沖縄県

宮古諸島〔宮古島市、多良間村〕

 宮古諸島とは8つの有人島と、その周囲の無人島、岩礁群からなる。
8つの有人島のうち、宮古島、池間島、大神島、下地島、来間島、伊良部島は宮古島市となり、
多良間島、水納島は宮古郡多良間村となる。

住所  神社名 祭礼日 内容 備考
 宮古諸島
 宮古島市
 平成17年(2005)10/1、平良市+宮古郡上野村、城辺町、下地町、伊良部町の5市町村が新設合併して誕生。
 宮古島(みやこじま)
面積は159.26km2。周囲は131.2km。最高地点は113m。人口は48311人(2013年)。
 【ハーリー(海神祭)】
6月(旧暦5月4日「ユッカヌヒー」前後)、各漁港で開催。各漁港には朝早くから大勢の地域住民らが詰めかけ、 爬龍舟競争で 「ゴーヘイ、 ゴーヘイ」 と威勢の良い掛声でサバニを漕ぎ、 向こう一年間の豊漁と船の航海安全を祈願する。 このほか祭り会場では、 地域の児童生徒や老人会のメンバーらが踊りなどのアトラクションで祭りを盛り上げる。
各漁港とは久松、 池間、 高野、 西原 (真謝)、島尻、布干堂(パイナガマビーチ)、佐和田の浜。
狩俣では旧暦5月4日に神事を行い、次の日曜にハーリーを開催。
上野(博愛)、浦底、荷川取、浦底などである。
 また来間島、大神島でも行われる。
 【宮古島夏まつり】
7月下旬金土開催。場所は平良市街三通り(西里通り、下里通り、市場通り)。主催は宮古島夏まつり実行委員会(宮古島商工会議所内)。
パレードは予算の関係で節目の年に出す。2015年は市制施行10周年と宮古島商工会議所設立40周年を記念して10年ぶりに復活。2016年も続いたが、2017年は出ない。日本式の神輿が出る。
 ≪2016年の行事予定≫
 ■土曜
豊年祈願祭(10:00〜12:00)、歩行者天国(17:00〜21:00)、路上アトラクション(18:00〜19:00)、ちびっ子駅伝大会(18:00〜19:00)
 ■日曜
歩行者天国(15:00〜21:00)、パレード(市内3商店街;17:00〜21:00)、路上アトラクション(18:00〜)、ミス宮古発表会(18:15〜19:45)、大綱引き(19:40〜20:20)
 ■平良地域
 宮古島北部と池間島、大神島よりなる。
 狩俣(かりまた)、島尻(しまじり)、大浦(おおうら)、西原(にしはら)、荷川取(にかどり)、東仲宗根(ひがしなかそね)、西仲宗根(にしなかそね)、西里(にしざと)、下里(しもさと)、久貝(くがい)、松原(まつばら)、東仲宗根添(ひがしなかそねぞえ)、池間(いけま)、前里(まえざと)、大神(おおがみ)
平良字西仲宗根 眞玉神社
平良西里1−1 宮古神社 10/26 例祭
例祭は宮古権現堂が1590年10月26日に創建されたことが由来。 権現堂は宮古神社 (1925年創建)と1940年に合祀。現在は熊野三神、 目黒盛定政、 与那覇恵源、 仲宗根玄雅の豊見親三神が祀られている。
社殿内で祝詞奏上、玉串奉納などが行われる。拝殿には神輿が飾られている。また神賑として、琉球舞踊を奉納。祭礼のあと、出席者も一緒になって 「漲水のクイチャー」 を踊る。
平良字西里8 漲水御嶽(ハリミズウタギ) 宮古島で唯一、入る事が許されている御獄。
平良荷川取小字下川 万古山御嶽 多数 例祭 部落の西側にあって天照大神生誕の地の中継拝所
荷川取地区=は平良港のそばに位置し、漁業が盛ん。御嶽は40ヶ所以上もあり、豊年や豊漁祈願などの「ニガイ」は年間10以上行われている。歴史と文化を大事にする地域として知られている。世帯は約120戸
『宮古島御嶽』の由緒によると、下川では、海の神、竜宮大神を最高の神とし、その上にオヤテダ(男親神)、ンマテダ(女親神)がいるとして、天照大神はこの両神の主子神だという。
バンコ山お嶽の礼拝はすべてツカサが行う。普通は何人たりともお嶽への立ち入りは禁止される。
お嶽の祭事は、旧の正月、3月、8月の3回と毎月ネ・トリ・ヒツジの日に行われるが、旧正月の祭事には、ツカサたちは体を清めてから一週間にわたってお嶽こもりするという。
また部落の海岸近くには洞穴があるが、この洞穴は天照大神生誕の地として部落民から拝がまれている。
この洞穴は神聖化し立入りは絶対許されない。
たとえ立入ることが出来てもその場合には7日間、塩で体を清めてからでないと、入れないとい言伝えがある。
また3月に豊漁と航海安全を祈願して竜宮の神をまつるお嶽ごもりがあって天照大神への感謝祭がある。 
狩俣豊年祭=旧暦8月15日。18時半頃〜21時頃
行事は18時半頃より、子供エイサー、クイチャー、鏡割り、綱引き、お菓子ばらまき、綱引き、打ち上げ花火の順で行われる。
 綱引きは西と東に分かれ狩俣購買店のあたりを境にしているそうである。
綱は雄綱と雌綱があり、三本先取で最大5回行われ、各回終了後に勝利方の青年会により御輿が奉納される。この御輿は荒々しいことこの上なく、「ホーイホッホーイ」と掛声が入ると、完全に宙に放り投げられる。それでも上に乗っている人が落ちない。これは御輿に綱が付いていて、乗る人は綱をしっかり持っており、足も綱で固定していてからである。
さて一、二回戦終了後の御輿はまだおとなしいが、回が進むと御輿に酒がかけられ荒々しくなる。
 お菓子ばらまきは三回戦終了後。ここでばらまかれるお菓子はただのお菓子ではなく、中に1万円札から1円玉まで、お金が入ったお菓子もばらまかれることがある。

