想い出が鳴りそうで 
… 泉 香 …





 トゥルルル、トゥルルル……
 トゥルルル、トゥルルル……

 暗い部屋に、電話の音が響く。
 ちょうど部屋に入った私は、手探りで灯りをつけて受話器を取った。

「はい、大上ですけど」

「あ、真希子?お母さんやけど」

「ああ、どうしたん?」

 懐かしい声に力を抜いて、電話のコードを引っ張ってベッドに座る。

「うん、元気にやっとる?」

「元気やよぉ」

 受話器を顎に挟んで、着ていた上着を脱いでその辺に放り出す。

「ちゃんと食べとるの?」

「食べとるって。今日は友達とちょっと飲んできたし」

 母からの電話は、いつも同じ問いで始まる。
 上京してきて二年もたつのに、変わらないいつもの言葉。

「なんか足りんものない?送ってあげるよ」

「いいよぉ別に。欲しかったらこっちで買うから」

「そお?いるものがあったら言いなさいよ」

 答えもいつも決まってるけど、かけられる声色が優しくて、くすぐったい。


「あんねぇ、はがき来とったよ、あんたに」

 一通りのやりとりが済んだ後で、やっと本題に入った。

「はがき?」

「同窓会のお知らせやって」

「ああ。いつの?」

「高校三年のやって。ほんで電話かかってきたんやけど、土川君って昔もよう電話かかって来た男の子でしょう?あんた住所も教えんとそっち行ったの?」

 ドキン……

「うん、ばたばたしてたから」

「そっちの電話番号教えておいたから、かかって来るかもしれんけど、暇やったらあんたからかけなさい。番号分かる?」

「うん、多分」

「遠くへ出ていった子が多いから、お正月に合わせて予定聞いてるんやって。あんたも暮れにはまた帰って来るでしょう?今度はゆっくり出来るの?」

「う〜んと、まだわからんけど……」

 二ヶ月も先の予定をぼそぼそと話して、学校の話を少しして、懐かしい電話は切れた。
 明るい部屋の中に、思い出したように静けさがよぎる。



 ドキン……とか。
 胸が鳴った事に、驚いた。

 三年C組、土川 高志。
 とっくに忘れたと思っていたその名前に、動揺する自分に、驚いた。



 とにもかくにも顔を洗って化粧を落として、楽な服に着替えてもう一度ベッドに転がる。

 電話、かかって来るのかな。

 思い出して、鞄から携帯を出して充電器に差し込んだ。

 携帯の番号も、教えたのかな。

よくかかって来たでしょ

 なんて程も、電話を掛け合った記憶はないけど。

「他に電話してきた男の子なんて、いなかったもんね」

 お互いに不器用で、電話も苦手で。
 約束とか、連絡とか、あんまりしない二人だった。
 偶然とか、成り行きとか、何となくとか、そんな曖昧な言葉が似合う恋。
 思い出したらまた胸が鳴って、思わず苦笑い。

 転がったベッドの上に仰向けになって、伸びをする。
 ごろんと寝返りを打ったら電話が目に入って、今更みたいに思い出される、懐かしい風景。
 古い8ミリみたいに次々頭に浮かんで来て、変な感じがした。


 きっかけは、なんだっけ?

 確か高校三年になってすぐの頃。
 私の親友の美紀ちゃんと、土川君の幼なじみの崎田君がつき合いだして、最初はダブルデートみたいに呼び出された。
 そう言えばあの頃って、気づいたらまわりの友達がみ〜んな彼氏作ってて、仮にも受験生だってのに呆れた覚えがある。

「真希ちゃんと土川君、合うタイプだと思うよ。二人とも大人しいし」

 そんな風に美紀ちゃんに言われて、気づいたらつき合ってる事になってた。
 多分向こうもそうだったんだろうと思う。
つき合おう≠ニか好き≠ニか、言った事も言われた事もなかった。
 どちらかがそう言葉にしたら迷ってだめになっちゃいそうな、そんな、不安定な関係だった。



 田舎の県立高校。
 三年にもなって彼氏彼女を作ってるぐらいの呑気な校風のその学校で、私と美紀ちゃんは美術部に入っていた。
 美紀ちゃんの彼氏、崎田君と、土川君は写真部。
 写真部と美術部は、顧問の先生同士の仲が良くて繋がりが深かった。一緒にスケッチ旅行に行ったりして、つき合ってた子も多かった気がする。
 おまけに四人は、クラスメート。

