、僕の中にある確率論をあっさりと覆してくれるんじ
ゃないか、とね」
「自分が否定されることを望んだというのか。正気とは思えん」
 ムジナは笑った。
「なるほどな。しかし、結果は見ての通り、というわけだ」
「いえ。……そうでもありませんよ」
「なんだと?」
 怪訝に問い返す。
 セスタは、どこか遠くを見るような眼差しで、穏やかに微笑んだ。
「相手を想って自ら死を選ぶ。……こんな結末を、僕は全く予想することができませんで
した。彼らの想いは、確かに僕の予想を超えた。あの瞬間、確かに超えていたんです。
 だから……うん、そう、そうなんですよ」
 彼はムジナに視線を向けた。
 ムジナがこれまで見たこともないような、実に晴れやかな笑顔だった。
「だから僕は、今、とても嬉しいんです」