京 都 府

月鉾 菊水鉾
  
住所  神社名 祭礼日 内容 備考

祗園町北側625            八坂神社   7/17・24  神輿3基 中御座、東御座、西御座
前祭(7/17巡行)     鉾9基、山14基   長刀鉾、月鉾、菊水鉾、舩鉾、凾谷鉾、鶏鉾、放下鉾、岩戸山、霰天神山、占出山、山伏山、岩戸山、木賊山、芦刈山、白楽天山、保昌山、太子山、 郭巨山、伯牙山、 孟宗山、油天神山、綾傘鉾、蟷螂山、四条傘鉾
休み山 布袋山
後祭(7/24巡行) 鉾1基、山10基   北観音山、南観音山、橋弁慶山、鈴鹿山、浄妙山、鯉山、黒主山、役行者山、八幡山、鷹山
花傘
 ≪主な前祭行事≫
2日
  くじ取り式:京都市役所に各山鉾町代表者が集まり、17日(前祭)、24日(後祭)のくじを取って山鉾巡行の順位を決める。
10日
  ■お迎え提灯:16:30〜20:30。
「神輿洗」の神輿を迎えるため、万灯会員有志が提灯を立て、八坂神社周辺地域を巡行。コースは八坂神社→河原町四条→市役所→寺町通→東大路通→神幸道→八坂神社
  ■神輿洗:18:00〜20:30頃。
神輿三基を舞殿に据えた後、その内1基(中御座)の前後を松明で照らしながら四条大橋まで担ぎ、神輿を清める儀式を行なう。
  20;30頃八坂神社に戻り、17日の神輿渡御にそなえ三基の神輿を飾り付ける。
13日
 久世駒形稚児社参:14:00〜。17日の神幸祭、24日の還幸祭に供奉をする久世稚児(駒形稚児)の社参が行われる。
10〜14日
  前祭山鉾建て
12〜13日
  前祭山鉾曳初め:四条通りは12日、新町通りは13日と決められている。
14日〜16日
  宵山(宵々山):山鉾に吊られた駒形提灯に灯が入り、祇園囃子が奏でられる

15日
  伝統芸能奉納:(15:00〜20:00:八坂神社境内)多彩な各種伝統芸能が奉納される。
16日
  石見神楽奉納(18:30〜:八坂神社境内)
  

17日
 山鉾巡行(9:00〜)
 神幸祭(18:00〜:八坂神社⇒石段下⇒四条御旅所。) 石段下にて三社神輿の差し上げが行なわれた後、それぞれの神輿が所定のコースに従い巡幸。21時頃に相次いで四条御旅所に着輿し、以降24日まで御旅所に留まる。
 ≪主な後祭行事≫
18〜21日
  後祭山鉾建て

20〜21日
  後祭山鉾曳初め
21〜23日
 後祭宵山
24日
 山鉾巡行(9:00〜)10基の山鉾が巡行コースは烏丸御池→河原町御池→四条河原町→四条烏丸。
 花傘巡行(10:00〜12:00)傘鉾十余基、馬長稚児、子供武者等が石段下を出発し、列を整え所定のコースを練り歩く。コースは石段下→四条寺町→寺町御池→河原町御池→四条河原町→八坂神社。
 八坂神社到着後、舞踊等の奉納を行なう。

24日
  還幸祭(17:00〜: 四条御旅所⇒八坂神社)17:00頃四条御旅所を3基の神輿が出発。途中の三条通の又旅社にて祭典を行う。市中を巡り八坂神社へ戻る。戻ったあと、明かりを消し御神霊を本殿にお戻す。
28日
 神輿洗い(18:00〜20:00頃):
神輿三基の内1基(中御座)の前後を松明で照らしながら四条大橋まで担ぎ、神輿を清める儀式を行なう。20:30頃八坂神社に戻り、神輿庫に収める。
29日
  神事済奉告祭(16:00〜)八坂神社にて、祇園祭終了を奉告し、神恩を感謝する。
31日
  疫神社夏越祭(10:00〜:八坂神社境内)
 【神輿】
神幸祭(17日)と還幸祭(24日)に氏子地区を練る。17日〜24日の間、四条御旅所の間の四条センターに留置かれる。

中御座(三若神輿会)=屋根は六角形。牛頭天王(素盞鳴尊)が遷される。平成12年(2000)金箔が貼りなおされる。
三若神輿会が担う。正式名は三条台若中三若神輿会。江戸中期より神輿の奉仕をしている。会員は神輿の奉仕をしていた子供しかなれない。
往古は神輿は全て三若が舁いていた。

東御座(四若神輿会)=屋根は四角形。櫛稲田姫命が遷される。平成13年(2001)金箔が貼りなおされる。
明治より四若神輿会(八坂神社東御座四若神輿会)が担うようになる。京阪三条駅東の若松町、若竹町の人々が中心。
2本のながえ(担ぎ棒)が平成18年(2006)、100年ぶりに新調された。長さ13.6m、縦22cm、横17cm、1本の重さは約200キロ。東近江市で切り出した樹齢200年のヒノキを4年間乾燥させて作られた。また傷んだ時に備えて、約3、7m長く仕上げた。
 また東若御座(少年部)は子供神輿を舁く。子供神輿は昭和27年制作。

西御座(錦神輿会)=屋根は八角形。素盞鳴尊の子供の八柱御子神が遷される。平成14年(2002)金箔が貼りなおされる。

戦後、錦神輿会(錦市場)が担う。還幸祭の時はまず錦天満宮に参ってから御旅所に向かう。
 【弓矢町武具飾り】
東山区弓矢町には八坂神社に奉仕する犬神人が住んでおり、往古は神幸祭の時は6人の法師武者と約30人の甲冑姿の武者が神輿行列に供奉していた。
明治以降は清々講社に属する列として神幸祭や還幸祭に供奉していた。しかし財政的な負担や甲冑の損傷などのため、還幸祭は昭和41年を最後に、神幸祭は昭和49年(1974)を最後に途絶え、翌昭和50年(1975)からは神幸祭の日取りに合わせて弓矢町武具飾りとして町内の各家に飾られるようになる。なかでも弓箭閣(きゅうせんかく)と呼ばれる会所では大将の甲冑や御使い武者の甲冑2領が並ぶ。この裏には蔵があり、各家で飾られる甲冑も納められている。
昭和41年に17日の前祭(山鉾20基)に24日の後祭(山鉾9基)が合同されたが、元の形に戻そうという動きの下、平成26年より後祭が復活。
 ※ 応仁の乱の頃には58基の山鉾が出た(『祇園社記第十五』)。明応9年(1500)に36基の山鉾が出たがそれについてはここを参照
 ≪前祭≫9基の鉾と14基の山がある掲載の順番は2015年のデータを基準
長刀鉾
(四条通東洞院西入長刀鉾町)=「くじとらず」といい毎年先頭を行き、唯一、生稚児が乗る。
鉾建ては7月10日。曳き初めは7月12日。一般搭乗拝観は7月13日より。女性は会所2階までで、鉾内部は搭乗は不可。
鉾頭が疫病邪悪を祓う大長刀をつけているので、この名がついた。この大長刀は三条小鍛冶宗近の作。
宗近は一条天皇永延 (987〜989) 頃の刀工で、三条一派の祖。左大臣頼長の佩刀小狐丸鍛造に冠する謡曲「小鍛冶」などが有名である。