「お手軽だよね〜うちらって」

 からからと笑う美紀ちゃんの、そんな所が好きだった。
 思った事をすぐに口に出して行動する美紀ちゃんは私とは全く逆のタイプで、私はいつも彼女の後についてまわっていた。
 そんな彼女とはっきりと違う道を選んだのは、後にも先にも一度だけ。





 降り続く雨が止まない、6月の終わり。
 放課後の美術室は、七月の県展に出展する絵の締め切りでこの時とばかりに賑わっていた。
 梅雨時のしめった教室。
 所狭しとイーゼルをたてて、こもる油のにおい、キャンバスをひっかく筆の音、とぎれないお喋り。

「ねぇ、真希ちゃん」

 同じモチーフを前に、角度を変えて並ぶ美紀ちゃんが、なにげに言う。

「ん?」

 気に入った色が上手くつくれなくて、私は少しうわの空。

「先生に聞いたんだけど……」

 はっきりとものを言う彼女が口ごもるのが珍しくて、私は絵の具を取るついでに彼女の方を向く。

「何?」

「東京の美大、受けるんやってね」

 視線はキャンバスに、筆を握った手を止めることなく呟く彼女の横顔を、見つめた。
 途端に。

「あっ!」

 筆が!

「真希ちゃん?」

 右手で絵の具を取ろうとして、パレットと一緒に左手に持たせた筆がバランスを崩して、くるんとまわって制服の袖口を直撃。

「あ〜あ〜、また」

 はっきり言って実によくある事で、ため息をついて顔を見合わす。
 筆とパレットを慎重に降ろして、取り出すのはオレンジの香りのする、油絵の具を落とす液。

「布ある?」

「ああっと、このハンカチでいいや」

 紺のセーラー服の左袖についた絵の具に絵の具落としをかけて、美紀ちゃんが慣れた手つきで絵の具をこすり落としてくれる。

「ごめんね、いっつも」

「そう思うなら、気をつけてよねホントに。やっぱり、スモック着て描いた方がいいんじゃないの?」

「う〜ん、でも暑いしね」

 繰り返すいつもの会話。

「……東京行っちゃったら、もう落としてあげられないよ」

 呟かれた言葉に、少しだけ胸が痛んだけど。

「やっぱり美紀ちゃんは、こっちの短大行くんだ?」

 震えないで聞けた。

「私はそんなに才能ないし、家はそんなに余裕ないし」

 うつむいたままそう言う。
 掴んだ手に力が入って、それから顔を上げて目線を合わせる。

「でも、ひがんでる訳じゃないよ。私には短大の方が向いてると思うから」

 微笑んだ彼女が、大好きだと思った。





「土川君には、話したん?」

 雨の中、並んで歩く帰り道。
 久しぶりに二人で帰る途中で、ふいに美紀ちゃんが聞いた。

「ううん、まだ」

 答えたら、一瞬だけ足を止めて傘を傾けて、私の顔を見る。

「なんで?」

 同じように止まって聞いたら、次の一歩で私を追い越して彼女は言った。

「ううん、別に」

 傘で隠れる背中が少しだけ寂しそうだった事に、気付きもしなかったあの頃。
 隠れた想いとか、内緒の気持ちとか。
 口に出されないそんなモノを考える余裕なんて、なかった。


 反対されるのが、怖かったんだと思う。
 合格できるのか、合格したとしても一人で東京でやっていけるのか。
 自分でも自信がなくて、なけなしの勇気を総動員させて相談した先生が後押ししてくれた、それだけが頼りで親を説得した。
 多分美紀ちゃんは、地元の短大を選ぶって分かってた。

「一緒に行こ」

 先に言われたら、迷わずそっちを選んだだろう。
 言ってくれなかったから、自分で決められた。

 降り続く雨の中、並んで傘を差して二人で帰った。
 薄暗いブルーグレイの風景。



 土川君にも、自分からは言えなかった。
 うるさいくらいに蝉が鳴いてた、夏休み。
 家の近くの公園に、珍しく電話で呼び出された。
 用件は言わなかったけど、予想はついていた。

