沖縄県

≪八重山諸島≫

石垣市、竹富町、与那国町

住所  神社名 祭礼日 内容 備考

 八重山諸島
 石垣市
 石垣島(いしがきじま)
面積は222.54km。周囲は162.2km。最高地点は526m(於茂登岳)。人口は48802人(2013年)。
 ■石垣間切だった地域
新川(あらかわ)、石垣(いしがき)、川平(かびら)、崎枝(さきえだ)、新栄町(しんえいちょう)、名蔵(なぐら)、浜崎町(はまさきちょう)1〜3丁目、桴海(ふかい)、美崎町(みさきちょう)、八島町(やしまちょう)1、2丁目
石垣島四ヶ字豊年祭=石垣島中心部の新川、登野城、石垣、大川地区が合同で行う豊年祭。旧暦6月の癸、甲(新暦の7月中旬〜8月上旬頃)。これは1675年以前は1つの集落であったことにちなむ。
1日目オンプール。市内4ヶ所の御嶽。字新川(長崎御嶽)、字登野城(天川御嶽)は14時から、字石垣(宮鳥御嶽)は15時30分から、字大川(大石垣御嶽)は16時からいずれも3時間程度行われる。各集落とも、前半は獅子舞・棒術など御嶽前での奉納芸能、後半は舞踊、三線などの舞台芸能がメイン。

2日目各字の旗頭が新川の真乙姥御嶽に集結し、15時半頃〜20時頃までムラプールが行われる。
まずはムラプールを主催する字新川の役員が御嶽に入り、その後各字、八重山農林高校郷土芸能部、JAなど合計10団体が旗頭と芸能を奉納する(16時〜18時頃)。
五穀の種子授けの儀は18時頃。これは西から真乙姥御嶽の司、東から五穀豊穣の神が現れ、神から司に五穀の種子を渡す儀式であり、これにより来年の豊作が約束されるといわれている。無事に種子が渡されると、
アヒャー綱は18時頃、これは女性のみで行われる儀式で、東と西に分かれた大綱のつなぎ目にカヌチ棒という心棒をいれ2本の綱を結びあわせる。無事結び終わるとガーリーを踊り、無事に綱が結ばれた喜びを表す。
これで真乙姥御嶽での行事が終了し、綱とともに200mほど西へ程移動する。
ここで再び高校生や婦人会による奉納芸能が行われ、日暮れとともにツナヌミン・大綱引きが始まる。
ツナヌミンは19時過ぎ。東から長刀、西から鎌を持った武者が現れ、勇壮な戦いが演じる。
大綱引きは東西に分かれての大綱引きが行われ、5時間にわたるムラプールが終了する。
石垣(いしゃなぎら)結願祭=2008年の結願祭は27年ぶりに、宮鳥御獄で10月26日(日)に開催された。数十年に一回開催で、近年では1981年、1950年、1923年に開催され、今後は12年に一回程度行う意向とのことである。
 結願祭を行うにあたりミルク面と扇子旗頭を新調。
 2008年の結願祭は前日17時宮鳥御嶽で祈願。
当日9:30〜。ミルク迎えの儀式。
10:00〜11:30。シイヅクリ(行列・町内パレード)。慶事にだけ登場する扇子旗頭を先頭に、太鼓隊、ファーマー(子や孫)を従えたミルク、婦人による「キヤリヌザイ」の踊り、いしゃなぎら棒術隊、祝いもちを積んだ「ゆがふ花車」はアンガマのウシュマイ(お爺)とンミー(お婆)、山崎ヌアブジャーマ(女好きなお爺の名前)がユーモアな動きで祝いもちを観客に振る舞った。 これらの行列が町内を練り歩いた。
12:00〜13:00。宮鳥御嶽頃境内での奉納芸能。結願祭のみで披露されたという「入鼓の手」と呼ばれる太鼓、婦人による「キヤリヌザイ」の踊りには「結願ウンゲーリィ」が登場。緑ヶ丘保育園の旗頭や巻踊り、ツナヌミンも奉納された。
15:00〜19:30。舞台芸能というスケジュールで行われた。
ミルクは9時半の儀式、10時から11時半のパレードには常時参列していたほか、奉納芸能の最初、舞台芸能の最初と最後にもミルクの舞が行われた。シイヅクリ行列は宮鳥御嶽を出発し、石垣小学校裏―桃林寺西通を経て宮鳥御嶽に戻るルートで行われた。
川平豊年祭=2014年は7/10(木)開催。14:00〜18:00。赤イロ目宮鳥、群星、山川、浜崎の4つの御獄で今年の五穀豊穣を神に感謝し来夏世の豊作を祈願する。このうち宮鳥御獄では、氏子が60kgあるという俵型の石を担いで境内を3周し豊作を祈願する恒例神事「ビッチュル」が行われる。
村人が奉納品を持参し、イビと呼ばれる拝所にお供えする。イビは一般の人はもちろん、男性は立入禁止で、村人は拝所の入口で神司に奉納品を手渡す。その後、境内の一角からビッチュル石を転がしてきて神司の前に置き、肩に担いで境内を廻る。最後に御嶽前のロータリーで群星御嶽と山川御嶽の旗頭の奉納が行われた。
川平結願祭=群星御嶽(雨天は川平農村集落センター)で開催。
弥勒を先頭に参加者全員による総踊りで幕開け。川平独特の太鼓(ペッソー)と棒10組、獅子舞が奉納。川平小中学校の児童生徒らも勇壮に太鼓を披露。
 特に、棒術の小人2人が大男を相手にした「三人棒」、「狂言」、「川平口説」、「川平鶴亀」など伝統の踊りや演目を次々と披露される。
崎枝豊年祭=7月連休日曜。崎枝御嶽開催。午前中に祈願、午後に奉納芸能。最後に参加者一同で御嶽に祈願をし終了。
名蔵豊年祭7月。公民館、名蔵御嶽開催。名蔵中学校の奉納太鼓、舞踊やエイサーを奉納。
石垣島爬龍船競漕大会=旧暦5月4日。8時頃〜13時頃。石垣島新川漁港(正式名石垣漁港)で開催。豊漁と航海安全を願い船漕ぎ競争を行う。主催は石垣市爬龍船競漕大会実行委員会。
御願ハーリーと転覆ハーリー、上がりハーリーの三種目が、漁師達により行われるメインレースであり、この三種目の合計得点で順位を競う。他に中学生・職域・水産関係ハーリーが組まれ、市内の人達が参加する。
スネー(船揃え)(8:00〜)。奉納舞踊(8:30〜)。
御願ハーリー(9:50〜。3周回、2400m400m)、中学生ハーリー(10:10〜)、団体ハーリー(職場対抗)(10:20〜)。
転覆ハーリー(11時10分〜。2周回1600m)スタート地点から30mほどの所と、折り返し点近くの2箇所で転覆する。
マドンナハーリー(11:30〜)。
上がりハーリー(12:30〜。3周回、1600m)の順に行事が行われる。

