アンマン @'71-'72 Amman, Jordan
初めての海外出張。 海外旅行としてもはじめてである。 家人には大変申し訳なく思いながらも、内心未知への好奇心が頭をもたげてくるのを抑えることはできない。 3月に結婚、4ヶ月あまりの時間しか経っていないが、1年の予定で海外出張に出かけるのである。 行き先は中東のヨルダン。 この辺の地域は世界の火薬庫として新聞紙上を賑わせて久しい。 世界の3大宗教、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の発祥の地でもある。 不毛(決してそうでもないが)の砂漠地帯に住む遊牧民ベドウイーンの住む土地。 メソポタミア文明、エジプト文明と言った古代文明発祥の地。 否がおうにも期待感は膨らむ。 現在はイスラエル領内にある、旧エルサレム市街、ウエストバンク(ヨルダン川西岸)、アンマン市内に点在する半円形のローマン・シアター等数々のローマ遺跡、海抜-400mの地底湖死海、古代ローマのデカポリス跡
Jerash、モーゼの進行を阻んだソドムの都 ペトラ、紅海へのアクセス・ポイント、アカバ港等、史跡の多さにはこと欠かない。
当時は未だ成田空港は無く、今は国内線専用になっている羽田空港からの出発である。 パン・アメリカンの世界1周便、001便で香港迄飛ぶ。 エアークラフトは、まだ就航したばかりのB747、スッチーも慣れていない様子。 離陸の際、収納棚に入っているグラス類の倒れる激しい音が聞こえる。 補助席に座っているスッチーも緊張気味。 (自分も初めての海外出張、飛行機も国際線は初めて。 国内線といえども、以前に1回しか乗ったことがない。 殆ど初めてのフライトも同然である。) 香港の啓徳(カイタク)空港に着陸。 まさにビルの屋根すれすれに降りて行く感じ。 香港からもパンナムの世界1周001便で飛行を続けるが、これから降り立つ空港は未だB747の離着陸の設備が整っていないので、小さい機体のクラフトに変わる。 バンコク、カラチ、ダマスカス、ベイルートと経由する。 途中、夜間飛行になるが、そんな夜の空港への離着陸が実はお気に入りの一つである。 光の海に舞い降りる感じがとても幻想的で、次元の違う世界に居るような錯覚を覚える。 最近の飛行は航空機の発達で、長時間飛行が可能になり、途中の都市で給油の為降りることが無くなった。 一気に目的地迄飛んでゆくので、トータル時間は随分短縮された。 しかし、この大変非日常的な光の海に降り立つ経験が少なくなったのは残念でならない。
ベイルートでヨルダン航空に乗り換えだ。 乗り換えの為ベイルートで1泊する。 地中海沿いの高級リゾートホテル、フェニシア・ホテルがトランジット用にあてがわれる。 何もかもが初めての経験で感動の連続。 映画に出てくるような地中海を見下ろすようなセッテイング。 ものめずらしそうに広いロビーや、下からも眺められるプールの周辺を歩き回る。 中東のパリと呼ばれた頃のベイルートである。 地中海とアラブとヨーロッパ風の異国情緒を満喫した1泊であった。
翌朝、ヨルダンのアリア航空機でベイルートを発ち、アンマン空港に降り立つ。 暑い。 さすが中近東の砂漠地帯だ。 ここがこれから1年過ごす土地である。 大きな期待と一抹の不安がよぎる。 古来、美しい街は7つの丘で形成される。 アンマンもその例外ではに。 土漠の中に佇む7つの丘に、人々は生を営みつずっている。 なかでも主なる丘は、ジャバル・アンマン (Amman丘)と谷を挟んで対当するジャバル・フセイン(フセイン丘)だ。 特にジャバル・アンマンは官庁街と高級住宅街になっている。 かつての盟主、英国のBritish Councilや、当市唯一の西洋風大型ホテル、インター・コンチネンタル・ホテルがある。 アンマンでの生活はホテル住まいだ。
