2000年12月刊、日本法学66巻3号291頁〜350頁

欧州連合財政略史

甲斐素直

[はじめに]

一 欧州統合の動き

二 欧州石炭鉄鋼共同体

(一) 欧州石炭鉄鋼共同体の誕生

(二) 欧州石炭鉄鋼共同体の機関とその権限

(三) 欧州石炭鉄鋼共同体の財政

三 欧州防衛共同体設立の失敗

四 欧州経済共同体と欧州原子力共同体

(一) 欧州経済共同体と欧州原子力共同体の誕生

(二) EECの機関

(三) EECの財政

五 融合条約とECの設立

六 ECの制度確立期

(一) 固有財源の確立

(二) 財政における総会権限の強化

(三) EC会計検査院の設立

(四) 欧州通貨単位の導入

七 財政危機の進行

(一) 農業問題

(二) イギリス問題

八 ECにおける財政紛争

(一) 構成国による付加価値税の納入拒否

(二) 予算拒否権の発動

(三) 責任解除の拒否

(四) EC機関の、EC裁判所への提訴合戦

九 統合欧州議定書の制定

十 ドロールパッケージ

(一) 支出面での改革

(二) 収入面での改革

(三) 一九八八年EC財政改革

十一 マーストリヒト条約

[おわりに]

 

[はじめに]

 今日においては、欧州諸国の国内法を理解するには、欧州連合(以下、EUという)法を理解する必要がある。なぜなら、EU/EC法は次のような存在だからである。

「EC法秩序は、伝統的な国際法とは異なり、国内法秩序に組み込まれ、かつ基本条約がECに権能を与える分野においては、国内法に対して優位を保つ固有の法秩序である。」*1

 この結果、今日、EU加盟諸国の法制を正確に理解するには、EUがそれぞれの領域において、どのような立法を行っているかを理解しなければならない。したがって、欧州各国の財政や財政監督を理解しようと思えば、EUの財政や財政監督を理解している必要があることになる。

 今日のEUの強さは、その財政基盤が、国連のような他の通常の国際組織に比べてきわめてしっかりとしている点に理由がある。そのため、加盟国の意思をあまり忖度することなく、独自の政策を遂行できるからである。このような強固な財政基盤は一朝一夕に誕生したわけではない。EU財政法は、その発展の歴史の中で、本体をなす制度以上に激しい変動を経験してきている。その苦闘の果てに今日のEU財政制度があることを考えると、EUを理解するに当たって、その財政に関する歴史を知ることはきわめて重要であるということができる。しかし、EUそれ自体に関する発展と異なり、EU財政の発展に関する歴史は、これまでわが国ではあまり関心を寄せられていなかった。本稿がその欠落を補う上で、最初の基礎を築くことができれば幸いである。

 本稿の特徴として指摘しておきたいことは、本稿は研究の基礎をドイツ語文献によっているという点である。*2

 従来、我が国のEUに対する理解は、欧州経済共同体をEEC(ドイツ語だとEWG)、欧州共同体をEC(ドイツ語だとEG)という英語名称の略語で示すことに端的に示されるように、英語資料に依存して行われる傾向があった。しかし、EUは、その歴史から明らかなとおり、ドイツとフランスが中心となって設立され、運営されている組織であり、特に本稿が中心テーマとして取り上げている財政制度に関する限り、ドイツが圧倒的な影響力を有している組織なのである。これに対して、英国が加盟するまでは、英語は公用語ではなかったほどである。したがって、EU制度を正確に理解するには、ドイツ語かフランス語による資料を使用すべきであって、英語資料を使用することは誤りだといわざるを得ない。事実、日本でEU紹介に当たって使用されている用語の一部には、元のドイツ語に比べた場合、それを英語から重訳した結果発生していると思われる誤ったニュアンスが認められる。

 さらにEU研究に当たっては、用語レベルにとどまらない重大な問題性が存在する。なぜなら、英国は、一貫して欧州統合に参加することに消極的な傾向を示してきた国だからである。そのため、英国人の研究では、欧州統合の進捗そのものに対して否定的、あるいは悲観的な見方をする傾向が明確に存在する。そうした傾向のある資料に依存して行われてきた我が国のこれまでのEU研究が、その影響を受けないでいることは困難であろう。例えば一九九九年一月一日からEUは通貨統合に踏み切ったが、それに先行する時期において、我が国研究者の多くは、通貨統合の実現に懐疑的な姿勢を示していた。ここには、現在も通貨統合に参加していない英国の視点の影響が存在していたのではないだろうか。

 EUをドイツ語で研究するということは、かなり余計な負担が生ずることを意味する。例えば、これまでわが国で使用されていた訳語が、どのドイツ語に対応するものかを突き止めるだけでもかなり面倒なことであった。さらに、上述したニュアンスの誤りを感じたときに、正しいと思われる訳語を決定するためには、その一語の意味する制度それ自体を精確に把握する必要がある。この結果、英語に基礎を置いて研究する場合に比べて、作業量が相当増大した。しかし、それにも関わらず、そうあらねばならないと信じて行ったものである。

 ただし、先にEECに対してEWG、ECに対してEGという略語を例示したが、このように既に日本語化した用語までも、ドイツ語表記にしてしまっては、本稿で紹介した内容がかえって判りにくくなるかと思う。そこで、本稿では、ECなど、我が国で十分に馴染まれている略語は、そのまま英語表記のものを使用する。これに対して、これまでほとんど知られてこなかった財政や財政監督法に関して原語を示す場合には、ドイツ語を示すこととした。訳語についても同様に、相当程度一般化していると思料されるものは、誤訳に近いレベルに達していると認められるニュアンスの誤りあるものを除き、既存の訳語を使用するよう努力した。

 本稿を執筆するに当たっては、当初、EUの歴史に加えて、EU財政制度の現状を紹介する事を計画していた。しかし、紙幅の関係から、本稿では財政の歴史紹介にとどめ、現行制度の説明については別稿に譲ることとした。

 

一 欧州統合の動き

 古くから欧州統合の理想は、多くの人に叫ばれてきた。第二次大戦が欧州にもたらした惨禍は、欧州統合は単なる理想論ではなく、欧州の平和を確保するため必要欠くべからざるものであることを、多くの人々に認識させた。例えば、第二次大戦を通じてイギリスを指導した首相ウィンストン・チャーチルが、一九四六年にチューリヒで次のように演説したことは有名である。

「我々は、統合された一つの欧州を作り出さなければならない。そうすることによってのみ、幾百幾万の厳しい戦いをした人々が再び友となり、生きる価値のある人生を取り戻すことができるのである。」

