ブリンヂシ
@Jun/2005 Brindisi, Italy


今もギリシャ、そして中東に向けて開いた港 ”ブリンヂシ”



今もローマっ子がアルファロメオに乗って通勤に使う道である。 アッピア街道、ローマ街道一号線。 街道の女王と呼ばれる石畳の道は紀元前4世紀にローマ人によって作られた。 ローマとブリンヂシを結ぶ600kmに及ぶ高速軍用道路である。 ローマはギリシャ文明の影響を濃く受けているのは時代の流れであろう。 今も昔もギリシャとの人と物の流れは多い。 真っ先にローマ街道が敷かれた所以でもあろうか。



アッピア街道終点を示す石柱
民家の軒先に今も港に向かって立つローマ時代の石柱、
ここから重装ローマ軍団が自国防衛の為アドリア海を渡ったのだろうか


アッピア街道終着点から見た港の外にはアドリア海が広がる


6月の休暇、ドイツでの数日の滞在後、ローマからイタリアの ”踵部” に当たるブリンヂシにやってきた。 アッピア街道を端から端迄見るのが今回の目的である。 古代ローマ時代とは手段が若干違うが、ほぼ同じルートを辿った。 何のことは無い、現代の高速道路を自動車で走っただけであるが。 現在の高速道路も古代のローマ街道と基本的に同じルートを走っているのである。  古代ローマの中心、フォロ・ロマーノから放射状に伸びるローマ街道の一号線がアッピア街道である。
 
朝7時、ローマ、Firenze通りの安宿に近い駐車場に停めたレンタカーを、未だ通勤車もまばらな街に繰り出す。 Torino通りを下り Cavour通りを左折するとローマ・テルミニ駅前に出る。 駅前広場を更に左折、大きな噴水のある Repubblica広場のロータリーを廻り、Nazionale通りを南に下る。 壮大な無名戦士記念碑の前 Venezia広場を左折すると Imperiali大通りに出る。 コロセウムを右に見て1周すると、San Gregorio通りがフォロ・ロマーナを右手に伸びる。 古戦車競技場(チルコ・マッシモ)とのジャンクション Capena門広場を左折する。 昔のローマ街道を想わせる古いキノコ状の松並木に囲まれた真っ直ぐな道、Caracalla通りを南東に下り、 いよいよAppia Anticaに入る。 石畳の古代ローマ道は、現代でも乗用車2台が十分すれ違える広さを持つ。 実際、通勤に急ぐ現代のサラリーマン戦士が猛烈なスピードで駆る自動車の群れに巻き込まれたのである。 それにしてもこの真っ直ぐな石畳の道は何なんだろう。 紀元前4世紀のローマ人のインフラ哲学が明確に現れているように想う。 途中高速道路に出る為、Appia Nuova に乗り換える。 



メザーニャのホテル: Hotel Blue Rose's



現在のアッピア高速街道の1本(主要ローマ街道には必ずスペアーがある)はローマからナポリ間が A1、国際道路番号 E45である。 ナポリからアドリア海に面する Canosa迄が A16、国際道路番号 E842。 CanosaでA14、国際道路番号 E55に合流。 現在の高速道路A14はBariから更にTalantoへ伸びるが、今回の目的は Brindisiにあるので、高速 A16を Bariで降り、海岸沿いを走る E55号を Brindisiへ向け南下を続ける。 Brindisi には 14:11到着。 ローマを出てから 570km、7時間余りの旅程であった。 昔の重装ローマ軍なら11、12日は掛かったのであろうか。