午後からは東一組、二組、中一組、二組、西組の五組に分かれ、民謡ショーなどを楽しむ祝賀会が行われる。
 ■大浜間切だった地域
大川(おおかわ)、登野城(とのしろ)、大浜(おおはま)、平得(ひらえ)、真栄里(まえざと)
4ヵ字豊年祭(大川)=石垣島四ヶ字豊年祭に参加。
1日目(オンプール)は16時から海星小学校横の大石垣御嶽にて開催。棒術もあり。
各字の旗頭が新川の真乙姥御嶽に集結し、15時半頃〜20時頃までムラプールが行われる。
まずはムラプールを主催する字新川の役員が御嶽に入り、その後各字、八重山農林高校郷土芸能部、JAなど合計10団体が旗頭と芸能を奉納する(16時〜18時頃)。
五穀の種子授けの儀は18時頃。これは西から真乙姥御嶽の司、東から五穀豊穣の神が現れ、神から司に五穀の種子を渡す儀式であり、これにより来年の豊作が約束されるといわれている。無事に種子が渡されると、
アヒャー綱は18時頃、これは女性のみで行われる儀式で、東と西に分かれた大綱のつなぎ目にカヌチ棒という心棒をいれ2本の綱を結びあわせる。無事結び終わるとガーリーを踊り、無事に綱が結ばれた喜びを表す。
これで真乙姥御嶽での行事が終了し、綱とともに200mほど西へ程移動する。
ここで再び高校生や婦人会による奉納芸能が行われ、日暮れとともにツナヌミン・大綱引きが始まる。
ツナヌミンは19時過ぎ。東から長刀、西から鎌を持った武者が現れ、勇壮な戦いが演じる。
大綱引きは東西に分かれての大綱引きが行われ、5時間にわたるムラプールが終了する。
4ヵ字豊年祭(登野城)=石垣島四ヶ字豊年祭に参加。=2014年は7/21日、22日(月火)。1日目(オンプール)は天川御嶽。
2日目(
ムラプ−ル)は真乙姥御嶽で合同で行われる。
大浜豊年祭=旧暦6月の乙、丙(ムラプール・奉納芸能は2日目丙の日)。崎原道路で開催。
 ■初日
オンプールは集落内の各御嶽で神事が行われ、公民館付近では翌日のムラプールで使用される大綱がなわれる。
 ■2日目
14時過ぎから集落東側の浜でカースンヤー願いが行われ、神司達が海の彼方から神々を呼び寄せる。神司の足元にある5つの石は、それぞれの司が守る御嶽を現しているといわれている。
16時頃〜、崎原御嶽にて奉納芸能が行われ、まずは男子中学生達がイルク太鼓を奉納する。
続いてミルク様が御嶽に来訪する。大浜のミルク様は他のミルク様より少し恰幅がよく、お供の稚児達に福を授けるような動作を繰り返すところに特徴がある。ミルクのお供は、毎年大浜小学校の1年生の女の子が務めている。合計十本の旗頭が境内で奉納される。
ユーニガイ。カースンヤー願いの時と同様に、神司達が東を向いてアガリ節を唄い、来夏世の豊穣を祈願する。
17時〜19時は崎原道路にてパレード。まずはイルク太鼓に先導され旗頭が入場する。ミルク様と稚児の一行が再び現れ崎原道路を行進する。
続いて幼稚園児や舞踊教室の一行、職場団体など大浜地区の各団体が通りをパレードする。
各団体のパレードが終了した頃ちょうど日没となり、旗頭とともに参加者達がガーリーを舞う。
19時頃、東西から武者が現れツナヌミンが始まる。大浜のツナヌミンは、戦いが終わった後武者を乗せた台車が全速力で後退する。
最後に大綱引きが行われ終了。
平得・真栄里豊年祭=新暦7月最終週、またはその前後の土曜日に行われることが多い。平得公民館主催。
初日(オンプール)平得は大阿母御嶽。真栄里は安居御嶽。
2日目(ムラプール)は合同で大阿母御嶽で開催。17時頃より、東西の旗頭が行き交う「ヤライ」と呼ばれる儀式に続き、クバの扇を手にした神司たちによる世願いと巻踊りの後、平得東と平得西、真栄里、JAおきなわ八重山地区、大浜中、平真小など9本の旗頭が奉納。
神司達の舞でムラプールの行事が始まる。
平真小学校マーチングバンドの奉納。石垣第二中学校郷土芸能部の奉納。
御輿奉納。御輿は本来八重山の文化に無いものだが、ここや伊原間、与那国島の豊年祭では、米俵に取っ手をつけた形の御輿が奉納される。
婦人会の踊り。各団体の奉納終了後、旗頭の奉納やガーリーがあり、肩車で担ぎ出された青年団員が場を盛り上げる。
道しゅない(道踊り)では、大浜中男子によるイリク太鼓で始まり、平得婦人会の「平得世果報節」や生り島会の「稲しり節」、真栄里婦人会の「六調節」など18団体による余興が繰り広げられた。
参列者全員参加でのガーリー。勇壮なツナヌミン。祭りの最後は大綱引きで締めくくられる。
綱引きの後再びガーリーがあり、大盛り上がりの中全ての行事が終了する。
登野城結願祭=12年に1回、寅年に開催。
 旗頭を先頭に、ミルクや太鼓が続く行列「道すない」でスタート。ミルクは11時に登野城地区内の通称・アラスクヤーを出発し、通称・4号線に出ると、女性たちの「胡蝶の舞」や山積みの俵を引いていく「木遣り」を引き連れて、2時間近くかけて天川御嶽に向う。
 天川御嶽での奉納は13時ごろから始まり、神司から線香で迎えられた旗頭が奉納され、太鼓が続いた。ミルクは字会役員のたいまつで出迎えを受けたあと、長老の先導で境内に入り、奉納された。
 このあと、登野城地区内の学校や漁民の女性たち、青年会が余興を奉納したあと、「胡蝶の舞」、「木遣り」、「棒術」、「獅子舞」と続いた。
平得の種子取祭=1月9日、多田浜御嶽と大阿母御嶽で行われる。ユーニガイ(世願い)の儀式やカタバル馬の奉納を通じて五穀豊穣や地域住民の無病息災を祈願する。
 ■宮良間切だった地域
伊原間(いばるま)、白保(しらほ)、野底(のそこ)、宮良(みやら)、桃里(とうざと)
伊原間豊年祭=旧暦6月の癸の日に行われることが多い。2014年は7月20日(日)だった。
以前は昔は二日間に分けて行い、一日目にオンプール(御嶽の豊年祭)、二日目にムラプール(村の豊年祭)を行ったが、現在では、1日でオンプールとムラプールを行う。
 オンプール
昼間に御嶽で祈願が行われる。まず伊原間中学校から旗頭の奉納があり、そのお参りに全男子生徒が来る。
ウフミシャグは膳で調子をとり、歌を歌いながら、ミシ(噛酒)を神司、そして役員にささげる。
来夏世の豊作の占いをする。
御嶽での神事が終わると、次に、集落のかんがい排水事業の一環として造られた大浦ダムの横にある拝所で、水の神様に、感謝と来夏世の豊作を祈願する祭祀を行う。
この拝所は、昔は、大浦山中の川沿いにあったが、木々が生え茂り、拝所へいくことが困難となってきたので、平成4年に現在地に移転。

 ■ムラプール
 18時頃〜21時頃まで伊原間公民館で開催。
18時頃から三線の奉納があり、休憩・挨拶等の後、20時頃より、幼稚園児達による(手作り)神輿の奉納。続いて男性によりウフミシャグの儀式があり、神司、長老、来賓に神酒が授けられる。
その後、同じように女性達によるニンスイの儀式が行われる。これらの行事は歌を歌い、盆で調子をとりながら進められる。
その後メインとなる巻き踊りの行事があり、参加者全員が頭に葉を巻き、旗頭を中心に輪になって踊る。

