…… 雨色恋香 ……






“雨の音がする…”

 まったりとした眠りの中で、目も開かずに考える。

 湿った空気。

 重い雲の隙間からぼんやりともれる光。
 細く開けられた窓から吹く微かな風。

 自分の分身とも言えるその風が、彼の鼻先に触れる。

 水の匂い。

 それは、彼の人の、匂い…

 ゆっくりと寝返りを打ちながら、彼は更なる幸せに身をひたす。

 やや肌寒さを感じて、柔らかなシーツを鼻先に引き上げる。
 息を吸い込むと感じる、残り香の心地よさ。

 降りしきる雨、響く水音。



 やがて、リビングから低くうなる機械音。

“掃除機の音だ…”

 少しずつ覚醒する意識が、彼にそれを伝える。
 少しだけ耳障りなその音が止むのと入れ替えに、わずかに響くスリッパの音。
 時折立ち止まって、また歩き出す。

 抱きしめても抱きしめてもまだ足りない、大好きなその人の足音。
 感じる気配に困惑する程の安堵感と愛しさを感じて、彼はそっと目を開く。

 見慣れた部屋。
 彼の人と二人で暮らすその部屋で目覚める、その幸せ。
 そしてその部屋を見慣れたと感じる自分の幸せに、知らず頬が緩む。

 頼りないレースのみを残して開かれたカーテン。
 それでも部屋の中は薄暗く、ぼんやりと青い。

 青は、好きな色。
 紺に近いそれはもともと自分の好きな色だったが、それがより薄さを増せばなお良いと思う、近頃の自分。

 水色、と呼ばれるそれは、彼の人の色。





「でもほら、あんまり家中全てを青で統一するのはイマイチだよね。下手すると淋しくなちゃうからさ」

 独特の甘い声で言うその言葉に、逆らう気は毛頭ない。

「お前に任せるよ」

「そんな事言って君、まさか僕に全部押しつけようとしてるんじゃないだろうね?」

 自分の言葉に片方の眉を器用に上げて言う、その表情の全てがたまらない。

「まさか、もちろん買い物にはお供させていただきますよ」

 卑屈な自分の物言いに心持ち不満げな目線を送る、幼げな表情。
 耳元で囁くふりをして、その頬に唇を寄せる。

「!…場所を考えろっていつも言ってるだろ!」

 もちろん、昼を過ぎたファーストフードの賑やかな店内で声を荒立てる程、考えなしな彼の人ではない。
 それを見越してあえてそれをする自分を知りつつ、

「後で覚えてろよ」

 不機嫌に呟く彼の横顔を、もちろん忘れたりなんかしない。
 わずかに頬を染めるその顔を、忘れたりなんか出来る筈がない。

 半日かかって選んだベッドやシーツ、カーテンに家具の全て。
 シンプルに、十分にくつろげるように。でも、無機質にはなりすぎないように。
 さりげなくこだわったそれらに満たされた部屋に、不満はもちろん一つもない。

 その一つ一つを吟味する真剣な横顔に見惚れて、そんな自分を怒る彼のその表情すら思い出せる程に。





“しあわせだなぁ…”

 自然ににやける彼の鼻を、香ばしい匂いがくすぐる。




「基本的にはお茶系の方が好きなんだけど、この匂いも確かに捨てがたいんだよね」

“最近、お茶の時間にコーヒー入れる事が多いね”

 誰かの問いに答えた、彼の人の声。

“別にお前の好みに合わせてるんじゃないよ”

 含ませた視線をチラリとこちらに寄越す。
 今よりほんの少しだけ幼い横顔。




 可愛かったよなぁとへらへら頬を緩ませて、ゆっくりと起きあがる。
 
 時計の針は午後2時過ぎ。
 寝たのは東の空が白む頃だったが、さすがに睡眠は足りている。

 些細な物音にも敏感な彼の人を夜中に起こすのが忍びなくて、しばらく早寝を心がけていたのだが、昨夜は久々に興がのって寝そびれた。
 いっそ寝ずに起きていようかとも思ったのだが、一目のつもりで覗きに来た寝顔に吸い寄せられるように隣に潜ってしまった。

「…ぅん?…こんな時間まで起きてたの?」

 無防備なその表情に、吹っ飛ぶ理性をすんでの所で押さえた夜明け。

“ちったぁ時間も選ばんとな。別にあせらんでも逃げはせんし”

