ホテル・ルワンダ
@Oct/'09 Kigali, Rwanda


ホテルフロント従業員: 今回投宿したのはホテル・ルワンダではなく、ゴリラホテル


10月のある日、商用でルワンダのキガリを訪れた。 隣の国ウガンダ、エンテンベからの移動だった。 小さな双発ジェットで45分の距離だ。 人口800万人の国の国際空港は小さいが、最近建設されたのか清潔で綺麗、気持ちが良い。 イミグレもカスタムズも至極簡単に通過。 到着ロビーで予約してあったホテルタクシーを探すが見当たらない。 比較的程度の良い日本車のタクシーが数台、到着ロビー前のタクシー待ち駐車場に整然と並び客待ちをしている。 首都国際空港ではあるが、実に平和な何の変哲もない田舎空港と言った感じさえする。 これが1994年、僅か100日間で国民の10人に一人が虐殺されたと言う、80万人以上の人類史上最大の大虐殺が行われた国だろうか。 どうもホテルタクシーは来ていそうにない。 目の前に並んでいるタクシーを利用しよう。 値段は街まで20米ドルだと相場は予め聞いている。 一台のタクシーに料金を聞いたら、前もって調べてあった通り20米ドルだと言う返事がすんなりと返ってきた。 エジプトやリビアで経験するあのすざましいばかりの客引きと料金の不透明さを味わうことはない。 
 




ホテル、ロビーから中2階のレストランへの階段


1994年4月、当時の大統領、フツ族のジュベナール・ハビャリマナがが乗った飛行機が何者かの攻撃を受け撃墜された。 大統領が死亡した事件をきっかけに、フツ族によるツチ族の大量虐殺が始まる。 1994年4月と言えば、私がスペイン、マドリッドに居た頃だ。 ごく最近の出来事とも言える。 現代にこのような野蛮な出来事が起こるのだろうか。 これは紛れもなく実際に起こったことなのである。 ホテル・ルワンダとは、実話に元ずく2004年制作の映画で、国連や西欧の大国が何も有効な手を打てないままに時間が過ぎる中、あるホテルの一ローカル従業員が、ツチ族の国内難民1200人以上をホテルに匿い、国外(タンザニア)へ脱出させることに成功する物語である。 第2次世界大戦中、ホロコーストから1,100人以上のユダヤ人を救ったナチ党員でもあったオスカー・シンドラーをモデルにした、シンドラーのリストにも似ている。 この現代の大量虐殺はどうして起こったのだろうか。 勿論簡単な答えではなかろう。 少しでも納得性のある事実を知りたいと思うのは、その地を訪れた者の自然な気持ちではあるまいか。 




ホテルのレストラン: テラス席


ルワンダには、元々フツ族とツチ族が、それぞれ掟を守りながら住んでいたと言う。 対立はこの国が植民地化された頃から始まったようだ。 フツ族は農耕民族で人口の80%程度を占め、多くは貧しい生活を余儀なくされていた。 ツチ族は狩猟民族で多くは裕福であったらしい。 盟主側は当初、少数派で富裕なツチ族を同盟側にしたが、その後植民地解放の機運が高まるや、多数派、貧困であるフツ族側に鞍替えすることになる。 両民族の対立の緊張は極度に増していったようだ。 そんな時期の大統領撃墜事故である。 対立が一気に虐殺へとエスカレートしたと言うものだ。 対立の緊張が高まる過程で宗教(キリスト教)が、民族対立を助長したように利用された節があるのは、時に指導者は宗教をも心理陽動策に利用してしまう忌まわしい例として、心に刻んでおく必要があるのではないだろうか。 そして、国連や西欧諸国が何も出来ないまま無為な時間を過ごしていた時、一介のホテル従業員の取った勇気ある人道行動は、何を意味するのだろうか。 今回投宿したのは、ホテル・ルワンダではなかった。 ゴリラ・ホテルと言う如何にもルワンダ的な名のホテルだ。 当国にはゴリラ保護の国立公園が幾つも存在するのである。 そんなホテルで、実に人懐っこい、大人しげな従業員と接するに、ほんの10数年前に歴史的な虐殺が行われた現場に居るとはとても思えないのである。 
















林蔵@Kigali Rwanda 7/Oct/'09 (Updated on 11/Oct/'09)#324
  

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