 このような考えを受けて、この時期、順調に発展すれば、欧州統合の核になるかも知れないと思わせる多くの組織が誕生した。

 例えば一九四八年五月にオランダのハーグで開催されたハーグ会議がある。この会議はウィンストン・チャーチルを議長とし、欧州一六ヶ国から七五〇人の代表を集めて討議を行い、最終的に欧州諸国の経済的政治的連帯をうたう決議を行った。しかし、具体的に欧州連邦を作ろうとか、欧州憲法を作ろうという目的までは述べられなかった。

 同じ一九四八年には西欧同盟WEUが、そして一九四九年には欧州評議会CEが誕生した。これらの組織はいずれも、経済や文化の協力から集団自衛までを含む多角的な目的を有するもので、その運営のされようによっては、将来の欧州連合に発展する可能性を秘めていた。が、結局、今日に至るまで協力組織にとどまり、それ以上の発展を示さなかった。

 国家主権の特定の領域に関しての協力としては、経済分野では、欧州経済協力機構OEECが同じく一九四八年に、軍事分野では、北大西洋条約機構NATOが一九四九年に誕生する。が、前者は拡大発展して、経済協力開発機構OECDとなり、日本も加盟している世界規模の組織となってしまった。また、後者は、冷戦の激化のため、当初からアメリカが加盟する機構として発足した。このため、いずれも欧州統合の核とはなり得なかった。

 こうした一連の動きがいずれも実を結ばなかった中で、今日のEUに至った組織だけが、なぜ欧州統合の中核として今日まで発展することができたのであろうか。

 私が考えるところ、その原因の第一は、発足時の基本的な組織の枠組みによる差によるものである。すなわち、以上に紹介した組織は、あくまでも国家主権を尊重し、その主権国家間における協力体制という形で始まったものであるため、最後までどうしてもその枠から抜け出せなかった。それに対してEUに至る組織は、いずれも当初から、国家主権の上に立つ超国家組織として設立されていたのである。その分、欧州統合の中核となり易い性格を基本的に持っていた、ということができるであろう。

 第二の理由は、少なくとも当初においてイギリスを構成国に含んでいなかったことである。イギリスは、表面上欧州の一国という立場をとるが、本音では、欧州とは大陸を意味し、自分はその外に立つと考えがちであり、特に第二次大戦後の段階では、旧植民地、すなわち英国連邦諸国に対する責務の方を重視していたのである。このため、イギリスを構成員として含む組織は、その抵抗により、主権を大きく制限する方向に動くことが難しかったといえる。そのことは、イギリスがEUの前身に加盟してくるのは、その最初の動きから二〇年近く経った一九七三年のことであり、その後も、ことあるごとに欧州統合の推進に消極的な態度を見せていることからも明らかであろう。

 しかし、今日のEUに至る道は決して平坦なものではなかった。むしろ試行錯誤の連続という方が妥当であろう。以下、その足取りを簡単にたどってみたいと思う。

 

二 欧州石炭鉄鋼共同体

(一) 欧州石炭鉄鋼共同体の誕生

 フランスは、その歴史を通じて一貫して恐独症とでもいうべき傾向を示し、その解消手段として、常にドイツの内政に干渉して、その分裂、弱体化を図ろうとしてきた。ルイ一三世の宰相リシュリューが自分の信仰に反して行ったドイツ三〇年戦争への激しい干渉や、ナポレオン一世、ナポレオン三世によるドイツ侵略は、それを端的に示している。

 第一次大戦後のフランスのドイツ弱体化政策は、こうした恐独症的発想の延長線上にあるもので、それに普仏戦争及び第一次大戦の惨禍から来る復讐心が加わったため、きわめてサディスティックな形で実施された。ドイツがベルサイユ条約による厳しい賠償金支払いのために激しいインフレに悩み、米国や英国がその減額等を提案したときも、フランスは頑なに拒絶した。それどころか、賠償金の支払いが遅延したことを理由としてルール地方に軍を進駐させたこともある。このようなフランスの厳しい締め付けが、結果としてドイツでナチスの台頭を許す原因となり、ひいては第二次大戦の惨禍を引き起こすに至ったことは良く知られた事実である。

 第二次世界大戦後においても、当然の事ながら、当時のフランス政府の中には、ドイツを常に戦勝国フランスの足下に縛り付けておこうという意見が強かった。その意見によれば、第一次大戦後のベルサイユ体制によるドイツへの締め付けが不徹底だったからこそ二度目の戦争が起きたのだから、今度はより徹底的に締め上げねばならないということになる。例えばドイツから工業を完全に奪い、農業国にしてしまえ、といった発想がここから出てくる。

 これに対して、理性的な人々は、第二次大戦の勃発は、締め付けの不足ではなく、締め付けの過剰によって起きたと、正しく問題を把握していた。すなわち、フランスの復讐心に駆られた締め付けこそが、ワイマール共和国を崩壊させ、ナチスの勃興を生んだのであるから、ドイツに対する過剰な締め付けは、再び戦争の惨禍を引き起こすことになりかねないと説いたのである。しかし、では、締め付けに代わるどのような対策を導入したら、ドイツに対する恐怖を取り除くことができるのであろうか。

 この問題こそが、第二大戦直後のフランスが抱える最大の問題であった。しかも、西ドイツの戦後経済の復興は、ドイツ人の勤勉さのおかげで予想以上に早かったので、西ドイツが正式発足した一九五〇年の時点では、すでに問題は緊迫していた。

 解決策を考え出したのは、フランスの実業家、ジャン・モネであった。彼は、自分の考えをフランス外相ロベール・シューマンに受け入れさせるのに成功した。一九五〇年五月九日、シューマンは、後にシューマン・プランの名で広く知られることになる構想を、アメリカ、イギリス及びフランスの外相会談の席で発表した。

 すなわち、フランスとドイツが、両国の石炭と鉄鋼のすべてを、他の欧州諸国にも解放されている国際組織に属する機関の管理の下に置こうという案であった。今日では、一国の経済力はハイテクの技術力や石油の埋蔵量によって決まるが、第二次大戦直後の当時は、石炭の埋蔵量と鉄鋼の生産量がそれを決定していた。シューマン・プランが対象としているのは、名目上は両国のすべての石炭と鉄鋼であるが、真の狙いはドイツの石炭及び鉄鋼の支配である。第二次大戦前の一九三九年の時点でいうと、ドイツの鉄鋼生産量は約二〇〇〇万トン、それに対してフランスの鉄鋼生産量は六〇〇万トンという大変な落差があったからである。