最後は全員で踊る「クイチャー」で「ヒヤサッサ」の掛声や指笛が響きわたる。
松原のハーリー(海神祭)=旧暦の5月4日。早朝、集落のツカサ達によりカーニ御嶽、大泊御嶽アンツァー御嶽、ズガキ御嶽の順に御願行事が行われる。その後、余興として競漕が2回行われる。
 海上での行事が終わると、舞台はズガキの広場の祝宴に移り、獅子の登場となる。獅子は雄獅子と雌獅子の二頭獅子で、獅子舞は獅子役と囃子役、三味線の伴奏で構成される。獅子役は、獅子頭(シーシャ)を操作する役と尻尾の部分をあやつる係の2人で囃子役(タースビー)はターサ(六尺)とツヅンフチャ(小太鼓役)各1人、三味線は1〜2人で行われる。獅子役は、獅子頭の鼻の穴あるいは口の穴からターサーの動きを見てそれに合わせて勇猛に獅子頭を動かし、尻尾の者も体をくねらせて呼応する。獅子の舞い方は即興的で、小太鼓の伴奏も素朴である。
 ちなみに宮古のハーリーで獅子舞いが演じられるのは久貝・松原集落だけである。
狩俣と島尻の祖神祭(ウヤガン)=毎年旧暦の6月から10月の間に行われる豊年祈願の祭り。50歳以上の老女たちが髪を洗い、身を浄め、黒の装束をまとって海に面した山の御嶽にこもり、神に祈りを捧げるのであるが、この神事は秘密にされ、男たちは見る事が出来ず、犯すことの出来ないタブーとされている。この神事は、5日間一睡もせず、水と塩だけをとって神との交わりを続けると伝えられている。なお、この祭りは、祭りに関係のある女性以外は寄せつけない秘祭であるため、祭りの全貌やその本質意義はまだ究明されていない。
 なおこの祖神祭は宮古島の狩俣、島尻と大神島でのみ行われる。
西原の豊年祈願祭「ミャークヅツ」=旧暦8、9、10月以降の最初の甲午の日。西原は池間島から分村。「ミャークヅツ」とは「楽しい月」という意味の方言である。
男性を中心にした祭事で、各ムトゥを中心に泡盛に練乳を入れた「ミルク酒」を酌み交わし、ツカサンマたちの先導でクイチャーを踊り、昨年のミャークヅツ以降生まれた島の子孫たちの名を報告する「ヤラビマス」を行い、集落の繁栄を祈願し祝う。
島尻パーントゥ=国指定重要無形文化財。旧暦9月か10月の連続する2日間。旧暦の9月の戊から数日内に開催されるが日程の最終決定は集落の神職者によって決められる。17:00〜20:00時。
全身泥まみれの奇妙な格好をした3匹の神様が集落に現れ、人々、家、車に泥を塗りまくる。泥を塗られた者には無病息災がおとずれる。正式にはパーントゥ・プナハといい、年に三回あるプナハ行事の最終回にあたる。
パーントゥは島尻の大切な守り神であり、祭りであり神々への大事なニガイ事(神への礼拝)である。
 パーントゥの発祥は現在の島尻集落の北に位置する元島(ムトゥズマ)の北の海岸にバの葉で包まれた仮面が流れてきたものから始まったものとされている。
 パーントゥ祭りの始まる数日前に、ピカズトゥリャ(パーントゥの日取りを決める人)が村の神様にパーントゥ祭りの開始を報告する。
パーントゥプナカの前にツマッサリという悪魔祓いの行事が行われ集落の主な入口に豚の骨を下げた縄を張っておく。 この縄はパーントゥを作るときに使われ、残った豚は男料理でワーブニ(沖縄風豚汁)にして、車座になってパーント久祭りの成功と安全を願ってオトーリ(一気飲み)をする。
