| チョーチョーという声を聞くたびに「ああ、私はシギが好きなんだなあ」と再認識させてくれる鳥です。 |
| 実はこの鳥は私が個人的に初めて野鳥観察・撮影に出向いた時に見ることが出来た最初のシギ |
| なのです。あの足の長さと優雅に餌を求めて干潟を歩き回る姿にはいわゆる見惚れてしまう状態 |
| に私をいつも変化させてくれます。 |
| ただなかなかこの鳥をイメージ通りに撮影出来ないことがとても不満です。私のイメージは群れで |
| チョーチョーと鳴きながら飛び交うこの鳥を少し逆光気味に撮影することです。 |
| しかし関西では複数で見られる場所も少く、ましてや撮影なんてという状態ですから願いは叶わぬ |
| かもしれません。東京港野鳥公園で画面いっぱいに近づいて来てくれて撮影した時は好きなシギ |
| だけに本当に興奮しました。 |
| しかしあの足は名前の由来の青色とはとても思えませんね。アオゲラが緑色と同じ理屈なんで |
| しょうか。でも真っ青の足をしたシギも想像すると結構気持ち悪いかも。 |
| 英名はGreenshankですから「ミドリアシシギ」にしてみたらいかがでしょうか。 |
| 一度自宅で夜に鳴きながら上空を飛ぶアオアシシギの声を聞くことがありました。私が一人部屋で |
| 小躍りしながらガッツポーズしたのは言うまでもありません。 |
| アオサギはとても風景的に撮影できる鳥である。体が大きくて、色も渋めなので写真的にうるさくなる |
| ことはない。そして基本的には人間に対して無関心を装う場合が多い。現在では人間と仲良くする |
| ふりをするスズメに近い状態になっている。先日も家の屋上でボーッとしている私のすぐ近くを飛んで |
| 行き、そばのマンションの屋上にとまった。公園から小さな小川において迄も、彼らを見ないことはな |
| いのではないか。そんなアオサギも顔をアップにすると怖い。何か遠くを見つめていながらもこちらを |
| 凝視しているような感じがしてならない。ある日、山田池公園で大きな鯉をくちばしで突き刺して捕ま |
| えたのだが、普通に見ればアオサギの首を通過出来ないような鯉であった。彼(彼女)は鯉を草むら |
| に横たえ、我々観客の前で一気に口に入れた。が、あまりの大きさに困っているようであった。観客の |
| 中からは「ありゃ、無茶やで」「窒息してしまうんちゃうか」と言葉が飛び交う。余りに口に入れたままの |
| 状態が長かったので、人は一人二人と興味を無くして立ち去った。それから十分以上も時間をかけて |
| 飲み込んでいった。あの細いのどが鯉の形になったままに消えていった。アオサギは何もなかったか |
| のように佇んでいた。あんな大きな鯉を一飲みにしたのだから、ゲップでもするのかとファインダーを |
| のぞいていた。と、アオサギはこちらを一瞥してから飛んで行った。一緒に見ていた人に飲みこんだと |
| 話しをすると、「うっそお〜」と驚きの一声。彼らは日本国中でそうして人を驚かしているのだろうか。 |
| 私は今でも長野県の戸隠で聞いた早朝のアオジのさえずりは忘れることは出来ない。関西でも春の |
| 渡りの時期に聴くことは出来るが、やはりシチュエーションが全く違う。ノジコに似てはいるがより金属 |
| 的な声で朗々と囀る。関西のイメージでは冬場に目立たない場所を「チッ、チッ」と時鳴きをする為に |
| あまり進んでは通常の野鳥カメラマンは撮影しようとは思わない。が、私は違う。あの地味な美しさに |
| こそ野鳥本来の美しさがあると思う。写真集を作った時にも最終候補にまで残った思い入れの濃い |
| 作品があります。雌雄とも顔が違っているが、とても個性的な顔立ちをしており、何とかしてこれまで |
| 以上の素晴らしいアオジの写真を夢見ている。それも関西で撮影にこだわりたい。戸隠の囀る姿は |
| 私の数少ない撮影旅行と共に思い出のアルバムにしまってある。といっても頭の中の話ですが。 |
| しかし彼らはとても恥しがり屋でカメラを向けようものならすぐにブッシュの中に隠れてしまう。どのよ |
| うにすれば彼ら彼女らを説得すればいいのか真剣に考えている。アオジさん、はいチーズ・・なんてね。 |
| アオバトが日本の鳥の中で一番美しいと私は思っている。色の美しさだけならヤイロチョウという方も |
| いるだろうが、総合的な美しさはアオバトにはかなわない。 |
| まず、木にたたずむ姿の美しさにはいつも息を飲む思いで見とれてしまう。それでいて、見事に木と |
| 同化しているので見過ごすことが結構ある。 |