最後は旗頭の奉納。
白保豊年祭=7月下旬〜8月上旬の間。毎年新暦6月頃の神行事で決定する。旧暦の特定の暦や、新暦の週末とは関係なく日取りが決定されているようだが、豊年祭シーズンの終盤に行われることが多い。
1日目、2日目は各御嶽で願解きと今年の豊作に感謝をするオンプール。
3日目は嘉手苅御嶽で翌年の豊作祈願のムラプールが行われる。
ムラプールでは御嶽に旗頭・太鼓を奉納した後、パレードの最初にミルク行列が行われる。ミルクの役を務めることができるのは、孫の代まで三代に渡って健在な一家の主のみで、後ろに続くのは皆その子孫である。
ミルク行列に続き、白保豊年祭の最大の特徴である稲の一生が演じられる。稲の一生では、集落を1班から5班に分け、各班が順番に田植えから収穫までの過程を演じていく。
続いて行われるツナヌミンでは、五穀豊穣種子授けの儀のみが行われる。
東西から持ち込まれた綱は鳥居の前で一つに結び合わされ、最後の行事である綱引きで終了する。
宮良豊年祭=2014年は7/20・21(日・祝)。ここの豊年祭はカメラや携帯、スマホなどによる写真撮影、動画撮影、録音だけでなく、スケッチや採譜など、記録に残すことがすべて禁止されている。
以前は部外者は立ち入りも禁止されていた。
 日本では宮良、小浜、西表島の古見、新城の上地島の4ヶ所だけだと伝えられる。
他人のHPから抜き書きすると、最初に村の広場みたいなところに、どこからともなくアカマタ(赤面)とクロマタ(黒面)が祭者とともに現れ、踊り、叫んで祈る。祭者たちは、三線を奏で、太鼓を叩き、歌い叫びます。
身長は熊のグリズリーのように大きく、ポンキッキに出てくるムックのような動きをし、体中から草や藁が生えていて頭にはさとうきびが群生し、縦長の鼻に丸い目と細かいギザギザの歯で、目と歯の両端に細長いヒゲもある。目と歯に光が反射して神秘的に輝くらしい。
広場での祀りが終わると、部外者の方はお引き取りくださいとアナウンスが流れ、大部分の人たち(部外者)はここで帰る。
  この祭礼集団がその後御嶽に向かい、集落を彷徨い、家々を回る。その順序もユタによって決められ、外部の者には一切知らされない。夜を徹して行われるので、当てずっぽで待っているわけにもいきません。
太鼓や歌の音が聞こえる方向に進もうと思っても、警備役の人たちによって、道を塞がれます。丁寧な口調で、あっちから回ってくださいと諭され、そっちの方向に進んで行くと、また別の警備の人に、遠い方向に誘導され集落中の街灯が消され、真っ暗やみの中を歩かされるうちに、諦めたり疲れたりで、だんだんと追っかける人が減っていく。
 集落の各家にアカマタとクロマタの来訪神がが廻り踊って祭者たちが唄う歌は多種多様(家に全ての人が揃っている時に奏でられる曲、誰かが出稼ぎに出ている時の曲、家族の誰かが亡くなった年の曲、新しい家族が増えた年の曲 など)だそうである。
人魚の里星野夏祭り=7月中旬、星野公民館前広場で開催。主催は星野夏祭り実行委員会。
星野地区(地番は桃里)は昭和25年、沖縄本島大宜味村などからの計画移民が築いた地域。星野集落は公民館のある星野・南星野・野原・番屋に分かれ、約55世帯。約150人。
地域活性化と交流を目的に20年以上前に行われていた「盆踊り」を復活させようと、2005年から夏祭りが開かれている。
地域子供会のエイサー、女性部による舞踊「桃里節」、市民吹奏楽団の演奏、ベリーダンス、ウイングキッズリーダーズの創作ダンスなどが披露。また、お楽しみ抽選会などもある
伊原間のイタシキバラ=旧暦7月16日。18:30頃〜深夜迄。伊原間公民館周辺にて開催。
イタシキビラは、お盆に招くもののいない無縁仏や悪霊などが、お盆が終わっても村内にさ迷って後世に帰らずにいることから、これを獅子によって村外に出て行ってもらおうとする行事。
 18:30頃から、伊原間公民館の広場で、神司により神事が行われる。
神事の後、公民館の広場で、大人と子供の獅子が舞いました。
その後、獅子は、ドラや太鼓、笛などドラや太鼓、カネを賑やかに打ち鳴らしながら伊原間の東西南北の境界付近道路に行き、獅子で威圧して悪霊などを追い払うとともに、新築等の家に行き、悪霊が潜むことのないようお払いをする。
伊原間のマユンガナシ=節祭(シチマチリ))にマユンガナシという神(精霊)が登場する。
節祭 (シチマチリ)は、村誌によると、昔は三日間に亘って行われた。
 かつて初日に「 マユンガナシ (真世加那志)」 を行う。「マユ」とは「豊かな真の世」のことである。「ガナシ」は敬称。合わせて「真世の皆様」という意味とも、
「 マユンガナシ(真世加那志)」 というのは、一対のお面のことを言い、マユンガナシの祭りは、家の内外を綺麗にして、シチカズラを柱、瓶、庭木、農具等に巻き付けて魔よけをし、その夜は、神司 ( かんつかさ ) と呼ばれている、神様の使いとして、全ての祭祀を執り仕切る女性の家に、各家庭から持ち寄ったカームチ(餅)、酒、肴を供え、五穀豊穣と健康祈願を行い、祈願が終わった後は、供え物を下げて夜の更けるまで談笑した。
 このマユンガナシですが、「 マヤ 」 とも言われていたそうです。
マヤというのは人の名で、 その昔、マヤという夫婦がいて、この夫婦はたいそう働き者で、暗い夜でも働くことができ、目はよく光って猫(沖縄方言でマヤ )のようだったそうです。
ですから、マヤ夫婦の田畑は、よく整地され、作物もよく出来たということです。
 ところが、ある時、この世から姿を消してしまったそうです。
それで、マヤ夫婦は、この世の人間ではなく、神の使者で、まじめに働けば、果報は必ずやってくるということを伝えに来たのだろうと言われるようになった。
お面の目は、マヤ夫婦にちなんで、シャコ貝の殻をはめ込んで、夜でも白く光るようにしたのだろうと言われているそうですが、明治の末ごろまでは、この面をかぶってそれぞれの家を回り、繁栄を祈願した。
現在、マユンガナシの面は、石垣市の文化財に指定されており、石垣市立博物館に保存されていますが、祭りの時だけ集落に持ち帰っている。
その後、2008年、74年振りに復活した弥勒(ミルク)への奉納芸能、幼稚園児や保育園児らの踊り、そして婦人会による 舞踊 舟越節、伊原間口説が奉納される。

 二日目は、生活用水であった井戸を綺麗に浚いそして夕方から弥勒(ミルク)の世果報(ユガフ)行列を行い、その後、狂言、舞踊の舞台行事を行う 「井戸浚いと催事」 の行事が行われた。
 最終日は 「総括行事」 として、行事の総括をして、その後、簡単な狂言や舞踊をして、節祭の行事を終えた。
明石エイサーまつり=旧暦7月14日。19時〜22時頃。明石公民館横広場で開催。 明石(伊原間地区)は沖縄本島からの開拓者により拓かれた集落であるため、沖縄本島の文化であるエイサーが行われる。
19時過ぎより園児エイサー、子供エイサー、エイサー、民謡ショーの順で行事が行われた後、再びエイサーと子供エイサーが行われ、最後はカチャーシー。
白保の獅子舞=旧暦7月13日〜15日(新暦の8月上旬〜9月上旬頃)、白保集落の盆行事。旧盆期間中、2匹の獅子が集落内の家々を回る。
 オリジナルなのは子舞を見物している子供達は、レルレ、レルレと囃しながら獅子を自分達の近くにおびき寄せる。時折本当に獅子に捕まり引きずり出される子がおり、本当に怖がっている子供達がいる様子が独特である。

旧暦7月13日21時より、白保郵便局より一筋北を海側に曲がったところにある宮良家で獅子舞が行われる。獅子舞はその後、白保集落内の家々を廻る。
14日も13日と同様。
15日は深夜1時頃より3時頃まで、真謝井戸前の豊年祭が行われる道で道アンガマーという行事があり、三線の音に合わせた踊りがある。
16日は19時過ぎより白保小学校グランドで盆踊りがあり、本土式の盆踊りや獅子舞が行われた後宮良家で締めの獅子舞が行われ、4日間の行事が終わる。
宮良のイタシキバラ=旧暦7月16日。20時頃〜深夜迄。宮良公民館周辺にて開催。
 20時頃より公民館裏手の民家、獅子の胴元である民家(トゥニムトゥ)において獅子舞と巻き踊りが行われ、行事がスタートする。
 20時30分頃より国道沿いの御嶽でも巻き踊りと獅子舞の奉納を行う。
 21時頃より公民館前でメインの行事が始まる。
宮良の獅子は3匹おり、まずは子供の獅子が1匹で舞ったのち、両親も現われ3匹での舞となる。
 獅子舞に続き、再び長老や神司達による巻き踊り(ニンブジャー)がある。
ニンブジャーが終わると奉納芸能、アンガマ踊りの時間となり、長老達の真向かいに陣取る花笠にサングラスの一団が、赤馬節など宮良発祥の芸能やそのほかの舞踊を数人一組で披露していく。
舞踊研究所の子供たちによる奉納。宮良のイタシキバラにおけるアンガマ踊りは、最初のうちは花笠で正装した人達の踊りが多いが、夜が更けるにつれ唖然とさせられるような出し物が増えていく。
地謡の方々が三線を置いて休憩に入り、大音量のテープ放送がかかりだしたかと思うと、突拍子もない格好をした人々が闇から現われ踊り始める。
22時頃より伝統舞踊の合間にこのような踊りが入り、時間が経つにつれて奇抜な格好をした人達の踊りが増えていく。
宮良結願祭=宮良集落で行われる秋まつり。
人頭税時代は毎年行われていたというが、(明治36年(1903)の同税廃止以降は12年に4回、干支が子・寅・午・酉の年にのみ行われ、ミルクや旗頭が登場する。
 前日は各御獄の神々を招いて神司が祈願。
 当日の早朝に神司と公民館役員で奉納儀式を済ませて結願祭に臨む。
 12時から宮良小学校の生徒達によるブラスバンドが集落内を行進。13時〜14時ころ集落内パレード(ミルク様。女子高生による舞踊。老人達によるザイの踊りや婦人会による宮良音頭などの舞踊。幼稚園児達によるかりゆし太鼓。青年達による棒術)。
パレード終了後16時頃まで宮良村拝所(オーセー)中庭で旗頭、ションク・イルク太鼓、ザイ踊り、目出度節、棒術の披露。16時頃〜18時頃奉納芸能の順で行われた。
 ■ハーリー
船越ハーリー(フナクヤーハーリー)=旧暦5月4日頃の日曜、8:50〜。場所:伊原間の船越漁港。2014年で17回を数える。主催は船越漁港漁友会。
平成11年復活。当初は1隻のみだった。
船越漁港は、石垣島の最もくびれた部分に位置し、太平洋側と東シナ海側までの距離はわずか約200m。「船越」は、昔の海人が天候や風向きに合わせて両海岸を使い分け、その際には船を担いで移動したことに由来している。
船越漁港漁友会と伊原間中学校の全生徒が勇壮に鳴り響くドラの音を先頭に、東の浜から西にある同漁港まで爬龍船を運んだ。これは他の地域にはない、フナクヤーだけの独特のハーリーである。
 続いて、御願ハーリー、部落対抗ハーリー、余興、職域ハーリー、五勇士ハーリー、小中高対抗ハーリー、あがりハーリー、余興(伊原間口説、久高節、モズくん、ソーラン節、エイサー)、腕相撲大会、民謡ショー などがあり、また体験ハーリーもある。最後は閉会式。