特に、パーントゥに変身する青年会の面々には沢山振舞われる。
ンマリガーという聖地の井戸から泥をくみ出し全身に塗りたくり、頭にはマートゥ(ススキ)をし、手にはグシャン(杖)を持ち キャーンというつる草を全身に身にまとい、ツマッサリのとき使用された縄で巻きつけ、仮面を持ってパーントゥの誕生。
パーントゥは、島尻集落の青年会によって希望者から選任される。
 17時ちょうど、集落の外れにあるウマリガー(産まれ井戸)から3匹のパーントゥが現れる。まず3匹一緒に集落内を一周し、各所で行われている屋外宴会に乱入する。
ムトゥに集まってパーントゥプナカをお祝いする集落の人たちにパーントゥは容赦なく泥を塗りたくる。
泥を塗るのは、 厄払いは土(大地に根差して)と金(鋼鉄のように丈夫で)のように人も家も繁栄するように願いをこめられている。
 集落内の宴会場を一周し終えたパーントゥは、1匹ずつ分かれ観客との鬼ごっこ?を開始する。
パーントウは精力的に泥を塗り続ける。新車に泥を塗り、壁に泥を塗り、新築の家にまで上がりこみ泥を塗る。泥が乾けば本拠地である売店前に戻り、泥を充填して再度出陣する。 
20時ちょうど、終了の放送とともにパーントゥは闇へと消え、集落をあげての鬼ごっこは終了する。
 なお見物客、警官、報道陣も泥を塗られる。
 池間島(いけまじま)
面積は2.83km。周囲は10.1km。人口は699人、410世帯(2012年)。1992年開通の池間大橋(全長1425m)で宮古島と繋がる。
平良池間 ナナムイ御嶽(大主神社、ウハルズ) 旧暦9月 ユークイ 池間島で最高の御嶽。
ナナムイ御嶽は島の方でも普段、この場所に行くことさえ許されていない。御嶽にご挨拶できるのは、神職ともいえるツカサンマ(御嶽を守る役目に選ばれた女性)たちと、神人(カミンチュー)のユタのみです。
一般人が入れるのは、ツカサマンマ(御嶽を守る役目に選ばれた女性)と一緒に入るか、ミャークヅツの日だけとなっている。
そこで一般人が祈る場所として、宮古島の南に位置する下地町にある下地神社(ツノジ御嶽)を指定している。
ミャークヅツ=旧暦の8月〜9月の甲午の日から3日間にわたって4ヶ所のムトゥと呼ばれるところ(真謝〔マジャ〕、上げ桝〔アゲマス〕、前屋〔マイヌヤー〕、前里〔マイザトゥ〕)を中心に行われる池間島の最大の祭祀。
 1日目(アラビ)数え年で55歳以上の男たちが早朝から集まり、酒を酌み交わし談笑する。 夕方、池間公民館前の水浜広場に4つのムトゥから男たちが集い。ツカサンマ(司母)の先導で力強くクイチャーを踊り、豊年を祈願する。ミルク酒で赤ら顔の男たちが集まると、ツカサンマらは円陣をつくり神歌の後、クイチャーを踊る。そのあと男たちも加わり「ヒヤサッサ」の掛声も勇壮に、全身を大きく揺らしながら大地を力強く踏みしめる池間島独特のクイチャーを舞う。
 2日目(ナカヌヒ)は、早朝に前年のミャークヅツ以降生まれた子供の名を登録する「ヤラビマス」が各ムトゥである。新生児の誕生を報告し祝福する。

