癒 し の 羊  

… 泉 香 …



 

癒しの水≠知っていますか?

 あおく澄んだ香りのその水には、心を癒す力があります。
 それは、ゆるいゼリーのように、まったりなめらか。
 疲れた体は、優しい水に包まれて、ズブズブと沈んでいきます。

 頭まですっぽりつかって、でも、苦しくなんかありません。
 眠りへ誘うやさしい詩を唄ってくれるのは、人と羊のあいのこと言われる、癒しの羊達。
 すべてを忘れて眠る水の中で、ささくれだった心の傷は、ゆっくりと溶けだしていくのです。


 あおの森のずっと奥。

 だれも知らない、だれでも行ける、深い緑に囲まれた、清水湧き出る、あおの泉。

 そこから癒しの羊達が汲み上げた水だけが、癒しの水≠サう呼ばれているのです…
















 「う〜ん、重い〜」

 木の皮を編んでつくった篭(それは泉の水を汲むのに使う、いわば「バケツ」なのだが)いっぱいに水を汲んで、情けない声をあげているのは、癒しの羊族の小羊『モア』。
 癒しの羊族は、人と羊のあいのこと言われ、小羊の間は完全な羊の姿で過ごす。そして大きくなるにしたがって、人間に近い姿に、意志の力で自由に変われるようになる。
 しかし、頭の上についた角だけは、羊の形そのままである。

 モアは、まだあどけなさの残る顔で、ため息をつく。

「でも、自分の汲んだお水でないと癒しの力がきかないんだから、しょうがないのよね。これも、大事なお仕事なんだわ」

 いささか説明くさいセリフだが、こうでも言って自分に言い聞かせていないと、本当につらいのだろう。
 実際、今年からやっと一人前の癒しの羊として認めてもらったモアはまだ体も小さくて、癒しに必要な水を集めるためのバケツは大きくて、身に余る。
 それでも癒しを行なうためには、人が浸かる翡翠の浴槽いっぱいに、癒しを行なう羊が自分で泉の水を汲まなければいけない。

 大きなバケツを、持つ、というよりひきずる、という感じで戻ってきたモアに、羊達のまとめ役のポクモクさんが声をかける。

「モア、お疲れ様。でも遅いですよ」

 彼も、小さなモアに気を使ってはいるが、手伝ってやることは決してない。

「ごめんなさ〜い、ポクモクさん」

 背の高い自分を見上げて、可愛くあやまるモアの小さな頭に、いたわるように手を置いてポクモクさんは言った。

「みんなもう癒しの準備を終えています。そろそろ最初のお客さまが来る頃ですから、あなたも急いで下さいね」

「はあ〜い」




 汲んできた水を翡翠の浴槽に開けて、香りの良いハーブを少し浮かべる。
 最初は普通の水のようにさらりとしていた癒しの水が、ゼリーのように固まり始める。 モアが癒しの羊達の制服とも言える長いローブを身にまとう頃、その夜最初のお客が、どこからともなくあらわれる……












 彼はふと、自分が白い霧のなかにいる事に気が付いた。
 ここは一体どこだろう?
 目を細めて、辺りをみまわす。
 霧の向こうにうっすらと、何かが見える。

「いらっしゃいませ。あおの森の奥深く、癒しの羊の国へようこそ」

 ほほえむ少女と、その前にある大きな緑の浴槽。
 自分は、夢を見ているのだろうか?
 少し酔っ払っているようなふわふわとした感覚で、まわりの景色もぼやけて、足元もおぼつかない。
 まだ幼いその少女は、真っ白な長いローブを身にまとっている
 そしてなぜかその頭には、角が生えているような……そう、まるで暖かな毛皮を着た羊のようである。

「私は、癒しの羊族のモア。さあ、どうぞこちらへ」

 自分はどうしてこんな所にいるのだろう?そう思いながらも、彼は言われるままに、素直に彼女の前に立つ。

 彼は、世間では名の知れた大企業に勤める会社員。
 少女にうながされるまま、名前を名乗る。

「どうぞ、こちらに横になって、リラックスなさって下さい」

 夢の中なんだから、いいんだよな。
 わけのわからないまま自分を納得させて、その言葉に従う。

「とても、お疲れですね」

 これは、夢なのに……本当に同情してくれているような少女の声に、どうしようもなく癒されている自分を感じる。
 そう、彼はとても疲れていたのだ。
 ずぶずぶと、あおい水の中に体が沈んでゆく。頭までつかっていくというのに、不思議と不安は感じない。
 全身を包む、心地よいミントのような香り。

