ビシケク
@Oct/'95 Bishkek Kirgistan


 
滞在先のホテルからビシケクの市内を望む


ありがたい事だ。 再び中央アジアを訪れる機会を得た。 数年前に訪れたウズベキスタン共和国の隣、キルギスタン共和国である。 旧ソビエト連邦の崩壊により独立国となったCISの国々の一つだ。 これら中央アジアの国々は民族的にはトルコ系であるが、中国系人々も多く、宗教は回教(イスラム)、言語はロシア、気候は乾燥地帯である。 キルギスの首都ビシケクに入るには、国際線空路は未だあまり整備されておらず全てがモスクワからのエアロフロート便だ。

某商社の推薦で、中央アジアのもう一つの国、カザフスタンの首都アルマトイに先ず入る事にした。 ここには唯一西側の航空会社ルフトハンザが週一便フランクフルトから入っているからだ。 つまり国際線ターミナルのカウンターは1つなのである。(モスクワ便は今でも国内線ターミナルを使用している。) 地理的には日本から以外と近い所に位置するのだが、ヨーロッパまで行って、半分以上の距離を東に戻る事になる。 つくずく我が国との交易の必要性を感じる。 その点、ドイツには抜かりない。 早々と空路を先取りしている。 そのせいかドイツ人の技術者、ビジネスマン、観光客は相当入り込んでいるらしい。



ビシケク唯一の国営高級ホテル Dustok


フランクフルトで乗り継ぎ、約20時間徹夜飛行で、翌早朝アルマトイの空港に到着した。 空港(滑走路、駐機場)はさすが旧ソビエトの空港だけあって広い。 一方、イミグレーションは極端に狭く非効率的。 1週間に1便来るだけで大混雑。 インド人、ドイツ人、米国人が順に多いように見える。 インド人は商人、ドイツ人は技師と観光客、米人は石油関係者のようだ。 殆どの者が僕と同様、ここで短期ビザをその場で買っている。 ビザを売ってもらわない事には入国できない。 一様にいらいらしながら我慢強く待っている様子だ。

1時間近く掛かって、やっと窓口に必要書類を PASSPORT に挟み、前の人達の積んだ PASSPORT の一番下に僕のを入れ込む事ができた。 ずるい者は、後から来て自分のPASSPORTを一番上に置く者もいる。 暫くして窓口の中を覗き込んだら、誰もいない。 業務は止まっている。 窓口には PASSPORT の山が今にも崩れそうな高さになっている。 誰のが上になろうと、下になろうと全くお構いなしと言った感じだ。 どうも職員の交代時間らしい。 その内、再び業務が始まった。 結局3時間近く掛かり、1ヶ月の短期ビザを US$150 支払い、ようやく入に入れた。



街中には立派なオペラハウスがあり、演技は一流の役者が出るらしい


イミグレーションを出た後はカスタムである。 更に混雑は酷くなる。 足の踏み場も無いとは、こんな状態を言うのであろう。 変に実感する。 国内便(特に CIS間)と同じになっているので余計に混むのだろうか。 家族商店の主達(なぜか女性が多い)が大量に衣類(多分)を買い込み、自分の背丈よりも大きな、麻袋に似たナイロン袋を幾つも床に積み上げ通関しようとしている。 中身は明らかに商品と思われる。 恐らく幾らかの賄賂を払って通関しているのであろうか。 いずれの時代も、いずれの国でも民衆(女性)は逞しい。 

僕はといえば、パソコンや書類の詰まった重いスーツケースを、汗だくで引っぱり出す。 無事通関パス。 この重労働にはジーパンにTシャツ・スタイルは必要なのだ。 



歩道は広く、立派な街路樹が茂る


出口では、某商社の運転手が辛抱強く僕の出て来るのを待っていてくれた。 飛行機は早朝6時に着いたのだが、既に昼近になっている。 僕が出てくると迷わず僕に近ずいてきた。 長年培った動物的感であろう。 東洋系の顔は僕以外にも沢山いたが、間違わず僕の所に来た。  “IKEDA SAN?” 殆ど英語を喋らない。 黙って彼の後に付いて、重いスーツケースを引っ張って行く。 駐車場に止めてある社用車で市内の事務所へ向かう。 典型的なロシア風の町並みだ。 煉瓦作りの5―6階建ての画一的な建物と豊かな街路樹が左右に並ぶ。 乾燥地であるが街路樹は大きく立派なのが、やけに印象的である。

