伊都遺跡 王都発掘ニュース欄の特設について

 福岡県前原市辺り一帯(糸島地方と福岡西区)は本書で倭国、耶馬台国の都、女王の都と論証するところです。本書が予測するこの伊都地域から、ついに2005年 倭国王「帥升」と目される井原鑓溝王墓を含む弥生墓32基や、”宮殿”跡or”祭殿”跡と目される方形区画溝の2偶が発見され発掘が開始されました。
 これまで平原遺跡 三雲南小路遺跡などから大きさ、枚数ともに日本一の銅鏡と 宝剣 勾玉の弥生の三種の神器が出土し、翡翠や瑪瑙(メノウ)硬玉 壁、そして シルクロードで伝わった美しいガラス管玉など数千個が発見されています。これらの他の追随を許さぬ、おびただしい宝玉類、御物は弥生時代の前原市辺りが古代倭国の中心地だったことを示しており、まさしく邪馬台国 倭の女王の都の地にふさわしいものです。つまり伊都国は千戸の密集した倭国の王都、都市国家だったのです。三雲、平原王墓に続き、代々の倭国王の墓や宮殿跡などがさらに発見されれば、歴史的な成果となりますので、この欄を特設しニュースが入り次第続々と速報していきます。御期待下さい。  2005.3  

                   

伊都遺跡 王都発掘ニュース&お 知 ら せ    更新2007.3.1  戻る

07.3.1井原鑓溝遺跡の王族の弥生墓(22基、通算37基)から王族のシンボルか弥生期初のむらさき粒玉49個出土! 内行花文鏡や宝玉など数千点発見 。 あまりにも多すぎて井原鑓溝王墓まで達せず、今後さらに隣接する西の丘陵の発掘が期待される

  

 伊都国王を頂点とする
   王族の集団墓発掘ー22基ー

 江戸時代(天明年間)農民が水田から(井原鑓溝)甕棺や銅鏡を発見し、青柳種信に記録されたが、その後位置不明となっていました。この幻の王墓の再発見に向けて発掘が行われていましたが、今期の発掘成果が発表されました。(上はそれを報じる糸島新聞の記事の一部)

         07.3.1 写真提供 糸島新聞

伊都国王は倭国王と言われています。(東大名誉教授 故 西嶋定生先生 柳田康雄先生)今後の更なる発掘が期待されます。(著者私見)                       

写真上 内向花文鏡破片 同新聞写真のカラー 
  下 王族の墓跡?現地説明会のスナップ
      

                

井原鑓溝王墓の発掘・位置決定は相当困難 全国から激励の言葉を送りましょう。
 
館長 西谷先生の新年報告
 
「 後世の耕作に伴う撹乱がひどく 王墓を特定することは容易なことではありません」
          -07.1.1糸島新聞より-ここをクリック(リンク1/10まで)

 しかし、井原鑓溝王墓は江戸時代に一度発見され、それを記録した青柳種信の鏡片拓本と一致するかけら、または勾玉が現地からでれば王墓確定は有力です。(著者私見)

いよいよ見つかるか 幻の王墓井原ヤリミゾの調査開始
               
06.11.23糸島新聞(写真提供)    
  秋の収穫も終わり、調査開始で、
     幻の倭国王 
帥升の王墓発見へ王手! 
 見つかれば伊都がその名の通り倭国の都=倭都(イ都)としての倭国の王都の証拠となります。地中レーダー探知の帥升の王墓近くにすでに15基以上の”王族”の墓が発掘されていることは伊都が2世紀から4世紀まで都として発展していた事を裏付けます。これはすなわち邪馬台国の時代を含みます。
邪馬台国北部九州、首都 伊都説がますます有力と言えます。
 *倭には(ワ、イ)の2つの読み方がある。3世紀以前はイと読まれていたなごりでしょう。大字典をご覧ください。

 

