気仙沼
@Apr/'11 気仙沼, 宮城


徹夜で高速を乗継ぎ、トラック隊とバスは気仙沼消防本部に到着
 早朝、気仙沼消防本部にて、満載の支援物資をトラックから下ろすボランテイア達



2011年3月11日、東日本を未曾有の災害が襲った。 三陸の海岸はこれまでも遠い昔から何度も地震による津浪の被害をこうむっている。 人々は災害に備えハード、ソフトの面で様々な手を打つことを怠ってはいなかった。 しかしこれ程の規模のものは初めてだと言う。 誰もが予想だにしなかった、想像を絶するものであった。 被害は甚大であるが、そんな中にもその悲しみや苦しみから立ち上がろうとする人々のすざましい気概が、そしてそれを支援しようとする日本中の、いや世界中の善意の力が沸き起こっているのを感じる。 私は現在は東京都民になっているが、以前住んでいたよしみから神奈川レスキューサポートバイクネットワークの一員として、主に地元での東海沖大地震に備え日頃の啓蒙活動や訓練にささやかながら参加させて頂いている。 勿論、KRBとしては近隣で出動可能な災害発生時には、できる人員ができる範囲で支援活動に参加させて頂いている。 今回の大震災発生後、日ごろの訓練や思いを今こそ何らかの形で貢献できないか、あれこれ思案したが、あまりにも大規模、広範囲な災害ゆえ、我々アマチュア活動家が初動時期に現地に赴き何かをサポートする等と言う場合ではなかった。 機動力と訓練の行き届いた最大限に実行力を伴うプロの活躍こそ火急に必要であった。 3週間が経ち、ようやく、我々でも現地に入って何とかお手伝いができる状態になったこともあり、又多くの方々の善意が集まり、ボランテイア36名(人形劇団、鍼灸士、大学生、消防士、一般ボランテイア、報道記者、エール大震災研究員、バイク隊等)、トラック7台、トランスポート(バイク運搬車両)3台、バイク5台と言う大所帯で気仙沼での活動に参加することができた。
 




支援物資を満載したトラック: 横浜市のこどもの国で出発式、これから徹夜で高速を走り気仙沼を目指す


参加した団体は、”被災地の子供を支援するかながわ市民の会”実行委員会主催の「神奈川の子供の元気を被災地の子供に届けよう」と言う会だ。 これだけの支援物資と大人数を送り込むには、大勢の方々の支援と協力、そして目に見えないご苦労が多々あったと思う。 改めてお世話をして下さった、YMCA関係者、横浜消防OB・OGの方々、その他多くの関係者にはお礼の言いようが無い。 我々は最後の段階で参加がきまり、殆どの準備活動には参加していないが、準備こそ活動の大部分を占める筈だ。 たとえば今回の支援物資の中にホウレンソウ2000ケースがある。 これは横浜のある農家の方から畑ごと寄付頂いたものだそうだ。 ホウレンソウを畑から収穫し、一本一本手洗いし、乾燥させ、箱詰めする作業は大変な工数を要する。 これらの作業は地元の中学生達が、こどもの国を中心に作業したものだそうだ。 反省会で参加した中学生が述べていたが、洗っても洗っても減らない野菜の山はその作業を如実に語っている。 それを組織したボランテイアコーデイネーターの方々にも頭が下がる。 又持ち込まれた衣類を、男女別、サイズ別に再包装する作業も根気の要る時間のかかる作業だったと聞いている。 これらの準備が全て整った後で我々の参加が決まったのである。 我々の活動は現地での人員、物資、情報の運搬と言う性質を持つ以上、それでも良いのかもしれないが。 金曜日の午後、 子供の国で支援物資を満載したトラック隊の出発式があった。 私は、我々バイク隊のトランスポート車(バイク運搬車)の高速道路通行証3台分を頂く目的もあり、出発式に参加した。 大型トラックに満載された物資を目の当たりにし、善意も集まればこれ程のものになるのかと言う思いに胸を打たれる。 高速道路の通行証を頂き、私も1台のバイクと機材等満載のトランスポートに乗り込み、気仙沼へ向け子供の国を後にした。