「私、言うからね、土川君に。真希が何で黙ってるのか分からないけど、早く言った方がいいと思うから」

 三日ぐらい前、そう言う美紀ちゃんの言葉に否定も肯定も出来なかった自分。



 休みに入ってから半月ぐらい会ってなかった彼は真っ黒に日焼けして、少し痩せたみたいに見えた。

「何飲む?」

「ん、レモンティー」

 自販機でジュースを買って、子供もいない小さな公園。お日様直撃の午後二時。
 唯一木の陰になる鉄棒にもたれて、黙って二人で冷たいジュースを飲んだ。

「あ」

 思い出したように呟いて、土川君がジーンズのポケットから、小さな紙みたいなものを差し出す。

「何?」

 受け取って、封筒に入ってたのは、可愛いキタキツネの写真が印刷されたテレホンカード。

「北海道に、撮影旅行に行ってきたから。お土産」

 無口で、不器用で、優しい人だった。

「ありがとう」

 小さな優しさに、いつも心が和んだ。

「崎田君と行って来たんだよね?楽しかった?」

 とつとつと、旅の話をしてくれる、日に焼けた笑顔。
 一週間の貧乏旅行。
 寝袋持って、カメラを持って、歩きまわった思い出話。



「バイトの時間だから」

 呼び出したくせに土川君はそう言って話を切って、別れ際に小さく聞いた。

「大上さん」

 ずっと名字で呼び合ってた。

「東京の学校行くんだってね」

 うつむいた横顔。

「うん……受かったら」

 私もうつむいて答えたら、顔が上げられなくなって、二人でずっとそうしてた。
 しばらくそうしてたら、また名前を呼ばれる。
 見上げたら小麦色の顔がすごく近くにあって、びっくりした。

「頑張ってね」

 熊みたいに、優しい目をした人だった。
 極めつけに暑い夏。
 地面が揺れる、午後三時の公園。





「う〜わぁ、恥ずかし」

 思い出して、枕を抱いて転がる一人の部屋。
 ファーストキスが高三の夏なんて、遅いってからかわれるけど。

「ど〜せ田舎モンやし」

 枕を抱えてうつむいて、視界をよぎる二つの電話。
 ホントに、かかって来るのかな?
 時計は、9時42分を挿している。

「でも、かかって来るとは限らないし〜」

 来るとしても、今日じゃない可能性だって高い。

暇やったらあんたからかけなさい

 もっともな母の言葉が頭に浮かぶ。

「暇ではある、けど」

 相変わらず、電話は苦手。


 何も手につかなくて、電話を見つめる。
 ただ待ってるのも、結構キツイ。

 引き出されたフィルムは、まだ終わらない。

 待ってる気持ちが、待たせてた時を思い出す……



 季節が移って秋になったら、当然のようにもっと忙しくなった。
 四大の実技試験には油彩が入ってて、美紀たち短大の方は鉛筆デッサンのみ。
 同じ学年から美術系の四大を目指すのは私を含めた三人だけで、後の二人は男の子。
 当然油彩とデッサンは勉強も違う部屋でやるから……寂しい……とか言ってる場合じゃないんだけど。
 よく考えたら、隣に美紀ちゃんがいない状態で絵を描くなんて初めての事だった。
 不安だけど、それは私が自分で選んで決めた事で、美紀ちゃんは美紀ちゃんの勉強があるんだから邪魔できない。
 受験の時も当然一人。
 受かったら一人で東京に住んで一人で生活して、一人で学校に通う。
 それを選んだのは私……

 焦りだけがつのる中、追い打ちをかけるように季節は移り、日増しに寒さを増す。
 基本的には、毎日一人でキャンバスに向かっていた。
 同じ部屋には二人の男の子が同じように筆を走らせていたけれど、二人とはあまり話さなかった。

 最後に残った人が、ストーブと灯りを消して、鍵を返しに行くこと。
 決まりは、それだけ。全ては個人の責任。

「お先に」

 そう言って彼らが帰ってしまえば、広い美術室は広さがよりむなしいだけの部屋になる。
 キリがつかなくて、納得出来なくて。
 遅くまで残れば残った日に限ってたいてい調子が悪くて、ぐちゃぐちゃで帰れなくなってた、あの頃。

 そうっと、控えめにドアを開けて。
 大きな体を小さくしてのぞき込む、彼がいた。

「入っていい?」

 いつも、写真部の部室で現像作業をしていると言っていた。
 地元に就職が決まって余裕だからって、毎日そんなに遅くまで残ってる理由はないのに、必ずそこで待っていた。

 でも、待ってる、とは一言も言わなかった。

「俺も今日は、遅くなっちゃって」

 見え見えの嘘。

「通りがかりに買ってきた」

 差し出されるココアとか紅茶とか、手に持って、入るタイミング悩んでた日もあったんだろう。
 どうしようもなく冷めちゃって、買いなおした日だって、気づいてた。
 気づいてて、何も言わなかった私も私だけど……。