 3日目(アトウヌヒ)と言う。
池間島のユークイ(世乞い)=旧暦の9月、甲、戌の亥と子の両日を選んで行われる。
ユークイのユーは、「豊饒」、クイは「乞う」の意味で、豊年願の祭祀である。
島では数え51才から55才の婦人がユークインマとよばれる神役となりユークイ初日から村司たちと共にウハルズ゛ウタキに入り、夜籠もりの神願いをする。
2日目には、早朝から神歌があり、その後、15御獄をめぐり、豊饒を祈願する。“神”となった五人は白装束にカウス(草冠)といういでたちで祈願を行い、島民は恐れ多い“神”と顔を合わさないよう、物陰からひっそりと祭祀を見守る。
 ユークイは池間島以外は同島から分かれた平良西原、伊良部佐良浜の3ヶ所でこの伝統祭祀が行われる。
海神祭=旧暦5月4日。池間漁港。8:30〜。

 

 大神島(おおがみじま)
面積は0.24km2。周囲は2.3km。最高地点は75m。32人(2013年)。
祖神祭(ウヤガン)=毎年旧暦の6月から10月の間に行われる豊年祈願の祭り。50歳以上の老女たちが髪を洗い、身を浄め、黒の装束をまとって海に面した山の御嶽にこもり、神に祈りを捧げるのであるが、この神事は秘密にされ、男たちは見る事が出来ず、犯すことの出来ないタブーとされている。この神事は、5日間一睡もせず、水と塩だけをとって神との交わりを続けると伝えられている。なお、この祭りは、祭りに関係のある女性以外は寄せつけない秘祭であるため、祭りの全貌やその本質意義はまだ究明されていない。

 ■上野地域
   宮国(みやぐに)、新里(あらざと)、野原(のばる)、嘉手苅(かでかり)
宮国の大綱引き=市指定無形民俗文化財。毎年、旧盆(ストゥガツ)最終日の「送り日」に上野字宮国の宮国公民館前の通りで行われ東里と西里に分かれた地域住民らは、大綱を引き寄せようとこん身の力で引き合う。
豊穣を祈願する祭りだが、その起源は分かっていない。農作物の収穫を祝い祈願する御願(うがん)綱、または災厄を追い払うため、雨ごいや農作物の豊凶を占うなどの意味があると伝えられている。
8時頃から、大綱の材料となる「キャーン」(和名・シイノキカズラ)集め、15時からはそれを編み込んでいき大綱を完成。
21時頃から東西の住民が公民館前に集まってくると、中学2年生やその親らが中心となって「綱引き踊り」と呼ばれる踊りを披露。その後、住民らが担ぎ上げた東の雄綱と西の雌綱が連結されるころには会場の熱気が一気に高まった。綱引き開始。東西とも声を出し、息を合わせながら懸命に大綱を引き合った。第3戦まで綱引きをする。綱引き終了後、大綱の御嶽(うたき)への奉納と、「デーロイ」と呼ばれる東西での押し合い勝負を行い、最後は全員でクイチャーを踊り締めくくる。  
新里豊年祭=市指定無形民俗文化財。旧暦6月8、9日。
豊年祭の起源については不祥であるが、1771年の明和の大津波によって壊滅的な打撃を受けた部落が、海岸近くにあった元島から現在の位置に部落を建て、また伊良部島などから移住してきた人々が信仰を築く際、五穀豊穣を感謝し、部落の発展を祈願して始めたという説がある。

1日目東西それぞれ綱作り(9時〜14時)
2日目公民館、ツカサヤー御嶽での 祈願、他(9時〜14時)
マツブドウ=公民館より獅子を先頭にツカサヤー御嶽へ出発。ツカサヤー御嶽にて祈り。マツブドウ(円陣を組んでの踊り)(16:00〜17:14)
ツカサヤーを退場、公民館に向かいながら、辻ごとにマツブドウを繰り返す(〜17:30)
公民館西の県道上にてヒキオドリ(パタガサ・マーン・獅子・棒踊り・踊り)踊りながらウプザーへ移動。(18:20〜)
綱引き3回し、豊年祭終了。(19:30〜)
野原のマストリャー=国指定無形民俗文化財。旧暦8月15日。22時頃〜23時半頃。上野の野原公民館で開催。
野原で行われる豊年祭。マストリャーとは升取屋、税金取りのことで、その年の年貢完納を祝い翌年の豊作を願うために始められたとか、
粟や上布などを貢祖として納めていた人頭税制の頃、納税を済ませた秋、粟のわずかな残りを各戸から一定量、マスムトゥ(舛元)に集め、女たちがこれでミキ(神酒)を作り神に捧げた後、マスムトゥでは男たちがごちそうを持ち寄ってミキをくみ交わし、1年間の労をねぎらうのが習わしとなった。こうした行事を豊年祭として楽しんだとも言われる。
 午前中、大グスク内の拝所で婦人が祈願。
集落は4組に分けられ、マスムトゥとなる家は方角に従って子組、寅組、午組、申組と呼ばれる。今では役員の家を中心に4ムトゥがあり、そこに男たちが集まる。
十五夜となった日、満月が頭上にさしかかるころ、ムトゥから青年男子5人が一組となって棒踊りを演じつつブンミャー(公民館)に向かう。途中の辻でも奇声をあげながら踊り志気を高める。女たちはすでに紺地の着物に白鉢巻きを後ろ結びに垂らし、ブンミャーで待機する。
 4ムトゥが揃ったところでブンミャーに入り、青年男子は五人棒を、女たちは前列がクバ扇を、後列が四つ竹を持って投ぎ踊りと抱き踊りを繰り返す。
22時頃より公民館の広場では、男踊り(棒踊り)、女踊り(クバを手に踊る抱き踊りと四つ竹を手に踊るなぎ踊り)の順で一行が会場に入場し、円になって20分ほど踊る。
休憩の後23時頃から同様の踊りがあり、男女一緒のクイチャーで締めくくられ23時半には全ての行事が終了する。
サティパロウ(里払い)=国指定重要無形文化財。野原集落で毎年旧暦12月の最後の丑の日に行われる悪霊払いの伝統行事。
 先頭の子供パーントゥが仮面を着け、小太鼓をたたく役と法螺貝を吹く役と一緒に先頭を歩く。後ろからは女性たちがクロツグ(方言名マーニ)とセンニンソウ(同タドゥナイ)で組んだ草冠をかぶり、さらに腰に巻き、両手に悪霊払いのヤブニッケイ(同ツッザギー)の小枝を振りながら「ホーイホイ」と声をあげる。
道路の四辻では二重の円をつくり、外側の女性たちが内側の子供たちを見守り、女性たちは内側に向かって「ウルウルウルウル」と唱えなが屈み、 円の中に向かい厄を祓う。
 再び子供パーントゥらが一番先に歩き、全集落内をはらい清めた。