 前掛はペルシャ花文緞通。以前はペルシャ絹緞通。
 胴掛は平成18年(2006)、二代目上野為二師の作で寄贈である。「孔雀更紗文」。
デザインは人間国宝の故・上野為二さんの振り袖の文様で「白色の2羽のクジャクが映える図柄」である。
以前は中国玉取獅子文緞通、卍華文緞通、梅樹緞通、トルコ花文緞通など優れた18世紀頃の緞通類を使用。
 水引幕は「五彩雲麒麟文様刺繍」。宝暦5年(1755)狩野派の画家が下絵を描く。
二番・三番は一体で、東面は平成7年、西面は平成8年、南面は平成9年、北面は平成10年に川島織物が復元新調。
二番水引幕は、文政4年(1821)に白井華陽が下絵を描き、近江屋藤次郎が刺繍。
平成21年の復元新調で全水引幕完成。
 画題は、四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)と八珍果(林檎・銀杏・枇杷・桃・柘榴・柿・梨・茘枝)である。
三番水引幕は、菱形の枠の中に、丸龍、飛龍や青海波、鳳凰、獅子などを金色端麗に構成した錦。
 天井幕は平成12年(2000)新調。「彩雲紋刺繍」。
 見送りは綴織りの「雲龍波涛文様」。平成17年(2005)復元新調。168年ぶり。制作費は約2、500万円。
以前のは天保8年(1837)に中国明代の図柄を元に京都で織られた。
月鉾(四条通室町西入ル月鉾町)=鉾頭に三日月をつけているのでこの名で呼ばれる。真木の中ほどの天王座に月読尊の櫂を持ち舟を漕ぐ姿を祀っている。明治45年に稚児を人形にする。
鉾建ては7月10日。曳き初めは7月12日。一般搭乗拝観は7月14日より。

 高さ26m。重さは巡行時は12トンと全山鉾の中で一番大きく重たい。
 稚児人形は明治45年、三代目伊東久重の作。「於兔麿(おとまろ)」。
 鉾頭の三日月は昭和56年新調の18金製。真木は月読命の御神像を祀る。破風、蟇股の彫刻は左甚五郎作と伝えられる。
 下水引は昭和40年、皆月月華作の「四季草花図」。二番水引は「角龍文様」。三番水引は昭和45年、皆川月華作の「遊魚図」。
 前掛は平成12年(2000)新調。「メダリオン中東連花葉文様ラホール絨毯」。
 胴掛の左面:平成23年(2011)復元新調。山形県のオリエンタルカーペットの作。以前のは天保6年(1835)の作。
 後掛は平成2年、復元新調。「中東連花文様」。
 見送りは皆川月華作の「草花図」。
菊水鉾(室町通四条上ル菊水鉾町)=町に「菊水の井戸」があり名づけられた。これは中国に菊慈童という長寿の人がおり、菊水を飲んでいたといういわれから来ている。
鉾頭には、天に向いた金色の16弁の菊花を付けている。
鉾建ては7月10日。曳き初めは7月12日。一般搭乗拝観は7月13日より。

 昭和24年、福井出身の松本元治氏が病気治癒の悲願をこめて菊水鉾再建の構想を立て、26年に町会決議となる。
 昭和27年、88年ぶりに再興。この年は南区の六孫王神社の神輿車を借りこれに玉垣を巡らし、真柱を建てて幟を掛けた鉾頭だけの仮鉾で巡行に参加。
これに引き続き28年6月17日、再建竣工式が行われた。大工は竹田与七(東九条)。車大工は小林車両(小林兼太郎)。
 稚児人形は「菊丸」。昭和31年、人形師の岡本正太郎の作。
 懸魚は平成11年(1999)新調。海老名峰彰の作。前:「菊花一輪持嘴尾羽王入鳳凰」、後ろは「寄添雌雄鳳凰」。
 天井絵は昭和38年、三輪晁勢筆。
 前掛は昭和49年、皆川月華作の「昇龍図」。以前は昭和29年、皆川月華作の「飛鶴図」。
 胴掛は昭和29年、皆川月華作。右は「麒麟図」、左は「唐獅子図」。
 後掛は昭和33年、皆川月華作の「昇鯉の図」。平成17年修復。
 一番水引は昭和53年、皆川月華作で前は「雲図」、右は「春景吉野桜図」、左は「秋景竜田紅葉図」。
 天水引は昭和50年、三輪晃勢作で左右後ろとも「花鳥図」。
 見送りは平成2年、岩澤重夫画伯下絵の「深山菊水図」と昭和36年、皆川月華作の「孔雀草花図」。

 元亀2年(1571)に恵比寿神を祭神とした夷山を出した。当時は夷三郎町と称した。
 貞享元年(1684)、夷社の焼失により祠堂、神像を失い菊水鉾町と改称。
 天明8年(1788)1/30の宮川町団栗図子空家からの天明大火にて菊水鉾焼失。
 寛政3年(1791)に菊水鉾再建。[5年頃説もあり]。

 元治元年(1864)7/19、禁門の変により木組み、車輪などを焼失。その後明治5年(1872)まではくじだけは引いていたが翌年からはそれも棄権。
 明治24年(1891)には山伏山に見送り、前掛け、金具類などの懸装品を譲渡。鉦6個も函谷、鶏、月の各鉾に2面ずつ譲渡し復活は絶望と思われた。
船鉾(新町通綾小路下ル船鉾町)=神功皇后の説話にもとづき、船の形に作られた鉾。祗園祭が合同になる以前は、前祭のしんがりをつとめた。巡幸の時に鉾の上には神功皇后と三神像(磯良、住吉、鹿島)を祀る。江戸期は北袋屋町、南袋屋町の二町であったが、明治初年に合同して袋屋町となり、さらに大正14年、船鉾町となる。くじ取らず。
鉾建ては7月11日。曳き初めは7月12日。一般搭乗拝観は7月14日より。