白保ハーリー=旧暦5月4日。白保東海岸船着き場。8:00〜13:00。
御願ハーリー(片道250mで往復500mを競漕)、白保中学校部対抗ハーリー(野球部や空手部など参加)、職域ハーリー、白保小学校5・6年ハーリー(小学校高学年のみ参加)、宝探し(65歳以上限定で砂浜に隠された賞品引換券を探すゲーム)、速泳ぎ(船で100m沖合いに出て、岸まで泳ぐ競争)、竿突き競漕(櫂ではなく竿を使って船を漕ぐリレー競漕)、余興(舞踊やアトラクション) などがある。
 【廃村】
盛山=御獄跡の案内板には『盛山村は1771年に八重山諸島を襲った明和大津波の跡、竹富島から石垣島南西端の富崎に移住して出来た富崎村の人々が1785年に桃里村の属地であった盛山に再移住して創建された村である。御嶽とは人々の健康や地域の繁栄などを祈願する聖地の事で、盛山村の人々が信仰した御嶽は、出身地である竹富島の御嶽の神を勧請したとされる。
盛山村創建時の人口記録はないが、風土病やマラリヤや伝染病などにより、明治6年(1873)には戸数9戸、人口17人まで減少している。
明治10年(1877)には、白保・宮良・大浜の3村から23人を補充し、村の維持を図ったが人口減少はやまず、大正6年(1917)には集落が廃された。
この御嶽は、かつてこの地にあった盛山村の歴史を物語る貴重な史跡である。」とある。
 【石垣島まつり】
毎年11/1土日開催。会場は新栄公園(新栄町4)。2013年までは真栄里公園。2014年で50回を数える。主催は石垣島まつり実行委員会。
土曜:(12:00〜)オープニングセレモニー。(13:00〜20:55)ステージイベント
日曜:(11:00〜15:00)市民パレード。新川小学校から石垣市役所まで華やかにパレードし、途中で芸する。
(13:30〜20:55)ステージイベント。花火。
 ■尖閣諸島(せんかくしょとう)
住所は沖縄県石垣市字登野城2390〜2394番地。無人島群で漁船などで近づくことは出来るが、海上保安庁に退去勧告を受ける。
尖閣諸島は、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島の5島と、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬の3岩礁からなる島嶼群。

 尖閣諸島は絶海に浮かぶ小島群であるため、長い間人の手が加えられることはなかったが、19世紀の終わりに日本人の手によって開拓が始まった。
古賀辰四郎は安政3年(1856)、福岡県八女のお茶農家に生まれ、23歳の頃お茶の販売をするために寄留商人として沖縄へ渡っている。その時羽毛の材料となるアホウドリがたくさん生息する島のことを耳にします。沖縄の人達が「ユークンクバシマ」と呼ぶこの島は後に日本人が「尖閣諸島」と呼ぶ島々のことで、古賀は明治17年に実地調査のために尖閣へと向っています。そして翌18年に明治政府に「借用願(開拓許可)」を申請しますが、諸島の帰属がはっきりしないということで願いは却下されている。
 開拓許可がおりたのは、日本が日清戦争に於いて勝利した翌年の明治29年(1896)年のことで、この頃から古賀辰四郎による尖閣諸島の本格的な開拓が始められます(※古賀の開拓開始時期は諸説あり)。魚釣島を中心にカツオ節製造工場や羽毛の加工場、グアノ(肥料の素となるリン)の加工場が作られ、最盛期の明治42年には99戸、248人もの人が暮らしていたと云われる。
 古賀辰四郎は大正7年(1918)に亡くなり後、その子息である古賀善次郎氏は、父の開拓事業を引き継ぎ、とくに魚釣島と南小島でカツオブシ、海鳥の剥製などの製造を行なった。昭和元年(1926)、古賀氏に無料で貸与していたこれらの国有地4島の貸与期限が切れたために、政府はその後1年契約の有料貸与にきりかえたが、1932年、古賀氏がこれら4島の払い下げを申請してきたので、これを有料で払い下げた。
その後、妻が所有し、1970年代に埼玉県内の親交のあった人物に約4600万円で譲渡した。
現在民有地となっている魚釣島、南小島、北小島、久場島の4島を、日本政府(総務省)が年間約3000万円で所有者から借り上げている。
 ちなみに、昭和15年(1940)に工場は閉鎖され、その後尖閣から人影は無くなっている。戦後は米軍の演習場となり立入り禁止となる。
1968年10月12日〜11月29日にかけて日本、中華民国、韓国の海洋専門家が中心となり、国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の基に、東シナ海一帯にわたって海底の学術調査を行った。
そこで尖閣諸島周辺の海底に石油資源が埋蔵されている可能性が指摘されると、中国、台湾はこぞって尖閣諸島の領有権を主張するようになり、以後、日本、中国、台湾がこの小さな島々を挟んで睨み合いを続けている。
 魚釣島
面積は3.822km2。周囲は10km。
石垣市登野城2392番地。かつて鰹節工場があり、最盛期には99戸、248人が生活する集落が形成されていたが1940年事業中止に伴って無人島となった。
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」には10戸あまりの家が写っている。
 ■北小島
面積は0..31km2。周囲は3.1km。
石垣市登野城2391番地。
 ■南小島
面積は0.4km2。周囲は2.6km。
石垣市登野城2390番地。
 ■久場島(くばじま)
面積は0.91km2。周囲は3.5km。
石垣市登野城2393番地。島の南西部にはかつて鰹節工場や、海鳥の羽の加工場があったが、事業中止に伴って無人島となった。
在日米軍により射爆撃場に設定されているが、1978年6月以降使用されていない。
 ■大正島
面積は0.06km2。周囲は1.1km。
石垣市登野城2394番地。国有地。
在日米軍により射爆撃場に設定されているが、1978年6月以降使用されていない。
 ★外部リンクにより尖閣諸島の紹介

 【日本共産党の見解より

近代まで「無主の地」

 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られており、中国の明代や清代の文献に登場する。当時、琉球は中国との間で朝貢貿易をおこなっており、中国の使節である冊封使が琉球国王の代替わりにさいして往来した。琉球と中国大陸の福州とを結ぶ航路のほぼ中間に位置する尖閣諸島は、海路の目標とされていた。しかし、中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録も出ていない。
 一方、日本側にも、この時期について日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。

 日本による領有

  「無主の地」の尖閣諸島を1884年(明治17年)に探検したのは日本人古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85年に同島の貸与願いを申請した。同島でアホウドリの羽毛の採取などが試みられ、周辺の海域で漁業をおこなう漁民の数も増えるなか、沖縄県知事は実地調査をおこなうこととし、尖閣諸島が日本の領土であることを示す国標を建てるべきかどうかについて、政府に上申書を提出する。政府内での検討の結果は、国標を建てて開拓にあたるのは他日の機会に譲る、というものだった(『日本外交文書』第23巻)。
 日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。

 日本の実効支配

 日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫や剥製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。
 1919年には、中国福建省の漁民が魚釣島付近で遭難し、同島に避難した31人を住民が救助し、全員を中国に送還した。この救援活動にたいし、中華民国の長崎駐在領事から、1920年5月20日に感謝状が届けられた。感謝状のなかには、尖閣諸島がはっきりと日本の領土として記述されていた。

 このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。
 1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。

 尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。

外務省の見解

尖閣諸島問題

尖閣諸島の写真と地図集


 竹富町
 竹富島(たけとみじま)
面積は5.42km2。周囲は9.2km。最高地点は24m。人口は341人(2013年)。集落は玻座間村(東集落、西集落)、仲筋集落の3つ。
旗頭 東集落=太陽 「瑞光輝」。西集落=龍 「五風十雨」。仲筋集落 緋鯉 「雙鯉躍」。
種子取祭(タナドゥイタネドリと言われる=国指定重要無形民俗文化財。旧暦9月の甲申(きのえさる)の日から甲午(きのえうま)の日迄10日間もの日程に渡り、毎年催されるが、場合によっては別月の甲申から催行される事もある。最終的には会議によって決められる。 特に7日目、8日目に行われる庚寅(かのえとら)、辛卯(かのとう)の2日間が約70点を超える芸能を披露する
農耕に関する行事であり、種を蒔き、それが無事に育つことを祈願する。現在の竹富島では農業を行っていないが、古来の儀式を継承している。
世持御嶽で狂言や舞踊など80余りの伝統芸能、棒術・太鼓・マミドーマ・ジッチュ・棒などの庭の芸能と弥勒・しきた盆・ ザンクルロ・鍛冶工主・種子蒔狂言など舞台芸能が神々に奉納される。
7日目:玻座間村の奉納
6:00頃:神司(神女)たちは玻座間御嶽の神前にて祈願。東隣りの弥勒奉安殿では、古老や公民館長たちによる弥勒神への祈願が始まる
7:00頃:神司たちと島の役員たちは、世持御嶽で合流して礼拝する。つづいて、世持御嶽の神前に設置された奉納芸能舞台で歓待の儀式を行うが、神司は参加しない。
歓待の儀式は、小笠原流の礼法で行われていると伝えられるもので、かつては島の長老たちが祭り士族たちを歓待するものであったと思われる 。
8:00頃:歓待の儀式に参加した人々は、神司を先頭に公民館長を補佐する主事宅に参る。それを参詣というが、その行事は夜に行う世迎いとまったく同じやり方であり、その参詣の行事はかつては士族宅の訪問であった。
9:30頃:参詣の集団が、種子取祭の催事場である世持御嶽に戻り、そこで世迎いの「巻き歌」を謡う。つづいて、庭の芸能が繰り広げられる。庭の芸能は、ゾーラッキ(行列)と称されているように、数十名の人々が隊列を組んで演じる 。