支援物資を積んだトラックが、早朝ぞくぞくと気仙沼消防本部に到着


東名、首都高、東北道を走り、一関には、23:50到着。  東北道は震災をもろ受けた道路であるが、既に一般車両が通れる程に復旧している。 海外のメデイアがこぞって、災害に強い、対応が素早いと褒め称ええる事実をこの目で見る思いだ。 大型輸送トラックに混じり、我々のトランスポートもこの幹線動脈を縦走させて頂いた。 一関から気仙沼へは、国道284号を東に走る。 気仙沼消防本部には朝の1時半到着。 寒い、気温は恐らく0度近いと思われる。 風も強い。 消防本部の駐車場で朝まで時間待ち。 ガソリン節約の為、エンジンを切り(当然であるが)、車内で待つ。 風は防げるが、冷え込みは我々都会住まいに慣れた者には厳しい。 改めて避難されている方々の厳しい環境を思わざるを得ない。 朝方になると、徹夜で走ってきた物資搬送トラックがぞくぞくと消防本部に到着した。 別の場所から出発したボランテイアバスも到着した。 早速一部の荷下ろしが始まる。 物資は仕訳毎に、避難所、青物市場、消防本部等に下ろされる手はずになっている。




川崎の人形劇団 ”ひとみ座” も一緒に駆け付けた
避難所では子供向けと大人向けの2幕の人形劇を上演、大好評を得た



今回のボラバスの会の活動拠点は一関に取った。 ボランテイアはあくまで被災してはいけない、邪魔になってはいけないのである。 自己完結も大事だ。 と言う訳で休息に比較的自由度の高い一関に拠点を置くと言うことになったのである。 就寝もバス泊を想定して行ったのであるが、何と立派なビジネスホテルが格安で提供された。 少しでも地元に資金を注入すると言う意味でも、地元設備を実費で利用させて頂くのは一考だと思う。 お蔭で活動のための十分な睡眠、休息が取れたのは嬉しかった。 食事は持参したお弁当、パン、ジュース、お茶、水等、冷蔵庫は無くても数日ならこの季節傷んでしまうことはない。 2日目の夕食は、簡易料理をホテルの部屋(私の部屋)で全員(36名)分作る場面もあった。 東工大の学生がコック長、他の学生2名と横浜消防から来た幹事役・世話役のボランテイア員2人で湯を加えるだけで出来上がるマッシュポテト、きゅーり、トマト、食パンにビスケット。 我々のKRB隊員が差し入れに持ち込んだ、阪神淡路大震災の年に仕込まれた神戸ワインも出た。 大会議室で反省会を兼ねた夕食。 つつましいが超豪華である。

ボランテイアは2班に分かれて各避難所へそれぞれの活動に出かけた。 避難所では、ひとみ座の人形劇が子供向け、大人向けの2幕が上演される。 そして横浜カフェが開店。 鍼灸士によるマッサージサービスが始まる。 大学生はマッサージ待ちのお年寄りの肩を揉む。 いずれも大盛況だったそうだ。 (我々バイク隊は消防本部で人員や物資、情報の搬送に関わっており、避難所での活動を見ることはできなかった。) 人形劇に子供達は大喜び。 大人たちのお話によると、子供たちがあのように喜んだのは初めてだとか。 又人形劇団が持ち込んだ簡単な遊び道具を幼稚園の先生が欲しがる(遊具は全て流されて何もない)ので差し上げたとか。 横浜カフェでも同じような声を聞いた。 避難所での生活は余裕を持つゆとりがない。 我々がずうずうしくも入り込み、カフェ(簡単な手製のテーブルにインスタント珈琲と紅茶といくばくかの駄菓子を並べただけのものであるが)を開くことで、ほんのわずかでもくつろぐ空間ができるのだろう。 こんなにして珈琲を飲むのは初めてと言う、避難所の炊き出しを担当している地元のおばさんの一言が大変印象的だった。 彼女達も被災しながらも、幸い高台で家は残ったので避難所には入らず、こうして炊き出し班として活動しているのだと。 又、建設業界の方は、仮設トイレの設置と、臨時要求があった避難所内の更衣室の設置を行った。 この更衣室の評判がすこぶる良い。 立派な(避難所にすれば)しっかりしたべニア板で囲った本格的更衣室。 ブルーシートで囲ったものとは全く違う別物だと言う。 特に女性陣から大喝采。




トランスポート: ワンボックスカーはバイク2台と装備品、水、食料、燃料、寝具等でぎっしり
よくもこれだけの荷物を詰め込んだものである



バイク隊の他のトランスポート2台もトラック隊、ボラバスと同時刻に現地に到着した。 早速荷下ろし、バイクの点検整備、バイク隊本部の設置を開始する。 アンテナ設置場所として消防本部の屋上を使用させて頂いた。 3階建ての屋上であり、今回の活動範囲内は十分カバーできる通信範囲を確保することができた。 活動中も余震が何度も発生、その都度出動中のバイク隊にリアルタイムで忠告等の連絡が必須であるが、いずれも問題なく連絡が取れることができた。 特に大きめの震度の余震があった際、バイク隊は港地区に出動中であった。 防災放送では津波の危険性を訴え避難を呼びかけている。 しかしバイク隊にはこの行政放送が聞こえなかった。 幸い、独自の無線連絡で事なきを得る場面もあった。 このようなきちょうな実践体験は今後の活動にも大きな収穫であった。





