Aleppo
(アラブ名:Halab、 世界遺産)
@Jan/'06 Aleppo, Syria


カラ・ヌジューム:星の城(跡)から見下ろすユーフラテス川
(アサド・ダム湖の上流部にあたり、川幅は広く豊かな湖水が満ちる)



[世界遺産: Ancient City of Aleppo, 文化遺産、1986年登録] 紀元前10世紀頃建設。 ユーフラテス川と地中海方面を繋ぐ、古くからの交通の要衝の地であった。このため古くから商業都市として栄えた。 紀元前20世紀には、ヤムハド王国の首都でもあった。その後、ヒッタイトに占領。アレクサンダー大王の東遠征後、 セレウコス朝による支配を受ける。 その後、ローマ帝国の支配下で発展。637年、アラブ人が侵入。10世紀には、 アレッポはハムダーン朝の首都になった。12世紀、十字軍の侵攻が始まると、アレッポはイスラム側の前線基地となる。 もともと神殿だったものをアレッポ城へと要塞化。13世紀には、モンゴル帝国が侵攻。 その後、ティムール朝が攻撃。16世紀、大航海時代に入り、 陸路による物資輸送が下火になるにつれて、アレッポの街も衰退していった。(Wikipediaより)



シリア第2の都市、悠久の古から東西の通商の要地として4、000年の歴史を刻む古い街。 この古い街は街角の市場(スーク)に今でも古の情緒をふんだんに匂わせる。 たまらない魅力に溢れた街だ。 隣国ヨルダン滞在中の巡礼休暇(ハッジ休暇)を利用して訪れた。 


 
アレッポ: バグダッド駅
ダマスカスからの夜行列車は朝6時40分、夜明けのホームに滑り込む



ダマスカスの中心には、オスマントルコ時代に最も煌びやかな乗り物の一つとされたヒジャージ鉄道のターミナル駅  ”ヒジャージ駅” が、その優美な外観を残し、今でも街のランド・マークとして立派に役を果たしている。 だが残念なことに、駅内部は現在大改修中の為、列車はここからは発着しない。 ダマスカスの西外れ、5kmほど行った処に仮の駅 ”カダム駅”がある。 ダマスカスから乗り込む場合はこの駅を利用せざるを得ない。

午前 0時。 アレッポ(ハラブ)行きの寝台急行列車がダマスカス、カダム駅をゆっくりと滑り出した。 列車は定刻になると、あくまで静かに発車する。 アナウンスも無ければ発車ベルもない。 実は一寸した手違いがあった。 寝台チケットを購入したつもりであった。 昼間、タクシーでカダム駅迄やってきて、場所の確認を兼ねて切符を購入して於いたのである。 切符売り場の美人のおねーさんは英語がかなりできる。 ”寝台車(スリーピング・カー)の切符1枚” と言って買った。 おねーさんは、少しのよどみも無く1枚の手書きの切符を作成してくれた。 料金は120シリア・ポンド。 ここで安いことに疑問を持たなければならないのだが、常に疑うことをしない私はその切符を胸のポケットに入れた。 美人のキップ売りおねーさんは、11時45分に駅に来るようにと、やはり達者な英語で案内してくれる。 益々安心してしまう。 そして夜11時45分、カダム駅へ行き、列車に乗り込もうとした時であった。  「オキャクサン、コノキップハ、モットサキノホウ、1ゴウシャデス。」と、係員が何やら言っている。 もっと先の1号車?、寝台車ではないのだろうか? 不安がよぎる。 、、、やはり寝台車ではない。 まー、飛行機に乗ることを思えば、座席は広いし、十分リクライニングになるから、我慢しよう。 安い料金(240円)で400km先のアレッポ迄行けるのだから文句は言うまい。 



朝もようやく開けようとするアレッポ・バグダッド駅
アンマンと同じ高度(900m)、冬場の朝は吐く息が白くなる程寒い



6時間40分後、列車は途中数回の反対方向からの列車とすれ違いの為の停車を重ね、ようやく夜が明けかけたアレッポ・バグダッド駅に滑り込んだのである。 まるでアガサ・クリスチーの世界が眼前に展開するかのごとくだ。 



 
アレッポの旧市街に聳える巨大なハラブ(アレッポ)城跡 
城は深い堀と急斜面の土塁で周囲4kmに渡り囲まれている
 


プラット・ホームでしばし感傷に浸った後、やおらホームから駅舎に入ると、なんとダマスカスから一足先にアレッポ入りしていたOさんが駅ホールで待ち構えていた。 何とタイミングの良い計らいであろう。 時間はまだ早い。 聞くと暗いうちから来て居たのだそうだ。 お礼の言いようもない。 ダマスカスで別れるとき、予め落ち合うホテルを決めてあったのだが、そのホテルの名が紛らわしく、我々のたどたどしいアラビア語ではタクシー運転手にうまく通じず、誤ったホテルに辿り付く危険性が多分にあたので、念の為迎えに来たとのこと。 繊細な心使いにただ恐れ入るばかり。 

