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南アルプス/白峰三山縦走
(97年12月28日〜31日)


やってしまった、吹雪の白峰三山縦走

1.プロローグ
 最近の山行はいつも僕がリーダーだ。これでは皆のためにならない。そうだ、いつも「なんで女の子ばっかりエッセンなの?」と文句をつけている人がいたな。ということで、ASCの岩のスペシャリスト、Nさんが冬合宿のリーダーとなったのである。
 当初、冬合宿は新人の教育をかねて三伏峠から塩見のピストンのはずだった。ところが、いろいろごちゃごちゃしたことがあって、新人は参加しないことになり、N、谷、Hの三人になってしまった。いつも思うが、誰が参加するかどうかで悩むことほど馬鹿馬鹿しいことはない。
 このメンバーなら、技術も体力もだいたい分かっている。それなら、白峰三山縦走でも・・・というNリーダーの案。僕は合宿が塩見なら、たるいので北岳まで単独で縦走しようと思っていたが、白峰三山ならかなりやり甲斐のある山行になりそうだ。

2.冬山合宿連絡会議
 慌てて作成した白峰三山の計画書を、県連の冬山合宿連絡会議に持っていく。僕が遭対部長なので、会議の司会者でもある。各会の計画書をみると玉石混淆、綿密な計画から大雑把な計画、難しい山行から雪山ハイクまで様々だ。ASCの計画で指摘された主要な点は、予備日がないという点であった。これはリーダーNさんの休暇の関係でどうしようもない。白峰三山を夜発3泊4日でこなすのだ。僕はこの点について「天気が悪そうだったら池山尾根から北岳のみのピストンにします。」と逃げておいた。この冬は雪が少なく、どこの会も訓練不足のようだ。遭対部長としては、何事も無く各会の冬山合宿が終わってくれることを祈るのみだ。しかし、我々の山行が一番怪しい。


3.12月27日
 本来の計画は夜発であったが、縦走では車利用ができない、また、夜行ちくまの乗り継ぎが悪いという点で、27日の午後3時発の特急しなのに3人で乗り込む。この3人が顔を合わせるのは、実は10月下旬以来の2ヶ月ぶりである。ほんとに大丈夫なのかな?木曽福島あたりから斜面にちらほら雪が見える。前夜の低気圧の通過の際に降ったようだ。塩尻で乗り換え、韮崎へ。予約したタクシーに乗る。韮崎駅前にはスーパーがあり、ここでの買い出しも可能だ。夜叉神トンネル手前に夜7時ころに到着。ゲートの向こうにテントを張って寝る。週間予報によると30日は悪天らしい。それなら、29日はがんばって農鳥小屋まで進もう、と意見がまとまる。


4.12月28日 −1日目−
 日の出前に出発。睡眠時間が長くとれたので、夜発の眠さはない。長い夜叉神トンネルを歩く。トンネルを抜けるとそこは、そこは相変わらず雪の無い林道である。鷲ノ住山登山口から350Mの下りだ。あーもったいない。再び林道歩き。出発から2時間半もかかってようやく池山尾根登山口についた。本当に長いアプローチだ。もし北岳ピストンの場合、帰りの鷲ノ住山への登りはかなりこたえるだろう。三山縦走を誓う。急登を続けると池山お池小屋に出る。明日農鳥小屋まで進むので、さらに1時間登ったところまでがんばった。

5.12月28日の夜
 H君の取った天気図を元に、天気予報がなされた。中国東北部に高気圧があり、毎時35kmで南東に進んでいる。このまま35kmで南東に進んだ場合、30日昼に関東地方を通過する。一方、上海が雨なので、そのうち東シナ海に前線が発生することは明らかである。29日はほぼ確実に晴れ。30日の天気は微妙である。結論は「明日農鳥小屋まで進む」。下山して天気図を見ると、この高気圧はその後毎時45kmまでスピードアップし、29日中に日本を通り過ぎていた。