 そこにある中心的な資源である石炭と鉄鋼を、独仏のどちらからも中立な機関で共同管理することにより、戦争の危険の一つを根本的に解消しようというのが、このシューマン・プランの狙いである。シューマンが、そのプランを宣言した中で行った次の発言は、そのことを明らかにしている。

「(両国の石炭や鉄鋼の)生産をこのような方法で結びつければ、フランスとドイツの間のいかなる戦争も、単に考えられなくなるばかりでなく、物質的に不可能になることは明らかである。」

 西ドイツとしても、戦後ドイツの平和と発展は、この、一方的な被害者意識から絶えずドイツの内政に干渉したがる厄介な隣人であるフランスとの友好にかかっていることは、百も承知していた。そこで、西ドイツ初代首相のコンラート・アデナウアも、これに積極的に賛同した。

 このアイデアに基づき、独仏に、ドイツと同じく敗戦国であるイタリア及び、独仏という二つの強国に挟まれたベルギー、オランダ(ネーデルランド)、ルクセンブルクの、いわゆるベネルックス三国が加わった計六ヶ国で、一九五一年四月一八日にパリで欧州石炭鉄鋼共同体ECSCを設立する条約が締結された。この条約は一九五二年七月二三日に発効した*。この組織は、欧州では正式名称よりもモンタユニオンMontaunionの名でよく知られている。しかし、日本ではあまりこの通称もECSCという略称も知られていないと思われるので、本稿では、以下においても欧州石炭鉄鋼共同体と呼ぶ。この日こそが、今日のEUに至る出発点である。

(二) 欧州石炭鉄鋼共同体の機関とその権限

 欧州石炭鉄鋼共同体は、当初から超国家機関として構想されたから、その組織は、国家の組織に類似したものである。すなわち当初、最高機関、総会、閣僚理事会及び裁判所の四機関より成り立っていた。

 1 最高機関Hohe Behorde

 執行機関、すなわち通常の国であれば行政府を、欧州石炭鉄鋼共同体条約は最高機関と呼んでいる(第八条以下)。これは委員会形式になっており、後には単に委員会と呼ばれるようになる。その委員になれるのは構成国の国民のみであり、また、一国から出せる委員は二名までとされる。当初、九名を構成員としていたから、ドイツ、フランス、イタリアが二名づつ、ベネルックス諸国が一名づつという構成だったことが判る。任期を六年とし、再任を認める。任命権は、それぞれの出身国が握っているのであるが、他国の賛同が得られないような人物ではまずいため、各国の委員に対する拘束力はかなり弱いものとならざるを得ない。そのため、委員達とその指揮下に活動する事務局スタッフ達は、その出身国の利害よりは欧州全体の利害を重視する、いわゆるヨーロッパ官僚へと化していく。これがその後のEUの特徴を作る母胎となっていくのである。初代の委員長には、この構想の真の生みの親、ジャン・モネが就任した。

 最高機関は、構成国の石炭及び鉄鋼の生産を指導、調整、監督する最高の機関である。本来は事務局に過ぎない機関が「最高機関」という名称を持っているのはこのためである。

 また、最高機関は、この権限を実施する手段として、限られた範囲であるが、立法権を有している。普通の国家でも内閣は政令制定権という形で立法権を有しているから、このこと自体は珍しいことではないが、当初の欧州石炭鉄鋼共同体の場合、最高機関の他に立法機関がないこと、およびその立法が構成国を直接拘束する、という点に特徴がある。条約は、最高機関の制定する立法を、その拘束力の程度に応じて、決定Entscheidung、勧告Empfehlung及び所信表明Stellungnahmeの三種に分類した(一四条)。

 決定は、構成国に対して直接の法的拘束力を持つ立法形式である。この、構成国に対する直接的な法的拘束力ある立法の存在こそ、欧州石炭鉄鋼共同体を、それまでに存在していた他の国際組織と区分する重要な点である。

 勧告は、その目的だけが法的拘束力を持ち、その目的をどのような法形式で実現するかは構成国の自由である。つまり構成国は、勧告に従う条約上の義務を有するが、構成国が適切と認める方法により国内法化の手続きを踏んで、始めて構成国内で拘束力を発揮する点で決定と異なるわけである。

 所信表明は、決定や勧告と異なり、法的拘束力を持たない。すなわち構成国は、これを尊重すべきではあるが、無視しても条約違反とはならない。

 2 閣僚理事会Ministerrat

 閣僚理事会は、構成国の閣僚一名づつで構成される機関である。後に設立されるEECなどでは単に理事会と呼ばれるようになる。閣僚理事会の長は構成国から順次選任され、六ヶ月の任期とされる。各国の選任順序は理事会の全員一致の議決で決定される(二七条)。

 この閣僚理事会という制度は、最高機関の暴走に対する恐怖から作られたものである。すなわち、当初、モネの構想では、欧州石炭鉄鋼共同体の機関としては、最高機関の外は裁判所だけが想定されていたのである。しかし、最高機関は、加盟各国の内閣と違って、議会の信任の上に成立しているわけではないから、そのままでは民主的コントロールが効かない。裁判所も、この民主的コントロールの不足を補うことはできない。これを欧州では「民主主義の赤字」と呼ぶ。これを解決する手段は二つ考えられた。一つは、次に述べる総会によるコントロールである。

 今ひとつが、この閣僚理事会である。閣僚は、各国政府を通じて、加盟各国の民主的コントロールに服しているからである。この閣僚理事会によるコントロールという方法は、ベネルックス三国には都合の良い方法といえる。大国も小国も、等しい発言権が保障されているからである。ベネルックス三国が共同して動けば、半分の票を確保できるから、後は独仏伊のいずれか一国の賛成を得られれば、閣僚理事会の大勢を制することができる。こうした思惑から、この制度が導入された。しかし、実際には、各国の利害が鋭く対立した結果、機能不全に陥ることが多かったのである。この結果、最高機関は、あまり閣僚理事会の掣肘を受けることなく活動することが可能になった。

 3 総会Gemeinsame Versammlung

 総会は、今日欧州議会と呼ばれている機関の前身である。これは、構成国の国民代表とされ(二〇条)、当初は各国の国会議員の中から選出されていた。人数は、ドイツ、フランス、イタリアが一八名づつ、ベルギー、オランダが一〇名づつ、ルクセンブルクが四名の、計七八名であった(二一条)。

