8月末日−大阪。

トゥルルルル〜トゥルルルル〜

 機械音にふと頭を上げたことで、自分が眠っていた事に気が付いた。
 動いた弾みに身体の一部がマウスに触れたらしく、ブッラクアウトしていたモニターがブ〜ンとうなってオンになる。

AM 8:42

 ウィンドウの隅に表示された時間を確認して、軽いため息を付く。
 2時間ほども眠り込んでしまっていたらしい。

トゥルルルル〜……カチッ。

「はい、羽柴です。ただいま留守にしております。ご用の方は発信音の後にメッセージと名前を入れておいて下さい、よろしく」

 電話は何度か鳴り続けて、留守電に切り替わっていた。

「当麻?久しぶり、ナスティです。本当にいないの?まあいたとしても、こんな朝早くにあなたが起きている筈はないわね。寝ていたら、電話ぐらいじゃあ絶対に起きないでしょうし……ふふ」

 懐かしい声に、思わず頬が緩む。
 けれど、受話器を取りはしない。用件は分かっている。

「あなたからのメールは夕べ届きました。やっぱり来てはくれないのね。予想はしていたけれど、残念だわ。せめて声ぐらい聞きたかったのに、いつ電話しても留守電だし……。まあ、そんな所もあなたらしいと思うけれどね」

 変わらないまったりとした喋り口。初めは内心いらいらした事を思い出す。
 いつの間にかこの声が“安心”の一つになっていた。

「他の4人は今日の午後にはこちらに来てくれるそうです。秀はお昼頃にはつきそうですって、相変わらず元気よ。久しぶりに、賑やかな週末になりそうだわ。あなたも気が向いたら電話ぐらいして頂戴。みんな懐かしがってると思うから……それじゃあね、また」

…………ガチャッ、ツー、ツー、ツー。

 少しだけためらったような間があって、電話が切れる。
 その少しの間にこちらを伺った気配を感じて、当麻は止めていた息を吐き出した。

 遮光カーテンの閉められた薄暗い部屋。
 立ち上がって伸びをすると、随分と体がこわばっているのを感じる。
 付きっぱなしのパソコンをそのままに、キッチンでコーヒーをセットした。
 今現在、この家で唯一頻繁に使われる調理器具であるコーヒーメーカーが、苦しげに仕事を始める。
 芳ばしい香りの漂い始める中、ふと思いついて窓に近寄った。

 カーテンの隙間から外を覗こうとして、眩しさに目がくらむ。
 片目をつぶって見上げる窓の外は快晴。
 盆も過ぎたと言うのに、猛暑が続いている。

「むこうも、晴れてるかな」

 今日も、暑い一日になりそうだった。



…… あのときの空 ……



同日−PM 3:30 小田原、柳生邸。

ピンポーン。

 チャイムの音も鳴りやまぬうちにドアを開いたナスティは、懐かしい顔に笑顔を見せる。

「久しぶり、ナスティ。元気そうだね」

 柔らかな声、茶色い髪、変わらない笑顔。

「伸!よく来てくれたわね、嬉しいわ。さあ上がって、秀や遼はもう来て…あら!」

 扉を大きく開いた向こうにもう一人の影。

「バス停で丁度会ったんだ」

 伸が身体をずらすと、また懐かしい顔が微笑む。

「久しぶりだな、ナスティ。相変わらずで何よりだ」

「征士!まあ、だったら電話してくれれば迎えに行ったのに」

「大した荷物じゃなかったからね、大丈夫だよ。ナスティは今夜の準備で大変だろう?」

 心得ているという伸の言葉に征士もうなずく。

「でも、暑かったでしょう?早く入って、今冷たいお茶を入れるわ」

「なんだよ、おっせーよ二人とも!」
 
 ぱたぱたとキッチンへ急ぐナスティの後に続いて部屋の中に入ると、早速そんな声がかかる。

「随分な挨拶だね、秀」

「全く、久しぶりに会ったと言うのに失礼な奴だな。私たちだって朝一番で家を出て来たんだぞ」

「そうそう、一番近い秀が一番早いのは当然なんだから、偉そうにしないでくれる?」

 畳みかけるように言う伸と征士の言葉に舌打ちをする秀、その後ろで笑い声が響く。

「相変わらずだな、みんな」

「遼!元気だったかい?」

「なんだよその全快の笑顔は……」





 夏休みが終わる前の、最後の週末。

 少し遅れた遼の誕生日祝いと、どうせなら少し早い秀の誕生日も祝おうかと、4人は柳生邸に集まった。
 賑やかな挨拶は、家主であるナスティがお茶とクッキーを持って部屋に入ると一層高まる。
 たった数ヶ月の事なのに、ひどく久しぶりのような気がして。
 離れていた空白の間を埋めるように、皆がよく喋った。
 一通りの近況報告を終えると、この場にいない人物の話題になる。