 巡行の時に鉾の上には神功皇后と磯良、住吉、鹿島の三神像を祀る。
神功皇后の衣装が平成23年(2011)復元新調。元の衣装は江戸期制作で、傷みが進んでいたため、ここ10年ほどは別の衣装を使っていた。
 格天井は天保5年(1834)制作。「金地花の丸」。
 胴組は天保5年制作。前懸は昭和8年、山鹿清華作の「雲龍文様」。
 水引平成4、5年復元新調。元は天保7年(1836)制作。西村楠亭の下絵による「雲龍図」の刺繍。
 下水引は2019年、185年ぶりに新調。上京区の刺繍工芸家、樹田紅葉と川島織物セルコンが2年かけて制作。事業費は1583万円。「緋羅紗地鳳凰麒麟瑞雲文様刺繍」。縦64cm、横418cm。
以前のは天保5年(1834)の作。
 見送りは、平成8年(1996)復元新調。「雲龍文様」。蒲エ村美術織物の作。
凾谷鉾(四条通烏丸西入ル函谷鉾町)=中国の戦国時代に斉の孟嘗君が函谷関で、家来に鶏の鳴き声を真似させて関門を開けさせ難を逃れた故事にちなんでつけられた。鉾頭には上向きの月をあしらう。くじ取らず。
鉾建ては7月10日。曳き初めは7月12日。一般搭乗拝観は7月13日より。

天明の大火(天明8年=1788)で焼失したが、50年後の天保10年(1839)に復興した。くじ取らず。
 復興時に稚児を人形とする。これは左大臣従一位一条忠香卿の令嗣実良君(なお、実良君の妹君は明治天皇皇后(昭憲皇太后)となる)が鉾に登る予定だったが、健康上の理由で取りやめになったので実良君をモデルに等身大の人形を用いることになった。父忠香公により、「嘉多丸」と名づけられる。屋根に雌雄の鶏と孟嘗君の人形が載っている。屋根裏は今尾景年筆の「鶏鴉図」。
 前掛は平成18年(2006)復元新調。「イサクに水を供するリベカ」。縦2、7メートル、横2、2メートルで、祇園祭の前掛としては最大。龍村美術織物販売の作。
平成10年新調。皆川泰蔵作の「モン・サン・ミッシェル」。
以前は旧約聖書創世記の場面を描いた16世紀末のベルギー製の毛綴と推定され、享保3年(1718)に寄贈された。
 後掛は平成14年(2002)新調。「八ッ星メダリオン草花文様インド絨毯」を復元新調。住江織物の作。
 胴掛は平成3、4年にインド、ペルシャ絨毯のを新調。
 見送りは平成2年新調。岩澤重夫原画「深山菊水図」と、昭和55年、皆川泰蔵作の「エジプト天空図」。
鶏鉾(室町通四条下ル鶏鉾町)=尭の時代、天下は治まり泰平で、訴えごとのある時に打つ太鼓に苔がむし、鶏が巣を作ったという中国史話による。文久3年(1863)に稚児を人形にする。鉾の上の三角の中の円形は諌鼓の中の鶏卵を指す。延宝・元禄の頃は馬の股町という町名であった。
鉾建ては7月10日。曳き初めは7月12日。一般搭乗拝観は7月13日より。

 真木の中ほどの天王座には船中月を仰ぐ住吉明神を祀る。
 人形は文久3年(1863)制作。以前は生稚児であったであろう。作者は山口源ノ光好。
 前掛はペルシャ緞通。
 胴掛は昭和55年、「御朱印船角倉船図」、「住吉船図」。以前はペルシャ花文緞通。
 見送りは平成15年(2003)復元新調。蒲エ村美術織物の作。「トロイの王子へクトールが妻子に別れを告げる図」。
元は江戸初期輸入で16世紀ベルギー制作の毛綴。
 天水引は文政8年(1825)作。下河辺玉鉉下絵。「瑞雲に日輪と麒麟図」。

 下水引は令和4年御披露目。コロナ渦のため1年遅れる。平成29年から4年かけて新調。約200年ぶりの新調。
図柄は上部は「緋羅紗地大鶏頭木瓜巴紋刺繍」。赤を背景に八坂神社の神紋や鶏の頭に似た図柄を金糸で刺繍。
下部は「紺地雲文様窓絵四季花鳥図錦織」。金雲と共に江戸時代の画家、松村景文の「四季花鳥図屏風」を西陣織で表現。
放下鉾(新町通四条上ル小結棚町)=鉾の名は真木の中ほどの「天王座」に放下僧を祀るのに由来。放下とは、妄念や者への執着を捨てて俗世間を解脱することで、放下僧は街角で芸をしながら仏法を説いた僧。また形が洲浜に似ているため「すはま鉾」とも云われる。
鉾建ては7月11日。曳き初めは7月13日。一般搭乗拝観は7月14日より。

 昭和4年に生稚児からからくり稚児人形(三光丸)になる。鉾には放下僧の木彫り人形を祀る。これは胸に鞨鼓を掛け、手に撥を持って諸縁を放下し、遊戯三昧に入る事によって讃仏の因にせよと、諸人の勧めによるもの。
 前掛は花文の17世紀作のインド緞通。「緞通唐草四出章文」と18世紀作の「緞通華文唐草模様」。
 後掛は毛綴で李朝期作で「鳳凰、鶴、牡丹、鶴の図」。李朝期作で「玉取獅子、虎、鶴の図」。李朝期作で「玉取獅子、牡丹、山神の図」。
 胴掛は「左唐草文」平成元年復元新調。18世紀、インドの作。毛織物「緞通華文唐草模様」。19世紀、韓国の作。毛織墨絵「毛綴墨絵付霞形鶴文等」。18、9世紀。フランスかイギリス。木綿プリント「印花布洋花唐草模様」。17世紀、ペルシャの毛織物「緞通華文唐草模様」。19世紀、韓国の作。毛織墨絵「毛綴墨絵付獅子花毬模様」。18、9世紀。フランスかイギリスの作。木綿プリント「印花布花つなぎ模様」。17世紀後期。ペルシャの作。絨毯。「中東連花葉文」。18世紀中期、ムガールの作。「中東連花葉鉾先文」。
 平成13年、飾り房一式新調。
 上(天)水引は日本製の絹織に刺繍「龍の丸紋」。日本製の絹織に刺繍。金糸刺繍「紺地に丸紋 水浅葱綾地木瓜巴紋」。安政2年、フランス製の毛織に丸紋 木綿プリント「朱羅沙地に丸紋」。
 下水引は平成3年、蒲エ村美術織物の作。高山寺の「華巌宗祖絵伝」下絵。平成2〜4年復元新調。与謝蕪村の下絵。絹刺繍「琴棋書画図」。19世紀、フランスまたはイギリスの作。木綿プリント「印花布円花 布模様」。金蘭の「花亀甲文」。駒井源の作。絹「波におしどり」。日本製で絹「唐花刺繍」。駒井源の作。絹「波におしどり」。
 見送りは昭和57年、皆川泰蔵作で麻に臈染の「バクダット」。西陣製の絹で文政11年(1828)「綴錦双鳳唐子遊楽図」。19世紀製で絹織りの「錦牡丹鳳凰唐子文」。
綾傘鉾(綾小路通室町西入ル善長寺町)=昭和54年より巡幸復活。御神体は金の卵を片足に持つ傘の上の鶏。棒振り囃子は壬生六斉保存会により奉仕。
鉾建ては7月13日。