| 飛ぶ姿も本当に美しく、特に神奈川の大磯・照ヶ崎で海水を飲みに大群で飛ぶ姿には本当に圧倒 |
| されてしまう。(すぐ頭の上を飛ぶこともしばしばあり、アオバトの飛翔が目の前で見れるのだ。) |
| そしてあの声が絶対的にいい。「オーアオ−オアオ−アオ」と哀しげに聞こえる声を聴くたび、私の体 |
| には電気が走るが如く喜びで満たされてしまいます。何と哀愁のある鳴き声なのだろうか。 |
| それとあの水色のくちばしも魅力的である。何か水で薄めないまま直接に絵の具で塗ったような鮮明 |
| なる水色。あれほど美しい水色を表現している生き物は他にはいないであろう。 |
| とにかく、アオバトが好きで好きでたまらない。地味鳥好みである、私が唯一主義に逆らってでも愛し |
| てやまないのがこの鳥である。山田池では過去2回、絶好のシャッターに恵まれた。一度は知人の |
| お蔭なのだが、今でもその際に撮影した写真は大事に保管してある。昨冬は撮影には恵まれなかっ |
| たが、それでも多くのアオバトがいる公園に一緒にいられることがたまらなく嬉しくて、冬は山田池に |
| 私は通っているのかもしれない。今冬もそしてこれからもずっと会いに来てほしい。 |
| アリスイがキツツキの仲間であることを初心者の方に納得させるのは難しいと思う。 |
| 何せ他のキツツキ類のように木にキツツキらしく垂直にとまることはめったになく、地面を這いつくばる |
| か、ヒタキ類のように枝にとまって観察されることが多いからである。(蟻を探すためであろうか) |
| また容貌もキツツキを思わせる箇所が全くない。それでもあの長い舌を初めて見た時には「やっぱり |
| こいつはキツツキなんだ。」と感じさせてくれた。 |
| ところが関西ではそれほど多く見られる訳でもなく、知り合いに聞いても長い舌を出すアリスイを観察 |
| した人間はあまりいないようである。それを考えるとその証拠写真を撮影できた私はラッキーと言える |
| だろう。本当にビックリするくらい伸びて下に垂れ下がった赤く細い舌は未だに印象が強く焼き付いて |
| いる。 |
| ただ私がこの野鳥が大好きなのは鳴き声である。ある秋の日に南港野鳥園で本を読んでいると、突然 |
| 後方から「クイクイクイクイ」という聞いたことがない声がした。振り返ってみると、これでもかという程に |
| 地味なアリスイが鳴いていた。なんと力強い声かと感心してしまった。 |
| 秋の青空の下で聞くアリスイの声は数ある野鳥の中でも、私はベストの声だと断言する。ちなみにその |
| 日にアリスイの声の二重奏を聞くことができた。但し、一匹はモズが鳴き真似をしていたのだが。 |
| 最近、家の近くをウロウロして気まぐれにさえずりに来てくれている。ほとんど家から出れない私にとって |
| はありがたいことである。野鳥に興味が無かった頃は、ウグイスは花札のように綺麗な鳥なんだろうな |
| と思い込んでいた。だから初めてウグイスを見た感想は地味というよりも、薄汚れた鳥という印象であっ |
| た。その薄汚れた鳥がその服装とはかけ離れた声を聞かせてくれるのだから、余計にそう感じたのかも |
| しれない。だから野鳥撮影を始めた当初はウグイスを撮影したいなどとは全く思わなかったのである。 |
| 私のメイン探鳥地であった深泥池でもほとんどブッシュを移動するだけで、撮影できる場所にはめった |
| にとまってくれなかった。ところが、深泥池を周年通っている中でウグイスというのは、早いものは2月末 |
| から鳴きだし、おまけにその時期はとんでもないほどさえずりが下手だということが判ってきた。 |
| それから週毎にさえずりが段々と様になっていくのを聞かされると、一生懸命なウグイスの姿に感動し |
| てしまい、ファンになってしまったのである。それからは撮影重要野鳥として個人的に指名して狙っては |
| いるのであるが、未だに満足出来る彼らの写真を手に入れることが出来ないでいるのが口惜しい。今年 |
| こそは淀川でさえずるウグイスの勇姿を撮りまくろうと勢い込んではいたのだが・・・・・・・残念。 |
| それとウグイスのさえずりだけは家で聞いても、川辺でも山の中でもどこで聞いても素晴らしい。オオルリ |
| やコマドリが街中でさえずっても、ウグイスほどの感動は与えてくれないと思う。(違った感動はあろうが) |
| まさに春告鳥である。いつか必ずや最高の彼らの写真を撮らせてもらうつもりである。 |
| コサメビタキとサメビタキとエゾビタキはとても似ている。それでもエゾビタキは胸の斑がはっきりとしてい |
