Assadabad
@Oct/'78 Assadbad, Iran



Assadabad盆地
サイトの宿舎から朝焼け



1978年、約10ヶ月間イランへ出張することになった。 実はその前年の7月にもテヘランを1週間訪れている。 今回の出張目的も、‘77年の出張の時と同じ客先の技術者教育である。 '77年には私がテヘランに到着した丁度その日から、客先の技術者が全員ストライキに入り、終に訓練は開始されなかったのである。 少し待てば生徒である客先の技術者のストも終わるかと思い、宿泊先であるテヘラン市内のホテルのプールサイドで過ごす日が何日か続いた。 しかし一向に客先のストは決着が付きそうにない。 結局、1週間ホテル待機のまま時間が過ぎた。 こうなっては仕方が無い、日本へ一旦帰国し翌年出直すことになったのである。 そして翌年1978年の1月から10月に掛けてイランに出張、テヘランから南西に500kmばかり離れた、およそ人里から離れた盆地Assadabaのど真ん中辺りに、周囲にそぐわない存在である衛星通信所がある。 この地球局内で、客先の技術者に対して衛星通信設備に関する教育を施すことになった。 かつてアレキサンダー大王の野望の的であった古の都、 シルクロードの一大中継地であったペルシャ帝国での見聞の一部を、披露したいと思う。




ハマダンの岩山に楔形文字で刻まれたダリウス王の碑文の前で
訪れたのは5月下旬だが未だ雪深い



テヘランの北にはエルブール山脈が屏風のごとくそびえている。 エルブールの向こうは、キャビアの産地で有名な世界最大の淡塩水湖、カスピ海が横たわる。 テヘランは乾燥地帯で、気候は中東の砂漠性のそれとそっくりである。 ところが、エルブールの北斜面は全く違う様相を示す。 日本と変わらぬ豊かな植物生態が広がる。 稲作も水稲である。 水を張った田で稲作が営まれているのを、中東で見ようとは想像だにしなかった。 それにしても見事な気候の変化である。 これほどはっきりした、フェーン現象は中学校時代に教わった教科書の説明と寸分違わない。 




カスピ海沿岸: Rashitのホテル前湖岸にて



仕事場のあるAssad Badはテヘランから遠い。 当時はパハレビ国王の政権時代で、テヘランは西側と大して違わぬ生活様式が営まれていた。 イスラム国家ではあったが、住んでみて生活風習に然程の違和感は感じなかった。 そんなテヘランを後にし、ヨルダンに似た見渡す限り土と砂の乾燥地帯、土漠を一路西南の方向へ進む。 




ハマダンの雪山を行く羊の群れ


5時間くらい走ると、Hamadanと言う古くて、かなり大きなオアシスの街に到着する。 街の背後には、3、000m級の山々がそびえ、冬季に降った雪解け水のお陰で、一年を通じて小川に水の途切れることがない典型的なオアシスの街である。 日本では川に水が流れているのは当たり前のことだが、乾燥地帯では川の殆どは、ワジと呼ばれる水無し川だ。 ワジには砂漠に時折ふる土砂降りの雨の時だけ水が流れる。 テヘランから遠く離れた地方の街でも、雑貨屋で英国のウイスキーが手に入ると言う。 西欧化が相当に進んでいたことを物語っている。 ハマダンで一休憩、ペルシャ風のシャイ(紅茶)を頂く。 砂糖の入れ方が少し変わっている。 角砂糖であるが、茶の中には入れない。 角砂糖は口にくわえるのだ。 そこに茶を流し込む感じ。 ハマダンから、山超えでアサダバッド盆地に駆け下る。 冬場は道が凍結しており、スリップ事故が多いと聞く。 山を駆け下る急な坂道には、しっかりしたガードレールなど無く、スリップすれば急な山肌を谷底まで転がり落ちること請け合いだ。 




ハマダン登山: 客先の生徒達と


何も他には見るものが無い盆地の中央部にイラン通信省の衛星通信地球局が建設されている。 広大な敷地には通信設備だけでなく、職員の住むアパート群が併設されている。 周囲数10kmの盆地を取り巻く山々と盆地内には、およそ草木の姿は見られない。 地球規模の永い年月を掛け侵食された山々は低くなだらかに重なりあう。 そのすべすべした山肌とくびれは朝日に映え妙に生々しく官能的に横たわるがごとく見えたりする。 通信所の敷地内は人口的にポプラ等の木々が植えられ、 アパート(広大な庭付きの1軒屋)の庭や、通信所の共用スペースは緑の芝で覆われている。 もちろん毎日の散水は欠かせないことは言うまでもない。 




生徒達と宿舎の庭で



そんな職員アパートを1軒、宿舎兼教室として与えられた。 生徒はエンジニアー7名、テクニシャン7名の計14名だ。 午前2時間、 午後4時間の時間割で10ヶ月間に渡る教育を施すことになった。 食事は当然自炊だ。 こんな場所にレストランなんてある訳がない。 生活用の車も我々(私と相棒の教師1人)専用に借りた。 大きなアメ車のピックアップだ。 初めての欧米式右側通行の運転である。 最初の頃はコーナーを曲がった後、反対側を走っていることが多々あったが、直ぐ慣れた。 アサダバッドの盆地内には、一見何もなさそうに見えたが、実は小さな村があちこちに点在することが、日を増し、生活を重ねる毎に判ってくる。 食材はそんな村に行って仕入れる。 たまにテヘランへ用や遊びで行った時には、日本食に近い食材や、アサダバッドでは手に入らない食材・調味料を、 しこたま仕入れてくるのが単調な乾燥した盆地の生活には大変な楽しみの一つとなる。




Asadabad地球局夜景


14名の生徒達とは師弟の付き合いと言うより家族のような付き合いをさせて頂いた。 そのような御付き合いをさせて頂いたことが、彼らにとって反って勉強の身も入ったのではないかと自負している。 休日には名所旧跡へピクニックに連れて行って頂き、泊りがけの小旅行迄お供してしてくれたこともあった。 彼らと行くピクニックや小旅行は日本の旅行会社等では決して手配のできない、濃い土地の匂いがする貴重なものであるのは言うまでもないが。 生徒達に祝杯。

 
イランの地図



生徒を宿舎内の居間に招いてイカの刺身を無理やり食べさせる







1/Oct/'78 林蔵 @Assadabad Iran (Updated on 4/Nov/'08)#030

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