Accra @Aug/'08 Accra, Ghana アックラの海岸に出るのは一苦労である。 半スラム街を通らなくてはならない、 都会が排出する悪臭を放つ生活汚水が流れ込み、水質は決して良いとは言えない この写真は独立記念モニュメント前の海岸 土地の子供達や家族が遊んでいた Golden Tulip Accra、 朝目覚め、外を見ると豊かな緑の大地が眼前に広がる。 昨夜、Kotoka国際空港に降り立ったのは既に深夜近かったので、外の様子を知る術がないまま、ホテルの客となっていたのである。 イミグレを過ぎ、バゲージを受け取り外に出ると、ロビーはなくいきなり空港ビルの外に出る。 フェンスで円形に囲まれた出口を出ると、数日前から現地入りしているN氏が、ロンドンでの出発が2時間遅れたにも関わらず、待って出迎えに来てくれていた。 熱帯の樹木が太い幹で広がる樹形を支えている。 トラベラーズ・ハンド、なつめ、ジャカランダ、パパイヤ、ココナツ、デーツ、ビオラ・カンテック等、如何にも熱帯の樹木とわかる木々だ。 アフリカは様々な顔を持つ。 北から地中海気候、サハラ、熱帯雨林、サバンナ・ステップ等。 初めてのアフリカは1974年、ザンビアはサバンナ気候だった。 年中からっとしているが、時折激しいスコールがあるので、比較的水資源に恵まれていた。 一昨年訪れた、リビアやモーリタニアは乾き切ったサハラ砂漠そのものだった。 ここガーナは、熱帯雨林とは行かないまでも、熱帯の大木がふんだんに茂っている。 一昨年、アルジェリアからリビアに入る予定が変更になり、ガーナは私の訪問国入りするのが遠のいていたが、今回思わぬ任務が舞い込み、急遽夏休みを返上して訪れることになった。
1957年イギリスから独立。 独立前が黄金海岸と呼ばれた。 金を産出する一方、多くの黒人奴隷がヨーロッパやアメリカに連れ出された土地でもある。 サブ・サハラでは、初めて現地人による独立した国ととして、アフリカの優等生とも言われる。 又野口英世博士が感染症の研究に身を捧げた土地として、或いはガーナ・チョコレートの原料カカオを産出する土地として日本人には馴染みが深い。 金やカカオに加え、最近大規模な油田が沖合いに発見され、今後の経済成長が望まれるそうだ。 国土は日本の3分の2程で人口は2000万人程度なので人口密度はさほど高くない。 統計によると国民一人当たりのGNPが2000ドルもあるのには少し驚く。
現地人による独立を果たした後、何度か政権の転覆はあったが、最近では安定しており、マクロ経済も上向きに好転している。 街は英国植民地時代の色を濃く残している。 広い敷地を高い塀で囲った高級住宅が続く一方、現地人のスラム街が同居する。 主要道路の四辻や沿道には、大きな器一杯の様々な食品を頭に器用に載せて、路上商売に女性達は逞しく働く。 もちろん女性達ばかりではない。 男性達は手に手にパン、アップル、時計、プリペイド・カード、地図、ワイパーなど等、虎視眈々とお客を狙う。
滞在が長期化することは最初からの予定である。 ホテル住まいでは経費が嵩むし、生活するにはやはり不自然であることから、アックラ入りした2日目に、早くもアパートに引っ越した。 ケニヤのエージェントのM氏がローカル・エージェントに頼んで予め目星を付けて置いてあった物件だ。 かつてのザンビア時代(35年前)のことを思えば、随分割高である。 1LDKが1ヶ月3600米ドルもいする。 日本の1LDKに比べれば広い(70平米程度)が、ホテル並みのサービス(部屋掃除やシーツ、タオルの交換等)が売りでこの値段になるらしい。 台所も広くはなく、シンク傍の調理台が極めて狭い。 コーヒーメーカも無い(有っても置く場所がないが)。 食器は最低必要なカップ、グラス、皿、ナイフ・フォーク・スプーンが2名分揃っている。 小型鍋1個にフライパン1個と装備が極めてシンプルである。 2年前迄住んでいたヨルダンの超高級アパート(値段はここの3分の1だが)とは雲泥の差だ。