丘の谷間に開けた一角がある。 酷く雑多な感じ。 様々な買い物客で賑わうスーク(アラビア風市場)が中央に位置する。 スークの中で特に目立つのは、おびただしい数のゴールド・ショップ。 少し赤みを帯びた金装飾品が、びっしりとぶら下がったり、並べられたりしている。 こちらの人たちは財産を通貨で持つことは少ない。 少しお金が貯まると、すぐに金に換えて、その一部、或いは全てを身に付ける習慣がある。 この谷底は周辺地区への交通発着地でもある。 傍には大きな半円形のローマン・シアター跡がある。 そんな谷の一等地に、格式の高い、古いが
Full Facility のホテル Philadelphia Hotel(アンマン市はローマ帝国時代、ローマ人はこの街をフィラデルフィアと呼んでいた。)
が威風堂々と陣を構えている。 この砂漠の地で水がガソリンより高い(今では当たり前だが)地で、プールがある贅沢さだ。 ここが暫く我々の宿舎になる。 この暑い土地だが、ホテルの部屋にはエアーコンが無い。 気温は40度をはるかに超えている日が、何日もあるだろう。 それでも湿度が極端に低いことから、エアーコンが無くても何とかしのげると言うものだ。
このプロジェクトは、実は1年前(1970年)の内戦で一旦中断していた。 当時現地で工事に関わっていた人たちは、内戦勃発後、車でベイルートへ避難し、日本へ帰っている。 政府軍とパレスチナ開放戦線(PLO)との戦いだった。
ジャバル・アンマンとジャバル・フセインの丘の上にそれぞれ陣取った両軍が砲火を交えていたと言う話を聞く。 当時、技術者達は、その両丘の谷にあるフィラデルフィア・ホテルに投宿していたが、その同じホテルに今回我々も宿舎したのである。 当時の関係者に聞くと、夜など、砲火で花火のような華さだったと言う。 戦禍は街中に留まらず、我々の仕事場があるBAQA(バカ)のサイトにも及んでいる。 衛星地球局のシンボルである直径30mのパラボラ・アンテナの面には、幾つもの大砲や機関砲の弾の跡が生々しく残っていた。 機器室に設置された機器も然りで、弾が機器の中から出て来たりする。 そんな状況で機器から弾を取り出し、穴の明いたアンテナの面を修復しながらシステムの立ち上げ、
綿密なシステム試験、そして客先技術者の訓練を行うのである。
8月に工事を再開し、12月にはシステムの完成に漕ぎ着けた。 最終のシステム開通試験は、米国の東海岸にあるコムサットの地球局エタム局との通話試験だ。 準備万端。 全ての機器が正常に動作している。 緊張する。 コムサットから派遣された客先のコンサルタントである H氏が受話機を取る。 エタム局の番号をダイヤルする。 暫くすると3万8000km上空を飛行する静止衛星を通じて、エタム局のオペレーターの声が聞こえてきた。 喜びと達成感がこみあげて来る瞬間だ。 ゆっくり、はっきりした発音で喋ってくる。 "This is Etam, can you hear me?" H氏が、これまたゆっくりした口調で答える。 "This is Baqa, I can hear you loud and clear." 通信システムの完成時に行う、通話試験の決り文句である。 初めての海外プロジェクトで幾多の困難を乗り越えて自らが直接関わり建設した設備が、世の人たちの使い物になった瞬間だ。 この感動は生涯決して忘れることがない貴重な体験として、今なお鮮明に私の心に残る一駒となっている。 フセイン国王が自ら操縦してやって来たヘリコプター 開局式にヘリコプターを自ら操縦し訪れたキング・フセイン: 案内しているのは局長のD氏
12/Aug/'71 林蔵 @Amman Jordan (Updated on 3/Nov/'08)#029 |
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