マルチ言語国家スイス
@Aug/'73 Leuk Swiss


Leuk Earth Station全景(ローヌ河が刻んだバレー州)



'73年8月Leuk、スイスValey州にある人口僅か数百人の山村。 ジュネーブ、コロナバン駅からスイス国鉄のBrig行きの列車に乗る。 ローザンヌ、ヴベー、モントルー等、何処の方向をみても絵に成る美しい景色のレマン湖畔を、停車駅でのアナウンスもなく、静かに景色を縫うように列車は走る。 モントルーを過ぎると景色は一変する。 両側を険しい山々に囲まれたローヌ川に沿って開けた狭いが比較的平坦な谷を遡る。 牧歌的風景そのもの。 2時間くらいでLeuk駅に到着。 例の如く、アナウンスは無い。 列車であるから本当に音がしない。 すぅーと止まって、すぅーと発車する。 降りる駅はお客がしっかり自分で確認しなければならない。 駅名は Leuk だが、駅のあるローヌ川辺の村は Susten と言う。 Leuk村は実は駅から北側の山の斜面を少しのぼった所にある。 歴史的には Leuk村は谷底の Susten村より遥かに古い。 そんな訳で駅名はその古い村Leukを尊敬して付けられたのだろう。



レマン湖に佇むシオン城



少し話は脱線するが、スイスはフランス語、ドイツ語、イタリア語を公式言語とするトリリンガルの国だ。 Susten はドイツ語圏であるが、ジュネーブ寄りの隣街 Sierre では、フラン語を喋る。 局員は両村町から通っており、それぞれ自分の地域の言葉を喋る。 局では常時独語と仏語が飛び交う。 それに我々が加わると英語が追加されるのだ。 それでも全く混乱は生じない。 それにスイス人は、非常に保守的で勤勉で質素な生活を営む。 ある時、靴下が破けたので、宿屋の部屋のごみ箱に捨てた。 あくる日、仕事から帰って部屋に戻ると、その捨てた靴下に ”つぎ”が当てられ洗濯して、ベッドの上に置いてあった。 こんな経験は子供の頃、田舎で貧しい生活をしていた時期に経験無くもないが、まさかこのスイスでするとは思わなかった。 頭が下がる思いで、近頃(1973年)の物に溢れた日本の消費生活を深く反省するのであった。 



バレー州: ローヌが刻んだ谷間に僅かな平地が広がる
(ジュネーブからロイクへ向かう列車の車窓から)



さて、大きなスーツケースを下ろし駅前に出る。 Susten村は人口数百人の村だ。 それでも駅にはキオスクが有る。 駅前に、宿屋兼カフェ "Bahn hof Buffet" がある。 ここが、これから5ヶ月お世話になる宿だ。 主人のステファンは、スキーのインストラクターでもある。 映画 ”白銀は招くよ” の主役トニーザイラーのスキーインストラクターを勤めたこともある超ベテランである。 Buffetは主人のステファンの他は、住み込みの女中が一人に通いのお手伝いさん(ウエートレス兼コック)2人だけできりもりしている。 客室は Buffet の2階に数部屋ある。 トイレ、お風呂は共同だ。 関係者全員は、とてもこのBuffet には泊まれないの。 村のあちこちの民宿等に散らばることになった。  只、夕食は全員この Buffetで取ることにした。 Buffetは入った所がメインのフロア-で、カウンターの他にテーブルが5,6卓、全体が木の内装で落ち着いた感じ。 その奥に少し殺風景な大部屋が1室ある。 我々は毎日夕食をこの奥の部屋で取った。 メニューは主人のステファンにお任せ。 ドイツと同じでジャガイモとソーセージが主食。 ジャガイモの料理方が実に600種もあると言う。 休みの日等、遠くへ出かけない時は、この Buffet でコーヒーか、或いは飲めないビール、あるいはワインをグラスに注いで貰い、 書物を読むのがお気に入りの時間であった。 



Susten村 駅前カフェで休日の一時


通勤はスイス国鉄の運営する、Keuk駅と山の上にある温泉リゾートLeukerBadを結ぶ路線バスを、特別臨時便として我々の出勤時間に合わせ朝夕出して頂いた。   

現場では、建物やアンテナ等外回りの工事がまだまだ続いている。 アンテナの工事はイタリアの下請け会社を使っており、作業員も全員イタリアから来ている。 悪い言い方かも知れないが、詰まり出稼ぎ労働者だ。 かれらはシェフも連れて来ており、昼はサイト内でイタリア食を食べていたのを思いだす。 我々の昼は、Susten村迄下るのは時間が掛かり過ぎるので、途中のLeuk村のレストランで取る事が多かった。 イタリア人達は夕食を我々のようにまとまって食べるようなことは無い。 それぞれ、バー等で飲んで適当に済ませていたような気がする。




仕事場の看板の前で


局舎は山の斜面の少し平になった岩盤の上に建設されている。 機器室は地上1階建てであるが、その地下は、岩盤を大きく切り抜き、 巨大な地下室が設けられ、電源設備、ストアールーム等完備している。 その中でも特に目を引くのは核シェルターだ。 30cmの厚さがあるコンクリート製の頑丈なドアー、内部は局員が3ヶ月生活できる保存食料、 手動の空気清浄器、寝具等が整っている。 当時は世界で唯一の実際の原爆被爆国日本にも、核シェルターの概念さえ一般には無かったと思う。 国民皆兵制度、全ての家庭には、自動火器を常備、これ程迄して永世中立を保っているのである。 1971年に始めての海外出張でヨルダンに行った時、強烈に感じたイスラエルとアラブ諸国の間にみなぎる、 国境を守る異常な迄の緊張感、そして今スイスで見るこの静かな物々しい備え、いずれも平和日本の一般人には理解が程遠いものに違いない。 山岳部が殆どで平野部の少ないスイス、空軍の戦闘機等は、岩山をくり貫いた格納庫に収められており、滑走路は谷間の僅かな平地中央部に1本設けている。 戦闘機が訓練で滑走路に出る際は一般道を横切る。 突然前方戦闘機のサインが現れ、暫く車を止められることがあるのだ。 スイスと言えば、美しいスイスアルプス、ヨーデルやチーズフォジュー等観光面ばかりが思い浮かぶが、この小さな山国を守る彼らの意志はかように固く、蟻の如く働いている姿を我々はどれだけ知っているだろうか。



雪深い現場敷地にある仮設現場事務所


最初のスイス出張は、夏から冬に掛けての5ヶ月間だった。 彼らの国を守る防衛意識の高さには驚かされたが、いわゆる有名所の観光地も幾つか尋ねることができ、その景観の素晴らしさを堪能し、アクセスのスムースさに彼らの勤勉さ合理性を再認識した。 そしてその後、28年来に渡る友人関係にあるS氏、A&S両氏、K氏等多くの友人を得たのもこの出張がきっかけであった。 



12/Aug/'73 林蔵@Leuk Swiss (Updated on 29/Feb/'08)#067

{林蔵地球を歩く}[頁の始めに戻る]