蜂蜜色の想いを抱えて… … 泉 香 … |
決まった人がいます。 幼なじみで家も隣のその人は、幼い頃からずっと隣にいました。 中学の3年間、私の家族は画家である父親についてとある土地に引っ越す事になって、彼とは違う中学に通う事になりました。 離れたくないと泣く十二歳の少年に向かって、十二歳の私は言いました。 「泣かないで。3年たったらきっとまた戻ってくるから。そうしたら、また同じ学校に行 こうね」 「ホントだね?約束だよ。手紙書くからね、会いに行くね。大好きだよ。いつかきっと、お嫁さんになってね」 泣き虫で調子がよくって素直なその少年は私を抱きしめて、背伸びをしてキスをした。 ませた子ねって、母が隣で苦笑したのを覚えています。 休み時間の教室は、心地よく騒がしい。 同じ制服の群れ、同じトーンの声、無意味な会話。 まるで、水槽の中にいるみたい。 まどろみに身をまかせていた私は、聞き慣れた声に振り返った。 「沙姫〜、次の古文どこからだっけ?」 笹谷 竜。少し長めの、さらさらとした黒い髪。まんまるの子犬の瞳。 十二歳の少年は、3年たって十五歳になって(当たり前だけど)、約束通り同じ学校に通っている。 私より小さかった背はすくすくと伸びて私を追い越し、その勢いは未だとどまる所を知らない。 …といっても、まだ163センチ。クラスの中では小さい方だけど。 「168ページ。源氏『若紫』」 3年ぶりに会った少年は、あきれるぐらい何も変わっていなかった。 もちろん背は高くなったし、顔も子供のそれから大人のものになったけど、その無邪気な笑顔も、素直な性格も、要領のいい所も。 「あ、先輩だ!大矢先輩!」 ふいに廊下を歩く一人の男の人を見つけて、声をかけて飛び付いていく。 そんな彼が、たった一つだけ変わった事。 人を尊敬する、という事を覚えた事。 「すごくいい人なんだよ。頭良いし、休み時間なんていつも本読んでて、他の人と言うことが違うんだ。それに美術部に入ってて、むちゃくちゃ綺麗な油絵を描くんだ」 目を輝かせて竜くんが語るあまりの熱心さに、思わず嫉妬したりして、私も修行が足りない ……でも本当に、相手が女の人だったら、はり倒してたと思うけど。 私と離れていた中学の間に竜くんが知り合ったその先輩を、私はわざわざ偵察に行ってしまったのだ。 ちゃんと紹介する、という竜くんの言葉を無視する形で、わざと一人で。 田舎の県立高校。敷地だけは広い校舎の、古びた特別教室が並んでいる2号館。 美術室はその3階の奥に、ひっそりとあった。 立て付けの悪いドアを開く大きな音に気付きもしないで、その人は大きなキャンバスに筆を走らせていた。 嗅ぎ慣れない油の匂い。 絵の具のついた床を音を立てない用に慎重に進んで、その人に近づく。 気付く気配もない。 思ったほど背は高くないみたい。もちろん竜くんよりは高いけど、170センチちょっとかな。 真っ黒な竜くんの髪と比べて、色素の薄そうな茶色い髪。抜いたり染めたりしてる訳じゃないと思う。自然な感じ。柔らかそう。 絵を描いているせいか、少し猫背。なで肩で、腰も細い。 どんな絵を描くんだろう? 改めてキャンバスを見つめて、私は息をのんだ。 綺麗… それしか浮かばなかった。 自分のボキャブラリーの少なさには常日頃うんざりしている私だけど、言葉ってそんな物だと思う。本当に良いと思う物にめぐり会った時、それを飾り立てる言葉はいらない。 深い青。 長い方が一メートルもありそうな広いキャンバス一面を埋め尽くす、ひたすらな青い世界。 濃い青、薄い青。紫がかった青、緑がかった青。それは空のようにも、海のようにも、花のようにも見えた。 優しい色だ。 無条件に、私は思った。 いい人だ、この人。 こんなに寂しげで、優しげで、深い色の出せる人が、悪い人な筈はない。 「先輩の絵、なんかいいですね。好きです」 思わず声をかけてしまった私の声に、びっくりして振り返る先輩。 あ、結構格好いい。 それからすぐに、私は自分が悪い事をしてしまった事に気付いた。 この人の大事な時間を、壊してしまった。 幼い頃、何度も聞かされた父さんの言葉。 「あのね、沙姫子。