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幕間一 我々は望みながら拒んでいる(前)


 あれは確か、一昨年の二月上旬であったと記憶している。
 年明けの騒がしさがようやく落ち着きを見せ始めた頃、私はカナタ・キリシマとの対談
をついに実現させることができた。これは、二年越しのラブコールが届いた形となる、念
願、いや悲願と表現すべき出来事であった。
 余計な誤解を招かないように断っておくが、彼は何も、私の願いを無下に拒み続けてい
たわけではない。私に限った話ではなく、彼は当時取り組んでいた研究に集中する為、外
界からのあらゆる接触を拒んでいた。
 私としては、彼が一人の科学者である以上、研究こそが彼の本分であり、その研究を優
先する彼のスタイルは正常であると思うし、それについてどうこう言うことは、非常に痛
いことであるとも理解している。
 しかし、彼はそんな自らのスタンスを「不器用」だとした上で、私に会うなり謝罪をし
てきた。本来なら、彼の事情を知りながらも幾度となく接触を図っていた、我慢のできな
い私の方が謝罪するべきだったはずの場面で、である。
 臆面もなく言い訳をさせてもらえるなら、それは、老い先短い老人の焦りだったと表現
することもできる。機会を逃したら最後、私は死ぬまで彼と接触できないのではないかと
思っていた。そして、その機会を得ることなく死ぬというのは、私にとってひどく無念と
いうか、死んでも死にきれないというか、とにもかくにも、私にとってはそれほど重要、
いや、必要なことなのである。
 しかし考えてみれば、彼の対応は最適かつ最良であった。彼の対応により、我々の間に
壁は無くなったと、少なくとも私には思えた。もちろん思い込みだろう。しかし、彼と会
ったらどんな話をしようかと思っていた私は、いつの間にか、彼に何から聞こうかと思う
ようになっていた。もしかすると、そのときすでに、私は彼のペースに引き込まれていた
のかもしれない。まったくもって、彼は興味深い人物である。

     *

 さて、彼との貴重な時間の中で私たちが何を話したのかというと、折しも対談の数日前
に某テレビ局で放送されていたバラエティ番組についてであった。当時の科学の最先端を
紹介しつつ、近い将来の我々の生活をシミュレーションするという、非常に幸福そうな主
旨で展開されていたその番組の中で、私たちが特に盛り上がったのは、自ら思考し行動す
るロボットと、その進化系である「より人間らしいロボット」――いわゆるヒューマノイ
ドのくだりであった。
 私は、そもそも人間としか評価できないロボットを実現できる日が訪れると思うかどう
か、と彼に尋ねてみた。私の中には、そうした未来に対するいくらかの期待があり、また
一方で、それは無理だと思ってもいた。
 しかし彼は、単に実現の可否には留まらない、私と異なるポイントに着目していた。
「技術的には、そう遠くない将来、飽和状態になると思っています。それを踏まえて、今
後のロボット工学の発展のために我々が憂慮すべき問題はむしろ、僕ら自身の中にあると
言って良いでしょう」
 私は一瞬、彼の言葉の本質を得ようと思考し、その結論の成否を彼に求めた。
「それはつまり、今の我々には技術力向上の前に越えるべき壁があり、それが我々の技術
力をいずれ飽和させると、そう言っているのかい?」
「ええ、その通りです」
 彼はあっさりと私の質問に肯定の意を示し、しかし、続け様にこう答えた。
「まあもっとも、越えなければならないものは壁ではなく、谷なんですけどね」
「谷?」
 彼が何を言っているのか、今度は理解に数秒ほどかかった。そのときの私の表情は、驚
くほど呆けていたに違いない。
 彼の言っていることの意味がわからなかったわけではなく、その意味に気付いたからこ
そ、彼の口から「その話」に関する事柄が出てきたことに、私は混乱してしまったのだ。
 そんな私の態度から、私の思考や心境を察したのだろう。彼は苦笑とともに、小さく肩
を竦めて見せた。
「意外でしたか? 僕が不気味の谷の存在に注目していることが」
 確かに彼の言う通り、私は意外に思っていた。
 あの概念は、ロボット工学者でさえ肯定的な意見と否定的な意見が真っ向から分かれて
いる。そうでなくても、我々は今現在においてあの概念の信憑性を確認できる技術力を確
立できていない。あの概念が提唱されてから、少なくとも一人の人間の人生が始まって終
わるほどの時間が経過しているにも関わらず、である。
「ええ、確かにおっしゃる通りです。
 しかし、だからこそ面白いと、そうは思いませんか?」
 ――面白い。
 彼がそのたんごを発した瞬間、言いようのない寒気を覚えた。
 しかし、
「面白いというのは、例えば、どのようなところが?」
 尋ねずにいられない。
「そうですね……。
 うん、やっぱり、どうしたところで結論が出ない議論を、どうしても続けたくなる人間
の精神が面白いですね。なんとかして明確にしたいという欲求と、あわよくばこのまま不
明確にしておきたいという願望が混在している。想像するだけでも、楽しい気分になるこ
とができます」
 そう言いながら、徐々に表情を緩ませている彼を見ているうちに、ああそうかと、私は
寒気の正体に気付いていた。

 彼は、危うい。
 あまりにも、身軽に過ぎる。
 注意を逸らした瞬間に手を離れてどこかへ飛び去ってしまう、赤い風船と同じように。


      (VRタイムズ紙の元編集長、故エイジ・ツツミ氏の遺した手記より抜粋)