 この構想は、ドイツが推進したものであった。ここでは構成国の人口が議員数に反映している分だけ、人口の多いドイツの意見が強く反映される可能性があるからである。そこで、ドイツは最初、この機関を立法機関としようとした。しかし、ドイツの意見に賛成する国はなく、総会の権限は、この条約の定める監督権に限られることになった。監督権のもっとも強力なものは、最高機関に対する不信任権である。総会には、毎年、共同体の活動に関する年次報告が提出される(一七条)が、その審議に際して総会が不信任を議決する権利が認められているのである。不信任を成立させるには、出席議員の三分の二以上で、総議員の過半数の賛成が必要である。不信任案が可決された場合には、最高機関の委員は全員辞職しなければならない(二四条)。

 このように、本来は、総会は最高機関の監督機関なのであるが、上述のように、閣僚理事会が機能不全に陥っている情勢を利して、モネ委員長は総会と結びつき、その意見を後ろ盾にして、積極的に活動しようとした。これにより民主主義の赤字という批判を回避しようとしたわけである。こうして、最高機関により持ち上げられた結果、総会の権限は実質的には徐々に増大していったのである。これが後の欧州議会への発展を生み出すことになる。

 4 裁判所Gerichtshof

 裁判所の存在は、欧州石炭鉄鋼共同体の、立法と並んで非常に特徴的な点である。普通の国際組織であれば、その機関相互間や構成国相互間で紛争が生じた場合には、理事会や総会などを中心に話し合いで解決するが、欧州石炭鉄鋼共同体の場合には始めから裁判所が、条約に関して発生する紛争の解決機関として設けられていた(三一条)。

 裁判所は七名の裁判官によって構成され、任期は六年とし、再任を認める。ただし、裁判所としての継続性を確保するため、最初は、四名については六年、三名の裁判官については任期を三年とした(三二条)。

(三) 欧州石炭鉄鋼共同体の財政

 欧州石炭鉄鋼共同体は、超国家機関であるが故に、その財政は、構成国の分担金に依るのではなく、機関独自の財源を持つべきであると考えられた。すなわち、普通の国際機関のように構成国の分担金に頼るのは、不適当と考えられた。今日、国連が、米国等の分担金不払いのため不安定な運営を強いられていることから考えても、これは非常に先見の明のある発想といえるであろう。そして、その独自の財源としては石炭及び鉄鋼の生産に課される鉱業税及び貸付金からの収入とされた(四九条)。

 そして五〇条に依れば、鉱業税収入は欧州石炭鉄鋼共同体の各機関の支出(七八条)及び石炭・鉄鋼産業の新技術開発のための補助金支出(五六条)に当てられることとされている。また、財政的に可能であれば、貸付等(五四条以下)も行えるとされている。

 なお、構成国のいずれかの通貨を単位に財政運営を行うと、その国に有利になるおそれがある。そこで、欧州石炭鉄鋼共同体では、この当時、米国ドルを単位として運営していた。

 1 予算審議

 欧州石炭鉄鋼共同体は、したがって二つの予算を持つことになる。その構成機関の運営のための予算と、補助や貸し付けのための予算である。

 前者は、この時点では「行政支出に関する一般的予定allgemeine Haushaltsvoranschlage fur Verwaltung」という名称で呼ばれていた(当初の七八条三項参照)が、今日では「行政予算Verwaltungshaushaltsplan」と呼ばれるようになっている。予算作成の手続きも、この当時は今とかなり違っている。どのような変遷を経て今日の姿になったのかを知るためにも、ここで当時の制度を紹介しておく。正式の名称は前述のとおり長いものなので、以下便宜上、単に「行政予算」という。

 行政予算案は、最高機関、諮問委員会、裁判所、総会事務局及び閣僚理事会事務局がそれぞれまず作成することとされていた。その後、各機関の事務局長で作っている予算委員会が取りまとめて行政予算案を作成する。ただし予算総額を、固有の財源から得られる歳入相当額に一致させる権限と義務は、予算委員会ではなく、最高機関に属していた。

 行政予算案は、最高機関から共同体の活動をまとめた年次報告の一部として総会に提出される(一七条)。したがってこの当時は、総会としては予算を全面的に承認するか、最高機関を不信任するかの選択権しかなかったことになる。

 しかし、この行政予算は、人件費など機関活動に必要なものだけをカバーしていたものである。欧州石炭鉄鋼共同体の支出の大半及び収入のほとんどは、これには含まれていなかった。欧州石炭鉄鋼共同体がその政策を実施するのに必要な財政資金は、通常、欧州石炭鉄鋼共同体の「機能予算Funktionshaushaushaltsplan」と呼ばれるものによって予算化されていた。これについては、石炭及び鉄鋼の売上額の一%未満にとどまる限り、最高機関は、他の機関から何ら干渉されることなく、自由に使用することが許された。これは非常に大きな額で、事実上、最高機関は財政についても文字通り最高の権限を持つ機関として活動することが可能であった。

 2 決算検査

 予算が存在すれば、それに対する会計検査が必要であることは当然である。欧州石炭鉄鋼共同体条約七八条六項は、外部監査について次のように規定している。

「閣僚理事会は、三年を任期として会計検査者を選任する。会計検査者は再任されることができ、その活動は互いに完全に独立してなされる。会計検査者の職は、共同体の他の職務と兼任することはできない。会計検査者は、各機関の簿記及び財政管理の合規性に関して、毎年報告を提出する〈中略〉。最高機関は、一七条に定める年次報告と同時に総会にこの報告を提出する。」

 欧州石炭鉄鋼共同体がEUの出発点である、というのと同じ意味において、この会計検査者は、今日のEU会計検査院の出発点ということになる。しかし、この段階では独任制のもので、会計検査院のような組織体ではなかった。また、その権限も合規性に限定されているなど、非常に初歩的な存在であった*4

 

三 欧州防衛共同体設立の失敗

 シューマン・プランは、欧州石炭鉄鋼共同体の設立目的を、上述のとおり、戦争の危険の回避とし、また欧州統合の第一歩と位置づけていた。したがって、その設立に次ぐ第二の活動は、当然軍事共同体への発展であるべきである。実際、一九五〇年に勃発した朝鮮戦争は、欧州においても冷戦が熱い戦争に発展する可能性を示しているものとして、強い危機感を欧州諸国にもたらした。そこで、共同体構成諸国は、欧州石炭鉄鋼共同体がまだ稼働を開始する前の一九五二年五月には、すでに欧州防衛共同体の設立へ向けて動き出した。超国家的な欧州軍を設立し、この中にドイツ軍を取り込むことにより、東からの脅威に対して欧州を防衛するに当たり、ドイツの軍事力を活用しつつ、ドイツ軍そのものが欧州に危機をもたらす危険をなくそうという構想である。