「ほんっとつき合い悪いよな、当麻の奴」

「全くだ。いくら忙しいと言っても、少しぐらいの時間の都合はつけられるだろうに」

「でも、当麻には当麻の事情があるのよ」

 秀が言えば征士がうなずいて、ナスティがフォローする。

「なんか、前もこんな事あったよな」

 遼がぼそりと呟いて、そう言えばそうだったと苦笑いした。

「伸は、当麻と連絡とったりしてないのか?」

 急にふられて見つめられて、伸は何故かどきりとする。
 振り返った遼は日に焼けて、少しの間に大人びて見える。

「全然。どうして?」

「ううん、なんとなく」

 少しの間と気まずさは、新たな訪問客によってかき消された。

「純!なんだよお前遅いじゃねーか!」

「塾に行ってたんだよ〜。秀にいちゃんみたいに遊んでばっかりじゃ、大人になってから困るからね」

「生意気いいやがってこいつ!」

 賑やかな笑い声がまた響いて、そろそろパーティの準備をしましょうとナスティが立ち上がる。

「手伝うよ。久しぶりの大人数の食事は大変だろ」

 そう言いながら伸は誰かの視線を感じた気がしたけれど、あえて無視した。



大阪 PM 8:00。

 そう言えば腹が減ったなと顔を上げると、やっぱりこんな時間だった。
 やれやれとため息をついて立ち上がり、キッチンへ行く。
 特に出かける予定もなく面倒なので、買いだめの食料で手軽に済まそうと棚をあさって、カップ麺とカップ焼きそばとカロリーメイトを机に並べた。
 誰が見ても眉をしかめそうな夕食だが、後でビタミン剤でも飲んでおけば事足りるだろう。
 大食いだがグルメではない当麻は、食事というものにあまりこだわる気がない。
 旨いモノを旨いと感じる舌は人並み以上にあるし、旨いモノが食えるに越した事はないのだが、こんな生活でそんな事を言っていても仕方ないだろう。
 どうせ作業に没頭すれば食事など簡単に忘れられるし、逆に食える時には大量に食う。
 生きていくのに最低限のエネルギーが補給できれば問題はないと思う。
 小学生の頃に母が家を出て以来、一人暮らしのような生活を続けてきたから、そんな考えが当然だと思っていた。もちろん今でも、基本的にはそう考えるが……。

 一杯にお湯を沸かしたやかんを右手に、食料を重ねて左手に持ってリビングへ移動する。
 テーブルの上にそれらを並べてお湯を注いで、待ち時間の間にTVのリモコンへ手をのばす。
 別に見たい番組がある訳ではないが、それは彼らと別れてここに戻って来た時からの当麻の習慣だった。



 何が原因だったか、ちょっとした喧嘩をした事があった。
 相手は、そのころ既に身体を重ねる関係になっていた水の戦士。

「君らしいとは思うけど、僕はその意見には同意できないね」

 確かそんな風に彼は言って、キッチンから出て行ってしまった。いつものように当麻が昼過ぎに起きて行った時だろう。周りに他の人間はいなかった。
 毛利伸と言う人物と自分は違うように見えて実はよく似ている部分があって、それ故に対立する事も多かった。大概は少し時間を置いてお互い頭を冷やせば妥協点は見つかるのだが、妙に意固地になってしまう時もある。
 やれやれとため息をついて、それでもテーブルの上に並べられた自分の為の食事を食べていた、その時。

「あれ〜?何だよ当麻一人かよ」

 大きな声を出してキッチンに入って来たのは秀。

「悪いか。伸なら出て行ったぞ」

 うるさい奴が来た、とばかりに不機嫌に答えた当麻の気持ちを知ってか知らずか、秀がはは〜んとうなずく。

「お前、伸の事よっぽど怒らせたんだな」

「……どういう事だ?」

「だって、ここで伸が用意してくれたモノ食ってる時に伸がいてくれないなんてよっぽどの事だぜ」

 言われて初めて気づく。
 そう言えば確かにそうだ。どんなに忙しそうにしていても、相手が誰でも。
 何かを食べようとする時、伸はいつでもここにいて、一緒にお茶を飲んだり、話につき合ってくれる。