「どうして、そんなにお疲れなのですか?」 

柔らかな声が、頭に響く。

「いろんな事が……つらいんだ……俺は悪くないのに、俺だって、頑張ってるのに…」

 いくら夢の中とはいえ、自分は、何をしゃべっているんだろう。なぜしゃべることなんか出来るんだろう……水の中に、頭までつかっているのに……

「大変ですよね……」

 そうなんだ、大変なんだ。疲れてるんだ。 彼は思う。
 自分はとても深く、疲れていたんだ。
 何にという訳ではなくて、あえて言うなら何もかもにというべきか……
 でもそれは、自分だけじゃなくって、みんな疲れてて、誰にもどうしようもなくって、誰かに話したいけれど愚痴にしかならなくて、誰にも言えなくて、でも誰かにわかってほしくて……
 いっそすべてを投げ出してしまえれば楽になるのに、やっぱりそうは出来なくて。
 堂々巡り、理不尽な思いが、夢の中さえ支配する。

「眠りましょう、すべてを忘れて……」

 優しい言葉が、こんなに気持ちの落ち着くものだって事を忘れていた。
 なんだかとても、心地いい。







 彼にもう少しまわりを見回す余裕があれば、気付いただろう。
 そこは、白い霧に包まれた森の中の広場。 青い木々の陰に、隠れるようにたたずむ癒しの羊達と、翡翠の浴槽。
 漂う霧はカーテンのように、隣の木陰を目隠しする。

 癒しの羊族……それは、人の「眠り」と、「夢」を支配するもの。

 彼等の仕事は、安らかな眠りと、柔らかな夢を与えること。

 そしてもう一つは、迷い苦しむ心を癒す事。




 モアの二つの角の間から、響くように聞こえる微かな音。

 眠りながら、癒されていく命。
 羊達は唄う。
 優しい、優しい子守歌を。

 

     眠りましょう すべてを忘れて
     あなたの事を 見守ってるから
     眠りましょう 大切なあなた
     誰かがあなたを 待っているから
     夢をみましょう すべてを信じて

     あなたのために 
           今宵はここで唄っているから……


 それは聴く人によって違う歌詞にも聞こえるけれど、確かに心に響く、懐かしいメロディだった。
 傷ついた心は少しづつ、少しづつその痛みを吐き出して、やがて眠りについていく。
 仕上げにモアは彼の上に、忘れの粉をほんのひとふり。

 嫌なことは、忘れて眠ろう。
 悲しい現実に、薄いうすい、ヴェールをかけて……




 彼の体はいつしか、水の中に溶けていく。 ここは彼にとって、夢の世界だから。
 明日の朝、彼はいつものベッドで、いつもの時間に目覚める。
 小さなあくびをしながら思うだろう。
 なんだか、不思議な夢を見たような気がすると……












 眠ることで、癒されていく命。
 忘れる事でしか、癒されない心。
 なぜ人の心がこんなに傷つくものなのか、モアにはわからないけれど、それが現実。
 人の心は、安らぎと、少しの忘却を求めて、癒しの羊のもとへとやってくる。


 とりあえず、一つ目の癒しをうまく終えたモアは、ほっとため息をついた。
 二人目のお客がやってくるまでには、少し間がありそうである。
(この間に、お茶とおやつのチーズケーキでも食べようかしら…)
 なんて思っていたその時、霧のカーテンの向こうから、ポクモクさんが姿を現した。

「モア、すいませんがちょっと頼みがあるのですが……」

 彼にしては、ひどく困ったような顔がめずらしい。

「どうしたんですか?……あ!」

 声をあげたのは、ポクモクさんが、腕に可愛らしいうさぎの子供を抱き抱えていたからである。

「うさ耳族の子供です。どうも迷子のようなんですが…」

 うすい茶色の、ぬいぐるみのような毛並みをした小さなうさぎは、彼の腕の中でひどくふるえている。
 長い耳をぺたんとふせて、かたく閉じられた目が、はためには可哀相なぐらいだ。

「慣れない気配だったので、たちの悪い獣の類いかと思って、つい脅かしてしまったのです。すぐに気付いてやめたのですが、どうもすっかり恐がられてしまったようで……」

 なる程、情けない顔をしている筈である。

「この子を、家へ帰してやってくれませんか?」

 おまかせ下さいと、にっこり笑う。 いつも余裕のポクモクさんのこんな顔、なかなか見れるものではない。

「じゃあ私は、ちょと向こうにやっかいなお客が来ているようなので…」

 言い残して、霧の向こうに消えていく長い髪を見送る。
 深い霧の間を、目指す場所に自由に行き来出来るのは、羊達の間でも彼だけである。
 直接癒しを行なう事はないが、一晩中霧の中を歩いて、それぞれの癒しがとどこおりなく行なわれるように気を配るのが、彼の役目なのだ。
 モアは、残された子うさぎに言った。