 しかし、この構想は、時間に追われて作成されたため、現実性に乏しいものであった。その上、フランスとドイツの軍事共同体という理念は、まだこの段階では、フランス国民一般の理解を得るのは困難であった。つまり、ドイツの主権が欧州軍に及ばなくなる代償として、この条約はフランスの主権がフランス軍に及ばなくなるということも要求していたからである。他のすべての共同体構成国がこの条約を批准したにも関わらず、一九五四年に、フランス議会がこの条約の承認を拒絶したことから、この構想は最終的に挫折した。

 この軍事共同体の役割は、西ドイツがNATOに一九五五年に加盟することにより、NATOを通じて実現されていくことになる。欧州の防衛にドイツ軍を寄与させることは、何も超国家的な欧州軍というようなものを設立しなくとも、軍事同盟さえ作り上げれば可能であったからである。

 この問題が、ふたたびEUで問題になるのは、マーストリヒト条約の次の条約として一九九七年一〇月に締結されたアムステルダム条約まで待たねばならない。同条約は、本稿を執筆している時点ではまだ発効していない。

 

四 欧州経済共同体と欧州原子力共同体

(一) 欧州経済共同体と欧州原子力共同体の誕生

 欧州石炭鉄鋼共同体構成国は、しかし、軍事共同体設立の失敗にめげることなく、いや、むしろそれにより欧州統合が後退することに対する危機感を抱いて、それに代わる方策を積極的に模索することになる。一九五五年にメッシナで開かれた外相会議は次のような声明を発表した。

「(我々は)欧州を建設するために、次の段階に着手すべきであると考える。それは、経済の領域でなされなければならない。それは統一された欧州を作り出すための方策としてなされなければならない。それは、共同組織を発展させることを通じて、共同の市場を作り出すことを通じて、そして各国の社会政策を調和させることを通じて行われねばならない」

 もっとも、この素晴らしい声明の陰には、実は大きな対立が存在していた。フランスは、欧州石炭鉄鋼共同体と同じ様な形で分野別の統合を一歩一歩進めていくのが良いという考えで、その中でも特に欧州原子力共同体を設立することが、フランスにとり、独自の核技術開発への刺激ともなることから好ましいとした。

 これに対してオランダは、ガット及びOEECの枠内で通商政策の自由化への努力こそが必要であると主張した。これに他のベネルックス諸国も賛同し、ドイツ及びイタリアも支持したが、フランスは自らの立場を譲らなかったので、対立は解けなかった。結局、ベルギーのスパーク外相の下に調査グループを設立し、検討するということで、この時の会議は終わった。

 翌一九五六年にスパーク報告が出されたが、いかにも老練の政治家のまとめたものらしく、その内容は、両方とも行えばよいというものであった。その結果、一九五七年にローマで調印された条約で設立されたのが欧州経済共同体EECと欧州原子力共同体EURATOMである。

 特に、このEECは、その後の欧州統合の基盤として活躍することになり、今日のEUにつながることになる。EECというアイデアの優れている点は、政治統合とは切り離した形で、経済統合だけをまず実現しようとした点にある。両条約は一九五八年一月一日に発効した。EECの行政機関である委員会の委員長には、ドイツを代表してこの交渉に一貫して積極的に取り組んできたワルター・ハルシュタインが就任した。

 しかし、EECの目指した道は決して平坦なものではなかった。EECは欧州評議会のような国家間の存在ではなく、超国家機関であることを目指していたから、後にイギリスが中心となって作られるEFTAのような自由貿易ゾーンを作り出すだけでは不十分であった。EECが第一の目標としたのは関税同盟の設立であった。つまり、構成各国の関税高権をEECの手に集め、EEC内部での関税を撤廃し、EEC構成諸国と第三国との間の貿易において課する関税をEECが一元的に決定するという方式である。

 これには様々な問題があった。国内産業を保護するためにフランスが設定しているかなり高い関税や、イタリアの比較的高い関税に合わせれば、戦前のブロック経済の復活となって、ガットの自由貿易主義に違反することになる。おりしも、ガットではケネディラウンドを決定し、関税を一般的に引き下げることを目指していた。したがって、EECは、かなり低い関税で出発しなければならなかった。

 また、フランスの場合、旧植民地諸国との間で特恵関税条約を結んでいたが、EECによる関税同盟が作られれば、それらの諸国は垣根の外に置き去りにされることになる。このような旧植民地の切り捨ては、英連邦諸国との結びつきを重視するイギリスが、もっとも嫌うところであり、同国がこの時点でEECへ参加しようとしなかった理由であった。

 この点で、ローマ条約は、現実的な選択をしていた、と言える。それは最終的な欧州単一市場の設立をがっちりと定めているのではなく、構成諸国間の密接な結びつきを深めていくための方法を示していたに過ぎない、という点である。条約がまず作ろうとしているのは共同市場を支配するための法的、制度的原則であるに過ぎない。それと同時に、超国家機関としてEECがさらに発展していくための可能性を開いていた。すなわち、欧州石炭鉄鋼共同体と同様に、EECは、必要に応じて、構成諸国を拘束する立法権を保有することとしたのである。

 また、域内における関税の撤廃は、国により格差の著しい農業に激しい打撃を与えるおそれがある。これについては、かなり意欲的な対策が当初、検討されたのである。が、最終的に採用されたのは、過剰生産を構造化させ、EECばかりでなく、その後身のECやEUに厳しい財政危機をもたらす原因となる、保護主義と補助金を組み合わせた政策となった。

(二) EECの機関

 EECの機関も、欧州石炭鉄鋼共同体と同じく、この時点では四つである。条約の編成順に取り上げれば、総会、理事会、委員会及び裁判所である。*5

 1 総会Versammlung

 総会は、欧州石炭鉄鋼共同体及び欧州原子力共同体の総会という地位も兼ねた組織が、共通に一つだけ設立されることになった。欧州石炭鉄鋼共同体だけの当時と同じく、構成各国の国会議員の中から選出された者で構成される(一三七条)。ただし、議員数は大幅に増員され、ドイツ、フランス及びイタリアが各三六名、ベルギー、オランダが各一四名、ルクセンブルクが六名の、計一四二名とされた(一三八条)。つまり、大国は倍増されたのに対してルクセンブルク三国の議員数の増加は制限されたから、欧州石炭鉄鋼共同体に比べて大国の意思が通りやすい構造に変わったといえる。権限としては、欧州石炭鉄鋼共同体では監督権Kontrollbefugnisseだけであったのに対して、助言権Beratungsbefugnisseが付け加わった(一三七条第二文)。しかし、その有するもっとも強力な権限が、委員会に対する不信任決議権であることは変わらない。