| ることと、背中側の模様が他の2種に比べてはっきりしている。だが、この野鳥には撮影機会に恵まれ |
| てはいない。昔、大阪南港野鳥園に通ってた頃は9月末から10月初めまで楽しませてくれたものである。 |
| 但し、撮影がうまくいかないのが玉に瑕。コサメビタキならたくさん在庫に抱えているが、エゾビタキは |
| 小さい写真ばっかである。だからといって警戒心が強いわけではないのである。近付くことは出来るが |
| 逆光であったり、バックのボケがよくなかったりとろくな結果が得られないでいるのが現状である。ですか |
| ら先日桃井氏のお蔭で淀川で撮影したのが一番大きいかもしれない。まだ仕上っていないが結果がと |
| ても楽しみである。エゾビタキはいつも飛びながら虫を捕まえる姿をよく見せてくれる。大体決った枝から |
| 飛び出すのだが、失敗した時にくちばしがパチッと音を鳴らすのがご愛敬である。今年は淀川で大当た |
| りだったようだから各地で多く観察されたのであろう。しかしエゾビタキはどうして蝦夷から名前をとった |
| のであろうか。コサメもサメとほとんど移動場所が変らないのに。確かに夏はシベリアで繁殖期を過ごす |
| のだが、とても不思議でしょうがない。どちらかというと圧倒的に秋に見られる可愛らしい野鳥である。 |
| 十年前になるだろうか。京都の深泥池に出向くと、一匹のエナガの亡骸があるのを見つけた。野鳥 |
| に限らず、一般の動物は死を隠すというイメージがあっただけに、ある意味ショックであった。丁度 |
| 私がいつも椅子に坐る場所にあった。死体でも野鳥を直に触るのは初めてであったので緊張した。 |
| 軽い!思わずそんな言葉が口をついた。こんな軽い生き物がいるのかという不思議な感覚が私を |
| まず襲った。そしてエナガの羽毛の柔かさが手に直接伝わってくるイメージがあった。その後亡骸を |
| 土に返してやろうと思い、ティッシュでくるんで近くの場所に穴を掘って埋めた。その時墓標代わりに |
| 一本の枝を立ててやった。その日の数時間後にエナガやシジュウカラの群れがやって来てくれた。 |
| 彼らはあんなにも軽い体に全ての機能を備えて、我々人間と自然を共にしているのだ。そんな密かな |
| 感動が私を包んだ。それと数年前だが真冬に森林植物園でエナガが使ったと思われる巣を見つけ |
| た。何と素晴らしい造形物なのかとこれも違った意味で感動した。今でもすぐ近くにそのエナガの巣 |
| は大切に保存している。コケや蜘蛛の糸、落ち葉などで編まれた巣の完成された素晴らしさは言葉 |
| で伝えようがない。そういった二つのことからエナガは大好きな野鳥の一つである。ただ撮影に関し |
| ては動きが速いので、シャッターを押すことでいつも勝負をエナガとはしている。それが一昨年に |
| 自分でも感激するほどのエナガの写真を手に入れることが出来たのである。いつか皆さんにお見せ |
| する機会があればいいなとは思っている。 |
| 2003年5月現在の弊HPの表紙を飾っているのがこの野鳥である。シギの中でも大きいイメージが |
| ある、写真的になりやすい種類である。震災前の甲子園浜ではこんなに近くで撮影することが出来、 |
| 近づけたのであります。現在ではこの種類を渡る時期に撮影出来る場所は関西では極めて限定的 |
| になってしまいました。大きく長くて、反ったくちばしを使って餌になる虫を干潟に突き刺して捕まえる |
| 姿は本当に絵になります。特に4月から5月での渡りの時期に夏羽になる姿が一番美しいですね。 |
| ゴールデンウィークの時期にやって来るものですから、本当にオレンジがかった羽根の美しさについ |
| 撮影を忘れて見惚れてしまいました。また羽繕いや水浴びをする姿などを震災前にはじっくりと観察 |
| することが出来ました。現在では数羽は甲子園浜にもやって来てくれるものの、干潟が大きく出来な |
| いので、遠くから双眼鏡等で眺めるばかりです。東京にはあんなに近くにいい干潟や公園があるの |
| に、どうして関西では遠くから米粒ほどの野鳥をフィールドスコープで見ることしか出来ない野鳥園だ |
| けしかないのでしょうか。もう一度オオソリハシシギを美しく撮影をしてみたいのですが、関西地方で |
| は可能性がゼロに限りなく近いでしょう。何しろ特に足に車を使わない私としてはもう夢でしかないの |
| かもしれません。どなたか谷津干潟のような近くでシギ・チドリ類と遊べる場所を関西に作って頂けま |
| 忘れられない思い出がある。それは冬近くのある日の南港野鳥園でベンチに坐って、本を読んでいる |