 昭和62年天蓋。平成5年、飛天図綴織の飾錦幕を新調。
 歴史は室町時代頃には壬生村からの奉仕で始まりと云われている。天保5年(1834)、北観音山から譲られた木組みを用いて小型の鉾になったが、30数年後の元治元年の兵火で焼失。明治12年、残った風流傘、衣裳をつけて棒振り囃子の徒歩巡行で復活するが、明治17年、わずか6年で中止となる。しかし棒振り囃子は壬生保存会に伝承され、昭和48年、中絶89年目、祗園祭に奉納となり、昭和54年巡行復活。
 垂りは昭和54年、染織作家森口華弘作「四季の花(友禅染)」で西陣織工業組合の寄贈。
四条傘鉾(四条通西洞院西入ル傘鉾町)=傘鉾の一種で応仁の乱以前に起源を持つ。明治4年の巡幸以降休み山鉾となっていたが、昭和60年(1985)に114年ぶりに再興され路上に飾る居祭りとなり、ついに63年(1988)に117年ぶり巡行復活となる。
鉾建ては7月13日。

 踊りと囃子は室町時代に京都から広まった風流踊で、棒振り2人、鉦、太鼓、ササラ各2人の計8人の子供が踊る。頂上に赤幣、若松を花瓶に挿す。鉾は古記録に基き、北条早雲の菩提寺、臨済宗早雲寺の国宝の文台裂を再現したものを傘鉾のさがりにしている。
芦刈山(綾小路通西洞院西入ル芦刈山町)=世阿弥作と云われる謡曲「芦刈」より、故あって妻と離ればなれになった男が一人寂しく難波の浦で芦を刈る老人の姿をあらわしている。
この夫婦が3年ぶりに再会を果たして和歌を詠み合い、相携えてめでたく都に戻る筋である。
山建ては7月14日。

 長さ4.04m。幅2.3m。高さ約5m。
 御神体は平成12年より巡行時は江戸期の複製品を使用。7/2、新旧御頭の移行儀式「御頭改め」をした。
旧御頭は天文6年(1537)に七条仏師運慶の末弟の7代目の康運の作であると墨書きされている。平成14年、財団法人国宝美術院にて修復。旧御頭は宵山の飾り宅で見ることが出来る。
  御神体の旧衣装の「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖」は天正17年(1589)銘を持つ山鉾最古の衣装で昭和45年(1970)に国指定重要文化財になる。
 胴掛は天保3年(1832)作、「雲龍図 中国刺繍」。昭和45年作の「趣楽、園林禽獣紋」。平成2年作、「豊公獅噛鳥獣文様 錦織」。平成6年作、「燕子花図」尾形光琳原図。蒲エ村美術織物の作。「花飾り立涌文様 フランス錦織」。
 前掛は3点。昭和60年(1986)作、「凝視」山口華楊原画。天保3年(1832)作の「欧風景 毛綴」。文化5年(1808)作の「大菊花文様 金襴」。
 後掛は4点。文化5年(1808)作、「「大菊花文様 金襴」。「金唐織イタリアビロード」。「花飾り立涌文様 フランス錦織」。平成14年(2002)作の「趣楽」。
 水引は文化11年(1814)作の「中国人物図」。
 見送りは4枚あり。平成14年(2002)、「唐子嬉遊図」を約180年ぶりに川島織物に依頼して約200万円かけ補修。この見送りは文政3年(1820)町内よりの寄進である。
他の見送りは17世紀中期作、「鳳凰と幻想動物に牡丹の図」と17世紀中期作、「波涛に龍八宝散し文様」と昭和60年(1985)作、「鶴図」山口華楊原画。
油天神山(油小路綾小路下ル風早町)=町名の由来である公家の風早家の屋敷があり、この屋敷に祀られていた天神像菅原道真を社殿に祀る山。
油小路通にあるので油天神山と呼ばれるが、勧請の日が丑の日だったため、別名「牛天神山」とも呼ばれる。
山建ては7月13日。

 前掛は平成7年(1995)復元新調。「紺地龍文錦」。以前のは17世紀に作られた。
 胴掛は平成14年(2002)新調。前田青邨画伯原画の「紅白梅」。
以前のは17世紀に作られた『雲龍文繻子地錦』
 上水引と下水引の各2点を平成18年(2006)新調。縦63センチ、横約1、8メートル−2、1メートル。毛綴れ織りで、「翔鷹千花図」と名付けられた。
これは15世紀のタペストリー「貴婦人と一角獣」の背景画「ミル・フルール(千花文様)と鷹」。原画はパリの国立中世美術館にある。

 見送りは梅原龍三郎原画の「朝陽図綴織」。
以前は毛綴の「宮廷宴遊図」。
霰天神山(錦小路室町西入ル天神山町)=地名より「錦天神山」とも故事より「火除天神山」とも云われる。
 室町時代の永正年間(1504〜21)に大火があったとき、霰が降ってきて鎮火した。この時、霰と共に1寸2分(約3、6センチ)の天神像が降下したのでこれを祀ったという故事による。
山建ては7月13日。

 正徳4年(1714)に改造され両側と後面を透塀とし、真松の代わりに若松の代わりに若松を塀内に並べ、社殿を大きくし榊一対と紅梅二本を建てている。

 胴掛は「紅白梅銀鶏図」綴錦。上村淳之原図。対は「白梅金鶏図」。昭和60年制作で上村松篁原画。父子競演の一組の胴掛である。
 前掛は昭和56年、250年ぶりに新調。中国刺繍の「太湖岩鳳凰図」綴錦。
 後掛は雲龍文綴錦。
 この山は見送りを使わない。
岩戸山 (新町通仏光寺下ル岩戸山町)=天照大神の岩戸隠れの神話より因る。
元は舁山で江戸中期以降に曳山に改造されたもので、今も名残りとして、真木は無く屋上に松を立てている。
また、屋根に三体〔伊弉諾尊、天照大神、手力雄尊〕も御神体を乗せる珍しい山としても知られている。
鉾建ては7月11日。曳き初めは7月13日。一般搭乗拝観は7月14日より。

 扁額は昭和47年制作。山鹿清華筆。「岩戸山」。
 四角飾房は平成13年(2001)新調。
 前掛は「玉取獅子図中国絨毯」。
 胴掛は「ペルシャ唐草文椴通」。
 下水引は「波鳳凰文様刺繍」。明治期の作
 天水引は「緋羅紗地鳳凰丸刺繍」。明治期の作。
 見送りは皆川泰蔵作のロウ染「ベネチア図」、昭和61年復元新調。中国民代の綴織「日月龍額唐子遊図」。
占出山(錦小路通室町東入ル占出山町)=「鮎釣山」とも云う。神功皇后が、肥前国松浦川で鮎を釣って戦勝の兆しとしたという説話に因る。
山建ては7月13日。