「大丈夫よ、恐い人じゃないからね。それにあなたの事は、ちゃんと私がお家に帰してあげるから」

 まっ黒の瞳が、うるうるとモアを見あげる。

「とりあえず、お茶を飲みましょうか。おいしいチーズケーキがあるのよ。食べる?」

 うるんだ目が、きらきらと輝いた。





 うさ耳族は、うさぎと人間のあいのこで、モア達癒しの羊族と同じように、子供の頃はうさぎの姿、大人になってからは、うさぎの姿と人間の姿を自由に変える事が出来る。
 子うさぎはぴょんとはねて、モアの半分位の背の女の子に変わった。(でも、モアの頭に羊の角だけは残っているように、ふさふさの長いうさぎの耳はそのままである)
 そして多分、驚いたり喜んだりする何かの拍子に、すぐにうさぎに戻ってしまうだろう。まだ力が安定していないのだ。

「あたしは、りりらって言うの」

 子うさぎは、暖かなハーブティーとおいしいケーキに満足したのか、にこにこしながらモアの問いに答えた。

「どうしてこんな所にまぎれてしまったの?」

「あのね、おねえちゃまの後をおいかけていたら、はぐれてしまったの。ずるいんだよ、おねえちゃま。いっつも自分一人で遊びに行ってしまうの。この間も、どこでもらったのか、すごくきれいなおリボンを耳にむすんでいて、うらやましくてちょうだいって言ったら大事な人達にもらったものだからダメ≠チて言うの。だからね、りりらだまっておねえちゃまの後について行こうと思ったの」

 まだまだしたったらずなのに、必死にしゃべる様子が可愛くて、モアは思わず微笑む。

「人のすがたに変われるようになったらつれて行ってくれるって言ったのに、ダメって言うんだもの」

 からかわれたと思ったのか、むきになって続けるのが更に可愛い。

「でもきっと、今頃お姉さんも心配しているわね」

「……そうかなぁ」

 急にうつむいて、心細げに呟く。

「きっとそうよ。探しているわ」

「おねえちゃまのところに帰れる?」

「もちろんよ」

 モアは、にっこりと微笑んだ。






「じゃあ、そのおふろに横になってね。大丈夫よ、すぐだから」

 リリラを眠らせて、モアは歌を唄った。

 小さなうさぎ、あなたがお家に帰れるように。
 優しい人が待っている、暖かい場所に戻れるように…

 浴槽を覗き込むモアに、揺れる緑の向こうで、少女が立っているのが見えた。
 モアより少し年下に見えるその少女の頭には、ふさふさ揺れる大きな耳。片方に結ばれた、虹色に輝くリボン。そして……駆け寄るリリラの耳に、同じようにリボンを結ぶ。

「良かったね、リリラ」

 小さな妹の手を握って、少女がモアにおじぎした。リリラは大きく手をふりながら、緑の向こうに消えていった…。

「ふふふ」

 かけていくうさぎ達を見ながら、思わず微笑む。
 なんだかとても、暖かい気持ちになる。

 みんな、あんな風に、優しい気持ちでいれたらいいのに……

 毎晩ここに来る人達の心は、悲しいくらいに傷ついていて……でも本当は、ほんの少しの安らぎを、みんなが求めているだけのような気がする。

 とりあえず今日は、最初の癒し≠烽、まくいったし、自分の力がなんとなく少しでも誰かの役に立っているような気がして、嬉しいのだけれど……。


 でも、のんびりひたっている暇はないらしい。どこからか聞こえてくる、ポクモクさんの声。

「モア、癒しの準備をして下さい。あなたに、次のお客が来たようですよ」

 近頃の、癒しの羊達は大忙し。
 今日もモアの所に、早くも二人目のお客が来たようである。













「私は、忘れたくないの」

 今宵二人目のお客は、意志の強そうな目をした、長い髪の女の人。
 なんだか少し、いつものお客とは様子が違うようである。

「本当は、眠りたくもないのよ、私」

「どうしてですか?」

 とまどいながら、モアは尋ねる。
 ここは人にとって夢の世界の筈だから、ここに来る人は、みな夢うつつで酔ったようになる筈なのに、彼女は違う。
 ここに来ることすら最初からわかっていたように、まるで戸惑いのない口調で言う。

