Taybet Zaman
@Jul/'04 Petra, Jordan
シーク: 1.2km続く細い岩の割れ目道、今やコンクリートで舗装されている
[世界遺産、 Petra, 文化遺産 1985年登録] ペトラのある地は、自然の要害であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。ぺトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水システムを作り上げたことが分かっている。 紀元前1200年頃から、エドム人たちがぺトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。 立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないぺトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。 紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、課税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。106年には、ローマ皇帝トラヤヌスによりペトラとナバテア人はローマの州として完全に組込まれる。
1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介した。(Wikipediaより)
高層ビルの谷間に似た深いシーク(岩の割れ目道)をロバに跨り、やや上り坂を岩塊内部から入り口ゲートへ向かう。 歩いても行ける道であるが、小学生位のロバ子を見ていると乗ってやらざるを得ない気になる。 その幼いロバ子はたどたどしい英語を駆使して商売をするのである。 西洋の理論に似た論法でロバの良さを説き、なぜ乗らないのか等と、畳み込むように少ない語彙で、こちらがはっきりと断るまで熱心に話し掛けてくる。 アラビア語の堪能な同僚のTさんに交渉をお願いし、遂に一人(ロバ一頭)5JDで入り口ゲート迄の上り坂をロバで行くことにした。 値切って貰った5JDは如何にも外国人値段(高い)であるが、彼らの熱心さへの褒美である。 我々は5頭のロバに跨りシークの上り坂を昇り始めた。 小さなロバに跨ると如何にもバランスが悪い。 ロバがかわいそうで仕方がない。 これでは歩くほうがずっと楽だ、等を思いながらロバの背中で必死にバランスを取る。 途中アルカズネ(メイン神殿)がある少し広場になった場所に出る。 そこにさし掛かった時である。 観光ポリスが我々のロバを止め、何やらロバ少年に言っている。 子供が働いているのを咎めているのではない。 子供が働くのは、こちらでは当たり前だ。 どうも営業時間が過ぎているから、お客を降ろしなさい、と言っているようだ。 冗談じゃない。 我々はゲート迄と言う条件で高い5JDを払ったのである。 しかし、いずこの国もポリスには敵わない。
シークの両側には上水路が刻まれている
我々はロバを降りて、ゲートへ向かって曲がりくねった細いシークを昇り始めた。 このシークの両脇には明らかに水路と判る窪みが穿たれている。 かつてのナバタイの首都、人口3万人を支えた上水路である。 それにしてもこの細い溝2本で3万人を支えるのは砂漠の民だからこそ可能なのであろう。 我々現在人には到底及ばぬ知恵で少ない水を上手に使える民なのである。 暫く上ると、先ほどのロバ少年達が5頭のロバを引いて追いついてきた。 小声で ”もー、ポリスからは見えないから、早く乗って” と合図をする。 これには驚き、多少感動さえした。 彼らは我々との約束を守ろうとして観光ポリスを巻いて来たのである。 再びロバに跨り両脇が切り立ったシークを入り口に向かってのぼった。 小さなロバにロバ少年も乗ってきた。 私の後ろにぴたりと跨りロバを操る。 彼らの身にまとっているものはお世辞にも清潔とは言い難い。 それでぴたりとタンデムスタイルになるのである。 小さなロバも可愛そうだが、彼の服の汚さが気になるのである。
アル・カズネ (メイン神殿: Treasury)