 ■城辺地域
   新城(あらぐすく)、下里添(しもざとそえ)、砂川(うるか)、友利(ともり)長間(ながま)、西里添(にしざとそえ)、比嘉(ひが)、福里(ふくざと)、保良(ぼら)
城辺砂川(うるか) 砂川神社 旧8/15 砂川豊年祭
上区の獅子舞=市指定無形民俗文化財。 サズガー、ウッザンミ、ザラツキ゜、ユナバリ、パナキシャの5集落は、明治25年、下里添村として下里村から行政分離されたという。その際、村分けの祝いとして下里の主は、下里村の守護神である2頭の獅子を下里添村に贈ったという。その後、下里添村では、毎年旧暦8月15日に豊年祭を催し、獅子舞をブンミャー御嶽に奉納する習わしとなり、上区の獅子舞として現在に至っている。
 下里添村は大正10年に下里添上区と下里添下区に分字、上区はその後、上区部落、戦後は下北部落と称するようになった。
 上区の獅子舞は、始めと終わりに厳粛な神事が執り行われる。獅子は上区部落の魔除け、厄除け、区民の協和、豊作の守護神として祀り、崇められている。現在の獅子舞は、昭和23年に新造され3代目に当たる。
新城豊年祭(5月5日祭)=旧暦5月5日。
子供たちや青年会、女性会らのにぎやかな踊りや三線演奏、子供会のエイサー、三線演奏、女性会のメンバーによる余興など。
砂川豊年祭(十五夜行事)=旧暦8月15日。15時頃〜16時半頃頃開催。
まずは公民館の中で、男性達によりクイチャーが踊られる。
続いて女性達によるクイチャー、獅子舞が行われ、公民館の前庭でも再びクイチャーが踊られる。
その後、数100mほど離れた神社に全員で移動。
神社では公民館前と全く同じ順序で、再びクイチャーや獅子舞が奉納される。
行事の最後は、これまで踊りに参加していなかった子供達などを含め、集落全員による総踊りで締めくくられる。
行事終了後は、参加者一同で神社で祈願する。
友利豊年祭=10月(西暦偶数年)。共進会も同時に開催。友利公民館とその周辺が会場。
 はじめに数え40〜41歳の男性が獅子を被り、友利の拝所と公民館の周囲を回って厄を払う。
この後、公民館の中庭で友利獅子舞保存会が勇壮な獅子舞を披露。女性を含む地域住民はミルク口説、友利のクイチャーを力強く踊る。続いて集落に繰り出して引き踊りが行われた。


※友利のクイチャー=市指定無形民俗文化財。昔、ブンミャー(村番所)で機織りさせられた彼女等は、リーフに織り成す白波が上布の模様に見える事から、小浜の砂が粟になれとの願いをこめてクイチャーアーグに仕上げたという。昼間の労働から開放された若者達は夜の巷に集まり、面白おかしく男女の様子まで歌い踊ったりしたという。
 友利のクイチャーは、最初にマキャーブドス゜(巻円陣)を踊る。踊手全員が円陣を作り、体は円の中心に向かって足を交互に踏みながら手拍子を取ってクイチャーアーグを歌う。歌が終わると全員右に向きを変え囃しながら4、5番程度踊る。その後、クイチャーに移るが、これも、マキャーブドス゜同様体は円の中心に向かって歌う。歌が終わると、今度は、向きを左に変え囃しながら威勢よく大地を踏みならして踊る。友利のクイチャーは男踊り、女踊りの別はなく、男女一緒に大地を踏み鳴らして踊る威勢の良さが特徴。


