ブラック・アイリス
@Mar/'06 Iraq Al Amir, Jordan


ヨルダンの国花: ブラック・アイリス
崖淵の斜面に自生する、葉が細く、背丈が低い割には花弁は大きい


お花見ピクニック第4弾の日である。 この企画には皆勤である。 先週は天候不順で順延になっていたものだ。 今回の行き先は、ローマ帝国のデカ・ポリス跡の一つであるジェラシュと、巨石遺跡(奴隷の館)で有名なイラク・アル・アミールだ。 イラク・アル・アミールではこの国の国花である、ブラック・アイリスが見られるかもしれないと言うことで大いに期待して参加した。 


 
ハドリアン・アーチ: 皇帝ハドリアヌスの興行時建設された凱旋門とヒポドローム(競馬場)
かつてローマ帝国の将軍の最大の名誉は、外敵との戦争に勝ち、首都ローマで凱旋門を建て凱旋式を挙行することであった、
時代はパクスロマーナに変遷、既に戦勝凱旋はなくなった、
その後の皇帝や将軍に取って道路建設や橋梁建設が外敵に戦勝するに値する、詰り凱旋門を建てるに値することになった



バスは、事務所前をいつもの時間、8時に出発した。 ガイドは既にお馴染みになった、アブ・ローミ氏である。 先ずはアンマンの北約50kmにあるローマ時代の遺跡、デカ・ポリスの一つであるジェラッシュに向かう。 今日は若いJOCVの隊員達は20周年記念行事の初日で全員そちらに参加しており、この花見ツアーには居ない。 我々SVと事務所関係の方々だけである。 

小一時間でバスはジェラッシュに到着した。 観光センターの大駐車場にバスを停め、歩いてハドリアン・アーチへ向かう。 AD129年、ローマ皇帝ハドリアヌスが興行した時に建設された凱旋門である。 ジェラシュの諸建造物は1927年の大地震で壊滅的な被害を受けた。 今は修復工事の最中で工事やぐらで取り囲まれている。 観光センターの土産物屋は、この時間未だ開店していない店が多い。 

凱旋門を潜った直ぐ左手に、広大な細長いヒポドローム(競馬場)が横たわる。 南北に長い設計で競技者にとって太陽の影響が少ないような造りになっている。 それにしても、石造りの観客席と言い、周囲に併設された馬小屋と言い、その合理性と豪華さ堅牢さには舌を巻かざるを得ない。 2000年後の今尚使用に耐える代物である。 実際休日のイベント広場に、競馬模擬競争場に使われているのである。



ヒポドローム(競馬場): 中央のアーチは皇帝用、その両脇の小さ目のが一般競技者用の門
当時この競馬場に出ることは、将に選りすぐられた戦士の檜舞台であったろう
今は、休日観光用に模擬演技が行われるらしい 



ハドリアン・アーチとヒポドロームを過ぎ、数百メートル歩くと、南門に到達する。 観光センターで購入した入場券は此処で回収される。 我々はボランテイア・カードと併用のレジデント・パスを持っているので、入場料は現地人並で良いのは大変助かる。 何しろ外国人料金は現地人料金の10倍なのである。 現地人料金は500フィルス(約75円)。 外国人料金は5JD(約750円)である。
南門をくぐると、100本のイオニア式装飾が施された石柱で囲まれた楕円形の広場フォーラムが広がる。 昨年の夏には日本大使館主催でヨルダン・日本国交樹立50周年記念行事の一環で、和太鼓の祭典が大々的に催ようされた。 大阪から和太鼓舞踏団、”打打打団”がやってきたのである。 夜間の行事であったが、照明された遺跡の中で行われた和太鼓の演技は実に幻想的で迫力のあるのであった。 心に響く芸は、改めて万国共通の訴える力を持っていることを感じたのである。 

フォーラムの左側の小高い丘には、3000人収容の円形劇場と神殿跡がる。 これらの建造物は何処のデカ・ポリスでも見られるお決まりのものである。 ローマ人の、現代の品質管理にも応用できる見事な規格品である。 