 御神体は神功皇后が金の烏帽子を冠り、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持っている。
 水引は昭和60年、栗山吉三郎作で「三十六歌仙図」の刺繍。
 前掛と胴掛は日本三景。下絵は山口素岳。「天橋立図」は昭和60年(1985)、「松島図」は昭和62年、「宮島図」は平成3年(1991)復元新調。蒲エ村美術織物の作。
以前のは天保2年(1831)制作。
 見送りは平成13年(2001)復元新調。「双龍宝尽額 牡丹に鳳凰文様綴織」。
以前のは寛政6年(1794)西陣の林瀬平の作。
郭巨山(四条通西洞院東入ル郭巨山町)=二十四孝のうち、貧しくて母と子を養えない郭巨が、子を山に捨てようしたとき、土中より黄金の釜を掘りあてて裕福となりますます母に孝行を尽くした伝説に基ずく。
山建ては7月13日。

 御神体の人形は、鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ童子の2体。
 右胴掛は「春雪図」、左胴掛は昭和58年「花の汀図」。共に上村松篁の下絵。
 前掛は天明5年(1785)作の綴錦「唐美人遊楽図」、上村松篁筆の「秋草図」。
 後掛は平成3年、上村松篁の下絵で綴織の「阿国歌舞伎図」。
 見送りは平成6年(1994)新調。上村松篁筆「都の春図」。
旧見送りは円山応挙の孫応震下絵の「唐山水仙人図」綴織。
のち昭和54年、芦北山人 橋本循の漢詩文賦詠を茶道裏千家15代家元鵬雲斎(ほううんさい)千宗室筆の文字で刺繍。

 最古の記録は明応九年(1600)の鬮定め書である。
「釜堀山」と称したが、明治4年、お上の要請により改名。
 
舁き山にこだわったが昭和41年(1966)を最後に車輪を付け巡行するようになった。
太子山(油小路通仏光寺下ル太子山町)=聖徳太子が四天王寺建立のため、自ら山に入って杉を刈って良材を求めたという所伝による。
そのため、他の山は松を使うが、この山のみ杉を立てる。
山建ては7月13日。

 御神体の聖徳太子像は享保廿年(1735)の作。
 衣装は白羽二重小袖に差貫、白直衣で明治44年新調。
 胴掛は「金地孔雀唐草文のインド刺繍」。安永4年(1775)新調。
 前掛は平成11年(1999)復元新調。「緋羅紗地に阿房宮」。蒲エ村美術織物の作。狩野派川島松皇下絵。以前は安永4年(1775)に京都の作。
 水引は平成9年(1997)復元新調。「濃紺の組紐の七宝編み」。
 見送りは平成14年(2002)復元新調。「波濤に飛龍文様」。蒲エ村美術織物の作。
以前のは中国の官服を仕立て直した物で、「藍地龍文の綴錦」。
蟷螂山(西洞院通四条上ル蟷螂山町)=「かまきり山」とも云われる。大蟷螂と御所車という珍しい組み合わせの山。唯一のからくりがあり羽根と首、車が動く。
山建ては7月13日。

 南北朝時代に足利義詮と戦って死んだ当町在住の四条隆資卿の武勇ぶりが蟷螂の生態に似ていることから、渡来人で当町居住の陳大年が彼の死後25年目の1376年(永和2年)に、四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのが始まりといわれる。
その後、幾度の戦火にあうが、その都度再興されるが、元治の大火(1864)をで大部分を焼失し巡行しなくなったが、昭和56年(1979)に117年ぶりに巡行に参加。
 後掛は平成16年新調。染色作家羽田登喜男作「瑞兆遊泳之図」。
 胴掛は昭和58年(1983)新調。染色作家羽田登喜男作「瑞苑群遊鴛鴦図」。22羽の鴛鴦(おしどり)が描かれる。
 見送りは平成3年、染色作家羽田登喜男作「瑞苑飛翔之図」。
木賊山(仏光寺通西洞院西入ル木賊山町)=御神体は世阿弥の謡曲「木賊」から取っている。愛児をさらわれた翁が信濃の山奥で一人木賊を刈る姿をあらわしている。
山建ては7月13日。

元治の大火で洞組を焼失し、7年間休止し、明治5年復興した。
 明治20年から数年間車輪を付けた曳山にしていた。
 御神体の頭は桃山時代に奈良仏師春日の作と云われ、足台には元禄5年(1692)6月吉日の墨書きがある。
 前掛は「唐人交易図」。
 胴掛は平成13年(2001)復元新調「松蔭(しょういん)仙人図」と平成14年(2002)「仙人観楓(かんぷう)図」。共に蒲エ村美術織物。費用は約4、000万円。
以前のは制作時期は不明。ただ文化11年(1814)の古文書に出るのでその頃にはあったといえる。
 水引は「道釈人物綴錦」と、復元新調された「日輪鳳凰文様」。
以前は「中東幾何学文様イギリス織絨毯」。
 見送り幕は綴錦で昭和58年、川島織物により復元新調「鳳凰牡丹図」。

以前は「仙人聞香図の錦綴」。
伯牙山(綾小路通新町西入ル矢田町)=周の時代、琴の名人伯牙がその友人鐘子期の死を聞いて、自分の琴を真に聞いてくれる人はもういないと嘆き、琴を割ったという故事からとっている。
山建ては7月13日。

「琴破山」と称したが、明治4年、お上の要請により改名。応仁の乱以前は“地蔵鉾”というのがあったという。
 御神体は中国の琴の名手「伯牙」。人形の頭に「金勝亭賽偃子」の墨書銘があり、寛政2年(1790)の作。
 昭和63年前掛「慶寿裂」復元新調。
 胴掛は花卉尾長鳥文様の綴錦。
 前掛は昭和63年復元新調。「慶寿裂」。元は中国明代の作。
 水引(北面)は平成10年(1998)新調。「緋羅紗地押絵唐人物文」。

 見送りは西陣・柳絲軒の作。「三仙二仙女刺繍」。
白楽天山 (室町通綾小路下ル白楽天町)=唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うところ。
山建ては7月13日。

 前掛はトロイ戦争をあらわすコブラン織の名品で万延元年、蟷螂山より購入。「トロイ城陥落のときアイネイアスが父を救出する図」(タペストリー)。大津祭の月宮殿山見送と相幅。
 胴掛は昭和53年にフランスで直接買い付けのコブラン織。17世紀ベルギー毛綴。「農民の食事図」。
 水引は明治5年作。「麒麟や孔雀などの禽獣を金糸で縫った刺繍」。ただし後面は平成10年新調。「波濤雲龍文様」。
 見送りは昭和61年購入のコブラン織。これは画家ユエの下絵により18世紀フランスで製作されたタペストリー「水辺の会話」と、昭和28年新調。染織作家山鹿清華作の『北京万寿山図』手織錦。がある
保昌山(東洞院通松原上ル灯籠町)=丹後守平井保昌が、恋する和泉式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿をとっている。
 実はこの後、一枝手折ったものの発見され,矢を放たれ,ようやく逃げ帰ったらしいが。「花盗人山」と称したが、明治4年、お上の要請により改名。
山建ては7月12日。