※友利獅子舞=市指定無形民俗文化財。昔は疫病、火事、旱魃等がおこるとすべて悪霊の仕業であると思い、村人達は総出で三尺程の棒を持ち、獅子を先頭に道端の石垣や草木を叩ながら部落内の道を隈なく廻った、と伝えている。1830年頃から災害の発生しやすい夏8月頃に魔除け、厄払い、無病息災、五穀豊穣の祭りとして 獅子舞を一年越しに行う様になり、現在に伝承されている。
友利の獅子舞は最初に法螺の合図で始まる。鉦(4〜5人)、アラスグナ(煽役)2人によってマキャーブドス゜(巻円舞)を3番程度踊る。次に獅子舞に移り、寝ている獅子お誘い出して煽る。さらマキャーブドス゜を3番程度踊り、再び獅子舞いに移る。最初に歌を1番だけ歌い踊り終了する。
比嘉の獅子舞=市指定無形民俗文化財。1913年に始まったと伝えられる。士族と平民が字有地の財産を巡って争い訴訟事件にまで発展、比嘉部落の将来を憂慮した双方は、1912年和解した。
その和解記念の祝賀行事に獅子舞・競馬・角力などを催したという。この行事は「パツカショウガツ」(旧暦1月20日)と呼ばれる。以来、今日まで部落の繁栄と無病息災を祈願し継承されている伝統ある獅子舞である。
福里豊年祭=9月開催。福里村番所(ブンミャー)跡で集落に伝わる独特クイチャーを踊る。
保良豊年祭=7月開催。共進会も同時に開催。会場は保良農村総合管理センター。優良農家の表彰と、芸能性豊かな住民の舞踊や三線演奏、クイチャーなどが披露される。
砂川のナーパイ=旧暦3月最初の酉の日開催。津波除けの祭り。1727年の古文書に載っている。
竜宮から来た女性によって伝えられたと云われる。
はじめにウイピャー山の頂上にある竜宮から来た女性「ウマニャーズ」が祀らている場所で祈りが捧げられたあと、女性たちは「ダティフ」と呼ばれる竹のような植物を手に祭場をあとにする。
その後、男性たちが神の名を崇める歌「カンナーギ・アーグ」を歌う。このあと女性たちは、海岸沿いの道を歩きながら所々にダティフを差して津波が来ないようにと祈願。最後は、海岸近くで神歌に合わせて踊り、集落の安全と五穀豊穣を祈る。

 ■下地地域
   宮古島の南西部〔上地(うえち)、嘉手苅(かでかり)、川満(かわみつ)、洲鎌(すがま)、与那覇(よなは)〕 と来間島〔来間(くりま)〕よりなる。
下地字上地725 赤名宮 11月のこもり御願 例祭
御祭神は御栄加主(うえかぬす)と称し、公的な事業・官職栄達の道を司り、成就隆盛隆昌の途を拓き給う霊感あらたかな神様である。
 子方母天太神が養育した12方の神々は、池間島の大主御嶽に祭られ人命を守り給う尊い神様を初めとし、赤崎御嶽(大世の主)は農耕万穀を掌り給い、平良の阿津真間御嶽(蒲戸金主)は総ての人事諸事の記帳を掌り、西里添のピマル御嶽(美真瑠主)産児出産を掌る兄弟の神々であるが、その他の神様は詳かでないと宮古史伝に記してある。
現在の神殿は1965年5月20日改築、さらに鳥居と他1部が昭和61年に改築され宮古島の住民より厚く信仰されている。
川満の棒踊り=市指定無形民俗文化財。島言葉では「ぼう・っふ」と呼んでいる。
 川満に伝わる厄払いの踊りで伝えによる踊りの由来は、1686年頃、川満に「プーキ」(疫病)が大きく流行し、村人達が次から次へと死んでいった。そのため各家庭では悲しみに明け暮れる毎日が続いていた。これを憂いた村の役人達が集まり「何かよい方法はないか」と話し合い、神に伺いを立ててみることになった。その結果、「全部の御嶽に願をかけよ」とのお告げが出た。そのお告げにより早速、村の人達は全員集まって、すべての御嶽に御願をすることになって、手に棒を持ち、鐘を打ち鳴らし、願い事を唱えながら御嶽から御嶽へと廻った。その途中、列の後方にいた老婆が「このマムヌよろう」と叫び声をあげた。しかし、他の村人達には何も見えない。村人達が何かあったのかと老婆に尋ねると、老婆は「マムヌが舌を出して嘲り笑っている。プーキはこのマムヌの仕業だ」と言った。そこで、村人達は、老婆の指示に従って「マムヌ」を取り囲み、それぞれ持っていた棒でめった打ちにして退治した。
 やがて、御嶽への御願も無事に終わり、人々はそれぞれの家路についた。その後は、プーキ(疫病)も下火になり人々は安心して暮らすことが出来た。そのため、人々は御嶽の神に感謝して、村の繁栄と人々の無病息災を祈って棒踊りを奉納した。
 棒踊りは、2人棒、3人棒、5人棒、10人棒とあったと伝えられる。今ではその全部を知る人はいないが、一部の川満の人々の努力で2人棒と5人棒が踊り継がれている。
ヨーンシー=洲鎌が木を切り、上地が運び、与那覇が激励するという3部落にそれぞれ伝わる。
 来間島(くりまじま)
面積は2、84km2。周囲は9、0km。人口は197人(平成18年)。1995年3月開通の古宇利大橋(全長1960m)で宮古島と繋がる。
ヤーマスプナカ=旧暦9月の初未の日から4日間行われる行事。豊穣予祝と子孫繁栄を祈願する。
ヤーマスとは、ヤー(家)がマス(増す)という子孫繁栄の意味で、昔、来間島を救い島を繁栄させたと伝えられている三兄妹の長男家をスムリャーブナカ(長間盛史さん宅)、二男家をウプヤーブナカ(砂川輝夫さん宅)、三男家をヤーマスヤーブナカ(上地繁男さん宅)として、その三家を中心に祭祀を執り行っている。
初日と2日目は、神女達が御嶽で夜籠もりをする。
3日目の朝、神女達がスマヌヌス(拝所)で神歌を歌った後、スムリャープナカ、ウプヤープナカ、ヤーマスヤープナカという由緒ある家で神歌を歌い、成人のお披露目と1歳の赤ちゃんのお披露目の儀礼を行う。
4日目は、3か所のプナカでヤーニバンの儀礼があり、アマグイジャーで棒踊りや舞踊が演じられる。
 【下地フェスティバル】
2011年10月下旬、初めて開催。場所は池原公園。
旧下地町では4年に1度の町民祭で各部落が伝統芸能などを披露する「引き踊り」が行われていたが、合併から6年が過ぎ、地域の伝統芸能を継承する必要があり、町民祭に変わる行事として下地フェスティバルとして開催に至った。主催は下地地域づくり協議会・下地フェスティバル実行委員会。
 ≪2011年の行事予定≫