 今回は僕がエッセンである。最重要課題は、軽量化と、いかに無駄な水を使わないか、そして単調さを避けることである。初日の夜は、水は全て担ぎ上げたものを使う計画で、実際テントを張った地点の積雪は10CM足らずしかなかった。出発時点で一人2L持ち、28日と29日の行動中に500mlずつ消費するとして、夕食と朝食に使用できる水は一人1Lの合計3Lだ。夕食はカルビ丼とポタージュープ+飲み物で、約1.5L消費。朝はモチ入り赤飯おかゆと飲み物。約1L消費。ということで、3L以内に納まった。

 レトルトのご飯は1人分200g、α米1人分は100gで、レトルトは二倍の重量になるが水はいらない。したがって、水を担ぎ上げる場合は、α米は余分に水を担ぎ上げる必要があるので、レトルトとα米どちらも重量的には同じになる。


6.12月29日 −2日目−
 行程は長いので日の出前の6時に出発。城峰を過ぎると雪も増えてきて、やがて森林限界を越える。左手には農鳥岳、間ノ岳が見える(写真)。今日はその間まで進むのだ。本当にあんなところまで行けるのだろうか。八本歯のコルは両側が切れた下りで多少緊張したが問題なく通過。はしごを登るって北岳山荘へのトラバース道を過ぎ、喘登しばしで稜線に立つ。北岳の強風は有名だが、この日は快晴でしかも風も弱い。ザックをデポして北岳をピストンする(写真)。細長い山頂は大パノラマだが、全般的に周囲の山は雪が少なく迫力不足だった。南アルプスの夏山縦走はもうやらないことにしたので、北岳には冬季の登頂をねらっていた。登頂を果たしたことは素直に喜ぶべきだろうが、こんなよい天気では簡単すぎて物足りないという気もした。

 しかしこの日の苦労はここから始まった。再びザックを背負って北岳山荘に下る。岩稜を西に巻く部分では緊張する箇所もあるが、おおむね岩礫の広い稜線である。どうもかなり疲れてきたようだ。膝は動くが、アイゼンとプラブーツで重い足首まで力が回らなくなってきた。北岳山荘に着いたのは13時10分。うー疲れたー。北岳山荘は二階が開放してあり、快適そうだ。正直言って、僕はここに泊まりたかった。しかし無情にもNさんは「そろそろ行こうか」と言う。「あと5分だけ休ませて」と頼む僕であった。

 間ノ岳に向けてのろのろと進む。バテているわけではない。バテた時は、10分歩くだけで1時間歩いた疲労感があるが、今回は一応足は前に出る。中白峰まで登っても間ノ岳はまだまだ先である。間ノ岳に着いたとき、既に日は沈もうとしていた。西の空に沈む太陽と、東に赤く染まる富士山(写真)、来し方を見ると西側を光らせた鋭い北岳。幻想的な風景が広がっていた。しかし残念なことに、この景色を十分に楽しむには我々は疲れすぎていたようだ。

 「あと10分で日が暮れるなぁ」と言いつつ農鳥小屋に向けて下り始める。この下りは、雪も適度についていてアイゼンが効き歩きやすい。間もなく日が暮れたのでヘッデン行動になる。山スキーや沢からの下山中に日が暮れてヘッデン行動になったことは何度もある。しかし、今回のように日の出前から歩いて日が沈んでも歩いているなんてことは初めてだ。しかも重い荷物で、一番長い休憩でも20分程度しか取っていない。三国平への分岐を過ぎればあと少しのはずだ。あと少しと思いつつも、座り込んでしまう。「あと少しだから・・・」

 農鳥小屋は突然現れた。残された仕事はあと一つ。冬季小屋の入り口を見つけることだ。農鳥小屋は小さな小屋に分れていて、しかもここは吹き溜まりになっていて積雪1〜2mもある。各自手分けして探すことになった。僕が少し歩くとテントが一張りを見つけたので、「ひょっとしたら開放していないのかもしれないなぁ」と悲観的になってしまった。しかし間もなく、「谷さーん」と呼ぶ声が。行ってみるとちゃんと冬季小屋は開放されていた。しかし入り口は深い雪で、よく見つけたものだと感心してしまった。もちろん他には誰もいない。