 胴掛は平成5〜8年復元新調。蒲エ村美術織物の作。右は「刺繍 張騫虎図」、左は「刺繍 巨霊人白凰図」、共に円山応挙下絵。
元は安永2年(1773)、町内の松屋右近、勝造兄弟の作。
 前掛は平成2年(1990)復元新調。円山応挙下絵で「蘇武牧羊図」。
 後掛は平成9年(1997)復元新調。「龍図」。蒲エ村美術織物の作。
 水引は「刺繍鳥獣文」や中国明代の官服を、水引に仕立てたものがある。
 飾房一式は平成13年新調。
 見送りは寛政10年(1798)の作。「福禄寿星図」。これは福禄寿、弁財天に唐子を配した綴錦である。
以前のは明代の中国製刺繍「仙人図」。今は掛軸として保存されている。
孟宗山(烏丸通四条下ル笋町)=「筍山」とも云う。二十四孝のうち、呉の孟宗が、病の母の好きな筍を食べさせようと、雪の中の竹薮に入り、掘り当てて、親孝行したという史話による。
山建ては7月14日。

 御神体の人形は七条大仏師康朝左京の作と云われ、唐人衣装に蓑、笠をつけ、右手に雪のかぶった筍、左手には鍬を肩にかついで立っている。
 明治2年、胴組新調。前懸は昭和58年、「五爪龍文様」。
 前水引は平成9年(1997)新調。「群鳥飛翔図綴織」。
 見送りは昭和15年より竹内栖鳳筆の「白地墨画孟宗竹図」。
以前は17世紀中期の中国製で「鳳凰牡丹と幻想動物図」。
山伏山(室町通蛸薬師下ル山伏山町)=御神体の山伏は昔、八坂の法観寺の塔が傾いた時に、法力でなおしたという浄蔵貴所の大峰入りの姿をあらわしている。
山建ては7月12日。

 前掛は「雲龍文の刺繍」。
 水引は綴錦「機織図」。
 見送りは平成11年(1999)復元新調。「飛龍波濤文図綴織」。
以前は中国・明時代の作。
布袋山(蛸薬師通室町西入ル姥柳町)(公式HPへ=前祭。鉾町内に新しく完成したマンションの1階に設けられたショーウィンドウに御神体(布袋像と左右に童子)が飾られ、14日から宵山に公開。
応仁の乱以前には名が見えない。
明応9年(1500)の籤定には「布袋山」と初見。
明治末期成立の「京都坊目誌」には『慶長年間(1596〜1615)以来毎年祇園会に布袋の像を安置した山棚を出す。
宝暦以来山として巡行に参加せず、天明8年(1788)にの大火で布袋尊と二体の童子像のみを残して焼失とある』。
天正18年(1590)頃には姥柳町は長刀鉾の寄町となっており、存在していないことが分かる。

後祭りは先頭は橋弁慶山。2番手に北観音山、3〜5番手は籤。6番手に南観音山、大船鉾を最後尾となる。
 ≪後祭≫1基の鉾と9基の山がある掲載の順番は2015年のデータを基準
凱旋舩鉾〔大船鉾〕(公式HPへ(新町通四条下ル四条町)=元治元年(1864)の蛤御門の変により焼失するが、平成9年よりお囃子を復活させ、13日の夜から宵山までの期間、新町通四条と綾小路の間(四条町)にて演奏を行った。
平成24年(2012)御神体を木製の箱「唐櫃」に入れて巡行に142年ぶりに参加。平成26年(2014)完全復活。

以前は明治3年(1870)にも唐櫃巡行するも諸般の事情により続かなかった。
 現存する懸装品は平成12年「大舩鉾」装飾品展目録によると、前掛は「雲龍波濤文様綴織」。後掛は「雲龍波濤文様綴織」。舵は
緋羅紗地雲龍波濤文様刺繍」。水引は「緋羅紗地飛龍波濤文様刺繍」、「金地雲龍文様」、「緋羅紗地鳳凰文様刺繍。掛軸は昭和5年、中島荘陽 筆。敷物は緋羅紗地唐草文様捺染」。御神体衣裳は「立菱固綾小直衣」、「唐花顕紋紗狩衣」。御神体神功皇后の腹帯。

江戸期は北四条町と南四条町に分かれていて1年交代で巡航を受持っていた。
北四条町が巡航する時は舳先に龍頭を掲げ、南四条町が巡航する時は舳先に大金幣を掲げて巡航した。現在は大金幣の実物が残っているので、大金幣で巡航か?
北観音山(新町通六角下ル)=「上り観音山」とも云われる。くじ取らずで2番。
山建ては7月19日。曳き初めは7月20日。

 御神体は「楊柳観音像と右脇の韋駄天」。
創建は文和2年(1353)で、応仁の乱の時代から隣町の南観音山と1年おきに交代で山を出していた。元は舁山だが、文政元年(1828)〜天保2年(1831)にかけて曳山に改造。
その名残りとして、真木の代わりに松を立てる。松は、毎年鳴滝から2本届けられ、南観音山とクジを引いて松の所有を決めている。
 天保2年新調され、部材は上部の障子屋根等は円山安養寺へ寄贈。胴組等の下部は綾傘鉾に譲渡。
 揚柳観音像は元は恵心僧都の作だったが、天明の大火で、法橋定春作となる。平成2年車輪を復元。
 天水引は2点。平成2年復元新調、西陣の山口安次郎の作。元は文化14年(1817)作。金地錦観音唐草文様(紋織)。
明和6年(1796)制作の「猩々緋新地霊龍文様」を隔年に使用。
 二番水引は平成18年(2006)新調。往古の復元新調。「紅地牡丹梅笹唐草文様」で、山の前後面用縦38センチ、横約2・6メートル、側面用横約3・4メートル。
江戸時代初期に明で作られた水引を参考に、鮮やかな紅色の下地に、牡丹と松竹梅をあしらい、唐草のつるを太く描いた。
 三番水引は平成18年(2006)新調。往古の復元新調。「金地紅白牡丹文様」で、前後面用縦48センチ、横2・7メートル、側面用横3・5メートル。
宝暦11年(1761)の水引を基に、紅白の牡丹柄を縫い込んだ。
 胴掛は昭和59年、「斜格子草花文」新調。平成11年、飾房一式新調。
昭和58年、メダリオン中東連草文様(19世紀ペルシャ絹絨毯)。
 後掛は昭和59年、中東連草文様(19世紀ペルシャ絨毯)。胴掛類は、以前は17〜18世紀の花文インド絨毯を用いていた。
 見送りは17世紀末、中国・明朝の「日輪鳳凰百子嬉遊図綴錦」。以前は「絽刺の金地縫詰道釈人物図」。
 飾房一式、平成11年新調。
役行者山(室町通三条上ル役行者町)⇒山鉾町最北の山である。真松に鈴がつけられている。
=修験道の祖役行者小角が大峰山と葛城山との間に石橋を架けようと一言主命に石を運ばせたという伝説による。
山建ては7月20日。

