京 都 府

  
住所  神社名 祭礼日 内容 備考
祗園町北側625            八坂神社   7/17・24  神輿3基 中御座、東御座、西御座
前祭(7/17巡行)     鉾9基、山14基   長刀鉾、月鉾、菊水鉾、舩鉾、凾谷鉾、鶏鉾、放下鉾、岩戸山、霰天神山、占出山、山伏山、岩戸山、木賊山、芦刈山、白楽天山、保昌山、太子山、 郭巨山、伯牙山、 孟宗山、油天神山、綾傘鉾、蟷螂山、四条傘鉾
休み山 布袋山
後祭(7/24巡行) 鉾1基、山9基   橋弁慶山、北観音山、南観音山、鈴鹿山、浄妙山、鯉山、黒主山、役行者山、八幡山、鷹山、大船鉾
花傘
 ≪主な前祭行事≫
2日
  くじ取り式:京都市役所に各山鉾町代表者が集まり、17日(前祭)、24日(後祭)のくじを取って山鉾巡行の順位を決める。
10日
  ■お迎え提灯:16:30〜20:30。
「神輿洗」の神輿を迎えるため、万灯会員有志が提灯を立て、八坂神社周辺地域を巡行。コースは八坂神社→河原町四条→市役所→寺町通→東大路通→神幸道→八坂神社
  ■神輿洗:18:00〜20:30頃。
神輿三基を舞殿に据えた後、その内1基(中御座)の前後を松明で照らしながら四条大橋まで担ぎ、神輿を清める儀式を行なう。
  20;30頃八坂神社に戻り、17日の神輿渡御にそなえ三基の神輿を飾り付ける。
13日
 久世駒形稚児社参:14:00〜。17日の神幸祭、24日の還幸祭に供奉をする久世稚児(駒形稚児)の社参が行われる。
10〜14日
  前祭山鉾建て
12〜13日
  前祭山鉾曳初め:四条通りは12日、新町通りは13日と決められている。
14日〜16日
  宵山(宵々山):山鉾に吊られた駒形提灯に灯が入り、祇園囃子が奏でられる

15日
  伝統芸能奉納:(15:00〜20:00:八坂神社境内)多彩な各種伝統芸能が奉納される。
16日
  石見神楽奉納(18:30〜:八坂神社境内)
  

17日
 山鉾巡行(9:00〜)
 神幸祭(18:00〜:八坂神社⇒石段下⇒四条御旅所。) 石段下にて三社神輿の差し上げが行なわれた後、それぞれの神輿が所定のコースに従い巡幸。21時頃に相次いで四条御旅所に着輿し、以降24日まで御旅所に留まる。
 ≪主な後祭行事≫
18〜21日
  後祭山鉾建て

20〜21日
  後祭山鉾曳初め
21〜23日
 後祭宵山
24日
 山鉾巡行(9:00〜)10基の山鉾が巡行コースは烏丸御池→河原町御池→四条河原町→四条烏丸。
 花傘巡行(10:00〜12:00)傘鉾十余基、馬長稚児、子供武者等が石段下を出発し、列を整え所定のコースを練り歩く。コースは石段下→四条寺町→寺町御池→河原町御池→四条河原町→八坂神社。
 八坂神社到着後、舞踊等の奉納を行なう。

24日
  還幸祭(17:00〜: 四条御旅所⇒八坂神社)17:00頃四条御旅所を3基の神輿が出発。途中の三条通の又旅社にて祭典を行う。市中を巡り八坂神社へ戻る。戻ったあと、明かりを消し御神霊を本殿にお戻す。
28日
 神輿洗い(18:00〜20:00頃):
神輿三基の内1基(中御座)の前後を松明で照らしながら四条大橋まで担ぎ、神輿を清める儀式を行なう。20:30頃八坂神社に戻り、神輿庫に収める。
29日
  神事済奉告祭(16:00〜)八坂神社にて、祇園祭終了を奉告し、神恩を感謝する。
31日
  疫神社夏越祭(10:00〜:八坂神社境内)
 【神輿】
神幸祭(17日)と還幸祭(24日)に氏子地区を練る。17日〜24日の間、四条御旅所の間の四条センターに留置かれる。