ホテルは最初に打ち合わせた、ツーリスト・ホテル(フンドコ・スイアーハ)にチェック・インしているとのことだ。 フランス人の老婦人マダム・オルガが経営している外国人旅行者には人気の宿らしい。 アレッポの中心地(古い街)のタイヤ屋街の路地にある。 外見はお世辞にも立派とはいえない。 5階建ての普通住宅の3階が受付になっている。 感じの良い土地の男性スタッフが2人ばかり受付兼雑用係りをしている。 部屋数は少なく、10部屋程度だろうか。 既に空き部屋は無い。 同行のOさんと相部屋にして頂いた。 食事は無いが、小奇麗な部屋、廊下の気品に満ちた装飾、調度品等、何処となくオーナーの仏人夫人の粋な趣味が伺われる。 宿代は1部屋700シリア・ポンド(約1400円)、一人当たり350シリア・ポンド(700円)と超お得な値段である。 



タイヤ街の路地にある”Tourist Hotel"
仏人夫人マダム・オルガが経営する小奇麗なプチ・ホテル


チェック・インを終え、息つく間も無く、今回の旅の目的の一つであるアレッポから東北へ120kmくらいの処にある ユーフラテス川辺に佇むアル・カラ・ヌジューム(星の城跡)へ行くことにした。 交通手段はやはりタクシーにならざるを得ない。 恐らく、セルビス(乗り合いバス)のサービスがあるだろうが、時間が不定期で、急ぎ足の旅行者にはとうてい歯が立たない。 宿と懇意にしている運転手は別の仕事があり同行できないので、親切にも街の流しのタクシーを止めて行き先の確認と値段の交渉をしてくれた。 往復1000シリア・ポンド(約2000円)で交渉成立。 考えれば、Oさんも私も朝食は未だである。 宿の懇意の運転手尋ねると、この時間(朝7時)に既に開店している、朝食スタンド迄連れて行ってくれた。 紙で巻いた細長いチーズ・チキン・サンド(1本10シリア・ポンド:約20円)を夫々2本ずつ手にして、一路ユーフラテスへ向かったのである。

どうも運転手の様子がおかしい。 40kmくらい走った途中の街で車を止め、通行人に何やらアラビックで聞いている様子。 もしかするとこの運転手は行き先の場所を知らないのでは。 どうもそうらしい。 此方ではよくあることだ。 最初は快く引き受けておいて、実は知らないとか、できないと言うことは日常茶判事である。 別に悪気のあってのことではない。 只、人が良いだけなのだが。 我々のような外国人にはこの辺が誤解され易い。 何度か土地の人やトラッフィク・ポリスに聞いた後、運転手はやっと確信を持てたようだ。 ひたすら東に伸びる一本道を突き進んだ。 1時間半ばかり走った頃、道路右側に小さな標識があった。 アラビックでお目当てのお城の名前が書いてあるらしい。 運転手はその標識を目敏く見つけ、さも大きな発見をしたように得意気である。 右に折れ狭い未舗装の農道のような道を一面麦の蒼い新芽で覆いつくされたうねうねと続く麦畑の中を、更に20分くらい進むと、 突然遥か眼前に、湖面の反射光が見えてきた。 ユーフラテスに違いない。 湖面の光はどんどん広がる。 現在のユーフラテスはここから数百km下流でダムでせき止められ、巨大なダム湖、アサド湖を形成している。 湖面の光はこのアサド湖のものだ。 



ユーフラテスを背景に: カラ・ヌジュームの屋上で案内人、運転手と



カラ・ヌジューム内部: 様々な部屋に分かれている


さらに10分くらい麦畑の中を緩やかなアップ・ダウンを繰り返し進むと、半マイル程前方の丘に聳える古城が眼に飛び込んできた。 アル・カラ・ヌジューム(星の城跡)である。 ユーフラテスは遠い昔から、バビロンの、アッシリアの、アケメネス朝ペルシャの、ササン朝ペルシャの、ローマ帝国の、ビザンチン帝国の、セルジューク・トルコの、そしてオスマン・トルコの固い防衛最前線だった筈だ。 この城もサラセンや他の多くの武将により利用され守られたのであろうか。 古城の頂上からは、現在は見渡す限りに荒地が広がる。 蒼いユーフラテスだけがその大地を2分している。 


