アンマン城: Phiradelphia
@Aug/'05 Amman, Jordan


アンマンシタデル(Al Qala)にそびえるヘラクレスの神殿柱と、深い谷を隔てて対面するJabal Al Tajの丘に蔓延る住宅群


フィラデルフィア: エジプト、プトレマイオスII世フィラデリフィスが名付け、ローマが仕上げた街である。 紀元2世紀、当時のローマ皇帝アントニヌスオ・ピウスの時代である。 アンマンの起源は古く、有史前ネアンデルタール人らしき原始人がこの辺りを徘徊していた証さえある。 やがてアモン族が街を築きこの丘に砦を築き営みの中心としたらしい。 北側を除き3方を深い谷に囲まれている。 水は北側から地下水路を経てこの砦に注ぎ込まれていたらしい。 紀元前5-6世紀のことだ。 

8月の初め、シリアから同期のボランテイアー仲間が仕事でアンマンに来た。 彼のアンマン滞在最終日、仕事が終わってから、ヨルダンに居る同期で都合付く者が集い、アンマンを御案内することにした。 我々もヨルダンに居ながら、アンマン城跡を訪れることはそう多くない。 丁度良い機会である。 彼と一緒にアンマンの歴史を紐解いてみよう。  

ローマ帝国の勢力が地中海世界全域に及ぶ頃、地中海東端に位置する現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル等がその版図に入った。 ローマ帝国はこの属州治世の為、前線基地として10の小ローマを建設している。 所謂デカポリオスと呼ばれるローマ式都市だ。 劇場と公衆浴場を備えた街である。 

ローマ軍団は高度な工兵隊とも言える。 行く先々へ統一規格のローマ街道を建設し、その街道にマイル・ストーンを建て、要所に小ローマ、デカポリスを建設した。 フィラデルフィアは当時の五皇帝の一人アントニヌス・ピウスも大変お気に入りだったようだ。  気候や7つの丘と言う地形が、そして乾燥した、さほど気温の高くないこの街が遠い都ローマに似て居たからだろうか。 



ウマイヤード朝時代の城館跡: レセプション・ホール


 
アモン族の砦跡は現在では跡形も無い。 この丘は歴史が繰り返す度に、新らしい建造物が前時代の廃墟の上に塗り変えられたように建てられたのである。 デカポリス、フィラデルフィアはアモン族の砦を土台に大胆に建設された。 そしてローマ帝国衰退後、イスラムの時代がやって来る。 現在のシリアを本拠とするウマイヤード王朝の覇権がこの街にも及ぶ。 現在のアンマン・シタデルに残る最も原型を保つのは、ウマイヤード時代の館跡と、ローマ時代のヘラクレスの神殿跡だろうか。 ウマイヤードの城館跡は、お客を受け入れたレセプション・ホールの一部が残り、今もその華麗な装飾が訪れる人々を魅了させる。 ヘラクレスの神殿跡の巨大な石柱はその規模の壮大さを観る人々に迫り来る。 古代ローマ時代のこの神殿はビザンチン時代は教会に改築され使用されていたようである。

時代が下り、キリスト教を国経としたローマ(東ローマ帝国)の力が再び伸びてくるのは歴史のうねりであったのだろう。 東ローマ帝国、ビザンチン時代、遠くヨーロッパからの遠征十字軍の堅牢な砦が、聖地エルサレムに至る要所要所に築かれる。 その間、キリスト経勢力とイスラム勢力との力のシーソーゲームが繰り広げらるのである。 そして、力の均衡はイスラムの英雄サラデイーンの登場で破れる。 そしてオスマン・トルコの支配が第一次世界大戦終了迄続くことになる。 アラブ治世の時代、この地域の首都は現在のアンマンの西 10kmのヨルダン・バレーに下る場所に佇む Salt と言う街にあった。 アンマンが再び首都の名を冠するのは、アラビアのロレンスで名高いアラブ・レボリューションが起こり、オスマン・トルコの勢力と拮抗するようになった 1912年、現国王の先代 Emir Abdullah bin Hussein が 王宮をアンマンに移した時以来である。