トランスポートからバイクを下す作業


我々に先ず飛び込んできた要請は報道関係者の取材サポート。 NHKと神奈川新聞の記者、米国エール大学の震災研修員が今回ボラバスに同行している。 彼女、彼らの取材サポートである。 バイクの後部座席に乗ってもらい、現場取材に向かうのである。 最初はおっかなびっくりの記者さんも、何度か乗るにつれ乗るコツを覚えたのか、乗りっぷりが良くなって行くのが目に見える。 避難所間で物資の需要が微妙に違っている。 救援物資は一度に大型車両で大量に届けられるが、中には不用品があったり、或いは必要な品がなかったりする。 そんな場合の微調整はバイク隊の得意とする分野である。 無線で各避難所からの要請を聞きながら、物資調達の微調整を行うのである。 又ある避難所では、気仙沼高校の入試に受かり、4月から気仙沼高校に行くことになっている生徒が居るが、入学式等一切の情報がないので大変心配しているとのこと。 本部に居た私がたまたま手が空いていたので、早速バイクで気仙沼高校へ出向かう。 学校は高台にあり、被災を免れていた。 しかし高台にあるが故に避難所となっており、学校再開のめどは立っていない。 校舎の入り口のガラスドアーには貼紙があった。 「生徒のみなさんへ。始業式、入学式の日程など、学校再開のスケジュールについては未定です。 今後何らかの方法で連絡しますのでもうしばらく待ってください。」 通信インフラも壊滅的で、避難所に居る生徒たちのすべてに情報がなかなか伝わらないのだろうと、容易に推測がつく。 生徒さんの心配もさぞかしつもることであろう。 事務室長さんにお会いすることができ、今後の意向や連絡先をお伺いすることができた。 多分新入学生と言っても、学生服等揃わないだろうから、中学の服、或いは平服で入学式に臨んでもらうことになるだろうと。 幸い、我々の遭遇した生徒さんには情報を伝えることができたが、他にも大勢同じような状況にある生徒さんがいるはずだ。




トランスポート車両から下ろしたバイクの点検整備: どこでも、どんな場合でも安全は最優先される



バイク隊本部の無線アンテナ: 消防本部の屋上を使用させて頂いた



バイク隊無線本部: バイクを運んだトランスポートは現地では無線本部に早変わり
出動中のバイク隊員とリアルタイムで種々情報が取り交わされる




要請に従い、報道関係者を後部座席に乗せ(タンデム走行)取材活動の支援に出動




要請に従い、報道関係者を後部座席に乗せ(タンデム走行)取材活動の支援に出動



気仙沼港から1km程陸側: 建造物の壊れ方とがれきの量は尋常ではない



気仙沼消防本部のポンプ車: 名産のふかひれが描かれている
これらの車両は本来は車庫に駐車しているのだが、消防本部も避難所となり、
車庫も消防車両を外に出して避難場所として提供している



4日目の活動を正午頃に終え、撤収、帰路についた。 私は往路と同じトランスポートの交代運転手として乗り込んだ。 来た道と同じルートを東京に向けて走る。 途中、ひっきりなしに緊急車両に遭遇する。 消防、自衛隊、警察の車両ナンバーは何れも遠い県から移動中であることが人目でわかる。 彼らは24時間交代で今この瞬間も任務遂行に汗を流しているのである。

今回の活動を通じて、自然の力のすざましさ、人知の愚かさ、人々の強さ、防災にはハードとソフトの両面が必要等多くの教訓を学ぶと同時に、一人では何ほどのこともできないが、大きな人の輪、ネットワークを通じてなら確実に善意の行動が被災地の方々の力になることが目に見える程にに膨れ上がるのを実感した。 元気は与えるばかりでなく、貰うものであることも改めて感じた4日間でもあった。 日本は必ず立ち直る。 立ち直った気仙沼を再び訪れ、人々の笑顔に会い、新鮮な海の幸をたらふく頂きたい。 最後のこのような活動に参加をアレンジ、支援下さった多く方々にお礼を申し上げると同時に、被災されている方々の一刻も早い日常への復帰をお祈りいたします。 






















林蔵@気仙沼、宮城 2/Apr/'11 (Updated on 12/Feb/'13)#398
  

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