サラエボ @Feb/'84 Ivanjica, Yugoslavia
1984年2月、冬のスポーツ祭典、冬季オリンピックがユウゴスラビアのサラエボで開催される。 その様子は衛星通信回線を通じて世界の茶の間に実況中継される。 使用される衛星通信回線は、我々が数年前に納めた当時のユーゴスラビアの首都ベオグラードから西に200km余りに位置する
Ivanjica に建設された衛星通信地球局を介して行われる。 この世界的なビッグイベントの中継に失敗は許されない。 関係各部門は万全の準備をして本番に挑む。 私も微力ながら裏方として参加の栄を得た。
2月8日、開会式の日だ。 今日から2週間、オリンピックの大会期間中、局のコントロール・ルームで中継作業の支援を行う。 支援と言っても、私の役目は衛星通信地球局の通信機器が障害になった時、即座に回線の復旧を行うことである。 いわゆる緊急対応の要員だ。 何も無ければ、只、コントロールルームで、競技のモニター・テレビを見ているだけの極めて楽ちんな任務である。 コントロール・ルームの緊急要員席には、もう一人の人物が居た。 アメリカABC放送から派遣された John Serafan氏だ。 今回のサラエボ冬季オリンピックの中継は、米国ABC放送が一手に引き受けている。 実に4、000人の報道陣を送り込んでいるとのことだ。 その映像と音声が、ここ Ivanjica の衛星通信地球局から発信されるのである。 通信断は絶対に起してはならない。 もし起した場合は最小限の断に留めなくてはならない。 そのために、私とSerafan氏が、このコントロール・ルームに釘付けになっているのだ。 Serafan氏は、今年でABC放送を定年退職するらしい。 今回の仕事が最後で、後はペンション(年金)生活に入ると言っていた。 アメリカでは孫が今にも生れそうで、家族からの国際電話を今かと待っているのだと。 雪に煙るドナウ
無事、何事も無く2週間が過ぎ、米ABC放送のセラファン氏と成功の握手をして別れた。 ベオグラードへの戻りは、客先が列車を手配してくれた。 Poceka と言う近くの街にベオグラード行きの列車が止まる。 アガサクリステイーヌの小説の舞台になった、オリエント急行の路線である。 なにか、とてもロマンチックな気分になる。 途中、大学生だと言う3人の女性客と同じコンパートメントになり、美しいユーゴスラビアの国土を愛でる話を延々と聞かされた。 お陰で楽しい車中の時間を過ごすことができた。 別れの挨拶は、オリンピックの閉会式に憶えた、 ”ドビジェニア”。
ベオグラードでは、日本へ帰る便の調整の為、1泊する。 担当商社の方が、今回のミッション成功の慰労招待で、ドナウ(Danuv)川に浮かぶ、魚レストランに招待してくれた。 スイス、フルカ峠を源流とする国際大河ドナウの水は、
ここベオグラードでは流れるとも流れないとも分からぬ程の速度で移動する。 どう言う料理か忘れたが、美味しい魚料理を頂き幸福な気分にひたる。 この平和で美しいベオグラードを首都したユーゴスラビアは、今では度重なる内戦で、まさにモザイクの如く分裂した国家になってしまった。
6/Feb/'84 林蔵@Beograd Yugoslavia (Updated on 21/Apr/'08)#123 |
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