6,000人収容でき、現在も使用できるデカポリス中最大級のフィラデルフィア(アンマン)、ローマンシアター 


アンマン城跡、El Qala の南淵に立ち、谷の下方を見下ろすと巨大なローマン・シアターが真下にその威容を広げる。 10あるデカポリス中、このフィラデルフィアの円形劇場が最大規模だと言う。 収容客数は 6,000人を超える。 かつてはこの周辺にフォーラム、公衆浴場等があった筈だが、現在は様々な商業建物や住宅が密に建ち並び、その面影を見ることはできない。 劇場は現在も音楽祭や演劇公演に使用されている。 ローマ人の作ったインフラは現在でも使用できるものが幾つもあるのは驚異に値する。

El Qala の中央部に Archilogical Musium がある。 建物はさほど大きくないが、内部の展示物は大変充実している。 この収容物の数から言えば、数倍大きな建物が必要ではないだろうか。 入れ物が大きくなれば、展示や説明の方法も大いに改善され、名実ともに充実するのではないかと密かに期待するのが。 BC 500,000年から現在に至る迄、人類の多くの遺品が収容されている。 中でも死海文書とか、歴史的に超貴重な資料もその展示物の中にある。 歴史に疎い、考古学の素人である私でも見逃す訳には行かない程のものである。 



アンマン城跡にある Archilogical Musium



Al Qala丘で周囲の眺めを楽しんだり、博物館の展示物に見入ったりして暫く時間を過ごした後、谷底にあるローマン・シアターへ下った。 シアター左手に有る小円形劇場オデオンの裏手に土産物屋やカフェが居並ぶ。 カフェと言うのはアラブ式のカフェで水タバコを時間を掛けて吸い、長々とお喋りするのが此方の流儀である。 我々は、シャイ(紅茶)とミネラル・ウオーターを注文した。 此方の人は甘い紅茶を好む。 入れる砂糖の量は半端ではない。 我々は皆殆ど砂糖を使わない。 丘の上で炎天下歩きつかれた足を暫し休める。 天幕を張ったオープン・カフェには此方の音楽ソフトのDVDが大音響でかかっている。 店の親父らしき者が無言で我々の席に近いスピーカーのスイッチを切ってくれた。 我々の会話が聞き取り難い様子が眼に入ったのであろう。 そんな気配りは此方では珍しい。 一寸感動する。  



 


世紀の発見物である世界最古の旧約聖書、「死海文書」



  


 前4世紀から2世紀に掛け、ペトラを都としたナバテイア人の「美と多産の神」


夕食は王立自然保護協会内にあるワイルド・ジョルダンで取ることにした。 かなりの大人数である。 前もって席を予約しておこうと思って電話を入れてみたが、予約は受けつけて居ないとのことだ。 Fast Come, Fast Served(早い者勝ち) と言うシステムらしい。 週末の夕刻、予約無しで大丈夫だろうか。

食事会だけに参加する仲間達とは、王妃が運営する Jordan River Foundation の展示場兼ショップで待ち合わせた。 ワイルド・ジョルダンはここから歩いても直ぐの場所である。 ジャバル・アンマン(アンマンの丘)の端、第1サークルの更に丘の先端付近にある。 ワイルド・ジョルダンはジャバル・アンマンの先端からダウンタウンに下る崖淵にへばり付くように建てられている。 つまり眺望が極めて良いのである。 前面ガラス張りのレストラン席から真下にアンマンのダウンタン中心部が見下ろせるのである。 予定の7時にレストランに行ってみると席は未だ十分にある。 一安心である。 辺りがすっかり夕闇に包まれた時間には、3のレベルに分けれているフロアーの席は殆ど埋まっていた。 14名の騒がしい東洋人老人団体は窓際に席を陣取り、眼下に広がる黄昏のアンマンがゆっくりと光の海に変わるを楽しみながら一時の時間を過ごしていた。 





4/Aug/'05 林蔵@ Ammman Jordan (Updated on 31/Jul/'08)#207

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