■午前(9:30〜)
各部落による芸能発表。 ヨーンシー、棒踊り、子供たちや婦人会による演技、方言ホラ吹き大会、崎田川アーグ大会(貢献布を納めるときに歌ったとされる)、部落対抗リレー、下地保育所、下地幼稚園のお遊戯、下地小5・6年生によるエイサー、中学生のダンス、空手演舞、 太鼓の会による演技 など。


■午後(14:30〜)
芸能発表会では川満部落が村に疫病をもたらした魔物を退治した伝承を起源に持つ 「棒踊り」と「笠踊り」 を披露。
来間部落は伝統行事ヤーマス御願の棒踊り。
洲鎌が木を切り、 上地が運び、 与那覇が激励するという3部落にそれぞれ伝わる 「ヨーンシー」 が繰り広げられた。

■夕方(〜19:00)
のど自慢大会(ちびっ子の部、一般の部)、全イベント終了時間は午後7時。、 早食い競争、 バンド演奏など。

 ■伊良部地域
伊良部島と下地島からなる。
集落は池間添(いけまそえ)、前里添(まえざとそえ)、佐和田(さわだ)、長浜(ながはま)、国仲(くになか)、仲地(なかち)、伊良部(いらぶ)
 伊良部島(いらぶじま)
面積は29.08km2。周囲は40.3km。最高地点は89m(牧山)。人口は5679人(2013年)。2015年1月31日、伊良部大橋(3540m)が開通して宮古島とつながる。
伊良部長浜 東大嶺神社
佐良浜ハーリー(海神祭)=旧暦5月4日「ユッカヌヒー」に近い日曜。8:00頃より、佐良浜漁港で開催。 宮古地方における海神祭発祥の地である。これは発祥の地である本島・糸満の海人から伊良部の海人に伝えられたのが始まりで、ここから宮古島の各地域に広がっていったらしい。FRP船5隻の爬龍船による競漕。小櫂10丁。
小中学生や高校生、老人会、婦人会、かつおの御輿のパレードの後、漁協前の広場でエイサーや踊りが披露。