 
城の西側に真っ直ぐに伸びる1.5kmの石屋根付きスーク(市場)
年末のアメ横状態、人で溢れ酷い混み様である、威勢の良い呼び込みの声が飛び交う



ユーフラテス川からアレッポに戻り、そのまま旧市街に聳える周囲4kmに及ぶ巨大なアレッポ城跡にタクシーを廻してもらった。  運転手には約束の1000シリア・ポンド(約2000円)に、お礼に500シリア・ポンド(約1000円)を加えて、1500シリア・ポンド(約3000円)支払った。  降りる際にメーターを見たら料金は1700シリア・ポンド近くになっていたので、少し割安で上がったことになる。 城壁門前の広場には飲食店が居並ぶ。 その中ほどの食堂で昼にしよう。 冬場であるがオープン・レストランである。 冬場は雨季でもあるので、通りは概して埃っぽくなくテラス席でも十分衛生的であろう。 石油ストーブの傍に席を取った。 5時間半のタクシー・ライドの後、巨大なアレッポ城を眼前にし、身体を伸ばし寛いだ開放感を味わう。 

城門は1ヶ所しかなく、大きな城門には何かのお呪いであろうか、馬鉄が一面に打たれている。 城門の料金所で150シリア・ポンド(約300円)の入場料を支払い内部へ足を踏み入れた。 高い天井のコノ字型に入り組んだ城内部へ通じる階段を登る。 スペイン語の案内人が10数名のスペイン語圏からの観光客を案内していた。 英文の案内書が無いかと物色したが、アラビア語の案内書も無い。 観光産業の整備にはまだまだ余地がありそうだ。 城の歴史は相当古い筈だ。 恐らくバビロンの時代から、アッシリア、ローマ、ビザンチン、イスラム時代に渡る激動の歴史を連綿と引き継いで来たに違いない。  唯一の小高い丘に、土塁と城壁で取り囲まれた城跡の頂上からは、 起伏の殆ど無いアレッポの街全域が、素晴らしい360度のパノラマで観ることができる。 



煮込み屋台の煮込み鍋
様々な食材が長時間煮込まれていて、さぞ旨いに違いない


お城の後は、スークへ行くのが定石だ。 我々も定石に従い、スークへ足を向ける。  城の西側に緩やかな勾配を持つ真っ直ぐな1.5km程の坂がそうである。 石天井付きの狭い路地の両脇にはびっしり商店が並ぶ。  絨毯屋の若いおにーさんが威勢の良い声で客の呼び込みをやる。  目敏く我々が日本人だとみると、「マイドー、ヤスイ」と呼びかけてくる。  路面は石畳であるが、訪れた時は丁度下水道か何かの工事中であった。  狭い路地の中央部が抉り取られ、仮に土で埋めてあるが、こちらの工事法は養生と言う観念が殆ど無い。  人が歩き難くかろうが、危険であろうが、ぬかるもうが、およそ気に留めない。  今日こそ雨は降っていないものの、雨模様の天候の多い季節。 いくら石の天井付きとは言え、自然雨水は、路地に流れ込む。  案の定、埋めた土はぬかるんで居て、とても歩き難い。 しかも年末のアメ横状態と思われる、すざましいばかりの人出。  靴は泥だらけ、満員電車並みの混雑。 これでこそ、かって中東一の市場と言われる所以であろうか。 

今は犠牲祭(イード・アル・アドハ)の真っ最中。 途中幾つもある肉屋の前は通るのは苦手だ。  お祈りをして屠ったばかりの羊の解体パーツが路上にごろごろしており、路地は鮮血で濡れている。  それに雨水が加わり、辺りは異様な雰囲気が漂う。 

スークの最後あたりの雑然とした見るからに安骨董品屋らしい店に入ってみた。 店の主人は客には愛想を打たない。  かなり年代物のオープン・リールのテープ・レコーダーの修理に余念が無い。  修理工具と言っても、ドライバーとペンチ程度の極ありたきりのものである。  暫く店の中を物色していると、年代物のテープ・レコーダーから音が出てきた。  彼らの古い物を使う心意気には、我々が失った何かを感じざるを得ない。  偽者に違いないが、真鍮製の黒く錆びた小さな薄型オイル・ランプを発見した。  400シリア・ポンド(約800円)と言うのを、何度かの値段交渉の末、200シリア・ポンド(400円)で購入した。  これが私の唯一のアレッポ土産となる。 


 
煮込み屋 ”Abo Nawas"