11:00頃〜:特設の舞台の上で、玻座間村の芸能が奉納される。
18:00頃〜:玻座間村の舞台の芸能が終了し神前にてイバンの儀式を行う。イバンとは9年母の葉の事でそれを頂いた者は夜を徹した世迎いから抜けることはできない。
19:00頃〜翌朝3:00頃:ユークイ。戊子の日に種子取を始めた根原金殿の子孫宅である根原家で世迎いを始める。 根原家での世迎い終了後、玻座間村(玻座間村は東集落と西集落の2手に分かれる)と仲筋村の3つの集団に別れ各家々を廻る世迎いを行う。

■8日目:仲筋村の奉納
6:00頃:三方に分かれたユークイの集団が再び根原家に集合する。そこで最後のユークイを済ませ世持御嶽に戻り、イバン返還の儀式を行う。
7:00頃:世持御嶽で、前日と同じ儀式を行う。その歓待の儀式に引きつづき、仲筋村のシドゥリャニ(「あう爺狂言」「御主前狂言」ともいう)を奉納する。
8:00頃:主事宅への参詣。
9:30頃:庭の芸能を奉納する。
11:00頃〜17時頃:特設の舞台の上での奉納芸能。当日は仲筋村の芸能が中心。
竹富島結願祭=明治8年に豊作祈願が叶った感謝として始まったとされる。
 神司(カンツカサ)による夜籠りの後、1早朝から島造りの神とされる清明御獄(シンミウタキ)を中心に島内22ヶ所の御獄に参拝し、午後は清明御獄の境内の舞台で芸能が奉納される。
 長老に扮した4人が厳かに結願祭の口上を述べる「始番狂言(シバンキョンギン)」、「芋堀狂言(ンーフリキョンギン)」が竹富島の方言で演じられ、赤馬節、松にゃーま、竹富ガンギ、大原越路、マサカイ節など数多くの舞踊が奉納される。
 小浜島(こはまじま)
面積は7.84km2。周囲は16.6km。最高標高は99m(大岳[うぶたき])。人口は585人、353世帯(2013年)。集落は島の中央にある小浜集落と漁港を中心の細崎の2つがある。
小浜島には、5か所の御嶽がある。
小浜島結願祭=国指定重要無形民俗文化財。旧暦8月〜9月の己亥、庚子、辛丑(連続する3日間)に開催されることが多い。(新暦の9月中旬〜10月中旬頃)。
明治初期に「節」と「結願」の元々2つの行事が1つになったといわれる。
その年の豊作を感謝し、翌年の五穀豊穣を願い行われる。ミロクや福禄寿、年によってはここでしか見ることの出来ないダートゥーダーも登場し、秘祭である豊年祭に次ぐ小浜島の一大行事となっている。
奉納芸能は2日目庚子の日に行われる。会場は嘉保根御嶽(かぼねうたき)。ただし雨天や地面が濡れている年は小浜小中学校の体育館。

8時半頃〜16時頃。ダートゥーダーが行われる年は17時過ぎまで延長される。
朝9時頃より獅子舞。続いて棒術。10時半頃より南北両組の総見せ(座回り)が始まる。まずはミロクを初めとする北組、続いて福禄寿を中心とする南組が入場し、獅子舞などその日の参加者一同を従え舞台を一周する。両組による総見せが終了した後、11時頃〜16時頃までは北と南が交互に芸能の奉納を繰り返し、舞台芸能、ダートゥーダー、ジュンギン(五穀豊穣の神が作物の種子などを授ける様子を演じた小浜独特の狂言)、作方狂言(農家の姿をユーモラスに演じる)などが行われる。
ダートゥーダーは小浜島でしか見ることの出来ない演目で、平成13年の結願祭で70年ぶりに復活し、翌14年も演じられたが毎年は演じられない。
ミロク・福禄寿は午前中のみ会場内におり、午後は現れない。
小浜島の旧盆(ソーラ)=国指定重要無形文化財。旧暦7月13日〜17日。
 旧暦7月15日、南、北の2組が集落内の家々を廻る。早い時間帯には子供たちも参加し、仏壇のある家々を回る。
南北それぞれの集団が一軒あたり40分程度滞在したのち次の家へと向かう。
 22時過ぎ、南北ともいったん解散し小休止となる。
 午前0時、日付が変わり、これまで白色であった鉢巻きが一斉に赤色へ変わり、行事の目的も先祖供養から現世の健康祈願へと変化する。
南北それぞれの集団は再び集落内の家々を回り、夜明けまで宴を繰りひろげる。
 朝4時を過ぎ日が昇る頃になると、訪れた先の家がすでに眠りについていることもあるが、集団は笛と三線を奏で続ける。中には戸を閉めて眠りについているものの、ご先祖様が楽しめるよう、仏壇の部分だけ雨戸を開けている家もある。時間が経つにつれ参加者が少なくなるが、5時頃から化粧をした男性達が再び加わりだし、小浜公民館近くの民家で中道の儀式に向け練習を行う。
 6時30分、それまで別々に行動していた南組と北組が小浜公民館前に集合し、メイン行事である中道の儀式がはじまる。
中道の儀式・ミンマンブンドゥルでは、頭巾をかぶり化粧をした人たちが輪になって踊る。
細崎ハーリー祭=旧暦5月4日。細崎漁港。9:00〜13:30。
細崎(くばさき)集落は明治43年頃に沖縄本島の糸満の漁師の方々が移住して形成した集落。その糸満のハーリーを再現した。
小浜島はカツオの餌となる稚魚が沢山取れたので、その稚魚目当てまた、漁の中継地点(休憩したり、修理したり)の地点として活用された。
 2012年は
御願(8:30〜)、御願ハーリー(9:00〜)、婦人ハーリー・アトラクション(小浜保育所)(9:25〜)、職域ハーリー(9:40〜)、アトラクション(小浜小学校)(10:15〜)、職域ハーリー決勝戦(11:20〜)、アトラクション(小浜中学校)(11:30〜)、あがいハーリー(11:40〜)、御願(11:55〜)、懇親会(12:00〜)、終了(13:30)
 嘉弥真島(かやまじま)
面積は0.39km2。周囲は2.4km。人口は2人、1世帯(2012年)小浜島の北側に位置しており、地番は小浜3401番。
遺跡はあり、また観光ホテル「ホテルミヤヒラ」が島を丸ごと所有している(同ホテルでは「嘉弥真島」ではなく「カヤマ島」と表記)。島の南西側海岸にレストハウスがあり、従業員が通っている。
野生化したウサギが約1000匹も住みついているため、地元では“ウサギの島”とも呼ばれ、夏場には日帰りの海水浴客たちが多くやってくる穴場のビーチスポット。
 黒島(くろしま)
面積は10.02km2。周囲は12.6km。最高地点は15m。人口は201人、世帯数118(2013年)。東筋、仲本、宮里、保里、伊古の5集落がある。
旧正月行事=旧暦1月1日(新暦1月下旬〜2月中旬頃)。黒島の東筋と仲本の2集落で行われる。
東筋は例年14時から開催。正月ユンタと呼ばれる歌を南北に分かれて交互に歌い、棒術などが披露。その後、住民や観光客らも参加して、豊作や豊漁、無病息災を祈願する綱引きが行われる。
仲本は昼間開催の年もあれば夜間開催の年もあり、一定していない。東筋のほうが規模が大きいが、どちらも行事は開始後1時間程度で終わる。

他の集落では豊年祭で行われることの多い、綱引きやツナヌミンが行事の中心となっている。沖縄では正月を旧暦で祝う地域も多いが、八重山で旧正月に行事を行うのは黒島のみである。
黒島豊年祭=7月最終日曜。(旧暦の配置または潮の干満等の理由により、その前後の日曜日に開催されることもある)。
10:30〜14:30。宮里海岸で行われる。
 10時30分に朝漕いの儀式で行事が始まり、午前のハーリー(島の南側にある宮里と仲本地区の対抗)で木造船2隻の爬龍船[小櫂16丁・大櫂1丁・竿・子供3人]による競漕。
宮里海岸を一周する。その後ウーニー(選ばれた足の速い青年)が陸へ上がり長老の元へ走り、先に到着したほうが勝ちになる。
 午前のハーリー終了後に奉納芸能が始まり、初めにミルクの神様が来訪する。海辺でミルク様が舞う島は黒島だけである。