 御神体は役行者、鬼の顔の一言主神、葛城女神の三体。
平成22年(2010)御神体衣装を復元新調。
 水引幕と前掛が一体化し平成10年に復元新調。川島織物による。
水引部は寿字に双龍図。上部仕立裂は唐花文様を紋織復元。 下部中央に「岩に牡丹と蝶の図」、両端に「波涛に飛龍図」。どちらも中国17世紀前半の綴織を復元新調(刻糸の流し織を再現)。
胴掛は雲龍波涛文の綴錦。
 見送りは昭和57年復元新調。戸田与謝の作。「金地唐美人図錦綴。」。
以前は「金地唐美人図綴錦」と、赤地古金襴で縁取った龍図絽刺の2種類。
黒主山(室町通三条下ル烏帽子屋町)⇒元来呉服商や民家など計23軒があった。平成9年(1997)以降では、呉服商5軒が店を閉め、現在は18軒になり跡地に呉服商の跡地にマンション5棟ができ、約250世帯が入居しているので参加を依頼している。
=謡曲「志賀」より、歌人大伴黒主が櫻の花を眺めている姿である。
山建ては7月20日。

 御神体の人形は寛政元年(1789)5月、辻又七郎狛之澄の作。
 人形衣裳も江戸時代初期の作で、延宝3年(1675)在銘の「紺地菊唐草文小袖」と正徳元年(1711)在銘の「萌葱絽地牡丹文色入金襴大口袴」がある。
 前掛は復元新調。元は16世紀の織物。明の萬暦帝即位の折りの礼服を琉球王に贈ったを一枚に継いだもの。「五爪龍文様錦」。
 胴掛は「草花胡蝶文様の綴錦」。
 後掛は平成12年(2000)復元新調。蒲エ村美術織物の作。「緋羅紗地 飛龍文様綿入切付刺繍」新調。
 水引は雲龍文様の繻珍。
 見送りは平成16年(2004)復元新調。「牡丹鳳凰文様綴錦」。龍村美術織物の作。
「紅地唐子嬉遊図」。平成19年(2007)約300年ぶりに復元新調。龍村美術織物の作。また復元の過程で、16世紀に中国で制作された綴織りの古い見送は本来は裏面だった部分を表面にして使っていたことが分かった。古い見送は過去3回修復した跡があり、いずれかの時に裏面を表にしたと見られる。
交替で使用している。

以前は17世紀中国製の「牡丹鳳凰文様綴錦」。
鯉山(室町通六角下ル鯉山町)=御神体は龍門の瀧を上った鯉は龍に化すというところから、勇ましく滝上りする鯉の雄姿をあらわしている。
 長さ5.5m。幅2.3m。高さ6m。山建ては7月19日。

 前掛、胴掛、水引、見送りは16世紀中期にベルギ―はフランドル地方ブラバン州で制作されたタペストリを大小9枚に裁断して作られた。
ギリシャの英雄叙事詩「イーリアス」“アポロン像を礼拝するプリアモス王とヘカベ―”。
これは伊達政宗の家臣である支倉常長がローマ法王パウロ5世に謁見した際に、贈られた5枚シリーズの1枚である。
 見送りは平成元年6月、前掛は平成4年6月、右胴掛は平成7年6月、左胴掛は平成9年6月に新調復元。平成11年6月、毛綴りの左右水引を復元新調。
南観音山(新町通錦小路上ル百足屋町)=「下り観音山」とも云われる。くじ取らず。江戸期は北観音山と隔年交代で出ていた。揚柳観音と善財童子を安置。天明のどんどん焼きで揚柳観音の頭部以外は全焼するが、寛政8年(1796)復興。
くじ取らずで6番。山建ては7月19日。曳き初めは7月20日。一般搭乗拝観は7月21日より。

 御神体人形は揚柳観音像。高さ104.1cm。善財童子像。高さ63.8cm。
 天水引は平成19年(2007)復元新調。塩川文麟下絵の「緋羅紗地 四神文様」。叶島織物セルコンの作。原品は安政5年(1858)作。
 下水引は平成5年(1995)復元新調。「苑色繻子地雲龍図」と加山又造原画による「飛天奏楽」。
 前掛は以前のは異无須織(ペルシア金銀絹絨毯)は17世紀製の逸品,
 後懸は斜め葉格子草花文様(18世紀インド絨毯)。胴掛はペルシャ花文緞通。
 金糸大房を平成23年(2011)110年ぶりに復元新調。
 見送りは昭和63年(1988)新調。加山又造原画「龍王渡海図」。以前は中国明代の雲中青波文の綴錦。
浄妙山(六角通烏丸西入ル骨屋町)=「平家物語」巻四の宇治川の合戦の先陣争いから取っている。
山建ては7月20日。

治承4年(1180)、三井寺の僧兵筒井浄妙坊明秀が橋を渡り、一番乗りをしようとしているところを、一来法師がその頭を飛越え、「悪しゅう候、御免あれ」と一番乗りしたところを、御神体人形としている。
浄妙坊が着用している黒韋威肩白胴丸は室町時代の作で一説には楠木正成所用の物とも言われ昭和45年に国指定重要文化財となり、以後は別の鎧を使用となるが、この胴丸は祭りの期間に展示されている。
 水引は波涛文様の彫刻。
 胴掛は昭和60年(1985)長谷川等伯筆の「柳橋水車図」で川島織物により新調。
以前はビロード織の「琴棋書画図」。これは天明の大火後に47両で新調したもので、ビロード山と称した時があるほど有名であった。
 前掛は平成19年(2007)、「桜図」を綴錦で新調。後掛は「楓図」。
 見送りは「雲龍文」。同町在住の本山善右衛門作のカガリ織。
鈴鹿山(烏丸通三条上ル場之町)=御神体は、伊勢の国鈴鹿山で、人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫命)。このスーパーモデル並の身長176cmの美女の瀬織津姫命のモデルは静御前とも巴御前とも言われる。金の烏帽子に白繻子雲龍文小袖、緋精好大口袴、紫地金立涌か巴文金襴の表着を着け、腰に錺太刀、手に大長刀と中啓を持っている。
後の山には、赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれている。山に立つ松には、鳥居や宝珠などが描かれた小絵馬を多く付ける珍しい山で、巡行後に盗難除けの護符として授与されている。
山建ては7月20日。