芸術家にとってね、一人で部屋にこもる制作活動の時間っていうのは、何者にも代え難い大切な時間なんだよ。それをいくら可愛い娘にとはいえ邪魔される事は、もう神経逆撫でされるくらい苛立つ事なんだよ…」 一応有名(らしい)な日本画家の父さんは、アトリエに入って騒ぐ私を膝に乗せて、眉間にしわを寄せたものだった。 「邪魔してしまって、ごめんなさい」 どうしよう。とりあえず謝って、でも本当に先輩の絵が素敵だって事は伝えたいし、 「あ!なんだよ沙姫、もう来てたのか!」 「竜くん」 ほっとしたような、残念なような… 静寂も緊張も一気にぶちこわした少年。 先輩になつく竜くんは、飼い主に飛び付く子犬みたい。 今も移動教室の帰りらしい所を捕まえて、ああ大矢先輩、連れの先輩に置いて行かれてるじゃない! 本当に先輩は人がいいんだから。 近寄って行くと、今日も放課後、美術部に遊びに行く約束をしている。 「ああ、どうせ相変わらずだから、来たかったらまたおいで」 大切な時間が確実に邪魔されるっていうのに、先輩は笑顔で答えてる。 「竜くんたら、また邪魔しに行くんだ」 「なんだよ、どうせ沙姫も来るんだろ?」 …うう、私も人の事言えない。 だって先輩の絵、出来上がるの見てるのが楽しみなんだもの。 「先輩、本当に私達、邪魔じゃないですか?」 「かまわないよ」 この優しい言葉に、つい甘えてしまうのよね。 「じゃあ、また後で」 それにしても本気で嬉しそうな竜くんのこの顔。男の先輩相手に、ちょっと変じゃないかしら?(女の先輩相手だったら、はり倒してるけど…) 「なあ〜んか変な関係よね…」 席に戻ると、後ろの席の真希ちゃんが(高校に入ってから知り合った、とりあえず一番の仲良し)含みを持った声で呟いた。 「やっぱり真希ちゃんもそう思う?仲良すぎるよね、竜くんと先輩って」 意気込んで答えると、真希ちゃんは一差し指を一本立てて、チッチッチと横に振った。(古風なポーズよね) 「大矢先輩と笹谷、そして、」 そのまま私を指さして 「あんたもね」 何よそれ。 「変な三角関係みたいな言い方ね」 「だあってそう見えるんだもん、はたから見てると」 「どうして?」 「薄暗い放課後の美術室、一体3人で何をしているのかしら?」 なんか嫌なカンジ。 「お話してる」 「それだけ?」 「先輩が絵を描くのを見てる」 「楽しいの?」 むか。 「だって本当に素敵なんだよ、先輩の絵」 「知ってるけどさ〜、美術部の大矢先輩の絵っていったら有名だもんね」 「そうなの?」 あ、なんかちょっと嬉し。やっぱり有名なんだ。 チラリ、と私のその顔を横目で見て置いて、真希ちゃんは続ける。 「しかもあんた、たまに一人で美術室に行ってるでしょう!」 「…竜くんが委員会で遅くなる時?」 要領が良くてお調子者で目立ちたがりの竜くんは、入学そうそうクラス委員なんて立候補しちゃって、放課後の委員会もしょっちゅうだから… 「何やってるの、先輩と二人で?」 興味しんしん、お目々きらきらポーズの真希ちゃん。 「別になんにも。先輩が絵を描くのを見てる」 「変だよお、そんなの! 」 ……実は、自分でもたまにそう思うのよね。 不思議な位落ち着いて大好きな時間なんだけど、どうしてそうなのかしらって… 「恋よ!それは」 意気込んで言う真希ちゃん。恋って… 「だって笹谷とは幼なじみなんでしょ?変化のない恋人。優しいけど、なにか物足りない。そんな時にふと出会った影のある男の人。日常の中では感じない、不思議なときめ…あ、痛い!」 ははは(乾いた笑い)。 いつの間にか、彼女の後ろに竜くん登場。 「馬鹿真希!沙姫に変な事吹き込むなよな!」 「ひどお〜い。旦那横暴!」 引っ張られた髪の毛をなでながら、真希ちゃん涙ぐんでる。竜くんたら、結構本気で引っ張ったのかしら? 「いいの!俺達は本気で純粋にあの人尊敬してるもんね」 頷く私に満足げに微笑んで 「それに、俺と沙姫はラブラブだもん。ね?」 もちろんそうだけど…恥ずかしくないのかしらね? 邪魔しに行くんだからせめて、といつものように私が主張して、缶ジュースを買って二人で美術室に行く。 ガタガタと扉の開く大きな音に振り返って先輩が微笑む。 「やあ」 不思議な位、安心する。 