三雲・井原遺跡の報告書が完成

前原市教委はこのほど、同市の「三雲・井原遺跡」の発掘成果を報告書にまとめた。
 県道の拡幅工事に伴い、南北約840m、幅約4mの範囲を2004年5月から約10カ月かけて発掘調査した。調査範囲は三雲下西、三雲中川屋敷、三雲七夕など15の遺跡にまたがり、うち井原ヤリミゾ遺跡からは弥生時代後期の墓域が検出。3基の木棺墓から方格規矩(きく)四神鏡1枚と
内行花文鏡2枚分の破片が見つかり、7000個以上のガラス小玉などが出土した。被葬者は、貴重な鏡を副葬された王に近い人物とも考えられることから、「幻(まぼろし)の伊都国王墓」といわれる「井原鑓溝王墓」が近くに存在する可能性が高まり、新聞紙面をにぎわせた。
 江戸時代の国学者青柳種信は著書「柳園古器略考」で、天明年間(1781―88)に怡土郡井原村の「鑓溝という溝」にあったつぼの中から約20枚の銅鏡が見つかったと記し、鏡片の拓本を残した。豪華な副葬品から王墓とみられているが、遺跡の正確な位置が分からず、「幻の王墓」となっている。報告書は、「総括」で井原ヤリミゾ遺跡の葬送儀礼や墓域の時期的変遷などについて記述。「『鏡+玉類』『鏡のみ』『玉類のみ』『副葬品をもたないもの』と同一墓域内でも副葬品の格差が見られた」「鏡・玉類の供献や高い副葬率は、これらの被葬者が特定家族墓または中心被葬者に対する
エリート家族と考えられ、副葬品の格差は、その内部により生じた複雑な階層差を反映していると考えられる」とする。また方格規矩鏡の年代観から「今回の墓群が井原鑓溝王墓と重層的関連をもつ可能性が高い」と締めくくっており、同市教委では「近隣地に井原鑓溝王墓があるのではないかという推測ができるようになった」と発掘成果について語っている。06’6.28糸島新聞より

これは県道拡張部分の発掘が終わったので報告書が出されたが、近傍にあると見られる倭国王 帥升のものとされる井原鑓溝王墓の発掘は農繁期が過ぎて発掘再開されれば今後1年くらいで発見できるのではないだろうか。(著者私見)

06’6.9(金) 
平原女王墓出土全品国宝指定 官報公示さる
前原市は24日に博物館で祝賀式典を予定。今後の発掘にも益々注目が集まるでしょう。
 右写真は、前原市から出土した三雲下西遺跡。そこから新にV字形の深い掘溝が発見された。一辺57メーターに渡って続いている方形区画溝の2隅が発見された。中央部は重要な王の居館(宮殿)か祭殿があったとみられるが住宅集中地のため発掘には数年以上かかる見込み。さらにこの方形区画の外部に巨大な環濠とみられる幅4メーターの大溝が発見されている。(既報)


平原遺跡出土品すべて国宝決定さる(3.18全国紙一斉報道)
 内行花文鏡など40枚と太刀、それに絢爛豪華な勾玉、管玉などおびただしい宝玉類は他の追随を許しません。弥生期における日本一の出土品です。まさしく倭の都、伊都の女王にふさわしい品々でしょう。

↑内行花文鏡(直径46センチ余) 
↑瑪瑙管玉(弥生期1例のみ発見の希有なもの) 
                               
(写真提供 糸島新聞)
 
1965年の発見以来、41年掛かってついに国宝と指定されました。漢委奴国王の金印と並び、福岡県に古代倭国が有った有力な証拠となります。原田大六先生 大神邦博先生 柳田康雄先生 西谷正先生などの諸先生方のご努力、並びに福岡県と前原市教育委員会など関係諸機関のご努力の成果です。これによって前原市の平原遺跡や三雲・井原遺跡への注目度が上昇し、倭人伝の解明、邪馬台国の謎の解明に弾みがつくことでしょう。おそらく邪馬台国九州説は、まず間違いないことでしょう。(新聞各紙を読んで)

平原の女王墓の歴史公園工事完成 3月18日オープン 
 伊都国の女王とされ、倭の女王卑弥呼の墓かともいわれる平原王墓の保存・整備工事が終わり歴史公園としてオープンすることになりました。発見から41年のあまりにも遅い保存工事でした。これを厳しい財政の中、独力で施行した前原市と地元の皆様の努力に敬意を表します。平原遺跡は質量とも他の追随を許さぬ銅鏡40枚と太刀、それに勾玉などおびただしい宝玉類を出土していながら、その評価は出土品に相応しいものとはなっていません。まだまだ研究の余地のある謎に満ちた女王墓です。一日も早い国宝指定となる様応援しましょう。
 日本一の弥生の出土品を出しているのですから、伊都国千戸だけの狭い地域の女王のはずはありません。本書の指摘するようにやはり倭の女王の王墓、祭地の可能性が高いと考えられます。博多から39分波多江駅下車、貸自転車で15分位で行けます。現地には遺跡保存に熱心なお年寄りがいて、時間が合えば、案内、説明をしていただけます。(現地に電話番号の案内看板あり)
(写真提供 3.15糸島新聞)