「え?変かな?だって、一人でモノを食べるのって寂しいだろ」

 後日、その話を伸に聞いた時の彼の言葉。
 当たり前みたいに言ったその言葉は、自分にとっては未知の響きだったけれど。



 その時以来当麻は、一人でモノを食べる味気なさを意識するようになった。
 TVなんて相手にしても、味は変わらないけど。

「今頃、あいつら騒いでんのかな……」



小田原 PM 11:00

「俺さあ、伸」

 歩道の脇のブロックの上をふらふらと歩きながら、遼は言う。
 高原の夜風は火照った肌に心地よく、空には星が光っていた。

「危ないよ、遼」

 いつでも支えられるように手を延ばしながら、伸は言う。
 散歩に行こうぜと、誘ったのは遼だった。
 酔い冷ましには丁度いいかもと誘いに乗った伸だったが、屋敷を出て歩き出して始めて、実は遼が随分と酔っぱらっているんじゃないかと言うことに気がついた。
 誘われた時に気がつかなかった自分も大概酔っていたと思うが、伸の方は夜風に吹かれている内に意識もはっきりしてきた。

「今日伸に会えて、すっごく嬉しかったんだ」

 上機嫌の遼はそんな風に言ってにっこり笑う。
 伸はその笑顔に、少し戸惑う。

「……みんなと会えて、だろ。遼」
 
「もちろんそうだぁけど〜。でも、伸の笑顔を見た時がいちば〜ん番嬉しかったんだ〜」

 ふらふらと歩く遼は、ろれつが回っていない。

「僕も、嬉しかったよ。遼に会えて」

 まあ良いかと答える言葉は、もちろん嘘ではない。

「伸の事、一番思い出してた。なんだか気づくと浮かんでて、なんでだろうってずっと考えてた」

「どんな時?」

「……ご飯つくってくれたなとか、起こしてくれたなとか」

「お母さんだよ、それじゃあ」

 そう言うことかとくすくすと笑う伸に、違うよ!とムキになって叫ぶ。
 その拍子にふらついた遼を支えようとして出した手を、逆に捕まれて、抱きしめられた。

「遼?大丈夫?」

 ブロックからおりて並んだ遼はそれでも伸より目線が高くて、また背が伸びたんだなと状況に合わない事を考えた。

「こんなに、細かったんだな。俺、全然知らなかった。あんな重い鎧を着て、あの頃はいつも俺の方が寄っかかってたけど。背だって俺の方が高いし、肩だってこんなに薄いし」

「君が随分成長したんだよ」

 丁度考えた事を言われて、つい真面目に答えてしまう。

「なんかさ〜、すっごくどきっとしたんだ、伸の顔を見た時。色も白いし、髪もやらかいしさ〜、ふわって笑うと可愛くて、女の子みたいだな〜って。ぎゅって抱きしめたら気持ちいいかな〜って思っちゃって……気持ちいい〜」

「ちょっとちょっと、りょう!」

 すりすりと抱きつかれて慌てたけど、随分酔っているんだなとため息をつく。

「もう、僕は男だよ」

「わぁかってるけど〜なぁんかさ〜」

 もごもごと答える遼は、かなりあっちの世界に行っているようだ。自分が何を言っているのか、多分明日の朝になったら覚えていないだろう。
 赤い顔を見ていたらなんだかおかしくて、伸は笑ってしまった。

「お年頃、って事かな〜」

「わるいかよ」

 それでも一応聞こえてはいるのか、ぼそりと答えたりする。

「ほら、遼しっかりして。ナスティん家に戻るよ」

「ん〜……」

 笑っている場合でなく、なんとか自力で歩いてくれる内に戻らないと大変な事になるだろう。実際背も伸びて成長した遼の身体は、伸が抱えるのは無理そうなので。

「ちゃんと歩いてよ、遼」

「ん」

 全く、これだから酔っぱらいと散歩になんて出るモンじゃないと思いつつ、時折よろめきながら夜道を歩く。
 こんなに酔っているんだから、今聞いた言葉は全部、自分も忘れるようにした方がいいんだろう。
 それでも伸はつい、呟いてしまう。