中御座(三若神輿会)=屋根は六角形。牛頭天王(素盞鳴尊)が遷される。平成12年(2000)金箔が貼りなおされる。
三若神輿会が担う。正式名は三条台若中三若神輿会。江戸中期より神輿の奉仕をしている。会員は神輿の奉仕をしていた子供しかなれない。
往古は神輿は全て三若が舁いていた。

東御座(四若神輿会)=屋根は四角形。櫛稲田姫命が遷される。平成13年(2001)金箔が貼りなおされる。
明治より四若神輿会(八坂神社東御座四若神輿会)が担うようになる。京阪三条駅東の若松町、若竹町の人々が中心。
2本のながえ(担ぎ棒)が平成18年(2006)、100年ぶりに新調された。長さ13.6m、縦22cm、横17cm、1本の重さは約200キロ。東近江市で切り出した樹齢200年のヒノキを4年間乾燥させて作られた。また傷んだ時に備えて、約3、7m長く仕上げた。
 また東若御座(少年部)は子供神輿を舁く。子供神輿は昭和27年制作。

西御座(錦神輿会)=屋根は八角形。素盞鳴尊の子供の八柱御子神が遷される。平成14年(2002)金箔が貼りなおされる。

戦後、錦神輿会(錦市場)が担う。還幸祭の時はまず錦天満宮に参ってから御旅所に向かう。

昭和41年に17日の前祭(山鉾20基)に24日の後祭(山鉾9基)が合同されたが、元の形に戻そうという動きの下、平成26年より後祭が復活。
 ※ 応仁の乱の頃には58基の山鉾が出た(『祇園社記第十五』)。明応9年(1500)に36基の山鉾が出たがそれについてはここを参照

後祭りの山鉾は11基。先頭は橋弁慶山。2番手に北観音山、3番手に南観音山、4〜9番手は籤。10番手は鷹山。大船鉾を最後尾となる。
 ≪後祭≫1基の鉾と10基の山がある掲載の順番は2022年の巡行
橋弁慶山(蛸薬師通室町東入ル橋弁慶山町)=謡曲「橋弁慶」から取る。五条大橋で牛若丸と弁慶が戦う姿。
往古はくじ取らずで先頭を巡行していたが、明治5年以降は北観音山が復興されたので2番目を巡行となるも、大船鉾の再興により平成24年(2012)先頭に復帰する。
山建ては7月21日。舁き初めは7月21日。

 長刀は関兼明、太刀は近江守久道の作。
 人形に「牛若と弁慶」で永禄6年(1563)の古い銘がある。仏師康運の作。
 水引は「百子文様」の綴錦。
 胴掛:平成21年3月に右面、23年に左面を復元新調。叶島織物セルコンの作。
以前のは文化6年(1809)、円山応挙下絵の「賀茂祭礼図綴錦」。葵祭を絵巻風に牛車、近衛使、検非遣使などが描かれたもの。
 前掛は昭和58年作、富岡鉄斎筆の「椿石霊鳥図綴錦」。原画は清荒神所蔵の衝立で、原画と同寸法。
以前は中国明頃の作。雲龍波濤文様の綴錦。
 後掛は江戸末期の作。「雲龍文」の刺繍。
北観音山(新町通六角下ル)=「上り観音山」とも云われる。くじ取らずで2番。
山建ては7月19日。曳き初めは7月20日。

