鶴見川ウオーク
@Jan/2005 鶴見川、神奈川

 
鶴見川の堤防はウオークにはもってこいの良く整備された散歩道である: 川の持つやさしい表情が今も残る景色が楽しめる。



33年間勤めた工場が無くなる。 これも時代の流れと言えば致し方ないことだが何と寂しいことだろう。 私の人生の中盤はここに全てが詰まっている。 一つの技術の寿命は30年と言われるが、ものの見事に当たっているのにはグーの音も出ない。 昨年、年貢の納め時と決断し33年間勤めた職場を去り、今は国際ボランテイアーとしてヨルダンで現地のエンジニアー達の指導に当たっている。 年末年始を挟み一時帰国した。 親しい仲間に連絡を取り無理を言って鶴見川ウオークをアレンジして頂いたのである。 33年間、JR鴨居駅から鶴見川を渡り工場に通った、その鶴見川を鴨居から河口迄歩こうと言う企画である。 真冬のウオーク等普通なら考えも及ぶまい。 だがこの仲間は別のように思える。 皆何の躊躇もなく快諾してくれたのである。 何とありがたいことか。 

ウオークの前に横浜工場を見納めておこう。 駅から歩き慣れた鶴見川に掛かる立派な歩道橋を超え工場の前迄歩く。 昨年4月迄毎日歩き慣れた道である。 5月に無くなるのかと思うと実に名残惜しい。 かつて全世界に衛星通信機器をサプライした最先端工場である。 皆と正門前で最後の記念撮影をして後ろ髪を引かれる思いで工場を後にした。 




世界最先端技術を生み出し世界市場でトップ・レベルのマーケット・シェアーを誇った工場も 時代の波と供にその姿を消す運命を享受する



再び鶴見川の土手に戻り川下に向かって歩き出す。 天気予報ではその日は冬将軍の寒波が北からやってきて真冬日となる筈だ。 だが風も無く適度に曇った空はウオークには理想的とも思える天候である。 土手道は良く整備されジョギングを楽しむ者、自転車を楽しむ者、様々な人々に遭遇する道でもある。 新横浜で川向こうに渡り昼食休憩の予定であった。 新幹線の駅が出来、最近急速に発展した新横浜のビル群が川向こうに見えてきた。 少し手前に新しく出来た橋がある。 この橋を渡って川向こうに行っても良いのだが、川向こうは自動車道らしく見えるので、数100m先に見えるもう一つ川下の端を渡ることにした。 その橋に近ずいた時である。 何と歩道に上がる階段が無い。 橋の袂に行くにも歩道の柵が何処までも切れ目無く続く。 川向こうに渡り新横浜で昼食休憩は諦め歩き続けることにする。 この辺りがこのグループの臨機応変なところであり大変気に入っている部分でもある。 

遂に綱島迄来た。 時間も程よい昼時である。 駅前通りのレストラン、”イータリー・フクヤ”に入った。 2階席を案内される。 壁にカウンター席のある奥に細長いフロアーでテーブルが4卓ばかりの余り広くないスペースである。 窓際のやや大きめのテーブル2卓を陣取った。 かなりの距離を歩いた後に座る椅子は何と心地よいものだろう。 たわい無い話題で食事が盛り上がる。 やはり気の合う仲間と頂く食事は至福の時間を提供してくれる。




綱島駅からはバスで鶴見駅まで移動する



河口迄後10kmの標識である。 全体の時間調整の為、ここ綱島駅から鶴見駅迄はバスを利用することにした。 バスは前払いで220円。 終点の鶴見駅迄乗ったので効率100%である。 鶴見駅から再び川べりを歩き始める。 河口から1kmの標識を過ぎて数百メートルの地点で護岸工事の為、遂に道が無くなった。 仕方がない。 鶴見川ウオークはここで終えることにした。



