サラエボ
@Feb/'84 Ivanjica, Yugoslavia


Ivanjica局とサラエボ会場を結ぶマイクロリンクのアンテナを保守する現地職員


1984年2月、冬のスポーツ祭典、冬季オリンピックがユウゴスラビアのサラエボで開催される。 その様子は衛星通信回線を通じて世界の茶の間に実況中継される。 使用される衛星通信回線は、我々が数年前に納めた当時のユーゴスラビアの首都ベオグラードから西に200km余りに位置する Ivanjica に建設された衛星通信地球局を介して行われる。 この世界的なビッグイベントの中継に失敗は許されない。 関係各部門は万全の準備をして本番に挑む。 私も微力ながら裏方として参加の栄を得た。



テレビ・コンソールでサラエボからの映像をチェックする客先エンジニアー


2月6日、モスクワ経由でユーゴスラビアの首都、ベオグラードに着いた。 成田からモスクワ迄のフライトでは、隣がイスラエルのオーケストラのトランペッターだった。 彼は危険分散の為、各楽団員は別々の飛行機で移動するらしい。 (今ではビジネスの常套であるが)さすが、このような事を実行するのはイスラエル人だと感心する。 モスクワからベオグラード間は、ロシアのエアロフロート機便である。 大きな機体に4人しか乗客が居ない。 ベオグラード空港では、Bienbunue とフランス語で大きく書かれた看板で迎えられる。 空港からタクシーで某商社の現地事務所が予約してくれた市内の Hotel Excelcior に向う。 市の中心街にある、古い格式の高いホテルだ。 夕食をホテルのレストランで取る。 バイオリンとピアノの生演奏付きである。 バイオリン奏者は、お客の間を歩き回りながら巧みに演奏する。 カップルの席に来ると、ロマンテイックな曲をゆっくりムードたっぷりに弾く。 演奏が終わればカップルから何がしのチップがそっと渡される。 


 
大雪でホテル前に停めた車が雪にすっぽり埋もれた


翌日、2月7日は、サラエボでのオリンピック・プログラムを全世界に向けて通信衛星を通じてテレビ送信する為の地球局がある Ivanjica へタクシーで移動する。 250kmくらいベオグラードから南西にある小さな町だ。 インツーリスモ(国営観光局)の指定ホテル Inex Hotelに投宿する。 2階建て1棟の小じんまりしたホテルである。 レストランでは、共産国の例に漏れず、ここも生バンドが付いている。 これが酷くうるさい。 殆ど会話ができない程の大音響である。 モスクワでも同じ思いをしたことがある。 異国で一人で食事をする際の時間過ごしに文句は無いが。 ホテルや、街のショー・ウインドウには、サラエボ・オリンピック大会のマスコット "Vucko" (ウィスカ: 狼)のぬいぐるみが至る処に飾られている。 



サラエボ冬季オリンピックのマスコット狼の「ウッツコ」


2月8日、開会式の日だ。 今日から2週間、オリンピックの大会期間中、局のコントロール・ルームで中継作業の支援を行う。 支援と言っても、私の役目は衛星通信地球局の通信機器が障害になった時、即座に回線の復旧を行うことである。 いわゆる緊急対応の要員だ。 何も無ければ、只、コントロールルームで、競技のモニター・テレビを見ているだけの極めて楽ちんな任務である。 コントロール・ルームの緊急要員席には、もう一人の人物が居た。 アメリカABC放送から派遣された John Serafan氏だ。 今回のサラエボ冬季オリンピックの中継は、米国ABC放送が一手に引き受けている。 実に4、000人の報道陣を送り込んでいるとのことだ。 その映像と音声が、ここ Ivanjica の衛星通信地球局から発信されるのである。 通信断は絶対に起してはならない。 もし起した場合は最小限の断に留めなくてはならない。 そのために、私とSerafan氏が、このコントロール・ルームに釘付けになっているのだ。 Serafan氏は、今年でABC放送を定年退職するらしい。 今回の仕事が最後で、後はペンション(年金)生活に入ると言っていた。 アメリカでは孫が今にも生れそうで、家族からの国際電話を今かと待っているのだと。 


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雪に煙るドナウ


期間中、通信機器の障害は全く無く素晴らしい競技の映像と音声が世界の国々へ送り続けられた。 私とSerafan氏は、局のコントロール・ルームで暇を持て余す2週間であった。 毎日、局のモニター・テレビを眺めながら時間を過ごしたのである。 途中、局のある Ivanjica で大雪が降り、ホテルの駐車場の車は雪に埋もれ全く見えなくなってしまった。 局では、サラエボからの映像が乗って来る、地上のアクセス回線を切断させないため、担当員が専用のパラボラアンテナの除雪に余念がない。 大雪の後、サイトに野ウサギが現れた。 局員が捕獲し局の昼食に出てきた。 少し憐憫の情が湧く。 



公園を行き交う人々も冬衣装にすっぽり身を包む


毎夜、夕食はホテルのレストランで取る。 ある日、ドイツ人と隣の席になった。 何れも旅先の、寂しさからどちらからとも無く話し掛ける。  聞いて見ると、あるドイツの大手測定器メーカーのセールスマンである。 彼はドイツからバンに測定器をぎっしり詰め込み、ヨーロッパ中セールスに回っているとのこと。 狩猟民族の移動を物ともしないバイタリテイーに、感心すると同時に脱帽する。 同じ経験をイランに出張中にしたことがある。 やはりドイツの測定器メーカーのセールスマンが、はるばるイランの地まで、車に測定器を満載して、自分で車を運転し行商に回るのである。 富山の薬売りも大したものと思うが、彼らの行動範囲の広さは比ぶべくもない。 



ベオグラードのセルビア教会


無事、何事も無く2週間が過ぎ、米ABC放送のセラファン氏と成功の握手をして別れた。 ベオグラードへの戻りは、客先が列車を手配してくれた。 Poceka と言う近くの街にベオグラード行きの列車が止まる。 アガサクリステイーヌの小説の舞台になった、オリエント急行の路線である。 なにか、とてもロマンチックな気分になる。 途中、大学生だと言う3人の女性客と同じコンパートメントになり、美しいユーゴスラビアの国土を愛でる話を延々と聞かされた。 お陰で楽しい車中の時間を過ごすことができた。 別れの挨拶は、オリンピックの閉会式に憶えた、  ”ドビジェニア”。 



ドナウとサバが合流する美しいベオグラードの街


ベオグラードでは、日本へ帰る便の調整の為、1泊する。 担当商社の方が、今回のミッション成功の慰労招待で、ドナウ(Danuv)川に浮かぶ、魚レストランに招待してくれた。 スイス、フルカ峠を源流とする国際大河ドナウの水は、 ここベオグラードでは流れるとも流れないとも分からぬ程の速度で移動する。 どう言う料理か忘れたが、美味しい魚料理を頂き幸福な気分にひたる。 この平和で美しいベオグラードを首都したユーゴスラビアは、今では度重なる内戦で、まさにモザイクの如く分裂した国家になってしまった。  



お客とデイナー






6/Feb/'84 林蔵@Beograd Yugoslavia (Updated on 21/Apr/'08)#123

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