休日、街を歩いてみた。 幹線道路は良く整備されており、専用歩道或いは広い側道が備わっているので、歩くには全く問題はない。 アックラはガーナの首都であるが、所謂繁華街とか商店街のような街の中心地がない。 僅かにそれらしき雰囲気が漂うのはOSU地区の一部にある。 古い(植民地時代)住宅地は、とほうもない広大な敷地を占めており、建物は高い塀に囲まれた森の中に隠れて見えない程だ。 最近の高級住宅地は、それ程の広さはなく、1000平米位だろうか。 ザンビア時代のルサカの町と余り変わらないのではないかと思える。 だが、ザンビアには街の中心には商店街(多くはインド人の経営だったが)があり、ウインドー・ショッピングも楽しめた覚えがあるが、ここではウインドー・ショッピングの楽しみがない。 高温多湿と言う土地柄と下水道の整備遅れで、生活排水が側溝にドブ状態に流れる。 自然、街の何処を歩いても悪臭が鼻を突くのに辟易してしまう。
日曜日の朝、人々は着飾って教会へ足を運ぶ。 クリスチャンが65%程度の国である。 日曜日のミサは欠かせない。 それにしても人々の正装さはどうであろう。 ロンドンっ子が劇場へ行く時の雰囲気にそっくりである。 教会は立派なものから、屋根と柱だけで壁も窓もないものまで様々である。 だが共通するのは、何処の教会からも軽快な賛美歌、独特なアフリカン・リズムと打楽器等の大音響、それに負けない人々の大きな歌声、まさに ”天使にラブソング” を地で行っている感じだ。 人々は、手に手にタンバリンや小さな打楽器を持ち、アフリカン・ドラムの伴奏に合わせ、踊り歌う。 クリスチャンの伝道はあくまで、土地土地にカスタマイズされた形で行われていることが手に取るように伝わってくる。
異臭を放つドブの排水がそのまま海に流れ込んでいるのかと思うと、沿岸の海水汚染も進んでいるに違いない。 せっかく海のある国に来たので、浜辺でのレジャー・タイムを密かに楽しみにしていたのが崩れ去ってゆく嫌な予感がする。 海岸に向け大通りを歩く。 マックやKFCはこの国にはない、スター・バックスは言うに及ばない。 途中、気の利いたカフェでもあれば休憩しようと思ったが、何処にもそのような雰囲気の店が無い。 幹線沿いに借り小屋のような場所で水やソフト・ドリンク、或いはスナック類の販売をしているが何れも余り衛生的とは言えないので購入する気は起こらない。 この街に来て未だ日が浅いので、見つけられないだけだろうか。 ひたすら炎天下を歩く。 水だけはリュックに入れてきたので水分補給はできる。
OSU城跡に到着した模様だ。 だが、ここは現在のガーナ軍の基地にもなっており物々しい警戒。 しかしビジター・センターの看板があたので、守衛兵に 「今日はやってる?」 と聞いてみたら、首を横に振られた。 残念ながら、海岸に接した城跡には入れなかった。 城跡から西に人影は無いが広い舗装道が伸びる。 この道の向こうは海岸に繋がっている模様だ。 少し下り坂になった広い舗装道を進むと、道脇に立看板がある。 看板には、 この土地はあるリゾートホテル会社により購入されており、開発予定とあった。 道路の海岸側には、かなり前に廃業したと思われる「海の家」のような施設が椰子の木に囲まれて残っている。 そこに住み込んでいるのはホームレスの人達だろうか。 砂浜が見えた。 その海岸が冒頭の写真である。 海岸へ降りて行った。 こそには、土地の子供達や家族が遊んでいた。 施設は何もない。 街の何処にでもいる土地のおばさんのにわかコンビニ・スタンドがあるのみ。 にわかコンビニ・スタンドのおばさんに、チョコレート・ウエーファーは幾ら、と聞いてみた。 おばさんは500だと言う。 彼女は未だ通過切り下げ前の単位で言っているのだ。 現在の通貨では 5ペソ(5円)だ。 2個を10ペソで買った。 そのウエーファーの包み紙を見るとマレーシア製だった。 この場所では海水の汚染具合は見た目にはわからない。 ドブの異臭も無い。 だが、真夏の太陽の下レジャーを楽しむ白人の姿が全く観られないのは、やはり汚染度が高いと勘ぐってしまう。 多量に水蒸気を含んだ空気は紺碧の大西洋の視界を遮っていた。 この辺りの切り立った断崖で、海岸は小さな入り江になっている、 潮の流れで生活汚水の溜まり場となり眼下の海全体が異臭を放つ
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