北京の雀
@Dec/'96 Beijing China


故宮博物館”Imperial Palace"


今年は中国出張の当たり年だ。 今回で中国行きは今年に入って5回目。 3月に取ったマルチビザが入国時のスタンプで埋め尽くされ、有効期限が読めなくなっている。

今回とは別の中国のお客さま対応で、昨夜は横浜工場での作業が徹夜になってしまった。 出張用スーツケースは休日に事務所に運んでおいたので、仕事が終わった朝、直接事務所から成田へ向かう。 出張旅費の払い出しが間に合わず、財布の中身はわずか日本円 5,000円のみ。 外貨は無し。 少し心細い思いで、未だ夜が明けきらない早朝、横浜の事務所から横浜駅に隣接するYCAT (Yokohama City Air Terminal)へタクシ‐で向かう。 YCAT迄の運賃は4,400円。 所持金の殆どを払うことになった。 5,000円札を渡すと、細かいつり金が無いと言うので、4,000円にまけてもらった。 残りの所持金は 1,000円。 これからは現地を含め、帰国迄全てカードで支払いを済まさなくてはならない。

北京空港ではいつもの如く、税関検査の外で私の名前を書いたプラカードを持った現地事務所の運転手が待っていてくれた。 彼は中国語しか喋れない、私は中国語が喋れない、ので「ニーハオ」とだけ挨拶した後は、無言で彼の後をついて空港内の駐車場へ向かう。 車の中では某商社の北京事務所の住所と連絡先、担当者名を書いたメモを受け取る。 車は直接某商社の事務所がある国際貿易センター・ビルへ向かう。

会議は既に朝から始まっており、昨夜日本から別の技術者が現地入りして対応に当たってくれている。 私は午後3時からの技術セッションから参加すれば良い事になっている。 他のお客の為、日本を出るのが遅れたとも言えず、2ヶ月前の10月の出張時、頭痛が酷く会議の途中で退場しそのまま帰国したことが有ったが、その後の経過が思わしくなく、 やっとドクターの許可が出たと言うことにしてある。

某商社の会議室に着いた。 丁度午後のセッションの休憩時間中であった。 関係者から、会議の流れを大まかに報告を受ける。 あまり順調でないらしい。 競合他社の米国某メーカーに比べ準備のレベルが低すぎるとクレームが出ており、このままだと米社との復活交渉を開始すると脅かされている。 何しろ当方は、関係者全員がもう一つの大型中国プロジェクトに関わっており、そちらでも多くの時間を割かざる得ず、対応に全員が殆ど掛かりきりなのである。 おかげで此方のプロジェクトは、規模が小さいせいもありなおざりにされているのは事実だ。



某商社の現地担当者Kさんと事務所で



私個人に取っては、こちらのお客様は17年前からの友人ばかり。 過去に1年間現地でお付き合いした技術者ばかりで、そんな人達と再び仕事ができるのは大変うれしい。 彼らにしても、“ポンユー”(旧友)と呼んでくれて、大変信頼を置いてくれている。 とても懐かしく、身近に感じる場面である。  “旧友”達は既に偉くなり、会議の場でも皆中央の席を占める地位になっている。 このプロジェクトはどうしても巧くやらなければと言う気が湧いてくる。

1日目の会議が終わった夜から猛烈な巻き返し作戦を開始せざるを得ない。 現地駐在事務所の担当者1名と、現地雇用の若い中国人スタッフ3名を含め6名チームで、 客先の信用を取り戻し信頼を深める為、必死の挽回作業を始めた。 現地駐在事務所の大会議室を作戦実行本部とし専用に使用させて頂いた。 パソコン3台(日本語、英語、中国語)、プリンター2台、白板2台、コピー機2台、電動タイプライター1台を総動員。 普段あまり残業をしない現地中国人スタッフも深夜迄我々に付き合ってくれた。

昼間の会議で客先から要求のあった事項、問題点の殆どをその日の夜に処理をし翌日の会議に間に合わせた。  こうして2週間が、何時日が変わったかも禄にわからないまま、瞬く間に過ぎてしまった。 この期間中に作成した資料が、そのまま契約書の添付文書となるのである。

中国の夜は早い。 殆どのレストランは10時には閉まってしまう。 ちなみにスペインの夜はとても遅い。 レストランは10時からオープンする。 この2ヶ国は両極端なのかも知れない。 欧米の一流大型ホテルでは、24時間オープンが常識のコーヒーショップ(軽食と1品料理が注文できる。)も 中国では、真夜中の0時で閉まってしまう。 コーヒーショップのラストオーダーは23時45分だ。 ホテルで食事を取れる時間には殆ど帰ることができなかった。 外へ食事に出ると1-2時間は掛かることが多いので、つい夕事を抜いてしまったことも何度か有った。