 2 理事会Rat

 EECの理事会は、欧州石炭鉄鋼共同体の閣僚理事会とは別個に組織された。名称から閣僚という言葉が落ちて、単に理事会という名称に変わったが、その実態が、構成各国政府の、閣僚レベルの代表者各一名で構成される機関という点においては、欧州石炭鉄鋼共同体と変わりがない。しかし、その権限面では大きな変化がある。欧州石炭鉄鋼共同体が、石炭・鉄鋼産業の共同管理を目指していたため、最高機関の権限が強く、閣僚理事会の権限が条約上、今一つはっきりしなかったのに対して、EECは、経済協力という政治レベルの問題を中心としているため、理事会がその主役の座に躍り出てきたのである。一四五条は次のように述べている。

「本条約の目標を実現するため、

・理事会は、構成国の経済政策を一致させるため配意する。

・理事会は、決定権を有する。」

 また、欧州石炭鉄鋼共同体のように全会一致性を採用していては、一国の反対でEEC全体が機能不全を起こすことから、決定を下すに当たっては原則的に多数決原理を導入した(一四八条一項)。しかし、国の規模を完全に無視するのは不合理なので、条約で特に明記した特定の事項については、総会同様に各国の投票権に差を付けることとした。すなわち、ドイツ、フランス、イタリアは各四票、ベルギー、オランダは各二票、ルクセンブルクは一票の計一七票とし、原則として一二票以上の賛成を必要とすることにした(二項)。この方式を、特定多数決qualifizierte Mehrheitと呼ぶ。

 EECとして構成国に対して制定する法規範は、欧州石炭鉄鋼共同体とは用語及びその意味を若干変更している。すなわち、規則Verordnung、指針Richtlinie及び決定Entscheidung、勧告Empfehlung及び所信表明Stellungnahmeである(一八九条)。

 規則とは、一般的な法的効力を持ち、各構成国において、国内法として直接拘束力を持つ。これに対して決定は、特定の問題に向けられた規範であるという点で規則と異なるが、直接的法的拘束力を持つという点では同一である。

 指針とは、その目的だけが拘束力を持ち、構成国内において国内法化して始めて、各国内で拘束力を持つ。

 勧告及び所信表明は、法的拘束力を持たない。

 欧州石炭鉄鋼共同体では、こうした規範を制定できるのは、最高機関であったが、EECの場合には、理事会と委員会の双方が制定権を持つ。

 理事会の決定権に関して特に重要なのが、二三五条である。

「共同市場の枠内でその目的を実現するために共同体の活動が必要と認められる場合において、この条約でそのために必要な権限を予定していない場合には、理事会は、委員会の提案に基づき、総会の意見を聴取した後、全会一致で必要な規則を定めることができる。」

 これにより、理事会が共同体の立法機関として活動できるわけである。この規定は、マーストリヒト条約では同じ二三五条で、またアムステルダム条約では三〇八条として、定められている。

 この二三五条による一般的な授権は、事実上の白紙委任と言えるから、問題がないわけではなく、これまでも多くの批判にさらされてきた。特に大きな問題が次の二点である。第一に、理事会は、構成各国の議会あるいは欧州議会の同意を得ることなく、共同体に新しい活動を行うように授権することができる。これは民主主義的基礎を欠いているといえる。この点については、様々な点で総会、すなわち現在の欧州議会の権限が拡大される方向に推移してきている。第二に、ドイツのような連邦国家の場合、各州は、本来なら権限を有する事項について発言する機会を与えられることなく、共同体の規則に拘束されることになる。これは連邦主義に反するといえる。

 3 委員会 Kommission

 委員会は、理事会と同様、欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関とは別個に組織された。しかし、九名の委員で構成されるなど、組織面では欧州石炭鉄鋼共同体と特に違いはない。しかし、EECは特定の管理対象を持たないので、一五五条で、その権限は次のように定められている。

「 共同市場の秩序正しい運営及び発展を確保するため、委員会は次の業務を行う。

・この条約、及びこの条約に基づき各機関が決定する規定の適用を監督し、

・この条約に明文の規定がある場合、もしくは委員会が必要と認めた場合に、この条約の対象になる領域に関して勧告もしくは所信表明を行い、

・この条約に従い、独自の権限に基づき、決定を行い、理事会及び総会の議決の成立に協力し、

・理事会が公布した規定の実施のため、理事会より与えられた権限を行使する。」

 したがって、委員会の権限に関する限り、欧州石炭鉄鋼共同体よりも若干後退していることになる。すなわち、欧州石炭鉄鋼共同体では最高機関は立法機関と行政機関を兼ねたような存在であったのに対して、EECでは理事会が立法機関となり、委員会は行政機関となって、権力の分立が誕生したのである。

 4 裁判所Gerichtshof

 裁判所に関しても総会と同様に、欧州石炭鉄鋼共同体及び欧州原子力共同体と同じ機関が、EECに関しても裁判所として機能することになった。

(三) EECの財政

 EECでは、欧州石炭鉄鋼共同体と異なり、当初、従来の普通の国際組織と同じく、基本的には各国が負担する分担金により財源を賄う方式を採用した。分担比率は、ドイツ、フランス、イタリアが各二八%、ベルギー、オランダが各七・九%、ルクセンブルクが〇・二%である。

 ただし、社会福祉のために、同時に別個、欧州社会基金が設立されたが、それに対する出資比率は、ドイツ、フランスが各三二%、イタリアが二〇%、ベルギーが八・八%、オランダが七%、ルクセンブルクが〇・二%とされた(二〇〇条)。これは一人あたりの国民所得が低いイタリアやオランダに配慮し、その分、ドイツとフランスが多くを負担するという方式をとったためである。

 ただし、委員会はこの分担金方式を、特に関税同盟として共通関税が導入された場合、どのような条件の下でなら、EEC固有の資金によって、賄う方式に切り換えることができるかを調査することとされた。そして、そうした案ができれば、理事会は、総会の意見を聴取した後、加盟各国に憲法レベルでの勧告を行うことが予定された(二〇一条)。

 なお、財政運営を、欧州石炭鉄鋼共同体だけの時は、米国ドルで行っていたことは先に紹介したとおりである。しかし、欧州の復興を目指すEECの財政が米国ドルで運営されるのは、少々おかしな気がする。そこで、一九五八年からは、ちょうどブレトンウッヅ体制がスタートしたこともあって、〇.八八八六七〇八八gの金の交換価値を法定平価とすることになった。

 1 予算編成過程

 予算案を当初、各機関が策定することは、欧州石炭鉄鋼共同体と変わらない。しかし、委員会がそれを一元的に取りまとめることとなった。

 会計年度は暦年とされている。委員会は、とりまとめた予算案を、理事会に、前年度の九月三〇日までに提出する。理事会は、その予算案を変更したいと考えた場合、委員会及びその他の関係機関と協議する。理事会は、特定多数で予算を議決した後、遅くとも一〇月三一日までに総会に提出する。