伊都跡に”大溝”を確認
 環濠の一部か 

    ー前原市三雲八龍遺跡ー

 約2千年前の弥生時代中期後半以前に掘られた2本の大溝を確認。大溝は、内側が幅4.2m〜4.5m、深さ1.06mから1.12mで、全長126.4m。外側が幅2.76m〜3.96m、深さ0.8m〜1.04mという。前原市教委は「大溝には集落域と墓域を意識的に区画する役割があったと考えられる」とし、伊都国の王都の構造や範囲を考える上で重要な遺構と位置づけているという。(新聞を読んで)(写真 06’3.2糸島新聞提供)

  

ついに1800年前王の居館跡(宮殿) or 祭殿跡を発見か ? 
福岡県・前原市 三雲下西遺跡から一辺57mの方形区画溝が出土

 伊都博物館 西谷 正館長「井原鑓溝王墓解明へ大きく前進」の中で表明

  <2005年末の発掘成果・要点>
06.1.1糸島新聞より
 1発掘調査で井原鑓溝王墓が近くに存在。(弥生墓群内の検出墓数32)
 2三雲下西遺跡から1辺57mの方形区画溝を発見。(未発掘部分有り)
          (調査報告書作成配付はこの春の予定)
 3伊都の周辺を大規模に画する大溝の一部を発見。吉野ヶ里に匹敵か?
 4平原王墓出土品の国宝化申請中。

(写真提供 伊都蔵HP)  
アップ!三雲下西遺跡発掘説明会潜入リポート」HP伊都蔵HPリンク。
これは2003年3月の発掘写真です。この遺跡は数年の発掘にもかかわらず、まだまだ広がりをもっていて中程の大きな溝の伸びる方向を05年に調べたところ直角の隅が2つ発見され、王の居館か祭殿跡の可能性が有るとのことです。このように本書で倭の女王の都と論証する前原市から倭王の王墓、遺構が続々と発見・発掘されつつあります。後漢書に記載された2世紀の倭国王「帥升」の墓とみられる井原鑓溝王墓の発掘・解明も目前に迫りました。おそらく本年中でしょう。

  内行花文鏡出土 05.2.24糸島新聞より写真は05.2.24糸島新聞より→    

 福岡県前原市にある糸島新聞によると発掘中の井原鑓溝遺跡から内行花文鏡片が出土したとのことです。現地速報は糸島新聞Hpをどうぞ←ここをクリック(今週の主なニュース・発掘速報のない週もありますのであしからず)

 

井原鑓溝遺跡の墓数32基検出(05'5.19糸島新聞より)

井原鑓溝遺跡の墓数32基を検出と報道。また、最古のガラス連玉が出土 銅鏡出土も3枚となる。これまで前原市から見つかっている銅鏡や5500個を超えるガラス玉とあわせると、伊都の政治的優位性は明らかでしょう。約1800年前の弥生時代に優れたガラス製品を有していた伊都は先進文化の地だったと推理できます。

  歴史的大発見となるか-井原鑓溝遺跡ー   

幻の王墓と言われていた福岡県前原市の井原鑓溝王墓(いわらやりみぞ王墓)を含む墓群の位置が地中レーダーで220年ぶりに ついに発見されました。甕棺墓など弥生墓が16基も確認されたそうです。これは何と近くにある十六天神社と符合します。果たして十六人の倭王の墓か? これは古代史上の大発見となるでしょう。今後の発掘成果が期待されます。(05.2.18 西日本新聞 朝日新聞を読んで)

← 発掘中の井原鑓溝遺跡 12月〜3月の冬の厳しい作業に励む地元の方々に敬意を表します。(写真提供 前原市 井手様)
 

 

 

 

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