 御神体は「楊柳観音像と右脇の韋駄天」。
創建は文和2年(1353)で、応仁の乱の時代から隣町の南観音山と1年おきに交代で山を出していた。元は舁山だが、文政元年(1828)〜天保2年(1831)にかけて曳山に改造。
その名残りとして、真木の代わりに松を立てる。松は、毎年鳴滝から2本届けられ、南観音山とクジを引いて松の所有を決めている。
 天保2年新調され、部材は上部の障子屋根等は円山安養寺へ寄贈。胴組等の下部は綾傘鉾に譲渡。
 揚柳観音像は元は恵心僧都の作だったが、天明の大火で、法橋定春作となる。平成2年車輪を復元。
 天水引は2点。平成2年復元新調、西陣の山口安次郎の作。元は文化14年(1817)作。金地錦観音唐草文様(紋織)。
明和6年(1796)制作の「猩々緋新地霊龍文様」を隔年に使用。
 二番水引は平成18年(2006)新調。往古の復元新調。「紅地牡丹梅笹唐草文様」で、山の前後面用縦38センチ、横約2・6メートル、側面用横約3・4メートル。
江戸時代初期に明で作られた水引を参考に、鮮やかな紅色の下地に、牡丹と松竹梅をあしらい、唐草のつるを太く描いた。
 三番水引は平成18年(2006)新調。往古の復元新調。「金地紅白牡丹文様」で、前後面用縦48センチ、横2・7メートル、側面用横3・5メートル。
宝暦11年(1761)の水引を基に、紅白の牡丹柄を縫い込んだ。
 胴掛は昭和59年、「斜格子草花文」新調。平成11年、飾房一式新調。
昭和58年、メダリオン中東連草文様(19世紀ペルシャ絹絨毯)。
 後掛は昭和59年、中東連草文様(19世紀ペルシャ絨毯)。胴掛類は、以前は17〜18世紀の花文インド絨毯を用いていた。
 見送りは17世紀末、中国・明朝の「日輪鳳凰百子嬉遊図綴錦」。以前は「絽刺の金地縫詰道釈人物図」。
 飾房一式、平成11年新調。
南観音山(新町通錦小路上ル百足屋町)=「下り観音山」とも云われる。くじ取らず。江戸期は北観音山と隔年交代で出ていた。揚柳観音と善財童子を安置。天明のどんどん焼きで揚柳観音の頭部以外は全焼するが、寛政8年(1796)復興。
くじ取らずで3番。山建ては7月19日。曳き初めは7月20日。一般搭乗拝観は7月21日より。

 御神体人形は揚柳観音像。高さ104.1cm。善財童子像。高さ63.8cm。
 天水引は平成19年(2007)復元新調。塩川文麟下絵の「緋羅紗地 四神文様」。叶島織物セルコンの作。原品は安政5年(1858)作。
 下水引は平成5年(1995)復元新調。「苑色繻子地雲龍図」と加山又造原画による「飛天奏楽」。
 前掛は以前のは異无須織(ペルシア金銀絹絨毯)は17世紀製の逸品,
 後懸は斜め葉格子草花文様(18世紀インド絨毯)。胴掛はペルシャ花文緞通。
 金糸大房を平成23年(2011)110年ぶりに復元新調。
 見送りは昭和63年(1988)新調。加山又造原画「龍王渡海図」。以前は中国明代の雲中青波文の綴錦。
鯉山(室町通六角下ル鯉山町)=御神体は龍門の瀧を上った鯉は龍に化すというところから、勇ましく滝上りする鯉の雄姿をあらわしている。
 長さ5.5m。幅2.3m。高さ6m。山建ては7月19日。

 前掛、胴掛、水引、見送りは16世紀中期にベルギ―はフランドル地方ブラバン州で制作されたタペストリを大小9枚に裁断して作られた。
ギリシャの英雄叙事詩「イーリアス」“アポロン像を礼拝するプリアモス王とヘカベ―”。
これは伊達政宗の家臣である支倉常長がローマ法王パウロ5世に謁見した際に、贈られた5枚シリーズの1枚である。
 見送りは平成元年6月、前掛は平成4年6月、右胴掛は平成7年6月、左胴掛は平成9年6月に新調復元。平成11年6月、毛綴りの左右水引を復元新調。
浄妙山(六角通烏丸西入ル骨屋町)=「平家物語」巻四の宇治川の合戦の先陣争いから取っている。
山建ては7月20日。