「僕なんかに、惑わされてるんじゃないよ」

「ん〜?」

「まっとうに、健全な道歩むんだよ」

「ん〜」

 ふらふらと歩く二人の行き先を、月明かりが照らしていた。



大阪 PM 12:00。

 エアコンとコンピューターの作動音をBGMにして、カチャカチャとキーボードを叩く音。少しの間。そしてまたキーボードを叩く音。
 静まり返った室内に、それだけが響いている。
 思い出したようにテーブルの上に置かれたカップに手を伸ばした当麻は、それが既にカラになっていた事に気づく。
 ため息をつくと、カップを持って立ち上がった。

 作り置きの煮詰まったコーヒーをカップについで、ふと誰かの声を思い出す。


「まぁた君はそんなにコーヒーばっかり飲んで。胃に悪いよ」

 呆れたような、少し怒っているような、甘い声。

「別にいいだろう、俺の身体なんだから」

 反論するそばから手が伸びて、カップの中身はカフェオレに早変わり。

「そりゃ君が早死にするのは君の自由だよ。でもこれは、僕の気持ちの問題。仮にも知り合いが僕の目の前で寿命を縮めてるのをただ見てるなんて、後味が悪いからね」

 そんな風に笑われると、何も反論出来なくなる。
 いつだって、相手に気を使わせないで気を使う事の上手い奴だった。
 不器用な自分がそんな彼の態度にどれだけ助けられていたか、当麻自身が誰よりも知っている。

 冷蔵庫を開けてみても、賞味期間の短い牛乳を常備するなどという習慣はなく。
 思いついてあさった戸棚の奥に、古びたクリープの瓶を見つけた。
 底の方に固まったそれは風味に問題は有りそうだったが、腐っている訳ではなさそうだ。

「ふむ」

 当麻はうなずいて、煮詰まったコーヒーにそれを入れる。
 一口飲んだコーヒーは少し甘くて、どこか懐かしい味がした。

 こんな風に、自分が折りに触れて思い出している事を、当の本人は知っているだろうか。
 少女のような顔をしてキツイ事を平気で言う、不安を抱えてもそれを隠すポーカーフェイスばかりが上手な、一つ年上の彼は。

 電話も、かかって来なかったな。

 壁の時計は、11時を過ぎている。そろそろ宴会も終わって、つぶれた秀や遼を部屋に運んで片づけ始めている頃だろう。

 会いたくない、訳ではないけど。

 自分からは、連絡しないと決めた。
 戦いの終わった平和なこの生活の中で、戦う為に集った仲間と再び会う必要はないと、“智将”である自分が思うので。
 会おうとする彼らを、避難するつもりはまるでない。
 当麻自身、そう思ってしまう気持ちがあるから。
 だから、電話には出ない。声を聞いたら、懐かしく思うから。
 ここに自分が一人でいる事を寂しく思ってしまうから。

 けれど。

 電話がかかってこないその事実を、寂しく思う自分もいるのだ。
 矛盾する気持ちに器用にフタをして、また無言でパソコンに向かった。



小田原 AM 1:00

 ほとんど酔いつぶれてしまった遼を抱えた伸は、苦労してナスティの家に戻って、心配していた彼女に協力してもらって遼を部屋に運んだ。

「お疲れさま、大変だったわね」
 
 ねぎらってくれる彼女に、全くだよと笑って答えて、汗を流すためにシャワーを借りて。
 さっぱりしてリビングに戻ると、こちらは酔い醒ましの素振りから戻ってきたらしい征士が伸の顔を見て、モノ言いたげな様子をしている。