港へ伸びるメインストリート: 今は昼休み(1時から4時半迄全ての店が閉まる)で人出もまばら


ブリンヂシの宿はローマから電話で予約した。 ブリンジシからターラントに伸びる道路 E90を海岸から 10km程内陸に入った小さな街 Mesagneにある筈だ。 直ぐ見つかるだろうか。 此処までくると英語が余り通じない。 イタリア語の予備知識は全く無い。 若干不安でもあるが、幸い時間はたっぷりある。 夏のヨーロッパである。 どんなに道に迷っても日が暮れる迄未だ6時間はあろうか。 海岸沿いの E55号は高速ではないが高速並みに整備された殆ど信号の無い道である。 Brindisi のサインで E55号を降りる。 兎に角内陸に向かえば良い筈だ。 E55号を降りると直ぐにTarlantoの標識が目に入ってきた。 Brindisi、Tarlantoを結ぶ幹線道路 E90号である。 これも高速並みに整備された道だ。 10km程走ると Mesagne のサインがあった。 E90号を降りて Mesagne のサインに従い街へ向かう。 街の入口にあるガソリン・スタンドに寄った。 ガソリン補給と道を聞く為である。 ここで初めて運転していた車がデーゼルであることを知る。 欧州ではデイーゼル車が以外に多い。 燃費も良いし、静かだ。 ガソリンではなくデーゼルを補給した。 やはり英語が通じない。 インターネットで取り出したホテルの地図をスタンドのおにーさんに見せた。 どうもこの通りにホテルはあるらしい。 やれやれ助かった。 以外にすんなりとホテルの位置が判り一安心。 Mesagne は小さな街、1km程度のメイン・ストリートの中心には中世の城跡広場があり、ホテルは中心から 300m程度ターラントよりにあった。 コンドミニアム・タイプの建物の一部がホテルになっている。 一階はカフェ・バー、道路に面して大きなデーツと松の樹の庭にパラソルのテラス席が如何にも南イタリアと言った情緒を醸しだす。



港に浮かぶ現代の遊び船ヨットと記念碑



早速湊を見に行った。 それに持ち金が乏しい。 ローマを出る時点で 15ユーロしか財布には入っていなかった。 高速料金はカードで払えたから良かったものの、途中のサービス・エリアで昼食を取ったりカプチーノを飲んだりしたので、既に財布の中身は 10ユーロを切っている。 両替屋も探さなくてはならない。 首尾よく良心的な両替屋を見つけ当面の資金を手にした。 ブリンヂシの街はかなりの規模である。 流石に古から栄えた湊街らしい。 建物は古いが、どの店もイタリア(欧州)特有の奥が深く、内部は明るい。 そして何より展示のセンスが良い。 やはりイタリア人は生まれつき芸術感覚が発達しているのだろうか。 湊に向かって伸びる1本のメインストリートは歩行者天国になっていて、広い歩道には椰子の並木が良く似合う。 



Dome広場のカテドラル: 鐘楼の下のくり抜いた部分がVia Colone(石柱通り)



翌日、E90を東に向かい Taranto に行ってみた。 主要街道は複数のルートを持つローマ街道である。 アッピア街道は言うまでもない。 ブリンヂシに入るには Bari から入るルートと Taranto から入るルートがある。 幹線道路 E90 はアッピア街道のもう一本のルートであった。 ターラント迄はメザーニャからは 40km、車だと約30分の道のりである。 ターラントは予想以上の大都市であった。 入江が深い美しい風景の街である。 朝の商いが始まったばかりの街は活気に溢れている。 新鮮な野菜満載の八百屋、活きの良いムール貝の束を裁く路上魚屋。 路地は狭い。 混雑解消の為メイン通りにはバスレーンが設けられている。 イタリア人はバスレーン等守るのだろうか。 おっといけない私が守っていなかった。 当のイタリア人は以外にきちんと守っているのである。 





Brindisi と Tarlant を結ぶ Appia alternative
(現在の国際道路標識では E90号)



ターラントは一時間程の訪問でブリンヂシに方面に引き返した。 今日はアッピア街道終着の街をゆっくり見るつもりである。 1時にブリンヂシ駅前に到着。 駅前の案内看板を見る。 全てイタリア語なので余りよく判らないが、英語と似通った単語もありどうにか主要なポイントは掴めたような気がする。 

やはりそうだった。 湊の先端に大きな古い石柱が1本建っていたが、あれがアッピア街道終点を示す柱だったのだ。 今日、改めて見に行った。 何処にも標識や看板が無いと思ったが、良く周囲を見ると民家の壁に余り目立たないが高い処に薄く壁に直接 ”此処がアッピア街道の終点” と書かれている。 これでブリンヂシで思い残すことは無い。 満足感を胸に湛え、現代のアッピア街道E90をゆっくりメザーニャの宿へ戻った。 



Tarantoの下町: 狭い道路に車が犇く







23/Jun/'05 @Brindisi Italy (Updated on 27/Jul/'08)#202

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