 扁額は富岡鉄斎筆の「瀬織津姫神」。
 欄縁金具は、山鹿清華下絵の「四季花鳥文様」。
 胴掛は平成12年「桜図綴織」。平成14年「紅葉図綴織」。今井俊満原画で蒲エ村美術織物の作。以前は18世紀中国清朝の作。
 前掛は平成元年新調。「黄砂の道」。叶島織物セルコンの作。
 後掛は昭和61年制作。皆川月華作の「郡禽譜」。
 見送りは昭和57年(1982)新調。皆川月華の染彩「ハワイの蘭花」。
以前は明代と伝えられる「雲龍文」の刺繍と明治35年制作の「牡丹鳳凰文刺繍」。 
八幡山(新町通三条下ル三条町)=御神体は騎馬に乗った応神天皇。
石清水八幡宮を勧請して町会所の庭に祀った八幡宮を、山の上に祀る。
 祠は総金箔で天明年間(1781〜88)の作と伝えられる。前面の朱塗りの鳥居の笠木のうえに、向かい合って八幡さんのシンボルの白鳩が2羽止まっている。
 祭神応神天皇の像は運慶の作。鳥居の鳩は左甚五郎の作と云われている。
 また保存庫には江戸期の画家、海北友雪による祇園祭礼図屏風が所蔵されている。
 胴掛は平成2年復元「瑞獣図」。
 前掛は元禄3年寄進された「慶壽群仙国」を昭和62年に復元新調。
 水引は平成4年新調

以前は「金地花鳥仙園図唐繍」。文化6年(1809)の作。
 見送りは「日輪双鳳人物文様」の綴錦と「藍地雲龍文様蝦夷錦」。
鷹山(三条通室町西入ル衣棚町)公式HPへ=元治元年(1864)の大火で懸装品の大半を焼失。御神体の人形頭など一部が難を逃れた。
2014年、祇園囃子復活。2015年、保存会発足し翌2016年に公益財団法人を受け、公益財団法人鷹山保存会となる。この年より粽等の授与や祇園囃子の演奏を復活。
2022年、196年ぶりの山鉾巡行復活を目指している。
山本体は安井杢工務店。車輪と車軸は船鉾。櫓は菊水鉾。車軸の上で櫓全体を支える石持は放下鉾より譲り受けた。

応仁の乱(1467)以前より山を出していた。
天明の大火(1788)で
被害を受け舁山となり、その後、寛政10年(1798)再度曳山となる。応仁の頃は釜座町と2箇所より出したが、江戸期は当町のみこれを出す。
光孝天皇仁和(886)の芹川野の行幸時の中納言行平(もしくは右大将頼朝)供奉の鷹匠姿を模したと云われている。
大きな曳山で鷹匠、犬を連れた犬飼い、樽を背負い手には粽を持つ従者という三体の人形を乗せていた。
 ※ 応仁の乱の頃には58基の山鉾が出た(『祇園社記第十五』)。明応9年(1500)に36基の山鉾が出た 。
 【花傘巡行】
昭和41年に前祭と後祭が統合され7/17に山鉾巡行が行われることになり、7/24の後祭を補う形で花傘連合会を結成。
この団体は京都織物卸商業組合が中心となって、平安時代の山鉾の形式を再現を目指し、八坂神社の氏子地域にある4つの花街のお茶屋組合、各種行事の保存会や八坂神社の諸組織、山鉾保存会など550町、17の団体が参加。
花傘、祇園太鼓、獅子舞、祇園囃子、馬長、鷺祭などの行列などが10時に八坂神社を出発し、昼12時頃に八坂神社に到着後、芸能の奉納(鷺舞や舞・芸姑を行う。。

 当初のコースは八坂神社⇒四条河原町⇒河原町御池⇒寺町御池⇒四条寺町⇒八坂神社であったが、平成26年(2014)、後祭の山鉾巡行が復活したあとは巡行ルートを変更し、八坂神社⇒四条寺町⇒寺町御池⇒河原町御池⇒四条河原町⇒八坂神社となる。寺町御池から四条河原町の間は後祭山鉾巡行の後に連続して巡行している。
 ≪参加団体≫
八坂神社清々講社、八坂神社婦人会、八坂神社清風会、八坂神社青年会、ボーイスカウト京都第65団、ガールスカウト京都府第15・16団、祗園万灯会、祗園太鼓研究会、鷺舞保存会、祗園田楽保存会、先斗町お茶屋組合、祗園東お茶屋組合、祗園甲部お茶屋組合、宮川町お茶屋組合、久世六斎保存会、京都織物卸商業組合、祗園祭山鉾連合会
 ≪巡行列≫
先祓―子供神輿−花傘巡行旗―神饌行列―神饌花車―祗園太鼓旗―祗園太鼓―八坂神社青年会旗―花傘―金獅子―銀獅子―幌武者―児武者―高士―馬長旗―八坂神社清々講社馬長―八坂神社清々講社旗―供奉員―八坂神社婦人会馬長―八坂神社婦人会旗―供奉員―鷺舞保存会旗―花傘―棒振―さぎ―鞨鼓―堤燈―供奉員―祗園田楽旗―花傘―田楽―供奉員―久世六斎保存会旗―六斎―供奉員―京都織物卸商業組合花傘―花傘娘旗―花傘娘―供奉員―花傘―宮川町お茶屋組合コンチキ音頭―花傘―祗園甲部お茶屋組合雀踊―祗園万燈会旗―花傘―万燈踊旗―万燈踊―鷺踊旗―鷺踊―供奉員―山鉾連合会―祗園囃子―押―子供神輿
 【ねりもの】
 ねりものとは、祗園町の芸妓衆が、神輿洗いの夜、さまざまな風流をこらし行装をととのえて神社に詣でたことをいう。この行事は、江戸中期頃よりはじめられ山鉾とともに人気をあつめたが。幕末の動乱で一時廃絶していたが、明治4年復活し、明治期では10〜13年、15年、26年に行われる。戦後は29年に復活し、32年、35年に行われた。現在は花笠巡行に参加している。
 【平成女鉾】(平成女鉾清音会HPへ
平成8年(1997)4/1建立。女性による鉾立て、お囃子を目指している。御神体は櫛稲田姫命。
平成8年108日「京都まつり」にて御池通のパレードが初披露。函谷鉾と同型。高さ20m。幅4.5m。重さ10トン。大工は竹田工務店。
完成以来同工務店で保管していたが、平成17年(2005)2/3、元・工場の久御山町の倉庫に移動。現在も懸装品は無いが、行事毎に井筒より借りる。
花傘巡行参加要請したが、前例のない新規の鉾であることや、地元となる町内会・寄町がないことなど、実現は難しいと聞く。