 
列柱通りの端に開ける見事な楕円形を示すフォーラム:
皇帝の興行時の演説場に、市場に、イベント広場にと様々に利用されたに違いない 
 


フォーラムから南北に伸びる真っ直ぐな列柱通りは見事である。 今にも重装ローマ軍団が後から戦車に乗りけたたましく迫り来る感覚を抱くことができる。 最近では1927年の大地震等で石畳の路面は多少でこぼこしては居るものの、この堅牢さは何だろう。 戦車の轍がはっきりと石畳に読み取ることができる。  




南北に伸びるメインの列柱通り: 列柱に挟まれた石畳の道は、地震等で相当痛んでいるが
戦車や荷車等の轍の跡がくっきり残っている


南北に伸びる列中通りの両脇は、様々な重要な建造物が居並ぶ。 素晴らしい装飾を伴うニンフォリアム(噴水広場)、アルテミス神殿への門等等。 南北の列柱通りに直角に東西に伸びる少しサイズの小さい列柱通りがある。 その通りの向こうには現代のジェラッシュの街が広がり、イスラムのモスクの尖塔(ミナレット)が其の象徴を示すのが見える。 



東西に伸びる列柱通りとその向こうに見える現在のジェラシの街中に聳えるモスク


ジェラッシュの遺跡は、何処の遺跡も同様だが、幾つもの時代の廃墟が折り重なるように埋もれている。 紀元1-2世紀のローマ遺跡がオリジナルであるが、その後、5-6世紀のビザンチン時代の教会跡等も見ることができる。 メインの列柱通りの西側に横たわるサン・ジョン、サン・ジョージ、コスモス教会跡等がそれである。 教会の床は見事なモザイクで覆われている。 残念なことに、モザイクは部分的に無残に剥ぎ取られている。 後世のベドウインの民がその価値を我ままに判断して、剥ぎ取ったものらしい。 現在は国の遺跡文化省が厳しく管理し、修復・保護に努めている。  



   
コスモス教会のモザイク: 多くの部分がベドウインに拠って抉り取られている(現在は文化庁が厳重に保護している)
シリアから発祥したキリスト経がやがてローマ帝国の国教となり、このような教会が多く建設された



これらの教会跡から更に北方面に足を進めると、巨大な建造物、アルテミス神殿跡に辿り着く。 神殿の屋根を支えていた石柱の巨大さ、見事さは圧巻である。 ローマから数千km離れた、遠い帝国の東端。 2000年を遡る時代、帝国の威容は、あくまで標準規格品であまねく伝わっていたのである。 そんな石柱の一つ割れ目に草花が短い命を謳歌するが如く、可憐な花弁を咲かせていた。 植物の驚くべき生命力である。 水の補給等殆ど無い。 ある人の説明によると、この種の植物は葉っぱからも水分を補給するそうだ。 夜露の水滴の一滴も無駄にはしないのである。 




アルテミス神殿: その規模の巨大さには、現代人の我々をも驚かせる
人が登っている階段は、補修されたもので、他の部分とは明らかにちがう色をなす


フォーラムから南北に伸びる列柱通りを南から北に向けて暫く歩くと、左手に見事な装飾を施したニンフォリアムのファサードが見えてくる。 中央に大きな水受けがあり、当時は豊かな水が切れることなく、注がれていたのであろう。 この均整のとれた建築美は現代に勝るとも劣らないのではなかろうか。 人々はここにローマの威厳と限りない安らぎを覚えたであろう。 