「眠りは、全てを忘れてしまうから。忘れたくないの、何一つ」

 しかもここでこんな事を言いだす人は初めてで、モアはとても困ってしまった。

「一体、何があったのですか?」

 おどおどと尋ねるモアの真っすぐな瞳に、彼女は少し、視線を落とした。

「……あの人が、いなくなってしまったの」

 目を伏せて言う彼女の言葉に、モアは少し安心して、息をつく。
 どうやら彼女は、恋人にふられたのか、別れたのか何かなのだろう。
 そういう人なら、普段からとても多いのだ。
 彼女は女性特有の敏感さ、とでもいうべきもので、眠る前の意識でここにたどり着いてしまったのだろう。

「悲しいことがあったのですね」

 癒しの羊達の鉄則は、よけいな事を言わない、聞き出さない。
 ただその人のしゃべりたい事だけを聞いて、うなずく事。
 人というのはそれだけでも、とても心落ち着くのだという。
 そんなモアの様子を見て、逆に彼女はうっすらと笑いを浮かべながら言った。

「そうね、よくある話なのよ。恋人と軽い喧嘩をして、しばらく逢わなかった。そのまま彼は、事故にあって死んでしまった……」

 息をのんで、少し言葉につまる。
 長くこの仕事をしていると当然、大切な人を亡くしてしまった悲しみ、というのにもよく出会う。
 けれどこの仕事を始めたばかりのモアは、そういう人の悲しみを癒すことは、まだあまりなれていないのだ。

「……そうですか………」

 次に言うべき言葉を、うまく探すことが出来ない。
 そんなモアを、逆に彼女の方が気づかったのだろうか、さっきとは違い優しく微笑んで、まったく違うことを口にした。

「ここの事は、知っているの。私は少し、他の人より感覚が鋭いみたいね。なんとなく、眠らないでさまよっていれば、来れるという気がしたのよ」

「そういう人は、まれにいると聞いています。思春期までの若い方や、女の人に多いとか……」

 戸惑いながら答えるモアに、なんでもない事のように、彼女は言う。

「私はずっと、眠らないでいようと思ったの。あの人の死を知った瞬間から。だって眠りは、忘れさせてしまうでしょう?どんなに悲しいことも、苦しい事も……。私は、そんな自分が許せないの。都合のいい思い出だけを残して、いつのまにか幸せになる自分なんて、見たくはないの。人はどうせいろんな事を、時間と共に忘れていく生きものだけど、『眠る』という事をしなければ、少しでも長く覚えていられると思ったの」

 あまりにあっさりと続く彼女の言葉に、モアは恐る恐る口を開く。

「人は眠らなければ、死んでしまいます…」

 それは幼いモアにとって、口にだすのも恐ろしいこと。
 けれど彼女は、強い口調で続ける。

「それでもいいの。あの人が私にしてくれた事、嬉しかった事も、つらかった事も、その全てをこの胸に抱えたまま、私は死んでいくの………」

 一息に言葉を続けて、それからふっと、笑う。それは自分を馬鹿にしてるみたいな、渇いた笑い。

「…なんて、最初はそう思っていたの。でも、無理なのよね。だってどんなにつらい気持ちでいても、眠ってしまうもの。気が付かないうちにふっと、自分は楽になろうとしているのよ。そんなのって、我慢できないわ」

「それは、でも…」

 あまりにも真剣な彼女の言葉に、モアはうまく言葉をつづることができない。

「だからせめて私は、忘れたくないの。そんな都合のいい事、自分を自分で楽にさせるなんてこと、したくないの」

 でも…と、モアは思う。

「……忘れる、ということは罪な事ではないと思います。人が生きていくために必要だから、人はものを忘れる、という力をもっているのではないのですか?」

 ためらいがちに、言ってみるけど。
 どうして彼女の言葉には、迷いというものが感じられないのだろう。
 そしてどうして自分の言葉は、彼女の前でこんなに虚しく響くのだろう。

 少しの空白。

「……私は、別にお話をしにここへ来た訳ではないのよ」

 彼女はきっぱりと言い切って、正面からモアの目を見つめた。

「あなた達癒しの羊は、人の眠りを支配する力を持っているのよね。心を癒して、眠らせてくれるのでしょう。でもそれだけでなく、人から記憶を奪う事もするのでしょう?」

「記憶を、奪う…」

 彼女のその言葉に、モアは大きなショックを受けた。
 癒し≠行なう時、最後に振りかける忘れの粉が、人の記憶をほんの少しぼやけさせる事は、もちろん知っている。
 けれどそれをそんな言葉で言われる事があるなんて、思いもしなかったのだ。
 人の大切な記憶を奪う、そう言われてしまえば、確かにそうだろう。
 でも、優しい眠りをうながすためのものだと、そう教えられた。生々しい悲しい記憶に、ほんの少しヴェールをかけることは、人の為によかれと思ってやっているのだと…