治承4年(1180)、三井寺の僧兵筒井浄妙坊明秀が橋を渡り、一番乗りをしようとしているところを、一来法師がその頭を飛越え、「悪しゅう候、御免あれ」と一番乗りしたところを、御神体人形としている。
浄妙坊が着用している黒韋威肩白胴丸は室町時代の作で一説には楠木正成所用の物とも言われ昭和45年に国指定重要文化財となり、以後は別の鎧を使用となるが、この胴丸は祭りの期間に展示されている。
 水引は波涛文様の彫刻。
 胴掛は昭和60年(1985)長谷川等伯筆の「柳橋水車図」で川島織物により新調。
以前はビロード織の「琴棋書画図」。これは天明の大火後に47両で新調したもので、ビロード山と称した時があるほど有名であった。
 前掛は平成19年(2007)、「桜図」を綴錦で新調。後掛は「楓図」。
 見送りは「雲龍文」。同町在住の本山善右衛門作のカガリ織。
黒主山(室町通三条下ル烏帽子屋町)⇒元来呉服商や民家など計23軒があった。平成9年(1997)以降では、呉服商5軒が店を閉め、現在は18軒になり跡地に呉服商の跡地にマンション5棟ができ、約250世帯が入居しているので参加を依頼している。
=謡曲「志賀」より、歌人大伴黒主が櫻の花を眺めている姿である。
山建ては7月20日。

 御神体の人形は寛政元年(1789)5月、辻又七郎狛之澄の作。
 人形衣裳も江戸時代初期の作で、延宝3年(1675)在銘の「紺地菊唐草文小袖」と正徳元年(1711)在銘の「萌葱絽地牡丹文色入金襴大口袴」がある。
 前掛は復元新調。元は16世紀の織物。明の萬暦帝即位の折りの礼服を琉球王に贈ったを一枚に継いだもの。「五爪龍文様錦」。
 胴掛は「草花胡蝶文様の綴錦」。
 後掛は平成12年(2000)復元新調。蒲エ村美術織物の作。「緋羅紗地 飛龍文様綿入切付刺繍」新調。
 水引は雲龍文様の繻珍。
 見送りは平成16年(2004)復元新調。「牡丹鳳凰文様綴錦」。龍村美術織物の作。
「紅地唐子嬉遊図」。平成19年(2007)約300年ぶりに復元新調。龍村美術織物の作。また復元の過程で、16世紀に中国で制作された綴織りの古い見送は本来は裏面だった部分を表面にして使っていたことが分かった。古い見送は過去3回修復した跡があり、いずれかの時に裏面を表にしたと見られる。
交替で使用している。

以前は17世紀中国製の「牡丹鳳凰文様綴錦」。
役行者山(室町通三条上ル役行者町)⇒山鉾町最北の山である。真松に鈴がつけられている。
=修験道の祖役行者小角が大峰山と葛城山との間に石橋を架けようと一言主命に石を運ばせたという伝説による。
山建ては7月20日。

 御神体は役行者、鬼の顔の一言主神、葛城女神の三体。
平成22年(2010)御神体衣装を復元新調。
 水引幕と前掛が一体化し平成10年に復元新調。川島織物による。
水引部は寿字に双龍図。上部仕立裂は唐花文様を紋織復元。 下部中央に「岩に牡丹と蝶の図」、両端に「波涛に飛龍図」。どちらも中国17世紀前半の綴織を復元新調(刻糸の流し織を再現)。
胴掛は雲龍波涛文の綴錦。
 見送りは昭和57年復元新調。戸田与謝の作。「金地唐美人図錦綴。」。
以前は「金地唐美人図綴錦」と、赤地古金襴で縁取った龍図絽刺の2種類。
鈴鹿山(烏丸通三条上ル場之町)=御神体は、伊勢の国鈴鹿山で、人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫命)。このスーパーモデル並の身長176cmの美女の瀬織津姫命のモデルは静御前とも巴御前とも言われる。金の烏帽子に白繻子雲龍文小袖、緋精好大口袴、紫地金立涌か巴文金襴の表着を着け、腰に錺太刀、手に大長刀と中啓を持っている。
後の山には、赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれている。山に立つ松には、鳥居や宝珠などが描かれた小絵馬を多く付ける珍しい山で、巡行後に盗難除けの護符として授与されている。
山建ては7月20日。

