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幕間二 我々は望みながら拒んでいる(後)


 不気味の谷現象。
 一九七〇年に日本のロボット工学者が提唱した、ロボットをはじめとした非人間的対象
に対する、人間の感情の反応に関する概念を指す言葉だ。
「先ほども申し上げたように、我々の中には相反する二つの思考が存在します。
 ひとつは、謎を解明したいとする思考。
 そしてもうひとつは、謎を謎のままにしておきたいとする思考です」
 カナタ・キリシマは、左右の人差し指を持ち上げ、交互に前後させる。
「どれだけ片方の思考に傾こうとしても、もう片方を捨てることはできません。これは、
全ての人間に共通する数少ないファクタのひとつです」
「全ての人間に?」
「ええ」
「君もそのひとり?」
「もちろんです」
 彼は一瞬の躊躇もなく、柔らかに微笑む。
「さて、そうすると、科学者や研究者と呼ばれる人種は難儀なものです。確かにひとつの
道を極めようとしているのに、どこまで行っても満足できないのですから」
「もし満足してしまったら?」
「それは有り得ません」
 彼の笑顔は揺らがない。
「我々が何かしらの物事に対して区切りを付けるのは、我々がその物事に対して満足した
からではなく、妥協した結果です。そもそも、満ち足りるという現象は、理想値のような
ものですからね」
 話をすればするほどに、彼の言葉に引き込まれそうになる。
 決して小難しい理論ではない。特別、説得力があるわけでもない。満ち溢れた自信を熱
く語るわけでもなく、誇張や装飾もない。
 彼はただ、自身にとっての事実を語っているに過ぎないのだ。
 そんなシンプルな構造は新鮮かつ魅力的であり、私はついつい聞き入ってしまう。
 聞き入って、さらに深く彼の思考に触れたいと思ってしまう。
「理想値と言うのであれば、それは決して非科学的な領域ではないはずだね?」
「仰る通りです。
 では、妥協と満足はどこで切り替わるのか。――それは、当人の認識なのか他人の認識
なのか、そして、その当人がは生きていのるか死んでいるのか、という違いに、大きく影
響されるでしょう」
 なるほど、例え当人が満足しないまま死したとしても、当人以外は誰しもが彼のことを
満足していただろうと口にする理論、というわけだ。
「つまり、満ち足りるという理想値は、死と同義というわけだね?」
「その通りです。それ以上の進化、あるいは変化を実現できないのであれば、それは、わ
ざわざ存在している理由を失ってしまいますから。
 しかし、不思議ですよね。どうして人間という生き物は、何もかもを綺麗に片付けたい
と思うのか。……あ、いや、失礼しました。話が逸れてしまいましたね」
 そう言って表情を緩ませる姿は、むしろ少年のように幼く、可愛げがある。
 そういえば、もし自分に孫がいたとしたら、ちょうど彼くらいの年齢だったかもしれな
いなと、私はふと思い至った。
「本題に戻りましょう。
 僕がこの不気味の谷現象に興味を抱いているのは、この概念が一定の時間的経過の上に
あることを前提に成立している点です」
「……それは不気味の谷現象に限った話ではないのではないかな? この世の事象の大概
はそうした理論の上に成り立っていると思うがね」
「そこです。ポイントは」
 彼の視線が、穏やかなまま鋭く光ったように見えた。まるで獲物を狙うネコ科の動物の
ようだなと、私は思った。
「それが当然のように思われていますが――考えてみてください。そうでなくてはならな
い理由は、そもそも存在しません」
 ますます理解できなくなる。
 彼は一体、どこまで真剣なのか。どこまで意図的なのか。
 いや、おそらく彼は全てに対して常に真剣なのであり、そこに伴って発生する全ての行
動は、おそらく常に意図的であるはずだ。もちろん、この解釈は私のものであり、それは
あくまでも私の勝手(あるいはこれを自由と表現することも可能)な認識に過ぎない。し
かし、それは彼に限った話ではなく、相手が誰であれ私の反応に特別な変化が起こること
はないはずだ。
「我々は、常に最先端を行くという名目の上で、我慢することをやめてしまったのです。
 少しでも新しい領域に踏み込むと、それを誰よりも早く示したいと思ってしまう。自分
が最初だという優位性、自分は優秀だという意識、認識。そうしたものが、人間という存
在に限界を与えてしまっていると、僕は思っています」
 つまるところ、私が今ここで言わんとしていることは、相手がカナタ・キリシマである
なら、どれほどくだらない話題であったとしても有意義になるであろう、ということであ
る。これは最早、信仰に近い。過大な誤解を覚悟で言わせてもらうなら、きっと私は、彼
という存在に心を奪われてしまっているに違いない。
「まさか君は、そうした人間の限界に挑もうとしている?」
「僕はそこまで傲慢ではありません」
 笑顔でかわされる。
 翻弄されることが、これほど心地良いとは思わなかった。もしかすると私は、もうとっ
くに狂ってしまっているのかもしれない。
 だが。
 それも、良いかもしれない。
 狂うというのも、体験としては貴重と言える。
 何しろ私はこれまで、これほど危うい精神状態を経験してはいないのだから。
 このような興味深いな感覚を、久しく忘れてしまっていた。
「じゃあ、一体、何を?」
「大したことじゃないんです。
 人間が時系列的に段階を踏んで変化していくことしかできないのは事実ですし、おそら
くこれからもその状況に変化は起こらないでしょう。僕だって、その一人ですから」
 ただね、と、彼は小さく笑った。
 ああ、まったく、どうして彼はこんなにも、絶妙な笑顔を見せてくれるのだろう。
 まるで――精密機械のようだ。
 とても本気で笑っているようには見えないのに。
「ただ、今もし僕らの前に完成されたロボットが現れたら、どうなるんだろうな、とは思
いますよね。不気味の谷という現象が、段階を経て変化しているロボットに対して起こる
人間の感情だというのなら、その段階を全て飛び越えて、人間としか思えないロボットが
いきなり目の前に現れたら、僕らは彼らを受け入れられるのかどうか。
 いつか、この問題を試すような実験をしてみたいなと、思っているんです」


      (VRタイムズ紙の元編集長、故エイジ・ツツミ氏の遺した手記より抜粋)