続いて黒島各集落による奉納芸能が行われ、笠踊り、鎌踊りなどの芸能が集落毎に演じられる。
黒島豊年祭の奉納芸能の中で、他の島では見られない演目にハディクマイがある。これはいわばナンパの踊りで、黒い頭巾で顔を隠した女性を男達が面白おかしく誘い出し、どこかへと消えていく踊りである。
奉納芸能の最後は、青年会による棒術で締めくくられる。足元が安定しない砂浜での演舞であるが、勇壮で型も決まっている。
 奉納芸能が終わると午後のハーリー(北側にある東筋と保里地区の対抗)があり、午前と同じ要領で競争が繰り広げられる。
ハーリー終了後、漕ぎ手と女性達が旗頭を囲み巻き踊りを踊る。
ハーリー船を陸上に担ぎ上げる世揚げが行われ、万歳三唱で14時半過ぎに全ての行事が終了する。
東筋結願祭=10月。比江地御嶽で開催(雨天は黒島伝統芸能館)。棒術、「初番」(すばん)では「チクドゥン」などの狂言や、「高那節」「桃里節」など舞踊が奉納された後、ミルクが五穀の種子を授けた。
 そのほか、郷友会や黒島小中学校児童生徒による舞踊が披露される。
 新城島(あらぐすくじま)
上地島と下地島よりなる。上地島の面積は1.76km2。周囲は6.2km。下地島の面積は1.55km2。周囲は4.8km。
人口は上地島10人、屋敷は26軒:下地島3人(2012年)。最高地点は13m。

 成宗8年(1477)に朝鮮の済州島の漂流民3人が与那国島の島民に救助された時に、波照間島の次に「勃乃伊島」に護送されたとあり、これが新城島の事とみられる。その当時、民家は40戸余で、男女ともに青い玉を腕輪や足輪としていた。また、キビやアワ、麦が栽培されていたが、米は西表島で入手していたそうです。水田がなかったため、島民は西表島の南風見村に船で通って耕作を行なっていました。
第二次世界大戦の沖縄戦では新城島民は大原集落への疎開を命じられたが、同地でマラリアにかかる者が多発し、昭和20年(1945)には島の人口255人中、24人が死亡した。
 下地島は昭和38年(1963)に無人島となるが、全島がパナリ牧場の私有地となり定住者は2人らしい。
豊年祭=日程も直前まで決定しないし公表もしていない。大体旧暦6月吉日(7月中旬3日間)。
住民は行事の一切を語らない秘祭として知られており、撮影・録音・書くもの等禁止、基本的は出身者のみで行われる。
祭りには石垣や沖縄本島、本土に散らばった島出身者が帰ってくるが、豊年祭が開催される時期(前後の準備期間を含む)は、祭関係者以外の上地島への入島・桟橋への接近接岸・海岸への接近・接岸は、住民に拒否されている。また島唯一の宿泊施設である新城島民宿も観光客に対しては休業する。

ニロー神の祭(アカマタ・クリマタ)、獅子舞が出るという。

旧盆=旧暦7月13日〜15日。アンガマ踊り。仮装した後世からの使者が家々に招かれて踊りや後世の珍問珍答で祖霊供養する。

結願祭=旧暦8月吉日。(新暦10月)。一年間の儀礼を締めくくる行事。ミルク練行列、舞踊、獅子舞。


節祭=旧暦8月吉日。神の国の正月行事。3日間にわたり、無病息災、五穀豊穣などを祈願する。
上地島の桟橋のすぐ横の浜辺で、渦巻き状に円を描き、 歌いながら踊る「巻き踊り」や ハーリー、ミルク(神)、巻き踊り等、深夜遅くまで各戸を廻って、来年の豊作と無病息災を祈願する。
ハーリーの木造船の爬龍船は小学校跡地に保管されている、
ほとんどの方が石垣島や西表島などで生活をしているが、行事が近づくと、たくさんの人々が島へもどって来られ、集落や家の掃除、祭りの準備などを行い、祭りの日を迎える。
 西表島(いりおもてじま)
面積は289.27km2。周囲は130km。最高地点は470m(古見岳)。人口は2300人(2013年)。
東部地区には6つの集落(大原、豊原、大富、古見、美原、高那)がある、西部地区には9つの集落(船浦、上原、中野、住吉、浦内、干立、祖納、白浜、船浮)がある。
ちなみに干立・祖納・船浮は古くから続く集落。中野・白浜は炭鉱町。住吉・大原・大富・豊原は戦後の入植で出来た集落。
 また網取・崎山・鹿川・浦内川流域・内離島にも集落はあったが現在は廃村となっている。
デンサー祭り=6/3土曜、デンサ節之碑広場開催。道踊り、ミルク行列、デンサー音頭、マミドーマ、エイサー、デンサー節披露、舞踊、余興  など。
西表島節祭=国指定重要無形文化財。西表島祖納・干立地区伝わる伝統行事。旧暦9月(新暦の9月〜11月)の己亥、庚子、辛丑の日に開催されることが多い。
節祭とは季節の折目や年の折目を意味し、農作業上の年度変わり、正月儀礼の祭であり、その年の豊作感謝と来年の五穀豊穣、健康と繁栄を祈願する祭りである。
奉納芸能は2日目庚子の日に行われ、祖納は前泊浜で、干立は前の浜で世乞い(ユークイ、五穀豊穣をもたらす神を迎える神事)を行う。旗頭を立て、船漕ぎや棒術・獅子舞・ミルク行列・舞踊などの様々な催し物が披露され、神々への豊年祈願を行う。
他島の豊年祭でも見られるミルクのみではなく、ここでしか見られないオホホやフチダミなども現れる。オホホは干立、フチダミは祖納のみに現れる。フチダミ、祖納のミルク様は1日中見ることができるが、オホホ、干立のミルク様は奉納芸能の最中に15分程度だけ現れる。
大原夏祭り=8月第1土曜開催。旧暦行事との兼ね合いにより、一週間前後の土曜日に行われることもある。2010年で32回を数える。
他集落でいう豊年祭にあたるが、イベント色が強くあえて豊年祭とは名乗らない。新城島結願祭でも演じられる伝統芸能や、ゲストライブ、花火などを、よりオープンな雰囲気の中で楽しめる。

 ■第一部
 17時頃より、集落内をミルク様や旗頭が巡回。大原神社での旗頭の奉納。祭りがあえて豊年祭を名乗らないのと同様、ここも「御嶽」ではなく「神社」とのことだ。これは、大原が昭和に入ってから開拓された新しい集落であり、祭りや神社も、伝統に根ざした神事というよりは、移民達の結束を高めるため、楽しむためのものであるからとのことだ。
 17時半過ぎ、集落内を回り終えた旗頭・ミルク様が会場入りする。
婦人会による大原音頭の踊り。
一番狂言。大原は新城島からの移民により開拓された集落であり、この演目は新城島の結願祭で演じられるものと全く同じ。
創作壮年太鼓。このほかにも御前風・大原口節などの舞踊、小中学生による空手演舞などがステージ上で行われる。
二番狂言。こちらも新城島郷友会による演目である。
獅子舞。旗頭をバックに、獅子舞を盛り上げる鉦と太鼓。獅子にかまれ、泣き叫ぶ子供。これで第一部が終了。
 ■第二部
大原出身の高校生による舞踊高那節。
20時半よろゲストライブ。ゲストライブ終了後、参加者全員による巻き踊り。21時15分頃に海上花火。
21時半頃、万歳三唱で祭り終了。
古見豊年祭(アカマタ)=一定の年齢に達した村びと(または出身者)で構成された祭祀集団が行う。祭祀の内容等については当事者以外には知らされず、秘祭のアカマタという豊年祭がある。
よそ者が見ることも、撮影することも禁じられている。またその内容を他人に話すことも禁じられているので、秘儀の祭である。古見においては、クロ・シロ・アカの3神が出現する。
高那一定の年齢に達した村びと(または出身者)で構成された祭祀集団が行う。祭祀の内容等については当事者以外には知らされず、秘祭だったが、明治39年(1906)マラリアのために廃村となり今は行われていない。枝村に野原(のばる)もあり。2011年、人口は15人で集落は形成されておらず、昔のつながりは無い。
干立豊年祭(プーリー)=.旗頭、太鼓、練り行列、子供みこし乱入。巻き踊りの奉納を行い大綱引きをする。
祖納豊年祭=旗頭、太鼓、練り行列、巻き踊りの奉納を行い大綱引きをする。最後は仲良田節で歌い納め。
船浮豊年祭=7月中旬から8月上旬の間。日曜日に行われることが多い。
13時に始まり、まずは豊年祭の歌(仲良田節や祝いの歌)が奉納。この歌の奉納は「豊年祭の歌」として式目の1つになっており、祠の前で参加者が輪になって歌ったり、神司が手に太鼓を持って踊ったりと、他の集落には無い特徴がある。豊年祭の歌に続き、青年達による棒術が行われる。棒術では、他の集落でも見られるオーソドックスな演舞のほか、五人の若者が一斉に闘う五人棒なども行われる。
棒術終了後は獅子舞がある。他の獅子舞では若い男性が獅子を操るが、船浮ではお婆さん達が踊りながら操る。
御嶽での行事の最後は、お婆さん達によるガーリで締めくくられる。豊年祭の歌、獅子舞と、終始踊り続けるお婆さん達は非常に印象的である。
御嶽での行事が終わり、退場する神司を参列者一同で見送る。他の豊年祭ではあまり見かけない光景だが、式目の一つにもなっている。
 神司退場後、公民館前に会場を移し綱引きが行われる。まずは五穀の種子授けの儀が行われ、来年の五穀豊穣が約束される。この儀式は他でも行われるが、船浮では子供達だけで行われるところに特徴がある。
五穀の儀に続き綱引きが行われ、全ての行事が終了する。
船浮節祭=船浮。旧暦9月巳亥の日。棒術、獅子舞、余興など。ハーリーは木造船2隻の爬龍船による競漕。小櫂10丁・大櫂1丁・囃の子供。
白浜海神祭(白浜ハーリー)=旧暦5月4日、9:00〜。場所:白浜港新桟橋。木造船4隻の爬龍船による競漕。小櫂10丁・大櫂1丁(船頭)。
御願ハーリー、東西対抗ハーリー、職域対抗ハーリー、婦人対抗ハーリー、公民館対抗ハーリー。海上収穫祭。表彰式後の祝賀会(12:00〜)では、舞踊、子供たちの踊りが披露される。
 【廃村】
宇多良=
近代設備(マラリア対策)と娯楽施設(映画館)があって沖縄県下最大の炭鉱だった。住人は1000人ほど。
1941年に太平洋戦争が始まり、石炭の需要が高まると労働条件は過酷な状態に戻り、労働者の軍隊への招集や石炭輸送の寸断などによって1943年頃には休止状態になった。
さらに空襲によって施設の大半が破壊されてしまった。