事務所で一連の挨拶、打ち合わせをした。 既にお昼の時間が過ぎていた。 事務所でお昼を取ることができるらしい。 職員の為に現地のコックを雇い、社員食堂用に小さな1部屋を確保して、日本食を出しているとのことだ。 食材は比較的豊富に手に入るらしい。 調味料は日本から調達しているとの事。 この日のメニューはカレーライス。  インド風ではなく、正に日本風だ。 旨い。 一人前6ドルを支払う。



キルギスもかっての東西を結ぶシルクロードの一部を成す


さて、午後3時、いよいよ陸路400KM、ビシケクに向かう。 車はアルマトイに3台しか無いというトヨタクラウン。 道は完全舗装(所々舗装が剥がれている所があるが)の2車線路。 かつて東西を結んだ何本かのシルクロードの1本にほぼ沿って走る街道だ。 左手遠方に高い山並み(天山山脈)を見ながらステップ(牧草)地帯を快走する。  運転手はロシア系のイーゴリー君。 かなり上手な英語を喋る。 驚いたことに、警察の鼠取り用レーダの逆探知機を積んでいる。 こんなものがカザフスタン共和国で必要とは思ってもみなかった。 イーゴリー君の話がとてもおもしろい。 ある日、運悪くスピード違反で捕まってしまった。 彼曰く、彼の車のレーダ探知機はドイツ製で正確である。 それが警報を出さなかったからレーダには掛かっていないと言い張ったら、警察側がおれたそうだ。 当局の融通の広さに関心。 日本の当局も見習って欲しいと思う。

途中、カザフスタン共和国とキルギススタン共和国の国境を通過する。 幹線道路にゲートがあり両国の国境警備隊らしき制服の係官が数人いるだけで、車の通過は殆どノーチェック。 我々のクラウンも難なく通過した。 CIS内の共和国として独立し未だ日も浅いので、国境設備が整っていないらしい。 そう言えば道路にはゲートがあるが、道路から一歩外に出ると牧草地帯、そこにはもう柵一つ無い。 行き来は全く自由であるかのように見える。 なんとおおらかな事か。



立派な人民体育館


ビシケクに近ずくにつれ、雪を戴いた天山山脈が左手に迫り来る。

途中暗くなってしまったので夕食らしき物でも取ろうかと、サービス・イン(ドライブ・イン)に立ち寄る。 広大な牧草地帯のど真ん中、未舗装の駐車場と廃材を利用した小屋が隅に数棟見える。 何ヶ月も風呂に入らず、(失礼な言い方であるが)ぼろに近い衣服をまとったジプシー風商い主が、小屋の前に様々な形をしたおびただしい数の瓶に得体の知れない液体が入ったドリンクを並べ、薄暗い明かりの元で商いをしている。 我々はその中から、見慣れたペプシの瓶を選んだ。 イーゴリー君曰く、ここのカバブ(羊の焼き肉)が旨いとのこと。 早速一本買って、かぶりついてみたが、僕には旨さがわからなかった。 何のソースも掛かっておらず、殆ど自然食。 

小休止の後、再び目的地へ向けすっかり暗くなった街道を駆け抜ける。 舗装状態が悪く、道路の中央に大きな窪みがある場所が幾つもあるらしい。 そんな窪地に、猛スピードで嵌ったら、大事故に成りかねない。 そこは、イーゴリー君、月に何回も同じ道を旅しているだけあって、実によく状況を把握している。

無事ビシケクに到着。 某商社の事務所のある建物の前に着いた。 建物の門は閉まっており、体格のよい警備のおばさんが、台所着姿で薄暗い警備室にいた。 商社マンは身分を告げ、事務所に入れてくれ、とロシア語で頼んだが、女性警備員は聞き入れない。  彼女の言い分は、今は働く時間ではないからとの事らしい。 尤もな事である。 現地スタッフがまだ事務所にいることは確かなので、どうにか事務所に電話をつないでもらい、現地スタッフに降りてきてもらってやっと門を開けてもらう。 事務所では簡単な挨拶と打ち合わせを終え、投宿先のホテルに向かった。


ホテルから見るビシケクの街と天山山脈


夜もすっかり更けて、市内一のホテル Dustok にチェックイイン。 9階建ての外見は立派なホテルだ。 前庭は広いが、ロビーが極端に狭い。 調度品の手入れは殆どされておらず、衛生管理もあまり良いとは言えない。 レストランの広さだけが目に付く。 大舞踏会も十分できる設備とレイアウトだ。 各階には、共産国特有の服務員室がエレベータの側にあり、泊まり客の便宜を図る名目で入出室者の管理をしている。 ここがこれから約2週間お世話になる首都ビシケクの最高級ホテルだ。