 
旧東海道に出た                        水神宮



さて、このまま終わるのも何か物足りない気がする。 A氏の提案で近くにある筈のキリン・ビール工場見学をすることに決定。 決まれば直ぐ行動するのがこのグループである。 足は既にキリン・ビールに向かっている。 この辺りは昔魚河岸があった場所であるらしい。 立派な水天宮が入り組んだ路地裏にあった。 旧東海道に出た。 ここにも神社がある。 道念稲荷だ。 突然隣の民家から歌声が聞こえてきた。 ”蛇も蚊もでたけ、日和の雨け、出たけ、出たけ” と、声も節回しも良いいいのである。 後ろを振り返ってみると、かなりのお年の男性が窓を開けて我々に向かって歌っている。 我々が振る向くと ”蛇も蚊も” の謂れを語ってくれた。 御稲荷さんの傍にはには ”蛇も蚊も” のいわれを書いたたて看板も見ることが出来る。 その昔疫病がはやった時、人々は悪疫を萱で作った巨大な大蛇に閉じ込め練り歩いたことから生まれた健康願いと雨乞いのお祭りとして根付いたものらしい。




”蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ”、と威勢よく歌う大蛇祭が無形文化財になった道念稲荷



思わぬいわれを勉強し、道念稲荷を後に旧東海道を下り方向に数10m歩くと、今度は ”青麦事件の現場” と書かれたたて看板に出くわした。 幕末攘夷思想が世を風靡していた頃、勅使の付き人であった薩摩藩国父島津久光の行列が帰京の為行列をなし東海道を下っていた。 幕府は要らぬ衝突が起こらないようと、時の将軍後見役、一橋慶喜(後の最後の将軍、徳川慶喜)が外国人居住地に外出控え令を出していたが、何かの行き違いで馬に乗った英国貿易商人ら4人と遭遇した。 久光の家来は英国人に下馬するよう申したが、英国人は下馬を拒んだので久光の家来は無礼行を理由に脱刀、英国貿易商リチャードソンを殺害、他の3人に重軽傷を負わせたてしまった。 幕府は大変なことになったと、英国政府に誤る姿勢を示し、示談金10万ポンドを支払ったのである。 しかし攘夷派の最たる薩摩藩は幕府が示した藩の示談金担当分2万5千ポンドの支払いと下手人の差出を拒んだ。 これが元で薩英戦争が勃発するのである。




民家の塀に掛かっていた”生麦事件現場”の説明看板



今日は思わぬ歴史探索のウオークにもなった。 そして仕上げはビール工場見学である。 キリン・ビール生麦工場は日本で最初にビールが作られた工場を引き継ぐ大変由緒のある工場であることを、見学ツアーコンダクターの説明で知った。 キリン・ビールの工場では小さい工場であるがビール生産高では最大の工場だそうだ。 ビールの元麦汁を作る巨大なタンクにはビール20万本分の原料を一度に炊き上げる。 そして大きなサイロのような発酵タンクが139本ある。 ここで1ヶ月から2ヶ月寝かせると美味しビールができあがるのである。 後は濾過するだけ。  最近の濾過技術は発展していて熱を加えなくてもそのまま製品となるのだそうだ。 つまりすべてドラフト・ビールと言うこと?

約一時間の工場見学を終えると、工場内のレストランへと案内される。 ここで出来たてのビールを試飲するのである。 試飲券が見学者全員に配られる。 子供用にジュース券もある。 おつまみも付いて、出来たての実に旨いビールが2杯も飲めるのである。 私は普段アルコール類を殆ど飲まないのであるが、ここで頂いた出来たてドラフト・ビール ”一番絞り” の味は抜群だと思った。 皆、旨いビールに御満悦である。 少しの酒は体にも心にもすこぶる良い。 暗くなりかけた街を最高の気分で帰路に着いたのである。




キリンビール生麦工場見学者入り口





08/Jan/'05 林蔵@神奈川 (Updated on 10/Jul/'08)#188

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