| 私を想像してもらいたい。のどかな青空が広がるいいお天気で、野鳥が撮影出来なくても十分満足を |
| していた。私の近くには餌を目当てにやって来たドバトが数羽戯れていた。(私はドバトに餌をやること |
| は絶対にしないのを方針にしている。仕事で人のいないマンションがドバトの住処になっていた恐ろし |
| さを見て以来、彼らを無視しているのである。)ちょうどその一羽が私のベンチと平行になった時であ |
| る。奥のブッシュの中から何かが現れた。よく見るとオオタカの成鳥のメスではないか。彼女はこっち |
| を無視して、ドバトに襲い掛かり一撃で仕留めた。その瞬間にドバトの羽根が舞い散ったのをよく覚え |
| ている。私は一瞬固まったが、カメラを取りに動こうとした時にオオタカと目が会い、シャッターを押させ |
| てくれることもなく、ドバトを放さずにまたブッシュの中に飛び去ったのである。生死の分かれ目を強く |
| 感じ、またオオタカの素晴らしさに感動してしまった。約5mの近くでハンティングをしている彼女の目 |
| には私など目に入らなかったのであろう。撮影出来なかったよりも、その一瞬を共有できたことに大き |
| な喜びを感じた。未だに皆さんにお見せできるオオタカの写真を撮影してことがないが、いつかは私に |
| もその勇姿を撮らせてくれることを信じている。あの瞬間を体験できた私にはオオタカ運があることを |
| 信じてやまないからである。 |
| オオヨシキリはある本に書いてあったが、大阪の鳥になる寸前までいったそうである。その間際で |
| 中百舌鳥(なかもず)という大阪の一地域の猛烈な巻き返しによってモズに逆転されたそうである。 |
| モズは私の一番好きな鳥ではあるが、大阪の鳥にはオオヨシキリが正解だったと私は思う。 |
| なんと言ったってあのギョギョシと大きな暑苦しそうな口の真っ赤を見せ付けて鳴く姿は正に大阪の |
| オバちゃん達とダブってしまうではないか。オオヨシキリが2羽以上揃うと、すぐにでも漫才が始まる |
| ように感じられる。だからオオヨシキリを撮影に出向くと、妙な親近感を私は感じてしまうのである。 |
| 関西的資質を充分備えた野鳥の一種である。 |
| 一度、全く鳴かないオオヨシキリを観察することがあった。密やかにヨシの中を移動する姿はまるで |
| 別人(鳥)に見えた。口を一度も開けることもなく、言葉を封じられた修行僧の雰囲気を醸し出して |
| いたのだ。我々は野鳥を観察する時はそれぞれの特徴的な動作やさえずりで判別することが多い。 |
| オオヨシキリ=血を吐くように大きな口を開けてさえずる夏鳥というのが一般的なイメージであろう。 |
| それを私はあえて鳴かない、口を開けないオオヨシキリとして撮ってやろうと考えて追っているのだ。 |
| そんな事は不可能だと正常の皆さんはお思いだろう。かくいう私も強烈なオオヨシキリへの先入観 |
| の為にこのテーマを進められずに苦しんでいる。二羽以上の彼らが一つのヨシに並んでとまって、 |
| 「そんなアホな。」「何でやねん」というようにボケとツッコミの漫才をしてくれたらどんなに素晴らしい |
| どうしてオオルリは最後にジジッと鳴くのだろうか。私はそれがとても残念である。ウグイス、コマドリと |
| あわせて三大名鳥と言われ、さえずりの美しさを公的に称えられているというのに。 |
| が、私はあの最後のジジッという雑音でベスト3に入れるべきではないと考えている。 |
| その一方であのジジッという音でオオルリのさえずりであることを断定する私がいる(いつまで経っても |
| さえずり初心者)。ちなみにメスも綺麗な声でさえずる。 |
| 今年はよくオオルリに出会うことが出来た。しかし去年はほとんど会ってももらえなかったという非常に |
| 気まぐれな鳥でもある(知人に言わせるといい加減に探しているからとの個人評あり)。 |
| やはり今年もジジッという最後の濁り音がとても気になってしまった。恐らく何か意味があるのだと思う |
| が、やめて欲しいなどと真剣に考えているのは私だけなんだろうか。 |
| それとカメラマンの立場から言えば、オオルリというのにどうして目の周りが黒くなってしまったのかが |
| 気になる。お蔭で目に光が入らないとのっぺりとした写真になってしまう。(キビタキ♂も同じ) |
| だから天気の悪い日にオオルリのオスに出会うと、とても複雑な気分になる。会えてとても嬉しいのだ |
| が、写真を撮ろうかやめるべきかでいつも悩んでしまう。そう思いながらも、私は結局シャッターを押し |