曜日、日、時間の感覚が狂ってしまいそうだ。 資料を作成する為の此方からの問い合わせ先も日本ばかりとは限らない。 英国、米国にも及ぶ。 特に米国とは13時間の時差があり、真夜中にならないと連絡が取れない。 帰りが遅くなる原因の一つでもある。 ホテルと事務所の距離は、ほんの200mくらいであるが、明け方に近い時間に帰ると、 真冬の北京の冷えた風が身にしみる。 改めて大陸も奥深く入った大陸性気候の冬の厳しさを実感する。 ある夜など、暴風並みの風が吹き、この200mで遭難するのではないかとさえ思った。 瞬間的に体の芯まで凍りつくような寒さだ。



Gloria Hotel



土・日も作業に追われていたので、以前は1種の楽しみにしていた、週末に旅行者気分で町を走る(ランニング) 機会は今回あまり無かった。 北京への出張は、1週間くらいのことが多く、帰国日の朝、空港へ行く前の余った時間とか、 早く帰った日などの翌朝、出勤前等に走っている。

北京でいつも走るお気に入りのコースは、ホテル(おおくら)の前の建国通りを真っ直ぐ東から西に走るコースだ。  天安門迄約4km、往復で1時間のコースだ。 今回の滞在中、2度目の日曜日も作業に追われていたが、 それでも緊張を和らげて作業に取り掛かろうと普段の日よりは遅く、10時出勤にした。 このときばかりと、早速日曜日の朝、ジョギング姿でホテルのロビーを出た。 今回は少し新しいコースを開発しよう。 建国通りを西に向かい、天安門の一つ手前の大通りを左に曲がる。 北京の街はマクロ的には見事に碁盤の目の如く作られている。(一旦路地に入ると全く迷路、行き止りが常だが。) そこから南に向かう。 真っ直ぐ3kmばかり走ると、北京の観光案内書によく出てくる天壇公園に辿り着く。

早朝でも無かったが、既に多くの北京ッ子がやってきている。 昔ながらの市民の大切な憩いの場になっているのが伺える。 見学をしたり、太極拳の優雅な身のこなしを披露したりしている。 17年前にもこの天壇公園に来たことがあるが、一番変わったと思うのは、市民、特に若い女性のファッションだろうか。 当時は人民服一色であったが、 今は西側と寸分違わぬカラフルな身なりをし、自信たっぷりの態度で闊歩しているのを見ると、世界一を誇る経済成長率を見事に物語っていると感じる。 それにしても、女性の時代感覚の敏感さには目を見張るものがある。

帰国日の午前中も時間が出来たので、北京の顔 「故宮」 と 「王府井」 を周遊するコースを走った。 2時間コースになる。 「王府井」(日本の銀座通りに当たる)の昔の王制時代の賑わいは今は無く、建物も古びたままのものが多い。 そんな中でも時代の興隆を嗅ぎ付け、高級店舗や大型百貨店の建設が始まっている。 後10年もしない内に、昔の賑わいが別の意味を持ち戻ってくることだろう。

「王府井」の大通りを抜け、右に景山公園を仰ぎ見ながら「故宮」を左周りに迂回する。 「故宮」の外堀は完全に凍っている。 昔から凍った堀は北京では良き市民のスポーツ広場、スケート場になっているのは、今も変わらない。 それにしてもスイスのユングフロウヨッホのような雪に覆われた山々でも見かけた烏や、 グリーンランドのサンダーストロムフィールドの空港で見かけた雀の姿が無い。 話によると、文革時代、農作物をついばむ雀を絶滅する作戦が実行されたと聞く。 その方法がいかにも中国らしい。 話ではあるが、人海作戦なのである。 農村地帯の広範な地域に人を均等に配置し、絶えず雀を脅し続け、雀を休むことなく飛ばし続けることにより、ついに雀が疲労で落ちるのを待つと言うもの。 かなり眉唾ものだ。 この話には後編があり、雀が居なくなった次の年には害虫が大量発生し凶作になったとのこと。 話が出来すぎている。 その雀を「故宮」の外堀と景山公園に挟まれた細長い公園風の通りで見かけた。 なんだかホッとした。 名の知れぬ小鳥を鳥篭に入れて売っている露天商もいる。 あくまで雀は自然だ。 のびのびと飛びまわっている。 「故宮」を一回りして、天安門に出る。 日本の御のぼりさんよろしく、中国の地方からやって来た団体の観光客が大勢、天安門前の百万人広場にたむろしている。 盛んに天安門や、毛主席の肖像を背景にシャッターを切っていた。

ホテルへ帰り、シャワーを浴び、チェックアウトの準備をする。 荷物を纏めホテル代の精算をする。 日本円に換算して約26万円、大枚を持ち歩かなくてもよく、また数えなくても良いのがカードのメリットだ。 後は、成田から新宿までのリムジン、之もカードで買える。 外貨ゼロ、日本円5,000円で何とか切り抜けた今回の北京出張であった。



本社営業中国部の”N”さん(右端)と契約調印会場国際ホテル宴会場にて



1/Dec/'96 林蔵@Beijing China (Updated on 19/Feb/'08)#060

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