「先輩、来ちゃいました!」 隣で微笑む竜くんも、多分同じ。 居心地のいい場所、お気に入りの時間。 次の日の放課後。 今日は珍しく私の方が委員会で、竜くんが先輩の邪魔をしていたみたい。 美術室が使用不可な日で、屋上で話をしていたみたいなんだけど…。 駅へ向かう帰り道、珍しく竜くんは無口。 「どうかしたの?」 「…うん」 声をかけても、なんだか上の空。 ねったりとした蜂蜜色の夕焼けに向かって歩きながら、ぽつりと呟いた。 「先輩って、やっぱりすごいよね」 「?大矢先輩?」 なんか今更って感じが… 「大人なんだよね、言う事が。今日ちょっと、いろいろ相談してたんだけど…」 「どんな相談?」 「…沙姫には言えない」 なによそれ。 なんだか、ちょっとだけむかっ。 別に竜くんの悩みなんて無理に聞くつもりないけど、先輩のお話は私も聞きたいのに。 え? 自分の考えた事に、ふと疑問符。 なんかそれって… 「ごめんね。でも俺にだって、沙姫に言えない悩みとかあるから。だけど沙姫の事、ホントに一番大事だからね」 微笑む少年。変わらない、無邪気な笑顔。 同じように微笑み返しながら、私は自分の鼓動が早くなるのを感じていた。 竜くんの悩みなんてどうでもいいけど、先輩の事は私も……。 翌日。 家庭科室の雑談の中で、私はちょっと時間を持て余していた。 授業内容は、「子供の為のおもちゃ作り」 みんな適当にマスコットだのぬいぐるみだのつくりながら、くだらない話に興じている。 「……君に、好きって言われちゃって〜」 「……されそうになったんだけど、でも私には……君がいるじゃない?それで……」 あんまり興味のない話題。 私は一人窓際に座って、うさぎの人形を縫いながら窓の外を見るともなしに眺める。 あ。 …先輩、だ。 2号館2階の家庭科室からは、授業を受ける2‐Cの教室がちょうど見えて… 窓際の後ろから2番目。いい位置だ。 一応真面目にノートを取りながら、たまに前髪をかき上げる。 長袖のシャツを肘まで折り曲げて、細い、男の人にしては白くて細い腕、筆を走らせる筋張った手が、今は茶色い髪をかき上げる。 柔らかな髪が日に透けて、…綺麗。 後ろの席の先輩、いつも一緒にいる、茶髪ロンゲのちょっと不良っぽい先輩につつかれて、振り向いて。なにか面白いこと言われたのかな?笑顔。私達といるときの優しい顔とは少し違う、自然な笑顔。 「恋する、乙女の顔ね」 ドキッ。 いきなり耳元でささやかれて、振り返る。 「真希ちゃん…」 ドキドキしてるのは、いきなり後ろにいた事よりも、言われた言葉。ドキッなんて、それに動揺する自分。 「やだ、いきなり耳元で変な事言わないでよ」 「そーお?我ながら鋭いと思ったんだけどな」 編みかけのカエルの網ぐるみを持って、真希ちゃんが隣に座る。 「今ちょっと惚れてなかった?先輩に」 にやにや笑い。 「やだ、違うもん。なんで真希ちゃんて、すぐそういう方向に持って行きたがるの?」 「だあってその方が面白いんだも〜ん」 面白いってね… 「それに沙姫ちゃんと笹谷ってつまんないよ。幼なじみで家も隣で初恋同士でくっついてうまく行ってるなんてさ。おまけに絵に描いたように美男美女でお似合い!もうちょっとこうさ〜、ドラマを楽しませてよ!」 またそんな勝手な事を… 「それに真面目な話さ、ホントにそれでいいの?って気がしちゃう。小さい頃の約束ずっと守ってるなんて、恋愛ごっこしてるだけみたい」 ちょっと、きつい言葉。 でも真希ちゃんの眼が真剣だから、反論できない。 「沙姫ちゃんてさ、本気で人を好きになった事ある?想うだけで眠れなかったり、見てるだけで幸せだったり、目があっただけで嬉しかったり、冷たくされて泣いちゃったり、そういういろんな経験ちゃんとしてから本当の相手を見つけないと、つまんないよ」 自覚のある事を言われると、人は大層困るものです。 「真希ちゃんの好きな人って、いつも大矢先輩と一緒にいるちょっと不良っぽい人だよね?」 ずるいけど、話題をずらしちゃう。 「やだ、私の事はいいの!それに不良っぽいってだけで、いい人なのよ!」 「…照れてる」 「違うもん。