元成屋=炭鉱集落。終戦頃廃村。

稲葉昭和35年頃には15戸程度の家があった。
昭和43年水害。当時4戸。罹災をきっかけに転出が相次ぎ、昭和44年には最後の1軒も浦内へと転出

崎山『崎山節のふるさと』によると、
宝暦5年(1755)年創立。波照間島から280人、網取から62人、鹿川から92人、祖納から10人(計459人)が強制移住、開拓に従事。
創立時の役人、崎山氏が自分の姓から命名したことが地名の由来か?
当所は現在の集落跡の西部(ヌバン(野浜)とよばれる)に村を作ったが、風や波が強い、交通の便が悪い、舟を引き入れる場所がないといった理由で、現在地に移転
宝暦11年282人、明治6年64人、昭和17年38人、昭和20年25人、昭和23年廃村。直前には3世帯。
男は稲作を中心とする農業、女は機織りと畑作り。野菜は白浜や炭坑に、舟を漕いで売りに行った


網取(あんとぅり)海岸には「あんとぅり」と刻まれた「網取村跡の碑」(平成8年、うるち会による建立)が建っており、集落の様子や離村の状況を綴っている。以下はその全文。
 『網取村は西表島の最南端に三百余年の歩みを残した。耕地や交通の不便と人頭税の重圧に耐えて村人は父祖の築いた繁栄を守ってきた。しかし、政治の貧困による経済の行きづまりと医療、教育の不備を始めとする孤島苦がつのり、ついに昭和四十六年七月十四日に全員離村を余儀なくされた。ここに私たちは全体の祖先の霊を祀り、四散した村人のよりどころとするためこの碑を建てる。』
町のHPには「昭和46年7月4日、網取部落廃村。(9世帯、人口20人は集団で石垣島や沖縄本島へ移住)」とある。
現在は網取小中学校跡に東海大学沖縄地域研究センターが建ち、集落全体が同大学の所有地。


鹿川(かのかわ)=1901年廃村、多くの人が崎山や網取へ移住した。
 ■仲の神島(なかのかみしま)
面積は0.15km2。周囲は1.26km。無人島。地番は字崎山の一部。
西表島の西南約15kmにある細長い形の島で地元ではオガンと呼ばれる。

周辺の海に魚が多いため昔から海鳥の繁殖地として知られている。島の周囲は崖で、内陸部は草地になっている。セグロアジサシやオオミズナギドリ、クロアジサシ、カツオドリ、エリグロアジサシ、ベニアジサシなどが見られ、種類によって島にやってくる時期や巣を作る場所が異なっている。
 外離島(そとぱなりじま)
面積は1.32km2。周囲は5.3km。人口は1人。住民登録はされていない(2012年)。
戦後の一時期炭鉱が開かれたが、その後炭鉱は廃れ、静かな無人島に戻る。平成10年頃には黒真珠の加工場が作られましたが、今ではその作業場も朽ちるままになっている。
 内離島(うちぱなりじま)
面積は2.1km2。周囲は?km。無人島。西表島・白浜から700mほどの距離にあり、また潮が引くと外離島との間は砂嘴で繋がり、歩いて渡れるようになる。
享保14年(1729)対岸の西表島の元成屋崎から人々が移住して南部に南風坂(はいさか)と呼ぶ集落を作るも廃村となる。

明治19年、三井物産が内離島全島を借地し、炭鉱経営に乗り出して以降、成屋一帯は炭鉱村と化すが、劣悪な環境やマラリアの被害に苦しめられ、何度も撤退する。
 労働者は最初は囚人等が集められたが、採掘も本格的になると県外や台湾、中国などからも労働者が騙し同然に連れてこられ、「納屋制度」と呼ばれる仕組みの中で借金を負わされ、賃金を搾取され、いわゆる「タコ部屋労働」の下に強制労働を強いられ、過労で、マラリアで、落盤事故で多くの人が倒れていった。また最盛期には1000人近くの人が住んでいたと云われる。
 その後、太平洋戦争による人手不足と物資不足で炭鉱も休止状態になり、そして戦後の復興で炭鉱も再開するが、採算が取れずに次第に廃れていき内離島の人口も減少し、昭和57年に無人島になる。
 鳩間島(はとまじま)
面積は0.96km2。周囲は3.9km。最高地点は34m。人口は67人(2013年)。集落は東と西がある。
豊年祭=旧暦6月(新暦7月中旬〜8月上旬)の3日間。近年までは癸を中心とする3日間連続で行われていたが、最近ではその前後の土曜、日曜に行われることが多い。
子孫繁栄の神カムラーマが登場し、船漕ぎ神事や綱引きが行われる。

 ■1日目(ユドゥーシ[夜こもり])
21時頃から翌朝5時頃まで、友利御嶽で神に祈りを捧げる。厳粛な神事・祈願中心で見学自体が禁止されることもある。

 ■2日目(トーピン)
11時頃から島内5つある御嶽ごとに祈願を
行ったあと、クバの葉を頭に巻いた氏子らが友利御嶽に集合し巻踊りを奉納。「みちうた」を歌いながら桟敷まで行列。
民宿いだふに前のサンシキ広場にてミルク行進、カムラーマ(鳩間島独自。黄色い衣装をつけた子供が踊る)、各種芸能(踊り、棒術、太鼓、民謡 など)が奉納される。14:30に終了。
港でハーリーが東西2組の船により競漕が行われ、先に帰着し神司の杯を受けた組が勝利者となる。
豊年祭でハーリーが行われるのは、八重山では鳩間島と黒島のみで、これは鳩間島が黒島からの移民により拓かれた島であることに起因するらしい。
木造船2隻の爬龍船による競漕。小櫂9丁・大櫂2丁(船頭と前船頭)である。
浜では、ガーラ(応援)が賑やか。

 ■3日目(シナピキヌヒン)
12時半頃よりサンシキ広場でツナヌミンの儀式(高板に乗った東から神、そして西から農民が入場する)、大綱引きが行われ、最後はみんなでカチャーシュー。
2本の旗頭(西=赤色。瑞穂:東=青色。祈豊)が島内の要所を回る。