7.12月29日の夜
 小屋に入っても、あまりに疲れていたので皆ぼんやり座り込んでいる。僕もはっきりいってこのまま寝てしまいたかったが、そういうわけにもいかない。とりあえず湯を沸かしてコーヒーを飲む。生き返るようだ。これで皆元気を取り戻し、水作り、テント設営と仕事を分担する。

 この日の食事は冬山合宿の必需品とも言える雑煮である。皆それほど食欲はなかったので、モチは3人で7個だけ。味付けは本だし、しょうゆ、塩、中身はモチとネギとカマボコ、そして大量のシイタケ。激しい行動の後のこの日の夕食は、とりわけおいしかった。

 到着時間が遅かったので、天気図は取らなかったが、夕食後は楽観的な雰囲気が漂った。「こんなに苦労してここまで来たのに、もし明日快晴だったらバカみたいだね」「ここまでこればもう農鳥を越えるだけだから、少しくらい天気が悪くても明日は奈良田まで降りれるんじゃない?」「冬の白峰三山を二泊三日でやるなんて驚異的だな」夜トイレのために外に出ると,星は見えたものの怪しい雲が見えた。


8.12月30日 吹雪の西農鳥へ −3日目−
 寝ている間、小屋をばたばた叩く風の音を聞いた。(風が強いようだ。風だけか、それとも吹雪だろうか・・・・)眠りながら心配する。今日は農鳥を越えるだけ、ということで朝は5:30起床と遅めだった。ドアを開けると、そこはかなり激しい雪であった。吹き溜まりになっている小屋の周囲は30〜50cmくらい新雪が積もっていた。「ああ、やっぱり今日は吹雪だ」トイレを探していると、外でテントを張っていた二人組が間ノ岳に向けて出発するところだった。お互い情報を交換する。「間ノ岳方面は平坦でルートの読みが難しいです」「西農鳥のすぐこちら側がいやらしかったですね」このすれ違った二人組は、東北大学のパーティで、その日間ノ岳付近で救助を要請し、翌日ヘリで奈良田に下山したのであった。

 西農鳥岳まで夏タイムで50分、この天気なら1時間半を見込む。南岸低気圧の通過による悪天のためか、気温はそれほど低くない。−5〜−10度くらいだろうか。昨日の疲労が残っているか心配だったが、歩き始めると特に疲労も残っていないようだ。昨夜からの雪でトレースは全て吹き消されているので慎重に夏道を探しつつルートを取る。ゴーグルの中の眼鏡が途中で曇ったので、僕はゴーグルを外して歩いていた。というのも初めのうちは稜線東側を通るので風が弱いのだ。2950m地点まで進むと、夏道は稜線右側を巻くようになる。ここで休憩してゴーグルをつけようとしたが、表面がすべて凍って全く使用に耐えなくなっていた。仕方ないので裸眼で歩くが、稜線北西面は風が強くつらい。夏道に沿ってしばらく行くと、トラバース道が雪で埋まって結構な傾斜の雪壁になってしまった。雪壁をトラバースするのはかなり困難であるし、また、トラバース後に夏道を見つけるのも難しそうだ。雪崩の危険もある。「ここは稜線に直上した方がいいのでは」Nリーダーに許可を求める。出だしはもろい岩場で、浮き石が多く苦労した。ついでクラストして雪壁。ピッケルを深く突き刺し、斜面を2、3回蹴り込んでステップを作りながら登る。ここは体力勝負だ。間もなくで稜線上に出た。稜線上は予想通り風が強い。ゴーグルが曇って裸眼のままだった僕はかなりつらい状況に置かれた。目が開けられん。目を閉じるとまぶたが凍り付いて二度と開けられなるのではないかと不安になる。トップを替わってもらい、フードを深くかぶってうつむきながら歩くが、だいぶ引き離された。西農鳥に着いたときには出発から2時間もたっていたが、ここまでこればかなり安心できる。(この天気でよくここまで来れたなぁ)皆で握手。山頂はガスで何も見えないが、一瞬うっすらと前方にピークが現れた。「あれが農鳥岳だよ」

