HOME言葉と音の世界言楽〜gengaku〜 > 深い谷底のロイダリウム


終幕 何か問題があるのでしょうか?


 街の南側に広がるレモレ海が、朝日に白く煌く頃、人気のない海岸に二つの人影があっ
た。
 一人は二十歳の女。長い黒髪を首の後ろでまとめている。砂浜を歩く足取りに乱れはな
く、直線のような理想的な姿勢で前を見ている。
 その視線の先には、十代後半の少年がいる。短い黒髪を潮風になびかせ、濃いブルーフ
レームの眼鏡の奥にある瞳は穏やかで、年齢相応の幼さと、不相応な冷静さを同時に存在
させている。気のせいか、靴を通して伝わってくる砂浜の感触を、意図的に確かめて楽し
んでいるように見えた。
「彼女は最後、彼にこう言ったそうだよ。
 あなたは何も間違ってはいない。もし何かが間違ってしまったのだとしたら、それは私
の分不相応な願いなのだ、とね」
 振り向きもせずに、少年が言う。
「どう思う?」
「とても興味深い現象だと思います」
 女は淀みのない柔らかな受け答えで応じる。「うん、そうだね」と、少年は満足そうに
頷いた。
「そう、確かに興味深いね。実際のところ、今回の一件には驚いている」
「その話をするとき、あなたはとても嬉しそうですね、セスタ」
「わかるかい?」
「あくまで私の主観的な観測ですが」
「真面目だな、君は」
 少年は声を上げて笑った。声を上げて笑うほど、少年は機嫌が良かった。最近、このよ
うな反応が増えてきたなと、彼は他人事のように思った。
「この街における……いや、この世界における僕の立場、その役割と言うべき事柄を、君
は理解しているね?」
「はい。言語化による明確化は避けますが」
「懸命な判断だ」
 少年は肩を竦める。
「今回の事例は、まさにこの世界が求める解のひとつを提示したと、僕は思うんだ」
「人間とヒューマノイドの共生は可能か、ということですね」
「そうだ。結果は残念なことになったけど、しかし今回の事例は、非常に重大な問題を僕
らの前に示した。……それは、なんだと思う?」
「私に質問する必要性を感じません。その答えを、あなたは既にお持ちのはすです」
「確かに。しかし僕は、君の口から、君の声で聞きたいんだよ。それは、君に対して質問
する必要性になるんじゃないかな」
「……わかりました」
 女は観念した様子で吐息する。
「あ、もしかして今、少し呆れた?」
「そうですね。少し」
「いいね、それは。とても人間らしい反応だと思う。喜ぶべきことだよ」
「論点がずれています」
「おっと、すまない。頭の中では全てが繋がっているのだけどね。いやはや、発声という
行為は融通が利かなくて困る。なんとか並列で実現できないものかと思うよ」
 まあ、恐ろしく無理だろうけど。少年はそう言って笑う。
「まあ、それは別の機会で良い話だね。
 さあ、それじゃあ聞かせてくれるかな。君の言葉で」
「はい。
 それは、『谷』の捉え方に対して、多角的な視野が必要となる、ということですね」
「そう。まさにそこだ」
 少年は足を止め、振り返って女を見た。声のトーンが少し下がり、視線は少年というよ
り青年の領域に近付いている。
「今まで気が付かなかったのが不思議だ。どうして我々は、自分たちが彼らを受け入れら
れない可能性ばかりを警戒し、その逆は考えない?」
「ヒューマノイドが人間を受け入れない可能性を、最初から排除しているためではないで
しょうか?」
「人間を必ず受け入れるよう、ヒューマノイドに初期設定を与えるというのか? それで
は『より人間らしいヒューマノイドを作る』という目的に反する。その類の自己矛盾は必
ず破綻に繋がる致命的な…………いや、待てよ……」
 彼は何かに思い至ったのか、不意に右手を口元に持ち上げ、考え込む仕種を見せて再び
歩き始めた。
「人に近付くヒューマノイドを受け入れられない人間と、人間に近付きながらも決定的な
ものが欠けている彼ら……それで片付く問題ではないということか……?」
「セスタ、足元に気を付けてください。転倒する可能性があります」
「ありがとう、大丈夫だ。……両者は対等と見せかけて、その実、対等ではないわけか。
つまり、問題は『どちらが先か』ということになる。とするならば……」
 少年は足を止める。
 視線を上げる様子が、後ろを歩いていた女にも理解できた。
 表情は見えない。
 しかし、それは瑣末な問題に過ぎない。
「思考はまとまりましたか?」
 尋ねる。
 少年は頷くと、右手で髪を掻きながら、「参ったな。これは本当に、とんだ茶番だよ、
カナタ・キリシマ」と呟いた。やはり表情は見えないが、きっと苦笑しているのだろうと
女は考える。気分を害している様子ではない。
 少年は再び女を見る。その表情は既に、いつもの彼のものだった。
「帰ろう、アイサ」
「わかりました」
 来た道を引き返そうとする。
 と――
「ねえ、アイサ」
 少年が呼び止めた。
「何でしょう、セスタ」
「手を、繋いでもいいかな」
「構いません。どうぞ」
「ありがとう」
 少年は女の横に並び、優しく彼女の手を取った。
 どこか安堵したように、少年は言う。
「柔らかいように見えて硬く、温かいように見えて冷たい。
 彼は言っていたよ。彼女の手を取るたび、まるで死体に触れているように思えた、と」
「それは、何か問題があるのでしょうか?」
「いや」
 少年は一瞬の躊躇もなく否定する。
「では、どういうことなのでしょう」
「つまり、それはね、アイサ」
 彼は小さく笑いながら、彼女の疑問に応じた。
「このロイダリウムは、深い谷底にあるのと同じなんだよ。
 不気味の谷という名前の、とてつもなく深い谷の底にね」

                                   ――了――