それに私はホントに見てるだけで幸せだし、だからって別に人のことどうこう言える立場じゃないけど…」 「真希ちゃん可愛い〜」 たわいもない会話、笑い声。 そんなものがどれだけ大切か、本当は知ってる。 放課後。 わざとらしい程にゆっくりとした足取りで、私は美術室へと向かう。 今日は竜くんが委員会。 だから私が美術室で彼を待つのは、いつもの事。 先輩は今日は、新しいキャンバスに下塗りをしていた。 ねったりとした蜂蜜色。昨日帰りに見た、夕焼けの色みたい。 「綺麗な色ですね」 いきなり声をかけてしまって、驚く先輩。 また邪魔してしまった… でも怒らない、優しい先輩。 「そうか、今日は笹谷は委員会だっけ」 うなずいて、微笑む。 「新しい絵ですか?」 「うん、ちょっと急に新しいイメージが浮かんで…」 穏やかな空気が、辺りを包む。 ほっとする。 私、先輩といると、すごく落ち着く。 危険信号。 「昨日は、また竜くんが迷惑をかけたみたいで…」 慌てて彼の名前を出すのは、自分への戒め? 「いや、僕なんか、何も…」 謙遜する先輩。ううん、本気でそう思ってるんだ、この人。 すごく大きな人なのに、自分の事嫌いみたい。 「先輩やっぱり、いいですね。なんか他の人とは違うみたい」 …何を言っているんだろう、私。 「中学の頃、あの子がすごく先輩の事誉めるから、ちょっと嫉妬したりしてたんです、私。変ですよね」 本当に変だ、私。 こんな事いきなり言ったりして、先輩困ってるじゃない。 沈黙。 やだ、どうしよう。呆れちゃったのかな。 「先輩?」 うつむいてる。表情が分からないのが不安になって、のぞき込むように見上げたら、いきなりきつく手首を掴まれた。 え? どうしよう。 思い詰めた先輩の瞳。近づいてくる。 どうしよう、分かってしまった。 セーラーの肩に置かれた先輩の右手が、怖いくらいに震えてる。 好きなんだ。 先輩、私の事が好きなんだ。 振り払おうと思えば、そうする事が出来た。 避けようと思えば、そうする事が出来た。 でも… 触れるだけの短いキスの時間が、こんなに長く感じたのは初めて。 指先から、唇から、こんなに緊張が伝わってくるキスなんて初めて。 どうしよう。 はっと気付いて、先輩が体を離す。 「私…」 何を言うつもりだったんだろう。 ガタッガララララ… 「ごめん、遅くなちゃった…」 動きだす、時間。 静寂も緊張も、一気にぶちこわした少年。 「どうしたの?先輩?」 竜くんは、固まったままの私と先輩を見比べる。 「沙姫、なんで泣いてるの?」 嘘。泣いてるんだ、私。 「なんでもないの」 答える声が、やだ、ホントに涙声。 慌てて教室から走って逃げ出す。 「沙姫?」 すれ違う竜くんの心配げな声。 どうしよう。 どうしよう、私。 そのまま走り続けて、自分の教室に滑り込む。誰もいない。 ほっとして、それからまた呟く。 「どうしよう」 どうしよう、私、嫌じゃなかった。 どうしよう、先輩、私の事が好きなんだ。 だったら私、とても無神経な事をしていた? 何度も放課後邪魔しにいって、恋人である竜くんと! 怖いくらいに震えていた先輩。真剣だった。 きっと、とても苦しんでる。 キスなんて、初めてじゃない。竜くんとは数え切れない位、それ以上の事だって…でも。 違う男の人とは、初めて。 「どうしよう」 竜くんとは、決まりなの。幼い頃からの約束で、ずっと一緒にいて、 『小さい頃の約束ずっと守ってるなんて、恋愛ごっこしてるだけみたい』 ふいに思い出す、真希ちゃんの言葉。 『本気で人を好きになった事ある?想うだけで眠れなかったり、見てるだけで幸せだったり、目があっただけで嬉しかったり、冷たくされて泣いちゃったり、そういういろんな経験ちゃんとしてから本当の相手を見つけないと、つまんないよ』 だって…私…。 長い影が教室の中に差し込んで、辺りが蜂蜜色に染まる。 ねっとりとしたその空気に、私の心も包まれる。 「どうしたら、いいんだろう」 こんなに苦しく想うのは、初めて。 こんなになにかに戸惑うのは、初めて。 蜂蜜みたいにねっとりして、分けられない想い、混ざり合って、先が見えない。 蜂蜜色に染まる教室の中で、蜂蜜みたいに戸惑う思いを抱えて、私は一人、立ちすくんでいた。 〈fin〉 |