9.西農鳥から農鳥岳へ
 農鳥岳は西農鳥よりも標高が低いのでそれほど問題はない、と思った。西農鳥を出発。すぐに、先ほど「農鳥岳」と思ったピークを通ってしまい、全然違うピークと判明して少しがっかり。夏道がわかるので、稜線南西側を巻きつつ進む。途中でNさんからサングラスをかりて、何とか目を開けて歩けるようになった。しかし所々吹き溜まりで、太股くらいのラッセル。先頭をNさんと交替しつつ進むが、ラッセルの箇所を過ぎると夏道を外れることか多く、ルートファインディングのために時間はどんどん過ぎていく。そのうち積雪でルートが不明になったので、また稜線まで直上した。登り着くとピークで、皆農鳥山頂と思って喜んだ。しかし、山頂の標識がない。「農鳥岳は西農鳥よりも低いから標識が無いのかな」「そんなことないでしょ」「高度計は3050mを指してるけだど」「雪で埋もれてるのかも」NさんとH君はピッケルで雪をつついている。畑仕事をしているようで思わず笑ってしまったが、一瞬ガスが薄くなり、目の前に同じような高さのピークが現れたときには三人とも呆然としてしまった。喜んだだけに、失望は隠せない。

 ニセピークを下り、再び登り返す。今度こそ山頂であってくれと祈る。着いた。今度は本当に農鳥岳だ(写真)。またまた皆で握手。「あとは下るだけだね」「よくここまで来られたもんだな」「ASCの歴史に残る山行だね」出発してからすでに4時間が経過している。

10.大門沢下降点へ
 さあ、下ろう。あれぇ、どっちに下ればいいんだろう。夏道を探すが分からない。地図を見ると稜線西側に書かれているが、見あたらない。なぜ夏道にこだわるかというと、岩稜では下降不能の岩場が出てきてロープを出さないといけないことがあるからた。結局、夏道が見いだせなかったので、岩稜をたどる。幸い困難な岩場は無く、そのうち夏道が合わさった。「夏道だー」ここから夏道は稜線の東側を下っていく。冬の場合は、2946mピークまで続く稜線をたどる手も考えられる。しかし、ここで夏道通りに進むことが決定された、というより、そうした議論は無かった。Nリーダーがもう一方の選択肢をどの程度考慮したか不明であるが、僕の判断としては、稜線上は細かいピークがあるのでこのガスの中2946mピークを認識することは困難というものだった。実際、今日の行程を考えると、稜線上を少し進むだけでもかなりの時間を費やしてしまい、距離感が全くつかめなかったからだ。

 稜線を東に下ると一気に風は弱まるが、吹き溜まりになって太股くらいまでのラッセルになった。下りとはいえ、歩みは遅々としてはかどらない。今日は他のパーティとはすれ違っていないので、当然トレースはない。ここは読図に非常に神経を使うべき場所である。頻繁に地図を出して確認する。「稜線のすぐ東をほぼ真南に進む。そのうち正面にちょっとしたピークがあり(地図中A地点)、そこを過ぎると西側に凹地(B地点)がある。その後南南東の尾根を下る。」こう言い聞かせつつ歩く。「あの正面の岩場のようなところ(A地点)に向かって行けばいいんだ」