宿から歩いて数分の場所にある、一寸高級


一旦、ホテルに戻り、シャワーを浴びて髭を剃る。  今朝は夜行列車でアレッポに着いたその足で、ユーフラテス川、アレッポ城、スークと駆け足で廻ったのだった。  Oさんが携帯用電気ポットで湯を沸かして珈琲を入れてくれる。  タイヤ街の安宿であるが、ハムセン・ヌジューム(5つ星)ホテルのサービスを味わっている気分である。  一息ついたころ、既にあたりは夕闇が迫る時刻である。 宿の受付のおじさんに食べ処を聞き出掛ける。  お目当ては煮込み屋である。 アレッポの煮込み屋が旨いと、誰かに聞いて居たからだ。 

宿から歩いて数分の場所に、教えられた煮込み屋 ”Abo Nawas" は直ぐ見つかった。  店構えがかなり立派で高級な感じのする店だ。 早速内部に入ってみた。 広い店内は黒みがかった木が基調の落ち着いた内装である。  良く見ると天井や梁に凝った装飾がなされている。 先客が2組ばかり居る。  店の奥に行き、マスターに ”タバハ(煮込み料理)” は在るかと聞いてみた。  マスターは首を縦にふり、あると言う。 更に奥のキッチンに案内された。  そこには多くの鍋が整然と並び、様々な食材が既に長い時間煮込まれている。  ”タバハ” の食べ方は、鍋を覗き、気に入りの鍋を指定するのだ。 チキン、モロヘイヤ、インゲン、豆、羊の鍋を指定した。  夫々の煮込みが別々の皿に盛られて出てくる。 これにパン(ピザの生地のような、更に大きな薄いやつ)とミックス・ピクルスが付く。  味は悪くないが、予想していたものより随分と上品な感じ。 これで2人分で700シリア・ポンド(約1400円)。  これは此方では多分相当高いに違いない。 

食後、レストラン界隈を散策した。 とある路地に煮込み屋台を発見した。  如何にも雑然とした場所だが、これぞ本物の ”タバハ”ではないかと、先程上品なレストランで既に  ”タバハ” を食べてしまったのを後悔する思いであった。  散歩ついでに、かつて開業した当時は中東1,2を誇ったと言われるバロンホテルのバーで食後のテイーを頂いた。  建物は老朽化が進み、改築がなされて居ないので居住性が悪くなり、客の入りは今一と言った感じであろうか。  だが、ウエーターは黒の制服に蝶ネクタイ姿で年季の入った一流の身のこなしである。  高い天井のあまり広くないバーで古いテーブルと椅子に座り、既に流れた長い時の名残を楽しみながらミルク・テイーをすすってみた。 
  

 
 雨模様のアレッポからダンスカスへの戻りは長距離バス(400km)
ユナイテッド社のバスに乗り込む(料金165シリア・ポンド=330円) 



 翌朝、ダマスカスへ戻る為、ムジャンマ・ハナーノ(ハナーノ・バスセンター)へタクシーで向かう。  歩いても大した距離ではないが、荷物があるのと雨模様である。  同行のOさんが来た時使用したバス会社に行くと、今日のダマスカス行きは無いと言う。  巡礼ツアーの貸し切りか何かでバスが出払っているらしい。 ダマスカス行きを運行しているバス会社は他にも幾つかあるらしい。  あっちだ、こっちだと声を掛けられる。 結局United Bus会社のチケット売り場に行き、8時30分発のダマスカス行きのキップを買った。 チケットを買う際、おやと思った。  カウンターの後の髭ずらの親父が ”コモン・チュ・タ・ペル?” と聞いてきたのが。 明らかにアラビア語ではない。  れっきとしたフランス語である。 少なくとも私の仏語のイメージは金髪のかわいいマドモワゼルが喋るものとインプットされている。  眼の前にいる髭藻じゃのアラブの叔父さんから聞く言葉ではない。  酷く違和感を感じながらも、通じる言葉で言われて嬉しくなるのであった。

ダマスカス近くなると右手に雪を頂いたアンチ・レバノン山脈が間近かに見える。 道路の高度も上がる。  最高地点は腕時計に組み込まれた高度計で1640mを記録した。  途中10分のトイレ・ドリンク休憩を経て4時間30分後、13時にダマスカスのバスセンターに無事到着した。  これで330円なのは、安いと言わざるを得ない。 

今回の旅も多くの人々の親切に助けられ、多くの新しい経験と発見をした素晴らしいものであった。  アレッポの人々に、歴史に、土地に喝采。 



アレッポ、ハナーノ・バスセンター: United Bus会社チケット売り場





12/Jan/'06 林蔵 @Aleppo (Halab) Syria (Updated on 9/Aug/'08)#214

{林蔵地球を歩く}[頁の始めに戻る]