公民館に帰り行事は終了。
結願祭旧暦の9月壬の頃の吉日。島の方言で「キチゴン」と呼ぶ。
初日(ユードゥーシ)は、豊年祭と同じように友利御嶽で夜を徹しての祈願が行なわれる。
2日目(トービン)は友利御嶽の拝殿の前に設けられた舞台で歌や踊りなどの芸能が奉納される。
 由布島(ゆぶしま)
面積は0.15km2。周囲は2.0km。人口は4人、4世帯(2012年)。水牛車乗り場(西表島美原)から水牛車→由布島(干潮時徒歩でも渡れる)。
東側の古見地区は17世紀の後半には集落が作られていたようだが、明和の大津波(1771年)で壊滅的な被害を受けたと思われる。いつの頃からか由布島には御嶽(おたき)が置かれ、そこでは雨乞いの儀式が行われた。戦後の昭和22年(1947)に竹富島や黒島からの入植により集落が作られた。昭和23年には小学校も作られ、一時期は人口が100人になった。しかし、昭和44年の台風で多くの死者を出し、甚大な被害を被ったことで、ほとんどの島民は西表島(美原)へ移住した。
 波照間島(はてるまじま)
面積は12.77km2。周囲は14.8km。最高地点は60m。人口は527人(2013年)。
集落は島の中央に北、南、前、名石(ないし)、富嘉(ふか)の5つ。
ムシャーマ=旧暦7月14日(旧暦のお盆中の日)。9時〜17時頃まで。
先祖を供養し、豊作と安全を祈願して行われる島最大の祭り。
波照間島の言葉で面白いことを「ムッサハー」というがこれが転じて「ムシャーマ」になったともいわれる。
各集落から「ミチサネー」と呼ばれる仮装行列で、大旗とミルクをを先頭に公民館に向かい、全てが揃ったところで太鼓や棒、狂言や舞踊、獅子舞など多彩な芸能が奉納される。
9時に行きのミチサネー。10時頃棒術・太鼓。11時半頃ニンブチャー、昼休みの後13時半より舞台芸能、16時頃獅子舞、16時半頃帰りのミチサネーが行われる。
波照間島の節祭(シィシィン)=9月の戊戌(つちのえ・いぬ)または己亥(つちのと・い)から4日間行われる。その間、畑地を耕してならず、畑仕事は休む。
 ■初日
その家が所属している御嶽の聖なる井戸から汲んだ水でブザシィケー(床の間)の用具を洗い、花入れに新しいススキの葉をいける。香炉には新しい灰を入れるなど、徹底した掃除が施され洗い磨かれる。「新たに生まれ変わった」ことを確かめる。
 ■2日目
ミザーミルピィン(水浴びる日)で、大人も子供も御嶽の井戸から汲んだ聖なるバガミジィ(若水)で体を洗い、家をきれいに掃き清め、イバツ(おにぎり)三個をブザシィケー(床の間)の飾り、祖先にお供えしてから食べる。
 ■3日目
 三日目は祝祭のクライマックスでユーニゲー(世願い)と称され、舟漕ぎの行事がある。三隻の舟が参加し、それぞれ旗持ちの保多盛(冨嘉)、親盛(前、名石)東迎(北、南)に指揮された漕ぎ手が乗り込む。漕ぎ手は(15〜50歳)フダニンの中から選ばれ、ブナバリという所から取った、海浜の植物(カヤブルマミ)を持って御嶽に持参。そして、それを頭や腰に巻きつけ、さらにスパー(鉢巻)を締め、舟の艫とオモテにもつける。
 漕ぎ手はシィシィンを行う浜に集まり、簡単な儀式をした後、舟を海に浮かべ、浜と沖との間を9回の往復をする。その後、イナマの浜まで漕いで行く。浜の小高い丘ではイナマの神司の指示のもと、島の役員らがすでに集まっていて、三隻の舟の競漕を見守っている。ここでも再度、決まった海点までの往復を9回繰り返す。想定されているのは海の向こうからユー(祝福)を持ち帰ることである。 
 さてハーリーはかつては5地区の対抗で競漕が行われたが、その後動力船となるが、平成23年9月昔ながらのサバニが新たに進水した。
 ■4日目
「デー」と称して、各家庭でイバツを三個お供えして祈願する

祖納地区「田原」「でいご」「なんた」「」「しまなか」の5つの子ども会があり
 与那国町
 与那国島(よなぐにじま)
面積は28.84km2。周囲は28.6km。最高地点は231m(宇良部岳)。人口は1555人、794世帯(2013年)。日本列島最西端。
北部に祖納(そない)、西部に久部良(くぶら)、南部に比川(ひがわ)の3つの集落がある。
祖納 十山神社 旧暦6月以降の丙午。 豊年祭 日本最西端に位置する神社
十山御嶽(とやまうがん)とも称し、島にある12箇所のお嶽の総本山と称され、神道と八重山諸島の御嶽信仰が結び付いた独特の様式を伝えている。
祖納豊年祭=祖納は東、西、嶋仲の三つの公民館からなっており、それらが合同で豊年祭が行われる。旧暦6月以降の丙午。
 初日、18時、集落内にある十山御嶽横で三公民館の旗頭のガッサイが始まる。旗頭は潮が満ちていく時間に合わせて出し、十山御嶽に奉納される。旗頭をあげる男性のそばで、リズムをとって女性たちが舞う。
 二日目、6時に、十山御嶽で今年の豊年の感謝をし、来年の豊年のニガイ(祈願)がはじまる。供物のお膳は13揃い用意される。一年間の祭事の願を解き、お膳は13回新しいものに変え、その度ニガイが行われる。
朝9時、みこしパレードが町役場を出発し、1時間ほどかけ町内を練り歩く。みこしには本土風のご神体ではなく米俵が乗っているが、スタイル的には本土のまつりそのものであり、八重山では珍しい。
各子供会「田原、でいご、なんた、ティンダ、しまなか」、役場、JAなど8つの神輿が集落内を練り歩き、町内パレード終了後、十山御嶽に神輿が奉納される。
2年に一度、西暦奇数年はみこしパレード後に大綱引きが行われる。大綱引きは東は東・比川集落、西は西・島仲集落の東西に分かれて大綱引きが役場前の大通りナガミティを境にして行われる。
70mの大綱を東西で引き、東が勝てば豊作、西が勝てば豊漁と言われている。
 14時、十山御嶽での奉納芸能がスタートする。まずは座開きが行われ、与那国島独特のンヌン(太鼓)により場が盛り上げられる。
奉納舞踊は東・西・嶋仲の3組により行われるが、各組とも棒踊り関係の演目が多数行われる。座開きでは棒踊りの出演者一堂により、スナイという顔見せ行事が行われる。
豊年祭の奉納芸能は、棒踊り関係の演目が非常に多い。中でも長刀を用いたティンパイという演目は、大変見ごたえがある。また、演者達が舞台上を飛び跳ねるンビチ棒もある。
 17時過ぎに各組の奉納舞踊が終了し、参加者達は自分たちの地区へ帰っていく。帰路の途中にも、与那国独特の輪になって太鼓を叩く踊りや旗頭の奉納が各所で行われる。
 日没と同時に、十山御嶽ではドゥンタが始まる。ドゥンタとは与那国島にしか見られない特徴的な行事で、一言で言えばファイアーストームであり、焚き火の回りを太鼓や踊りの参加者達が輪になって踊る。30分程の踊りをもって、この年の豊年祭行事が全て終了する。
 ≪旗頭≫
嶋仲自治公民館=旗字は「沛然下雨、嶋仲」
西自冶公民館=旗字は「吉兆、豊穣」
東自治公民館=旗字は「東作、平秩」
比川自治公民館=旗字は「温故知新」
久部良自治公民館=旗字は「大漁、雄飛」
クブラマチリ=「与那国島の祭事の芸能」よると、旧暦10月以降の庚申(かのえ・さる)の日、クブラマチリトゥニ(邑根)で行われる。
久部良自治公民館が主催だが、古くは比川・後間(こしま)家の祭事だった。
島に外敵が度々襲来し、食料や家畜などを略奪し、婦女子に暴行を加えるなどの横暴をはたらいた。
外敵の災難に困った島民達は、大きな草履をつくり海に流して、島に強大な巨人がいるように見せかけた。
以後、外敵による災難がなくなったという。この言伝えにより、往時、クブラマチリでは、大草履をつくって海に流して、外敵を防ぎ、異国人・大国人(海賊)の襲来なきよう島の平穏安泰を祈願する。
与那国町海神祭爬龍船競漕大会(島久部良ハーリー)=旧暦5月4日。久部良漁港。8:30〜。主催は久部良自治公民館。
北・中・南の3組対抗御願バーリー、中学生ハーリー、転覆バーリー、上りハーリーなどの競漕がある。
久部良 金毘羅神社 旧10/10 奉納相撲
金毘羅祭=旧暦10月10日、久部良のナーマ浜で行われる。
久部良は明治末から大正にかけて、糸満、久高島やら、四国、九州からの漁民が集まって出来た集落。
その中に、当時、東洋一といわれた鰹節工場を建てた宮崎県出身の発田貞彦がいた。
この発田貞彦が海上安全の守り神として信仰される四国の金刀比羅宮を勧請したのが始まり。
 当日は漁獲高の発表があり、その後は奉納相撲。後は公民館で祝賀会。

海神祭(ドゥガヌヒ)=久部良。旧暦5月4日。久部良の北・中・南の3組対抗の木造船3隻の爬龍船[小櫂10丁・大櫂1丁]による競漕。
ウガンハーリー(御願ハーリー)転覆ハーリーの競漕がおこなわれその他にも島内の集落全体の競漕なども行われる。漁民最大の行事。

 ■祖納地崎
面積は約0.02km2。祖納集落の北方にある小島。1975年に祖納港の整備で防波堤他の港湾設備が設けられるとともに、祖納との間に県道217号線与那国港線が建設され波多橋(ナンタ橋)で結ばれた。

 ★展示場
 【石垣市立八重山博物館】公式HPへ
石垣市登野城4−1。рO980−82−4712。9:00〜16:30(閉館17:00)。定休日は月曜、祝日、6月23日(月曜が祝日の場合は翌日も休、燻蒸・展示替え、年末年始。入場料は大人200円。。
1972年開館。
八重山の焼物であるパナリ焼やお祭りにつかう旗頭、人頭税時代の資料など、八重山諸島の貴重な考古、歴史資料、美術工芸品、民具、農耕具、漁具などを多数展示。
 【黒島ビジターセンター】
竹富町黒島1。рO980−85−4119。入場は無料。
薩摩藩の支配下時代に置かれた番所(役所)跡に建てられている。昔の農耕具や民具、生活用品、「豊年祭」で使うハーリー船などの展示、昔の生活様式などをスライドを使って紹介しており、黒島の歴史や生活を詳しく知ることができる。