 
ニンフォリアム: ローマ帝国の街には必ずある噴水広場
その豪華さと華麗さは今尚当時の雰囲気が偲ばれる


ローマ帝国のデカ・ポリスの一つであったジェラッシュを後にして、バスは再びアンマンの方向へ戻る道を取る。 アンマンの西を走る通称空港道路に出る。 アンマンの目抜き通り、ザハラン通りの第8サークルを右に折れるとワデイ・シール、イラク・アル・アミールへと下る道である。 標高900mのアンマンから標高400mのイラク・アル・アミール迄、かなり細いぐねぐね曲がった田舎道を大型バスは下って行く。 折りしも南中のお祈りの時間である。 あちらこちらのモスクでは、お祈りの最中だ。 最近の人達はモスクへ車でやってくるのである。 モスクは一般的に駐車場を備えていない。 殆どの車はモスク近くに路上駐車である。 只でさえ狭い田舎道、両脇に駐車されると、大きな図体のバスは身動きが取れない。 モスクの近くで暫く立ち往生となる。 幸い、お祈りは長くは続かない。 少し待つと、邪魔になっている車を異動してくれた。 
 
イラク・アル・アミールには正午過ぎに到着した。 何はともあれ、先ずは昼食である。 この村には、土地の御夫人方で組織運営されているハンド・クラフト・センターがある。 ここで造られるハンド・クラフトはお世辞にも良いものとか言い難い。 デザインのセンスと仕上げの繊細さに欠けるのである。 こんなところにも、日本人ボランテイアの指導がなされていれば、随分と改善されるのにと思ってしまう。 そう言えば、最近この施設を、我々と既にお知り合いになった、土地の某男爵が買ったそうだ。 このクラフト・センターに梃入れをして、村の御夫人方の生活改善を目指しているのだろうか。 昼食は、このクラフト・センターの庭を貸して頂いた。 皆、夫々準備したお弁当を広げてピクニックが始まる。 折りしも、クラフト・センターの宣伝用ビデオ撮りが行われていた。 土地の撮影スタッフ達は、我々の日本式お弁当に、大変興味深げなまなざしを注いでいた。 参加したSVは奥さん同伴の方が多いせいか、ここが中東のヨルダンとは思えない立派なお弁当が並んでいるのである。 


  

 
 Qasar of Iraq Al Amir: 別名「奴隷の館」とも呼ばれる
紀元前2世紀、ユダヤの豪族Tobiad家の館だったと推測されている
子に乳を飲ませるライオン像と使われて石材が巨石であることが特徴



荷物が軽くなったところで、”奴隷の館”の異名を持つ、イラク・アル・アミール城跡へ向かう。 この遺跡は紀元前2世紀ころのもので、ユダヤの豪族Tobiad家の館だっととされる。 館は巨石を使用して造られおり、1個1個の大きさは、ピラミッドに使われている石より遥かに大きいらしい。 もう一つの特徴は、館の4隅にレリーフされたライオン像である。 赤ちゃんライオンに乳を飲ませるメスライオンがレリーフされている。 乳を飲ませているからメス・ライオンに違いないが、たてがみの在るメス・ライオンである。 遺跡の周辺は、この時期緑に囲まれ、格好のピクニック・サイトになる。 土地の家族連れも何組か周辺の草原でカバブやお茶のピクニックの最中であった。 ここからは、深い谷の向こうにマダバからマウント・ネボに続く一連の台地が見晴らせる。 

奴隷の館の西側は急峻な山が迫る。 この山の斜面にブラック・アイリスが自生しているらしいのである。 先遣隊のH氏が、山の斜面、遠くで何やら合図をしている。 どうやら、ブラック・アイリスを見つけたようだ。 早速、我々も山を登り出した。 砂地の土壌が詰まった岩山である。 帰国間際にして、遂にブラック・アイリスを見ることができた。 幹事のHさん御両人には、感謝をせねばなるまい。 見事なブラック・アイリスである。 それがこの冒頭の写真である。 よく探すと、当り一面至る処に岩場の隙間に自生しているのである。 こんなに沢山の立派なブラック・アイリスを見ることが出来て、御満悦である。 もっとも、当のヨルダン人は、国花だと言っても大して気にも留めないらしいが。



同じ斜面に自生していた野花: アザミの変種?





17/Mar/'06 林蔵 @Iraq Al Amit (Updated on 19/Aug/'08)#218

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