「まだ起きてるから、とりあえず君もシャワー浴びてきたら?」

 苦笑しながらそう言うと、征士はうなずいてバスルームへ消えた。
 長い一日は、まだ終わらないらしい。



 バスルームから出た征士を、伸は夜風の当たるバルコニーに誘った。

「遼も言っていたが、私も、お前と当麻は連絡を取り合っていると思っていた」

「どうして?」

 予想していたのか、唐突な切り出しにも伸は驚かない。
 代わりに、答えをじらすようにそんな風に答えてみたけど。

「……それは、お前が一番良く知っているだろう」

 闇の中でさえ真実のみを貫くような、薄紫の瞳。
 射られたような鋭さに一瞬止めた息を、ゆっくりと吐き出す。

「そうだね」

 同時に、隠していた心の一部も吐き出す事にした。
 当麻との行為をどこまで知っているかは別にして、二人に何らかの関係があったことを征士は気づいている。

「正直、分からないんだよ」

「何が」

 言葉を探す間を、征士は静かに待つ。
 木立を抜けた夜風を頬に受けて、伸はゆっくりと口を開いた。

「僕等は、僕と当麻は、確かに何かの想いを共有していた。でも僕はそれをあくまで、一過性のモノだと思っていた」

 触れ合う事で感じていた何かは、確かにあった。
 不安と恐怖との戦いの中で、それによって癒された。
 きっと当麻にも、同じ事が言えると思う。

 でも。

 じゃあねと、何事もなく別れた二人。
 終わりだと思っていた。

「戦いが終わって別れてしまえば、忘れてしまうモノだと思っていた」

「実際は?」

 離れて、どうだったのかと征士は問う。

「分からないんだ、それが」

 お手上げ、なんて両手を上げて、伸はふざけたように言う。
 あくまで真剣な眼差しの征士は無言のまま、そんな伸を見つめる。
 おどけた表情のまま征士を見返していた伸は、やがて根負けしたように息を吐いた。

「本当はね、会えば、分かるかと思ってここに来たんだ。でも当麻は来なかった。やっぱりあいつにとっては、終わってたって事かな」

 触れ合った事を、罪のように感じていたけれど。
 君にとってもあれは、無意味な時間だったの?
 あの時間を“なかった事”にしようとした。
 けれど忘れようとする程、何かが気にかかる。

「それは、どうかかな」

 ぼそりと呟いた征士の声に、伸は顔を上げる。

「以外と、不器用なモノだ。殊に、頭がいいとか分別があるとか言われる者は。大切にしたいものほど、見栄だとかプライドだとかに邪魔されて欲しいと言えなくなる」

 ゆっくりと告げられる言葉に何か意味深なモノを感じて、伸は征士の顔を見つめる。
 目線より少し上にあるその瞳は、長い前髪の間から伸を見返す。

「随分、リアリティがあるね、征士。それは、君自身の経験?」

「さあな」

 答える征士の表情を、雲が隠した。





 征士と別れた伸は、与えられた部屋に戻った。
 誰が言い出した訳でもなく、部屋割りはあの頃のままだった。
 一応気を使ってドアを開けたけれど、酔いつぶれた秀はまるで起きる気配などない。
 伸は笑みを浮かべながら、ベッドにどさりと横になった。

 閉め忘れた窓から、星が見える。



 いつだったか、何かの弾みで家族の話題になった事があった。

「両親は、俺が12の頃から別居してる」

 あまりにもあっさり言うので、伸は逆にそれが気にかかった。


「お母さんが出ていった時、寂しくなかったの?」

 そんな風に聞いてしまったのは、ベッドの中。
 身体を合わせた後は、心までも通うような気がして。
 事が済んだ後には饒舌になるのが常だった。

「そんなに子供じゃないさ。それにポケベルの番号は聞いてたんだ。連絡を取ろうと思えばいつでも取れる」

 やっぱりあっさり言う当麻に、逆に伸の方がむきになる。

「連絡取ろうとか思わなかったの?」

「取ってどうするって言うんだよ」

「だって、お母さんだろ?」

「だから、わざわざ取る必要ないだろう」

 食い下がる伸にのせられたのか、当麻も少しむきになる。

「どういう事?」

 目を合わせて聞くと、少し困ったように目をそらした。

「お袋が俺のお袋なのはどうしたって変えられない事実なんだ。だからこっちから連絡する必要なんてないだろう」

 そうしてそんな風に、ぼそぼそと答える。

 本当は、ものすごく不安だったんじゃないだろうか?

 そんな考えが、伸の頭に浮かんだ。
 自分から連絡を取って、それでもし、お母さんに会うのを拒否されたら……
 余裕ぶって見せて、本当は否定されるのを恐れてる子供。
 憮然とした横顔が、なんだか可愛く見えておかしかった。
 あのとき伸は、初めて気づいたのかも知れない。