 扁額は富岡鉄斎筆の「瀬織津姫神」。
 欄縁金具は、山鹿清華下絵の「四季花鳥文様」。
 胴掛は平成12年「桜図綴織」。平成14年「紅葉図綴織」。今井俊満原画で蒲エ村美術織物の作。以前は18世紀中国清朝の作。
 前掛は平成元年新調。「黄砂の道」。叶島織物セルコンの作。
 後掛は昭和61年制作。皆川月華作の「郡禽譜」。
 見送りは昭和57年(1982)新調。皆川月華の染彩「ハワイの蘭花」。
以前は明代と伝えられる「雲龍文」の刺繍と明治35年制作の「牡丹鳳凰文刺繍」。 
八幡山(新町通三条下ル三条町)=御神体は騎馬に乗った応神天皇。
石清水八幡宮を勧請して町会所の庭に祀った八幡宮を、山の上に祀る。
 祠は総金箔で天明年間(1781〜88)の作と伝えられる。前面の朱塗りの鳥居の笠木のうえに、向かい合って八幡さんのシンボルの白鳩が2羽止まっている。
 祭神応神天皇の像は運慶の作。鳥居の鳩は左甚五郎の作と云われている。
 また保存庫には江戸期の画家、海北友雪による祇園祭礼図屏風が所蔵されている。
 胴掛は平成2年復元「瑞獣図」。
 前掛は元禄3年寄進された「慶壽群仙国」を昭和62年に復元新調。
 水引は平成4年新調

以前は「金地花鳥仙園図唐繍」。文化6年(1809)の作。
 見送りは「日輪双鳳人物文様」の綴錦と「藍地雲龍文様蝦夷錦」。
鷹山(三条通室町西入ル衣棚町)公式HPへ=文政9年(1926)に暴風雨に遭い、破損のため翌年から巡行を見合わせる。修復の目途が立たないまま元治元年(1864)の大火で御神体の人形頭など一部が難を逃れたが、懸装品の大半を焼失し永らく休み山となってしまう。
2014年、祇園囃子復活。2015年、保存会発足し翌2016年に公益財団法人を受け、公益財団法人鷹山保存会となる。この年より粽等の授与や祇園囃子の演奏を復活。
令和4年(2022年)、196年ぶりの山鉾巡行復活。
山本体の施工はは安井杢工務店。作業場は京丹波町。車輪と車軸は船鉾。櫓は菊水鉾。車軸の上で櫓全体を支える石持は放下鉾より譲り受けた。
高さ約17m(真松含む)、幅約4m。長さ約6m。

応仁の乱(1467)以前より山を出していた。
天明の大火(1788)で
被害を受け舁山となり、その後、寛政10年(1798)再度曳山となる。応仁の頃は釜座町と2箇所より出したが、江戸期は当町のみこれを出す。
光孝天皇仁和(886)の芹川野の行幸時の中納言行平(もしくは右大将頼朝)供奉の鷹匠姿を模したと云われている。
大きな曳山で鷹匠、犬を連れた犬飼い、樽を背負い手には粽を持つ従者という三体の人形を乗せていた。
凱旋舩鉾〔大船鉾〕(公式HPへ(新町通四条下ル四条町)=元治元年(1864)の蛤御門の変により焼失するが、平成9年よりお囃子を復活させ、13日の夜から宵山までの期間、新町通四条と綾小路の間(四条町)にて演奏を行った。
平成24年(2012)御神体を木製の箱「唐櫃」に入れて巡行に142年ぶりに参加。平成26年(2014)完全復活。

以前は明治3年(1870)にも唐櫃巡行するも諸般の事情により続かなかった。
 現存する懸装品は平成12年「大舩鉾」装飾品展目録によると、前掛は「雲龍波濤文様綴織」。後掛は「雲龍波濤文様綴織」。舵は
緋羅紗地雲龍波濤文様刺繍」。水引は「緋羅紗地飛龍波濤文様刺繍」、「金地雲龍文様」、「緋羅紗地鳳凰文様刺繍。掛軸は昭和5年、中島荘陽 筆。敷物は緋羅紗地唐草文様捺染」。御神体衣裳は「立菱固綾小直衣」、「唐花顕紋紗狩衣」。御神体神功皇后の腹帯。