 そのうち、目標点近くまで進んだ。そこから見た目標点は、ガスの中ではかなりの高さを持っているように見えた。「あれ、これはA地点のピークではなく2946mピークじゃないのかな」「ほら、その証拠に左側に凹地がある」「じゃあ、Aのピークはどうなったのだろう」「小さなピークだから気がつかなかったのかもしれない」これはメンバー間の会話ではなく全て僕の心の中で交わされた会話である。この箇所のルートの選択は全て僕が行ったものであった。
 予定では凹地の東側を通るはずなので、凹地に向かって南東方向に下る。凹地の反対側は風があって雪が飛ばされていたので、そこまで行けば夏道があるはずである。しかし、夏道の痕跡はどこにも見いだせない。どうしたことだろう!状況は全てここがBの凹地であることを示している。大きな凹地、西側の高い稜線、しかも南東方向には尾根が下っている。

 僕は吹雪の中地形図をにらんだ。Bと同様な地形パターンを示す凹地は存在するのか。一つ見つけた。それはC地点である。しかしC地点は地形図上では凹地になっていない。現在地は結構大きな凹地で、深さ10mはあると思える。それなら地形図に表現されてもいいのではないか。だが、もしここがB地点だとしたら、B地点の南には小さなピークがあるはずだ。

 僕にはB、Cのどちらともつかなかったが、どちらかであることはわかった。
「あっ、あそこにペンキ印がある」僕は黄色い印を凹地の東側に見出し、駆け寄ったが、そこに見たのは一株の枯れ草でしかなかった。Nさんと僕は二人で議論を交わす。「B地点と同様な地形はないの?」とNさん。「ここ(C地点)が考えられるんだけど、しかし、ここに下るには40mも斜面を下ってこないといけない。そんなに下っただろうか?」と僕。「うーん」悄然と立ちつくす3人。時間は経過し、3人ともかな疲労の色も濃く、僕はかなり苛立ってきた。何か回答を出さねば。「ここから南東に行く尾根を下ってみよう」と僕。ガスのためその尾根がどこまで下っているのかわからない。Nさんは東側をのぞき込んで言う「でも、東側はすごい崖になっているけど・・・」「えっ、本当?」B地点なら東側は崖と言うほどの斜面ではない。

 少し南東方向に下りかけた僕は再び上に戻った。その瞬間ガスが薄くなり、南方が見えた。そこには右手方向に平坦な稜線が連なっており、さらに、我々は大門沢下降点のある稜線よりも低い位置にいるということが判明した。もしB地点ならば、右手方向に見える稜線は急激に低くなるはずである。これによって、我々がC地点にいる確率が高くなった。

 「それなら、この西側の斜面を40m登れば、夏道にでるはずだな」とは言うものの、ガスの中この斜面ははるか上方に続いているように見える。わずか40mの登りでB地点に出られるとはとても見えない。3人とも無言になる。(我々は大丈夫だろうか・・・)いざとなればテントも持っているのでビバークもできる。しかし想像は悪い方へと流れる。強風でテントを飛ばされたらどうする。「H君、まだ体力はある?」とさっきからあまり話さないH君にきいた。H君は農鳥からの下りでアイゼンでズボンに穴を開けてしまい、雪が入ってきていると思われる。「きのうよりもずつと体力はあります」これをきいてぼくは安心した。遭難に至るケースとして、パーティの一人が動けなくなり、パーティ全体がそれに引きずられるように死んでいくというパターンがあるのだ。

 「じゃあ、登ってみるね」40m上にあると予想されるB地点に向けて登る。(本当に夏道に出るのだろうか)。疑心暗鬼を生ず、と言う。一度迷うと何を信じてよいかわからなくなる。出た。夏道に出た。40mの登りはわずかの時間であったが、ここに至るまでの苦労はかつてないものだった。三人で抱き合って喜んだ。

 少し下るとついに大門沢下降点に出た(写真)。農鳥山頂から3時間を費やしていた。大門沢小屋への標高差1200mの下降中、3人ともヘロヘロになったが、6時半ついに長い今日の行程を終えた。


11.12月31日 下山
 大門沢小屋からは、富士山の上から登る日の出を拝んで下山した.がっかりしたことに、奈良田の温泉は休みだった.