ワイトアイランド
@Sep/'00 Wight Island, UK


ポーツマスとワイト島を結ぶ双胴船フェリー "Wightlink"



1851年、第1回ロンドン万博の余興で、港町サザンプトンの南に浮かぶ小さな島ワイト島を舞台に ヨット・レースが開催された。 当時の海洋王国イギリスから15隻、そこへアメリカから大西洋を渡り1隻のヨットが参加した。 アメリカは当時まだ歴史も浅く新興国家であり、国際ヨット・レース等、田舎のおっさん(失礼)が参加するようなものであった。 勿論当時の最先端チームはイギリスに犇き合っていたのである。 ところがレースは意外な結果に終わる。 誰も気にも止めていなかった、たった1隻参加したアメリカ艇が優勝したのである。 それからであるアメリカの凄さは。 それ以来、海洋後進国であったアメリカが、132年間に渡りこの優勝カップを国外に持ち出したことが無い。 その為、極めてバランスの悪い、700ドル程の値打ちを持つ純銀製、4kgの水差優勝カップは、アメリカズ・カップと呼ばれ世界のヨット・マンの憧憬の的となる。 今日に至り、アメリカズカップは世界ヨット・レース最高峰の名を欲しいままにしている。 歴史に永遠は無い。 このA-カップも、1983年、第25回大会で、遂にオーストラリア艇に依り、アメリカから奪い取られたのである。 そのニュースに世界の海洋民族は震えたと言う。 ちなみにわが国では、然程のニュースにならなかったと聞く。 わが国が海洋民族の国でない証であろうか。 A-カップが132年の年月を経てアメリカを離れるのである。 オーストラリアでは、時差の関係で真夜中だったにも関わらず、殆どの市民がレースに釘付けになり、優勝の瞬間にはシドニーのハーバー・ブリッジに大きな垂れ幕が垂れ下がったと聞く。 当時、私はスイスに長期出張中で、そのニュースを宿舎のホテルで見ていた。 私は英国人やたの海洋民族と言われる人々程このニュースに心臓が張り裂ける思いは持たなかったが、一大ニュースとして受け止めたことは確かであった。 日本は四方を海に囲まれているのに、海洋民族では無い不思議な国。 その後、アメリカは国威に賭けてA-カップを奪回したが、またニュージーランド艇に奪い取られている。 今、A-カップはA-カップと呼べなくなりつつある。 




ロンドン、ウオータールー駅ユーロスターターミナル



こちらはこれから我々が乗り込むポーツマス行き列車


2000年9月のある日、こんな輝く歴史のあるワイト島を仕事で訪れる機会を得た。 ロンドンから列車で行く。 ポーツマスにはロンドンの北にあるターミナル駅、ウオータールーから出る列車に乗る。 英国資材部のP氏とウオータールー駅で待ち合わせる。 駅は広い。 中央のメイン列車発車時間ボードの下で落ち合うことした。




駅のコーヒースタンド、カプチーノを入れてもらう: ロンドンでは多くの外国籍の人々が働く


垢抜けた感じののカプチーノスタンド


宿泊先のヒルトン・ケンシントンからウオータールーへは地下鉄で移動する。 7時にホテルを出ると、7時半過ぎにはウオータールー駅に着いた。 ポーツマス行きの列車は8:38発である。 未だ出発迄1時間ばかりある。 早速駅の中を歩き回る。 始めての土地を探索するのは脳に心地よい刺激があり、すこぶる楽しい。 1時間たっぷり駅構内を歩き回った。 その間に、自動券売機でポーツマス迄の往復切符を19.9ポンドで買った。  P氏は流石地元、列車の発車時間ぎりぎりにやってきた。 英国の列車は冷房が無い。  無くても良いくらいの気候なのである。 約1時間半でポーツマスに到着。



ロイアル・ネービーの帆船軍艦


列車は、ポーツマスの港奥深くにある終着駅に滑り込む。 駅は桟橋と直結している。 ポーツマスからワイト島へは双胴船フェリーで海峡を渡るのだ。 小型の双胴船に10数人が乗り込む。 30分程度の船旅である。 



ワイト島の港待合室にある大きな柱時計
  


商談の後、客先と会食をすることになった。 島の中にある人気の英国田舎風レストラン、”Wishing Well:幸福の井戸” に雪崩込む。 特製クリーム掛けステーキにポテトとサラダ。 黒が基調の木の内装は渋くてとても感じが良く、お気に入りの雰囲気が漂う。 2時間余りのビジネス・ランチは、ワイト島の生活や経済が語られた。 英国随一の港町サザンプトンにも近く、高級別荘地が島の周辺部に点在するらしい。 ワイト島は日本から余りに遠い。 私には興味の湧かない話しである。 




ワイト島のジェッテイー(船着場)












Sep/'00 林蔵@London UK (Updated on 17/Nov/'10)#142

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