 言えなかった。

 気遣いと優しさが重すぎて、辛いとも思った。
 でもやっぱり嬉しくて、ホッとする気持ちと申し訳ないと思う気持ちが混じり合って、喉まで出てくる言葉をココアと一緒に飲み込む。
 少し冷めたココアが冷え切った体に甘ったるくて。
 待ってるって言ってくれないから、待たないでって言えないのよって心の中で言い訳繰り返した。

 でも本当は、甘えていたんだと思う。
 一人っきりで孤独で不安で、優しい彼の気持ちを思いやる余裕なんてなかった。
 ただ彼の気遣いが有り難くて、申し訳なかった。
 そんな思いと受験への焦りと不安が入り交じって、泣いちゃいそうな日もあったけど。

「もう帰る?」

 熊みたいな目を見つめたら落ち着いて、いつも素直に帰る事が出来た。
 繋いだ手のひら、寒い日には彼のコートの大きなポケットに入れて、歩きにくかったけどそのままで歩いた。


 ふわふわ踊る、窓の向こうの雪みたいな、恋だった。



「は、恥ずかしすぎる〜」

 ごろごろしながら転がって、勢い余って床の上。
 マットだけのベッドで良かった。
 は〜は〜いいながら立ち上がる、友達に言われなくたって、自分でも十分思う。

「少女マンガでも、今時もっと進んでる」

 ってゆーか、ふた昔は前の世界?
 当時から自覚はあったけど!

「あーいう風にしか、出来なかった」

 んだよね、二人とも。



 いちば〜ん辛かった冬を、そんな風に乗り切った後。
 春まだ早いその頃には、自分的には春。

「おめでとう」

 美紀ちゃんの言葉に、少し泣いた。



 受かったら受かったで、忙しかった。
 部屋決めて、引っ越しの準備して、卒業前の諸々。
 極めつけで、最後に彼に会ったのは、卒業式の日。


 結局最後まで、何にも言わない、何にも聞かない人だった。
 むちゃくちゃお世話になった自覚は確かにあったけど、私も何にも言えなかった。

「元気でね」

 ただそれだけで、うつむいたまま。
 つき合ってとか言ってないのに、別れるのも変な話。
 学校帰りに待ってるからとも言わない人が、東京に行く私に約束する筈もない。
 言われてないのに、こっちからも言えない。



「あ」

 りがとう、って言って渡そうと思ってた、東京での住所を書いた紙。
 手のひらの中で握りしめた途端に、向こうから呼ぶ美紀ちゃんの声。

「じゃあね」

 微笑むから、ありがとうも言えなかった。
 言えなかったから、渡せなかった。



 不器用、なんて言葉で済ませていいものかと悩んだりした、十八の恋。



 狭いベッドの上を転がって、壁にぶつかって、すぐまた戻る。
 そんな事を繰り返す自分は我ながら馬鹿だけど、じっとしていられない。

「もう、2年か……」

 よみがえるフィルムは所々に鮮明で、脈打つ鼓動に苦笑い。

「同窓会幹事だったんだ、あの人」

 あんなに不器用な人が、わざわざ実家に電話してくれたりした。
 それも幹事なら、当たり前?

「でも、美紀ちゃんに言えばいいのに」

 女の子の同窓会幹事は、彼女だった筈。
 普通、彼女に頼むよね?
 彼女とはいまだにまめに連絡を取り合ってる、親友だと思う。
 それを、わざわざ電話してくるなんて

「すごいむちゃくちゃ思わせぶり」

 仲良く並んで鎮座して、沈黙保つ二つの電話。
 時計の針は、十時をすこうしまわった所。



「ココアでも、飲もうかな」

 キッチンに行って、ミルクを温めた。
 時計の音が、いつもよりも大きく聞こえる。

 部屋を包む、ココアの香り。
 甘ったるくて、懐かしくって、少し苦い。



 今でもあんな風に、ぼそぼそ喋るのかな。
 今でもあんな風に、優しい目をしてるのかな。

「私だって、少しは大人になったよね」


 変わっていて欲しいような、あのままでいて欲しいような。
 鳴って欲しいような、鳴らずにいて欲しいような……



 鼓動が早い。
 その早さに、あの頃を思い出す。



 赤い顔。

 鳴らない電


 トゥルルル、トゥルルル……





                 〈fin〉



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