33年ぶりである。 その変わりように目を見張らざるを得ない。 西洋のメジャーなホテルが林立し、立派なビジター・センターが我々を受け入れてくれる。 ペトラ遺跡の入口通りは瀟洒なカフェやレストランが軒を並べる。 これが過っての砂漠の商都ナバテイア帝国の都ソドムの入り口だろうか。 前回訪れた時は、古い重厚なベンツのタクシーでアンマンからやってきたが、シークの入り口迄直接乗り込んだ記憶がある。 つまり何も無かった覚えだ。 更に渓谷の斜面に発達したワジ・ムサ(モーゼの枯れ滝)村は今や街の姿を呈している。 新しい家が斜面を覆い商店が沿道に軒を連ねる。 この街もアンマンに似た急な坂道が多い。 シュワルマ・レストランやミニ・スーパーの前には車がひしめき都市特有の渋滞を呈する。
ペトラ遺跡入口には立派な Movinpickホテル
周囲の赤い巨岩が連なる岩山を見上げる。 ここは確かにペトラだ。 あの岩に刻まれた神殿アル・カズネ(メイン神殿)は今でも削られたその岩肌は輝いているだろうか。 期待と一種の不安を抱きながらチケット・カウンターで入場券を買う。 今では一大観光地化されて外国人観光客は、大枚11JD(1、700円)を支払わなければならない。 だが我々政府系ボランテイアーにはレジデント・ビザと言うありがたい特権がある。 これを見せると住民並の料金1JD(150円)で入場できるのである。 これは凄い、まるで水戸黄門の御印籠だ。 ゲートをくぐり、5分くらい歩くと冒頭に出てくるシーク(岩の割れ目)の道が始まる。 昔と寸分違わぬ光景である。 不規則に曲がりくねったシークを約1.2km下ると突然開けた場所に出る。 4方を高い岩山に囲まれ外からは伺い知れない神殿アル・カズネが姿を現す。 長い間歴史から完全に忘れ去られていたナバタイ帝国の帝都の中心を成す荘厳な建造物である。 確かにその削られた紅い岩肌は今も艶めかしく赤く輝いていた。
ローマ時代全盛期、ローマが商路をずっと北のダマスカスに変えた頃から、ナバタイの都ペトラは急速にその存在価値を失い、やがて歴史から完全に忘れ去られる運命を辿るのである。 アル・カズネ(メイン神殿)から更に下るとローマン・シアターが岩に刻み込まれている。 ローマも一時期ここを重要な拠点にしていた証拠でもある。 更に下ったところに一段と高くそびえる岩山がある。 この岩山の後ろにペトラ最大の遺跡モナスタリーがある。 ここは、前回も行って居ないが、今回も行かないでおこう。 又の機会に残しておこう。 何処に行っても1ヶ所は見ずに置く場所を残してある。 次回の可能性を残して置くためだ。
砂漠に生える樹齢400年のピスタッチョの樹
初日の昨日は、ローマン・シアターの先にある円柱回廊手前にある樹齢400年のピスタッチョの樹迄行った。 冒頭のロバの話しは帰路をここからロバ乗ったものである。 だいぶ歩き疲れた。 ホテルに戻ろう。 最近仏大手のホテル・チェーン
Sophitelの系列になった5つ星ホテルである。 その前の名をTaybet Zamanと言う。 斜面に発達した土と石で覆った昔の廃村をリノベーションしたものである。 部屋は半地下式でそれぞれいびつな形をしており石畳の迷路で繋がっている。 レストランはビレッジの一番高い場所にあり石の洞窟かローマ時代の要塞の内部を思わせる。 石のアーチ状天井がユニークで心地良い雰囲気を醸し出す。 5つ星の証、広いプールも備わっている。 スイートを2部屋取った。 部屋は昔の形のまま残しており、壁を白く塗っただけである。 壁には適度の凹凸がありその曲線が部屋の優しさを増す気がする。 床は天然の大理石を磨いて平らにしたものだ。 従って一つ一つの石は、形・大きさが様々である。 これは予想外のうれしい体験である。 普通の高級ホテルなら幾らでもあるが、この手のホテルは、ここ旧名Taybet Zamanだけである。 如何にも田舎の農家風のドアーを開け内部に入ると広い大理石の土間になっている。 茶部台のようなテーブルが一つ、その廻りにベドウイン風の赤と黒を基調にした荒い模様の敷物が3枚敷かれている。 早速皆で車座になり一服。 バスルームは広く使いやすい。 お湯もふんだんに出るのが嬉しい。 シャワーを浴び石の洞窟レストランで食事を楽しんだ後、ベッドに横になると、昼間、灼熱の太陽を頭上に遺跡を歩いた疲れが心地よい眠りを誘う。