ハーリーは広い漁港の中で池間添と前里添の二ヶ所に分かれて行われる。
伊良部佐良浜の豊年祈願祭「ミャークヅツ」=旧暦8、9、10月以降の最初の甲午の日から4日間「ムトゥ」を中心に佐良浜の人達総出で盛大に行われる祭りである。
初日を「アラビ」、2日目を 「ンナカヌヒー」、 3日目を「アトヌヒー」、最終日を「ボートイビー」と呼んでいる。
ミャークヅツの由来は2つあるが、仲保屋の池間の主が、税金(人頭税)の完納への褒美として祭りを与えたという説と、一人の子が亡くなって、その悲しみで人生の無情から、現世を楽しく生きようとして始まったとの説が伝えられているが、前説が有力である。
男性を中心にした祭事で、各ムトゥを中心に泡盛に練乳を入れた「ミルク酒」を酌み交わし、ツカサンマたちの先導でクイチャーを踊り、昨年のミャークヅツ以降生まれた島の子孫たちの名を報告する「ヤラビマス」を行い、集落の繁栄を祈願し祝う。
 ミャークヅツには、いろんな仕来りがあり、それを司るのは、各ムトゥのツカサウヤを中心にミーウヤ(ミーイディウヤ、アライディウヤ)が行います。池間邑(マジャ、アギマス、マイヌヤー)では、数え年47才、前里邑は50才からミーウヤになる。
 下地島(しもじしま)
面積は9.54km2。周囲は32.0km。人口は35人、29世帯(2012年)。
伊良部島と下地島は狭い水路を挟んで隣同士。もともとはサンゴ礁が隆起して出来た島の間がくびれて、陥没して水路になった。一般的には2つの島があるというよりも両方で伊良部島と呼ばれることもある。水路は6本の橋で結ばれている。
下地洲鎌 下地神社
木泊=下地島の西岸にあったが、明和8年3月10日(1771年4月24日)大津波で木泊部落の住民は殆ど溺死し家屋は流失した。
この時に大小様々な岩塊や砂礫を打ち上げたが、無数に有った岩塊は飛行場建設のため爆破され、使用されたが町当局のお願いで1個のみ当時の面影を残し、下地島の牧中に威容を止めている。いつ頃か巨岩(高さ12.5m。周り59.9m)は民間信仰が起こり、大漁祈願祭または航海安産や家内安全の祈願が行われおり、島建ての岩守護人として定着しつつある。

 多良間村
 多良間島(たらまじま)
面積は19.75km2。周囲は19.75km。人口は1275人、528世帯(2012年)。島の北側に仲筋、塩川の2つの集落がある。
中筋 多良間神社 旧10/15 例祭 明治35年(1902)1月落成
八月踊り(八月御願)=国指定重要無形民俗文化財。旧暦の8月8日〜10日に行われる。「多良間村史」によると古くは「皆納祝」といわれ、豊年祭として1年の豊饒を祝うとともに、来年の豊作を祈願する。
戦時中などは踊りは中止されても御願だけは行われていたという。起源は定かではないが、1637年に宮古・八重山に実施された人頭税制度下において、納税を祝ったものであるといわれる。
演じられる組踊りや女踊り・若衆踊りという芸能は時期は定かではないが、沖縄本島から伝播したものであり、島に残る組踊りの台本の筆者年月日から多良間島での組踊の上演は明治20年代からだと言われている。
 両字とも、それぞれの初日には、芸能を上演する前に、御獄にその年の豊作を感謝し、来年の豊作を祈願する。
仲筋は多良間神社・運城(うんぐすく)御獄・泊(とまり)御獄に、塩川は嶺間(みねま)御獄・塩川御獄・普天間(ふてんま)御獄に参拝する。
その後、8月8日は仲筋の土原御願所(ンタバルウガンジュ)で、9日は塩川のピトマタ御願所で芸能上演がある。
10日は「ワカレ」と言われ両字の御願所で字による公演が行われる。
スツウプナカ=農作物の収穫への感謝と祈願、そして人々の健康も願いおこなわれる祭祀。祭場は4ヶ所。また「スツウプナカ」は、魚をとったり、神酒の仕込みをおこなったり、唄の練習をおこなったりと、当日以外にも多くの準備が島の方々の手によりおこなわれる、大事な伝統行事です。
 水納島(みんなじま)
面積は2.15km2。周囲は7.2km。最高地点は13m。人口は5人、4世帯(2013年)。
昭和10年の国勢調査では人口は265人。しかし昭和36年の台風被害で島民18世帯が琉球政府の計画移住として宮古島(平良市)行き、3世帯が残ったが、やがて区長の宮国さん一家だけになる。
水納 水納御嶽
水納御嶽=村指定文化財。15世紀後半、水納島を統治したミンナペーンス(士原豊見親のおじ)を祭った御獄。その頃、多良間を統一したのが土原[豊見親]春源(ンタバル[トゥユミヤ]シュンゲン)という人で、その叔父にあたるのがミンナペーユヌスという人だそうです。

 ★展示場
 【宮古島市総合博物館】
宮古島市東仲宗根添1166−287。пF0980−73−0567。開館時間は9:00〜16:30。休館日は月曜、祝日(ただし、月曜日が祝日の場合は火曜日)、慰霊の日(6月23日)、年末年始。料金:300円。
1989年開館。宮古島の歴史、民俗、自然、美術工芸を収集展示している博物館。
第一展示室の民俗部門では、伝統芸能や民俗行事をレプリカやジオラマを使って再現している。
 【多良間村ふるさと民俗学習館】
多良間村字中筋1098−1。пF0980−79−2223。開館は火曜〜日曜。9:30〜18:00。休館日は月曜、祝日、慰霊の日(6月23日)、年末年始。料金:200円。
多良間村の文化の拠点として、平成5年に完成。8月踊りの衣裳、台本なども展示。