タシケント
@Nov/'90 Tashkent Uzbekistan


かって通商のオアシスとして繁栄したシルクロードの要 ”Bukhra”


1990年、日本では既に秋も深まったある日曜日。 中央アジアのウズベキスタンに向かう為、モスクワ行きのJAL441に乗り込んだ。 地図で見るとウズベキスタンは中国天山山脈の直裏手にある。 日本から直接飛べばさぞ近かろうが、当時(今でも)は未だ日本との空路がなく、モスクワ経由と言う途方もない遠回りをするのである。 モスクワでは某商社との打合せの為1泊、International Hotel に部屋を取ってあったが、何かの手違いで空き部屋がなく、モスクワ川に浮かぶボート・ホテル ”フラミンゴ” に泊まった。 こんな体験も、滅多にないことと思えば不快感はなく返って面白い。 ”フラミンゴ” のデッキに設けられた公衆電話から、何と国際電話がかかるのである。

翌日モスクワの事務所で、今回の交渉内容の打合せを早々に済ませ、ロシア国内線に乗りウズベキスタンの首都タシケントへ向かった。 ロシア製の飛行機は、何処か頑丈に出来ているように感じる。 多少(かなり)でこぼこのある滑走路を、激しい振動を伴って離着陸しても平気なのである。 タシケントは人口100万人を擁する中央アジアの大都会だ。 広大な敷地の空港に降り立った。 アメリカやオーストラリアと同じで、飛行機が無ければ人や物資の流通が成り立たないのだろう。 国土の広さを改めて知らされる。 滑走路は数本あり実に広いが、一方ターミナルは狭く非効率的で酷く混みあっている。

このような際果ての地かと思われる土地にも、我が国商社の現地事務所がある。 地球の隅々まで根を張る彼等の活動には本当に敬服する。 さぞかし人には語れぬ様々な苦労や困難があるに違いない。 今回は衛星通信地球局の契約前の最終技術ネゴと言うことで、納入する機器の詳細を決定するのが主な任務である。



宿舎に利用したHotel "Uzbekstan"


ホテルはタシケントで最高レベルの国営ホテル ”Uzbekstan” と言う国名と同じ名のホテルだ。 共産国特有の服務員と言う世話約が各階の階段脇にカウンターを設けて常駐している。 我々からすれば、随分なおせっかいをやいてくれるのである。 Azizと言う、某商社の若い通訳が付いてくれた。 彼はなかなか向上心のある若者で、英語とロシア語の通訳であるが、盛んに個人的な商談を持ちかけてくる。 親戚家族の作る手工芸品を、日本で売れないかとの相談である。 彼らはその布製品を、実用品として売りたがっているが、我々の目から見ると、みやげ物にしかならない。 生活習慣が違うことから、珍しくてたまに買う者が居るだろうが、残念ながら実用品として多くをさばける品物ではなさそうだ。 そんな特産物が有れば、目ざとい常駐の商社員が、既に手を付けている筈である。



通訳の Aziz君と Hotel Uzbekstan のロビーで



計画経済は、理論的には富を万人に満遍なく分配できる素晴らしいシステムだが、人間と言う欠陥生物が運用すると、そうも行かないらしい。 物に溢れる日本に住む我々の目には、スーパーの棚に並ぶ品物の量と品数が極端に少なく思える。 商品が全く無い棚も少なくない。 今の日本の大量消費社会は、確かに行き過ぎている感はあるが。 物を大切にしない、物に感謝しない、物作りに敬意を表さない等、日頃の反省が促される。 こちらのスーパーに並ぶ品の品質は一般に粗悪で、良質の物は闇市でしか手に入らない。 それでも営営と働く人々をみると、人間の凄さが伝わってくる思いがする。

街を歩くと、東洋系の顔をしている人々が多いのに気付く。 それもその筈、隣は中国なのだから。喫茶店、中でも大事な客や老人をもてなすサロンを、 ”チャイハナ” と言う。 この語感は、いつかイランで聞いたような気がする。 客先のレセプションが  ”チャイハナ” で行われ先方のホストから挨拶があった。 大きなドーナツ型をしたパンがテーブルの中ほどに置かれている。 このパンには大事な意味が有って、こちらでは何か重要な事を始める際に、パンをちぎって仲間で分ける習慣がある。 このパンはその為のものであった。 ホストがパンをちぎり、皆に分けてくれた。 サロンだから当然お茶も出る。 これが面白い。 中国風のお茶で、飲む時ずるずると音を立てて飲む。 西洋では絶対に見ない光景である。 ここは東洋だと強く感じる一瞬であった。

広い公園スペースを随所に取った街並みを歩くと、幾つものオペラハウスに遭遇する。 その中でも特に立派な建物が目に付く。 聞くとこれは日本兵が造ったものだと。 戦時中シベリヤに抑留された日本兵が、こんなところでオペラハウスを作っていたとは知らなかった。 決して手抜きの無い立派な造りであるのが一見してわかる。 彼らは祖国に帰ることなく、当地でその生命を捧げているとのことであった。 今はただ冥福を祈るばかりである。 

ウズベキスタンは極東の文明発祥地中国から、ペルシャ、ビザンチン、ローマへ通じるかつてのシルクロードの道筋に当たる。 現代のタシケントはすっかり近代化した都市になっているが、 地方都市 Bukhara(ブハラ)等は、今なおその名残を見せるエキゾチックで美しい街だと言う。 今回の短い滞在では、残念ながら訪れることは叶わなかった。 帰り際、ホテルのギャラリーショップで Bukhara を描いた小さな油絵を1枚発見し買った。 粗末な小さなキャンバスに、これまた粗末な飾り気の無い木のフレームが付いているア油絵だ。 このギャラリーでの支払いは全て外貨。 貧しい国の僅かながらの外貨稼ぎがいじらしく思われる。 この時買った絵は今も私の書斎の幾つかある絵の内でお気に入りの1枚となっている。



旧日本兵が建てたオペラハウス      街中で見かける有料体重計



18/Nov/1990 林蔵 (Updated on 8/Mar/'08)#075

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