街中のモニュメント広場


翌朝、6時起床。 7時の朝食の前に、一時間ばかり市内をジョギングする。 共産国の都市はあまり整備は行き届いていないが、道路は広く街路樹も立派なものが多い。 ビシケクも例に漏れず道路は走りやすい。 昨夜チェック・インした時は気が付かなかったが、ホテルの前庭は立派な薔薇園になっている。 よく見るとスプリンクラー用のパイプが縦横に走っている。 ホテルの園芸師が早朝から手入れと花摘みを行っている。 摘み取った薔薇は客室やレストランに飾るのであろう。 そんな風景に経済的には決して豊かではない国だが豊かさを感じる。 街を走ると、乾燥地帯なのに樹が多いのに驚く。 歩道の両側に4列の並木が黄金の秋色に輝く。 後で聞くと、ソビエト治世時代、唯一中央政府が残した財産がこの百万本を越す街路樹なのだそうだ。 世界の都市でも人口当たりの街路樹本数は、トップクラスだそうだ。 乾燥はしているが、天山山脈からの雪解け水が豊富なのも幸いしている。 街を取り巻く運河は、豊かな水量で街の緑を守っている。 (運河の分水路、もしくは、スプリンクラーのパイプが街路樹に沿って走っている。 街の南側広がる景色は実にすばらしい。 さすが中央アジアのスイスと言われるだけある。 万年雪をたたえた天山山脈の山肌が朝の太陽にセクシーに輝く。 (同じような感覚を今から20年位前、やはり乾燥地帯であるイランのアサダバッド盆地で過ごした時も感じた。 盆地を取り巻く山々の山肌が朝日を受け輝いているさまは、妙になまめかしく感じたものだ。) 街は碁盤の目の如く整然と造られている。 共産国ではどこでも見られる立派なオペラハウスもある。 英語で書かれた案内書には、出し物はローカルでも演技の質は世界に通じるトップクラスだそうだ。



ベンツのタクシーと運転手


一度観劇の機会をと願ったが、短い滞在中に上演の運に恵まれなかった。

部屋に戻り、シャワーをあび1階のレストランへ降りる。 泊まり客は殆どが外国人。 我々以外にも日本人のビジネスマンを見かけた。 欧米人の中には或いは商売敵がいるやもしれぬ。 何しろ、外国人が泊まれるのはこのホテルしかないのだ。 このレストランで、何に食わぬ顔して食事をしている中の一組がそうであるに違いない。  .


 
天山山脈の西側に佇む淡い塩湖イシクリ湖

週末は、営業部の某氏と運転手付きのタクシーを借りて、北東300km位にある塩湖 “イシクリ湖” へ行く事にした。 ホテルの2階にビジネスセンターがあり、観光案内やアレンジもしてくれる。 まだ20歳台の英語を流暢に喋る若い青年実業家が経営している。 明朝8時、赤いベンツがホテルの前にくる事になった。



 イシクリ湖畔の高級別荘地内白樺並木


樹木の生えていない岩肌の山間を3時間あまり走ると、前方に湖水が見えてくる。 関門所があり、環境保護通行税を要求される。 湖の近くに来ると途端に緑が濃くなる。 農業・漁業が盛んらしい。 政府高官の別荘もある。 遥か湖の対岸には、天山山脈本体の白い峰が連なる。 空気はすこぶる澄んでおり、素晴らしい意中央アジア高原の秋景色が眼前に展開する。 目的地の国民保養所に着いた。 大規模な設備である。 訪れている者は殆ど居ない。 我々を含め10名位か。 夏場はかなり盛況に賑わうらしい。 白い砂浜のビーチは広く、保養所のプライベートビーチになっている。 今は理論的には誰でも利用できる事になっているが、かつては殆ど政府高官専用だったそうだ。 ボートを浮かべる設備も整っている。 広い施設内は贅沢にレイアウトされている。 大木の並木の回廊が別荘地内を延々と続く。 湖水は淡い塩水だ。 汚れは殆ど無く澄み切っている。 今は秋もかなり深く、陽が当たらなければ寒ささえ感じるが、湖で泳いでいる婦人がいた。 会社の食堂よりも広いと思われる大食堂で、約10人が昼食を取る。 料理の味は決して旨いとは言えない。 我々以外は当国の観光者・保養者らしい。 だれも食事のまずさには文句を言っていない。 まずいと感じるのは我々だけか。

2週間の短い滞在を終え、ロシア人とアジア人が調和して生活する、雄大な景色と悠久の歴史をもった中央アジアを後にした。  今度は、樹を植えるツァーにでも参加して、この中央アジアを訪れたいなどと思いいながら。





8/Oct/1995 林蔵@Bishkek Kirgistan (Updated on 12/Mar/'08)#084

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