Hotel Sofitel: 部屋を結ぶ石畳の迷路、両脇は其々部屋になっている
アーチ状天井のシックな客室内部
前回行かなかったが今回制覇したのはサクリファイス・ハイトと呼ばれる生贄台のある高台だ。 次の日、先日と同じ長い1.2kmのシーク(岩の割れ目道)を下り、アル・カズネ(メイン神殿)広場に出る。 更に少し幅の広いシークを2-300m下ると左手に岩山に昇る岩を削った粗末な階段がある。 狭い階段と僅かな平らな岩道をゆっくり登る。 時々上から降りてくる観光客に遭い短い言葉を交わす。 眼下に見下ろす景色が徐々にパノラミックに広がってくる。
Hotel
Sofitel: ベッドルーム、床は磨いた自然大理石
レセプションエントランス
台地に辿りついた。 ロバの足跡を頼りに台地を奥に進む。 暫く行くと、前方の岩陰から人影が現れた。 2人組だ。 こちらに向かって来る。 顔の輪郭が判ると二人は東洋人の若者だった。 その内の1人が日本人であることを知るに時間は掛からなかった。 彼らが言うには、この先は何も無く、この道は間違いであると。 本当の道は少し前にあった右手に折れる道だと言う。 彼らの情報に感謝し、共に今来た道を戻った。 もー一人の東洋人は韓国人で大学を卒業し就職する前の休暇旅行らしい。 日本人の若者は、転職の機に人生のリフレッシュをする為の旅らしい。 いずれも貧乏旅行(悪い意味ではない)でアンマンに1ヶ月くらい既に滞在して居るらしい。 宿はダウン・タウンで1泊4JDだと聞いて私の彼らを見る目が変わった。 4JDと言えば昼飯代で消える額だ。 相当酷い宿に違いない。 セキュリテイーも良くないに違いない。 そんな宿で、不便と不潔と危険を偲び敢えて1ヶ月も留まっている姿を目の当たりにし、日本の若者も捨てた者ではないと、心の中でほくそ笑むのであった。 同時に一緒に居る韓国の好青年をライバル視している自分を認めざるを得ない。
サクリファイス・ハイト: 生贄台1、
生贄台2: ここに生贄の心臓等が安置されたのだろうか
生贄台のあるサクリファイス・ハイトに登り着いた。 ここからの眺めは素晴らしい。 360度見渡す限り周囲に岩山が連なりその内部にナバテイアの都跡を見下ろすことが出来る。 余りの壮大な景色なのと、色が赤褐色一色なので私の写真撮影技術では、その壮大さを画像として捕らえることが出来なかった。 アンマンの自室に帰り、パソコンで見る画面の何とインパクトの無い、被写体が見えないただ赤茶けたのっペらな、遠近感の無い映像なことか。 更に岩山の頂上部に登ってみた。 そこにはベドウインの笛吹き老女(いや、若いかも知れない)が居た。 ハーフJDコインをそっと渡し写真を撮らせて頂く。 そこからの絶景を脳裏に収め元来た方向へ戻ろうとすると、先ほどの笛吹き老女が、手振りでこっちに来いと手招きをする。 何だろうと思い、老女のいる方へ行ってみた。 何やら指差している。 小さな生贄台であった。 先ほど見た大きな生贄台は生贄を捌く石台だったのだろうか。 この小さな石台こそ生贄の心臓か何かを安置する場所なのであろう。 そう言えばメキシコに行った時、太陽と月のピラミッドを見たが、
そこの生贄台がメキシコ市内にある国立考古学博物館に収められており、それは石の人像が支えた小さな円形の石台で在ったのを思い出した。 その台には生贄の心臓が安置されると説明書きにあったのである。 セイクレッド・ハイトの台地には2本の石のオベリスクが建っている。 それはナバテイアの最も重要な神ドゥシャラとアル・ウザを祭ったものだと言う。
2本のオベリスクはナバテイアの2大神、DusharaとAl Uzzaを祭る
アンマンへの帰り道、ワジ・ムサの街外れに、モーゼが杖を打ち立てたら泉が湧き出てきたと言う、モーゼの泉が道端にあると観光案内にある。 その泉アイン・ムーサは街から2kmくらい昇った場所にあった。 今は3つの小さなドーム屋根を持つ立派な建物で覆われている。 建物内には誰でも入ることができ見物できる。 泉に手を浸すこともできる。 この乾季にも泉の水はこんこんと湧き出ていた。
Mose Spring: ドーム屋根で覆われている
アイン・ムーサ(モーゼの泉)内部
途中の道でみた ラクダ注意標識