 総会が、一ヶ月以内に予算を可決するか、理事会に対して何らの所信表明を行わない場合には、予算案は最終的に確定する。総会が、この期間内に修正を提案した場合、修正された予算案が理事会に差し戻される。理事会が、それに対して委員会及び他の関係機関からの助言を受けた上で、特定多数で可決すると、予算は最終的に成立する(二〇九条)。

 すなわち、欧州石炭鉄鋼共同体に比べると、理事会及び総会の財政権限が増大していることが判る。この結果、会計年度開始時に予算が依然不成立という事態が起こることが想定されることになる。そのような事態が発生した場合には、委員会は、毎月、前年度予算の一二分の一を限度として予算を執行することが許される(二〇四条)。

 2 決算検査

 決算検査に関しては、二〇六条に、欧州石炭鉄鋼共同体に比べると、非常に詳細な規定がおかれた。

 それによれば、すべての収入、支出の決算は、監督委員会Kontrollausschusによって検査されることとされた。監督委員会は、会計検査者によって構成され、独立性が保障される。監督委員会委員の一名が委員長となる。委員及び委員長は、いずれも理事会から全会一致により、五年の任期で任命される。議事は全会一致で成立する。その報酬は、理事会の特定多数により決せられる。

 検査に当たっては、計算書類を直接見ること及び必要があれば実地検査を行うことが保障された。また、検査の観点としては、収入・支出の合規性及び数額的正確性を確定することのほか、財政運営の経済性が明記された。各会計年度の終了後、監督委員会はその構成員の過半数の賛成により、報告書を作成する。

 委員会は、理事会及び総会に毎年、前年度の決算を、監督委員会の検査報告書とともに提出する。また、委員会は、さらに資産及び負債の概要も提出する。

 理事会は、特定多数決により、委員会の財政運営を免責する。この免責決議という方式は、ドイツで連邦議会が連邦政府の財政運営を免責する、という方式を、そのままEECに持ち込んできたものである。また、理事会は、その決議について、総会に報告する。

* * *

 欧州原子力共同体は、組織や財政に関しては、EECとまったく同一の規定となっている。すなわち、総会と裁判所は共通の機関であり、これに対して理事会と委員会は別個の機関として存在している。構成員の数などは一緒である。

 

五 融合条約とECの設立

 このように、三つの共同体が設立され、共通の二機関と、それぞれに固有の二機関を持っていた。が、実際には、固有の機関でも多くの場合に同一の人物がそれぞれの機関の構成員として活動していた。そこで、一九六五年四月にルクセンブルクで締結された条約により、この三つの共同体の固有機関を一体化するということが本決まりになった。それが、「欧州共同体の共同の理事会及び共同の委員会を設立する条約Vertrag zur Einsatzung eines gemeinsamen Rates und einer gemeinsamen Kommission der Europaischen Gemeinschaften」という非常に長い名前の条約である。通常、単に「融合条約」と呼ぶ。

 往々にして誤解されるが、三つの共同体を一つに統合したわけではない。三つの共同体の機関を同一のものにしたのである。しかし、実際には、あたかも単一の共同体が生まれたのと同様の効果を有した。この三共同体の総体を、融合条約は欧州共同体ECと呼んでいた。

 なお、念のため付記すれば、今日のマーストリヒト条約の下のEUにおいても、これら三組織は依然として存在している。というより、同条約においては、EUそれ自体は法人格は持たず、法人格を有するのは、これら三組織だけであるから、EUが主体となって法律行為を行おうとする場合には、三組織のいずれかが今日も名義人となって現れ、EUではない。それでもEUは、それを設立する正式の条約が存在しているわけであるが、ECの場合には、ECを設立しようという条約はなく、単に三組織の機関を統合する、という条約が存在するだけなのである。

 融合条約は、同時に財政について若干の改革を行い、その第三章に規定をおいている*6

 融合条約は、EEC、欧州石炭鉄鋼共同体、欧州原子力共同体の三共同体の予算を原則として「欧州共同体予算Haushaltsplan der Europaische Gemeinschaft」という単一の予算に統合した(二〇条)。しかし、欧州石炭鉄鋼共同体機能予算等、従来から別に予算を建てられていたものは、そのまま残った。

 したがって、三機関の予算の制定に関する規定も、この時初めて統一されることになった。それに合わせて規定内容も修正が行われ、欧州石炭鉄鋼共同体七八条が、EEC条約二〇三条及び欧州原子力共同体条約一七七条とほぼ同一の文章に修正された。すなわち、欧州石炭鉄鋼共同体においても、最高機関が九月三〇日までに理事会に予算案を提出するべきこと、及び総会が予算案の修正提案権を有することが認められたのである。

 決算検査に関しては、従来EEC及び欧州原子力共同体の外部監査機関であった監督委員会が、EC監督委員会とされ、欧州石炭鉄鋼共同体についても検査することになった(七八条のd)。ただし、従来からあった会計検査者制度は廃止されなかったので、欧州石炭鉄鋼共同体は二重に外部監査を受けるということになった。この間の事情については資料が見あたらず、なぜこのような奇妙な妥協が行われたのかは、よく判らない。

 

六 ECの制度確立期

 欧州共同体ECは、当初から政治的な共同体へと発展することが期待されていた。しかし、ECにおける、ドイツと並ぶもう一つの大きな柱であるフランスは、ドゴールの登場とともに、ECに対する態度を大きく変えた。国家主権を失うことに対して強い抵抗を示し、あくまでも経済統合のレベルにとどめようとしたのである。フランスの意思を厳然と示すため、ドゴールの命によりフランス代表は、一九六五年に、融合条約が締結された後になって、半年以上も理事会を欠席するという挙に出る。フランスがECの理事会に復帰したのは、国益に関する重要事項については、EEC等の条約の規定にも関わらず、全会一致性をとるという妥協(ルクセンブルクの妥協と呼ばれる)を慣行として成立させることに、成功してからのことである。

 このフランスの抵抗のため、六〇年代後半から七〇年代にかけて、欧州の統一という観点から見た場合、ECは、余り目立った変化を示さなくなる。そのため、ECの研究者は、この時期をECの停滞期と呼んだりする。

 だが、これは誤りというべきであろう。確かに見た目の派手さはない時期かも知れない。しかし、実は今日、我々がEUの特徴として認識している諸制度のほとんどは、この時期に誕生してくるからである。