江戸期は北四条町と南四条町に分かれていて1年交代で巡航を受持っていた。
北四条町が巡航する時は舳先に龍頭を掲げ、南四条町が巡航する時は舳先に大金幣を掲げて巡航した。現在は大金幣の実物が残っているので、大金幣で巡航か?
 ※ 応仁の乱の頃には58基の山鉾が出た(『祇園社記第十五』)。明応9年(1500)に36基の山鉾が出た 。
 【花傘巡行】
昭和41年に前祭と後祭が統合され7/17に山鉾巡行が行われることになり、7/24の後祭を補う形で花傘連合会を結成。
この団体は京都織物卸商業組合が中心となって、平安時代の山鉾の形式を再現を目指し、八坂神社の氏子地域にある4つの花街のお茶屋組合、各種行事の保存会や八坂神社の諸組織、山鉾保存会など550町、17の団体が参加。
花傘、祇園太鼓、獅子舞、祇園囃子、馬長、鷺祭などの行列などが10時に八坂神社を出発し、昼12時頃に八坂神社に到着後、芸能の奉納(鷺舞や舞・芸姑を行う。。

 当初のコースは八坂神社⇒四条河原町⇒河原町御池⇒寺町御池⇒四条寺町⇒八坂神社であったが、平成26年(2014)、後祭の山鉾巡行が復活したあとは巡行ルートを変更し、八坂神社⇒四条寺町⇒寺町御池⇒河原町御池⇒四条河原町⇒八坂神社となる。寺町御池から四条河原町の間は後祭山鉾巡行の後に連続して巡行している。
 ≪参加団体≫
八坂神社清々講社、八坂神社婦人会、八坂神社清風会、八坂神社青年会、ボーイスカウト京都第65団、ガールスカウト京都府第15・16団、祗園万灯会、祗園太鼓研究会、鷺舞保存会、祗園田楽保存会、先斗町お茶屋組合、祗園東お茶屋組合、祗園甲部お茶屋組合、宮川町お茶屋組合、久世六斎保存会、京都織物卸商業組合、祗園祭山鉾連合会
 ≪巡行列≫
先祓―子供神輿−花傘巡行旗―神饌行列―神饌花車―祗園太鼓旗―祗園太鼓―八坂神社青年会旗―花傘―金獅子―銀獅子―幌武者―児武者―高士―馬長旗―八坂神社清々講社馬長―八坂神社清々講社旗―供奉員―八坂神社婦人会馬長―八坂神社婦人会旗―供奉員―鷺舞保存会旗―花傘―棒振―さぎ―鞨鼓―堤燈―供奉員―祗園田楽旗―花傘―田楽―供奉員―久世六斎保存会旗―六斎―供奉員―京都織物卸商業組合花傘―花傘娘旗―花傘娘―供奉員―花傘―宮川町お茶屋組合コンチキ音頭―花傘―祗園甲部お茶屋組合雀踊―祗園万燈会旗―花傘―万燈踊旗―万燈踊―鷺踊旗―鷺踊―供奉員―山鉾連合会―祗園囃子―押―子供神輿
 【ねりもの】
 ねりものとは、祗園町の芸妓衆が、神輿洗いの夜、さまざまな風流をこらし行装をととのえて神社に詣でたことをいう。この行事は、江戸中期頃よりはじめられ山鉾とともに人気をあつめたが。幕末の動乱で一時廃絶していたが、明治4年復活し、明治期では10〜13年、15年、26年に行われる。戦後は29年に復活し、32年、35年に行われた。現在は花笠巡行に参加している。
 【平成女鉾】(平成女鉾清音会HPへ
平成8年(1997)4/1建立。女性による鉾立て、お囃子を目指している。御神体は櫛稲田姫命。
平成8年108日「京都まつり」にて御池通のパレードが初披露。函谷鉾と同型。高さ20m。幅4.5m。重さ10トン。大工は竹田工務店。
完成以来同工務店で保管していたが、平成17年(2005)2/3、元・工場の久御山町の倉庫に移動。現在も懸装品は無いが、行事毎に井筒より借りる。
花傘巡行参加要請したが、前例のない新規の鉾であることや、地元となる町内会・寄町がないことなど、実現は難しいと聞く。