「…言葉が過ぎたわね、ごめんなさい。でもお願い、私を眠らせて。ただし全ての記憶をそのままに。眠ることで、人は多くの事を忘れていく。でも人の眠りを支配する事の出来るあなた達癒しの羊なら、出来るでしょう?私の記憶を全て残したままで、ただこの体だけを、休ませて……」









 ズブズブと、彼女の体が沈んでいく。
 疲れた体を包み込む、澄んだハーブの清涼感。

「気持ちいいわね」

 小さく微笑んで、その笑顔も水の中。
 微かに角を響かせて、モアは、泣きながら唄いだした。




     眠りましょう 眠りましょう
     あなたのために わたしは唄う
     眠りましょう 夢も見ないで
     ただぐっすりと その想いを抱いたままで
     眠りましょう その体のみ

     あなたのために
            今宵はここで唄っているから……


 水の中に溶けて消えていく瞬間、彼女が小さく「ありがとう」と呟くのが聞こえた…。






 気が付くと、泣き腫らした目をこするモアの横に、ポクモクさんが立っていた。

「私、これで良かったんでしょうか?」

 尋ねても、ただにっこりと微笑むだけ。

「忘れの粉を使うことは、良くない事なんですか?」

 背の高いポクモクさんは、モアを覗き込むようにして答える。

「私は、今まであなたが幸せな眠りをあげた、何人もの人を知っていますよ」

「でも人の記憶は、確かに大切なものですよね……」

「それは、その通りです。けれどあまりにつらい記憶に、眠れぬ夜を過ごしている人々がいる事も確かです」

「つらい事を取りのぞいてしまう事が、良い事とは限りませんよね」

 悩むモアの言葉に、ポクモクさんは頷く。 それは多くの癒しの羊達が、いつかは気付き悩む事。

「けれど私達には、それが出来る力があるのです」

 そして一度はたどるジレンマ。
 それだけは、自分が考えて納得するしか仕方のない事。

「私達癒しの羊は、神様ではありません。けれど私達のこの力は、他の誰でもない、神様から与えられた力。私達のしている事は、眠りを操るという言い方をすれば、自然に反しているのかもしれない。人にとって、よけいな事なのかもしれない。けれど私達は、ここに来ることを人に強制してはいないのです。そして癒しの羊達にも、この力を使うことを強制してはいません。知っていますね」

 諭すような言葉に、モアはうなずく。
 そう、モアは自分から望んで、この仕事を選んだのだから。

「あなたはどうして、この仕事をすることを選んだのですか?」

「傷つき苦しむ人々に、少しでも安らぎをあげる事が出来たらと思って……」

 小さな声で言うモアの頭を、大きな手で優しく撫でる。

「生きて行くと言うことは、時にとても大変な事。だから生き物とは、とても強い力をもっているのです。けれど同時に、とても脆い。信じていたものが壊れてしまった時、とても簡単に崩れてゆく事が出来るのです。それは人も、私達癒しの羊も同じです。そしてそんな時、ほんの少しの後押しで、また立ち上がる事も出来る。そう思いませんか?」

 小さな頭に、暖かな温もりを感じながら、モアは頷いた。

 そして思う。

 けして自惚れちゃいけない、自分の力。
 今日の自分は本当に、誰かの力になれたのか。でも、今の自分には、あれ以上の事は出来なくて……

「彼女がね……」

 優しいうす紫色の、ポクモクさんの瞳を見上げる。

「もう一度、来てくれたらいいな…」

 その時自分に、今日以上の事が出来るかは分からないけど。
 話をしにきた訳じゃないと言い切った彼女。
 だけど言葉につまるモアに、優しく微笑んでくれた。
 ちょっとショックな事を言われたけれど、本心ではないと思うから。
 本当はもっと、いろんな言葉を持っている人だと思うから。

「そうですね」

 ポクモクさんが頷いた。








 癒しの羊達を、知っていますか?

 彼等が願うのは、人々の安らかな眠りと、暖かな夢。
 「人」は時に、とても強くなれる生きものだけど、同時に、とても脆い生き物。
 でも羊達はそんな「人」が大好きで、何かの力になりたくて……

 だから羊達は、彼等のために唄います。

 あおの森の、ずっと奥。

 だれも知らない、だれでも行ける。






 そこには今日も、小さな体に大きな篭を引きずって泉の水を汲む、羊達がいます。

               



 



                〈fin〉




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