 思い出す、かの表情に更に頬をたるませて、彼は立ち上がり寝室を出る。



 柔らかな光に満ちたキッチン。
 香ばしさを増す香を漂わせて、彼の人が振り返る。

「やぁっと起きたね。でも丁度良かったよ、休憩しようと思ってた所だから」

 変わらない、甘い声。
 少し意地悪げな、呆れたようなその物言いが心地よくて。

「伸…」

 吸い寄せられるように近づく自分の腕を、予想していたようにするりとよける。

「はいはい、そこに座って待ってて。ついでにトースト焼くから、それで軽く朝食にしておいてね。どうせすぐに夕食の時間になるから」

“かなわんなぁ…”

 などと思って更に頬が緩む。
 てきぱきと動く後ろ姿。
 あの頃より少し背が伸びて、顔つきも少し変わって確かに大人の体になっても、どこか中性的なしなやかさを感じるその体を抱きしめたくて、けれど思いとどまる。

“ま、後のお楽しみっちゅーもんもあるしな”

 実際、自分の欲望は常に正直で、その時もっとも激しい欲望は先程からしつこく音を上げていた食欲だったので。




「はい、どうぞ」

 待つ間もなく並べられたコーヒーとトースト、簡単な卵料理。
 自分の分のカップを持って座る伸は、向かい合う当麻の顔を見て眉を寄せる。

「どうしたのさ、やけににやけて」

「いや…、幸せだなぁって思って」

 大好きな想い人のその顔を見て、当麻はへらへらと答える。

「?…まだ寝ぼけてるの?いいけど、片づかないからさっさと食べちゃってよね」

 もちろん彼は、その言葉に従う。




 降りしきる雨、響く水音。
 それは時折音色を変えて、あくまで甘く降り続く。

 緑冴え、大地が潤う、恵みの雨。

“満たされてる…って感じだよなぁ”

 うっとりと呟いて、当麻は柔らかなソファに身を埋める。
 ぱたぱたぱたと、軽やかな足音。

 「人の動く気配」がこんなに安心するモノだなんて、彼が知ったのはそう昔の事ではない。

 人の気配のしない、マンションに一人。
 それが、幼い頃からの彼のディフォルト。
 それが淋しいなんて事、彼は知らなかったけど…




「ちょっと、まぁた寝る訳?ただでさえかびやすい季節なんだし、腐るよ」

 満腹感とくつろぐ室内の心地よさに、つい意識が遠くなる。
 そんな当麻を見下ろすように、声をかける伸。
 心底呆れたような彼は既にエプロンを外して、家事は一段落ついたらしい。

「それにしても、いくら恵みの雨とは言っても、こう毎日続くと嫌になちゃうよね!洗濯物は乾かないし」

 教えたのはこの人なので、責任をとってもらう権利があるだろう。
 ぶつぶつと呟くその人の腕を掴んで、隣に座らせる。

「まあまあ。それより、ちょっとのんびりしようぜ」

「あのねぇ、僕は君みたいに暇じゃないんだけど!」

 文句を言いつつ逃げないのなら、それは承諾の意。
 あまのじゃくな彼の言動は、既に承知済みなので。

「木々が潤うし、空気が綺麗になるのは嬉しいんだけど、僕乾燥機って嫌いなんだよね、基本的に…ちょっと当麻、聞いてるの?」

 一応の抵抗程度に身じろぎする、大人しく腕の中に収まらない細い体を後ろから抱き寄せて、白いその耳元に囁く

「俺はさ、好きだけどな」

「何がさ」

 照れれば照れるほどぶっきらぼうになる彼の人の喋り。

「雨の日」

 呟きながら形のいい耳に更に唇を寄せる。
 びくりと身じろぎするその頭を軽く掴んで、離れるのを許さない。

 気持ち潤んだかのように見える伸の青い瞳が、彼を睨む。

「だって、お前に包まれてるみたいだろ」

 ……………。

「ばか…」




 囁く声が甘く響いて、雨音に重なった。




「やっぱり脳味噌腐ってる…」


 降りしきる雨、響く水音。


「元が優秀ですから、問題ないですね」


 湿った空気。


「僕は嫌だよ」


 重い雲の隙間から、ぼんやりともれる光。


「んじゃお前が癒してよ」

「なぁ〜んで僕が!」




 細く開けられた窓から吹く、微かな風。




 降りしきる雨、響く水音。




 それは、水と空気が溶けあった、幸せな一日。




<fin>    




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