 頭が良くて強引で、いつも弱みを見せない当麻の、本当は繊細な所。





 まぶしくて、目が覚めた。
 結局開け放して眠ってしまったらしい窓の向こうで、鳥が鳴いている。

「ん〜、朝か〜……」

 呟く声に振り返ると、暑かったらしく額に汗を浮かべた秀がもぞもぞと顔を上げる。

「おはよう、秀。夕べは随分飲んでたけど、大丈夫かい?」

「うっ……ゆうな〜。あったまイテ〜」

 笑いながら声をかけると、やっぱりそんな風に言って頭を抱える。

「自業自得だよ」

 なおも笑いながら言うと顔をしかめながら、それでもふらふらと窓に近寄ってきた。

「あっついな〜、今日も」

「ホントに」

 見上げる空は、まだ朝だと言うのに激しく太陽が自己主張をしている。

「大阪も、こんなんかな」

 唐突に言い出した秀に驚いて横顔を見つめると、秀は伸を振り返って言った。

「んでも当麻の奴は、きっとこんな朝日なんて拝んでね〜だろうけどな」

 笑おうとして頭に響いたのか、すぐにまた顔をしかめて頭を抱える。
 そんな秀の様子がおかしくて、伸は笑った。



 その日の午後にはまた家の遠い者から柳生邸を出て、それぞれの家に帰る。
 全く慌ただしい週末だったが、みな晴れ晴れとした顔をしている。
 まず屋敷を出る事になった伸と征士と遼を囲んで、口々に再会を約束した。

「当麻兄ちゃんも、来たら良かったのにね」

 残念そうな純の言葉に、そうねとナスティが微笑む。

「なんで来なかったんだろうな、当麻」

「どーせなんか、小難しい講釈つけるんだぜ。あったまいー奴ってわかんねーよな」

 遼が呟いて、秀がそんな風に眉を寄せる。
 うなずきながら、征士が呟いた。

「来れば、良かったものをな……」


 みんながやっぱり、気にしている。
 ここにいない人物に、会いたいと思っている。

 暑い午後だった。
 伸は荷物を持ち直して、流れる汗を拭った。




 小田原の駅で征士と遼と別れて、伸だけは西へ行く。
 そう言えば、以前にこうやってみんなと別れた時には隣にもう一人いたなと、ふと思った。
 午後まだ早い時間だったので、新幹線の車内は空いている。
 伸が2人席の窓際にさっと座ると、程なく列車は動き出した。
 何故か持って来た文庫本を読む気にもならず、ただ窓の外を流れる景色を見つめていた。



    溶けてしまいそうな真夏の午後 空には雲などなくて
    あきらめの悪い天使達が 木陰でもがいている

    あの頃の僕は何も言えずにいたけど
    それぞれの未来歩いてみても 何か足りないよ

    いつものように笑っててよ 昔も今も変わらずに
    二人で見たあの空を僕は 忘れられずにいる



 朝方眠りについた当麻は、午後の生ぬるい風に目を覚ます。
 相変わらずの締め切った部屋、響くエアコンの音。
 風を感じたと思ったのは、気のせいだろうか?

 のっそりと起きあがって、カーテンの隙間から空を見上げる。
 ぎらぎらした夏の陽射しがまぶしくて顔をしかめるけど。

「今日も、暑いな」

 そんな風に呟きながら、違う言葉を、言わないと決めている言葉を風に乗せた。



    からみつきそうな陽射しを浴び 匂い立つ道に立って
    光と影の織りなす模様に 君を思い出す

    あの頃のように君を求めてみたけど
    遠い砂漠の出来事みたいに 遙か霞んでいく

    いつものように笑っててよ これから先も変わらずに
    二人で見た夕暮れをずっと 忘れられずにいる



    誰も入れない 弱い笑顔
    それでも僕は 分かってるつもりだったのに



 ふわりと、何かを感じた気がして。
 伸はふと、閉じていた目を開けた。いつの間にか、眠っていたらしい。
 もうじき、名古屋。
 列車を乗り換えて、更に西へ行く。


「もしもし、あ、姉さん?そう、僕。うん、実は少し予定を変更するかも知れないんだ。…………うん、そう、そんな所。ごめん、また電話するから。じゃあね」

 受話器を置いた伸は軽くため息をついて、自分の言動に苦笑いする。

 そうして雲一つない空を見上げて、もう一度、笑った。



    あの頃の僕は何も言えずにいたね
    それぞれの未来歩いてみても 何か足りないよ

    いつものよに笑っててよ 昔も今も変わらずに
    二人で見たあの空を僕は 忘れられずにいる


    いつものよに笑っててよ これから先も変わらずに
    二人で見た夕暮れをずっと 忘れられずにいる



<fin>



あのときの空 の解説を読む(^^;

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