 そして、EC構成各国の経済は、この時期、共同体がもたらした力により、大きな飛躍を遂げることになる。その魅力に負けて、一九七三年には、イギリス、アイルランド及びデンマークの三国がECに加入してくる。特にイギリスの場合、その国際的威信の源というべき英連邦諸国を切り捨てての加盟なのであるから、ECというものがこの時期持っていた魅力がどれほどのものかが判ると思う。それほどの魅力を発揮していた時期を停滞期というのが妥当でないことは確かである。

(一) 固有財源の確立

 EECと欧州原子力共同体が、欧州石炭鉄鋼共同体と異なり、固有財源ではなく、構成各国からの分担金により財政を賄う方式でスタートしたこと、しかし、将来固有財源方式に切り替えることが予定されていたことは、前に紹介した。一九七〇年四月の理事会決定により、ようやく一九七一年から固有財源へ切り替えることが実現したのである。

 固有財源は、この時点では、関税Zolle、農業課徴金Agrarabschopfungen及び付加価値税Mehrwertsteuerという三つの要素より成り立っていた。

 EECは、関税同盟であるから、域内においては関税はない。その結果、EC諸国への輸入は、一番便利な陸揚げ港であるオランダのアムステルダムに集中することになる。したがって、アムステルダム港での域外からの輸入に課せられる関税収入をオランダの所得とするのは理屈に合わないのである。そこで、それをすべてEECの収入とする、ということにしたわけである。ちなみに、ドイツ基本法によると、関税収入は連邦の収入になるとされているから、このEC決定は基本法に抵触する。しかし、それが問題とされないという意味において、EEC条約が超憲法的存在であることがよく判る。

 農業課徴金というのは、域外からの安い農産物に押されて、域内の農業が衰退することを防ぐため、所定の水準より安い域外農産物に課する付加金である。わが国と同様に、欧州諸国においても農業については強力な保護政策を採ってきた。このため、農産物に関しては、単純に関税を廃止しただけでは、その自由流通を確保することにはならない。そこで、EECでは、六〇年代半ばにその構成国ごとの農業保護政策を一切廃止し、EECレベルにおける統一的な農産物価格支持政策を導入した。農産物の統一価格は、平均的な農民に妥当な所得を保障することを目途に設定される。そして、この統一価格を指示するため、EECの手により、域内では支持価格による無制限買い上げを実施するとともに、域外から流入する農産物については、支持価格との差額を農業課徴金という形で徴収することにしたのである。EEC域内各国の農業生産力は、米国やカナダに比べるとかなり低かったので、支持価格は世界市場での実勢価格に比べ、かなり高額であった。その実勢価格と支持価格の差額の合計が農業課徴金収入となる。したがって、農業課徴金収入は巨大な額になる。この統一農産物価格支持政策はECになってもそのまま引き継がれたから、農業課徴金をECの固有財源の一つにするというのは理屈にあっている。一種の関税と考えることができるであろう。

 実をいうと、この農産物価格支持政策こそが、この時点で固有財源を生み出したということができる。すなわち、この時点では、EC予算の大半は農業支出で占められていた。しかし、この制度の恩恵に浴することができるのは全構成国ではない。マクロで見れば、農業国であるフランスとオランダの受取額を、工業国である西ドイツ、イタリア、ベルギーの三国が負担しているという構造であった。その代わり、工業国側は拡大した市場による利益を受けられる、という理屈なのであるが、そうした背景的利益はただちには見えない。そこで毎年、予算の決定時には理事会が紛糾するのは避けられない。こうした紛糾に構成国の全てが疲れ果てていたので、固定財源を導入するという方向に話がまとまったわけである。

 しかし、この時期、ガットのケネディラウンドにより、関税収入が大幅に切り下げられていた。他方、上述の統一農業政策のおかげで、ECの支出額は急激な膨張を示していた。その結果、これら二つの収入だけでは、ECの財政を賄うほどの巨額には決してならない。そこで、さらに構成各国が導入している付加価値税の一%を、ECの固有財源として徴収する方式を導入したのである。もちろん、このためには付加価値税が各国で共通の制度となる必要がある。そこで、様々な特則がこの際には設けられた。付加価値税制の統一は、一九七九年に従来からの六カ国で、一九八〇年には新規加盟の九カ国でも完了したので、以後、独自財源体制が確立することになる。

(二) 財政における総会権限の強化

 前節までに紹介したように、これまで総会は、欧州石炭鉄鋼共同体においては単なる監督権、EECと欧州原子力共同体においても監督権と助言権を有するだけで、実質的な権限を有していなかった。

 この時期に、EC三共同体の基本条約及び融合条約の修正条約という形で、予算及び決算に関する規定に見直しが加えられていく(予算条約と呼ばれる)。その結果、総会が財政権を有することが明確に認められた。これにより、財政権を有する機関は、総会と理事会の二つになった。

 総会の財政権拡大は、一九七〇年の予算条約による第一次拡大と、一九七五年の予算条約による第二次拡大があるが、比較的短い間隔を置いての権限拡大であるから、ここでは便宜上一体的に説明し、ポイントとなる箇所だけ、第一次か、第二次かを区分することとする。なお、欧州石炭鉄鋼共同体では、依然として委員会ではなく最高機関という名称が使われているが、以下では便宜上、三機関に共通して、委員会と呼ぶことにする。

 1 予算編成過程の改革

 ECの各機関は、その行政支出に関する予算原案を前年度の七月一日までに策定し、委員会がこれを取りまとめて、単一の予算案を作成する。ただし、委員会で予算原案を変更したい場合には、修正案を添付することができる。委員会は、理事会に予算案を遅くとも九月一日までに提出する。

 理事会は、予算案を変更しようとするときは、委員会その他関係各機関の意見を聴取する。理事会は、特定多数決により予算案を可決し、一〇月五日までに総会に提出する。

 総会は、条約上もしくは条約の根拠に基づいて制定された法規範に基づき支出が義務づけられている経費(以下、「義務的支出obligatorische Ausgaben」と呼ぶ)については、絶対多数で、理事会に対し、修正を提案できる。

 つまり、義務的支出については、総会が有するのは修正提案権にとどまるから、差し戻された予算案について理事会がそれを受けるか、特定多数で拒否するか再修正すれば、この部分に関する限り、それで予算は確定することになる。

 これに対して、行政予算案など、義務的支出以外の支出(以下、「非義務的支出nichtobligatorische Ausgaben」と呼ぶ)については、総会は単純多数により修正することができる。すなわち、総会が予算案受理後四五日以内に賛成の決議を行えば、最終的に確定する。総会がこの期間内に修正を行わなかった場合にも、予算は最終的に確定する。総会が、この期間内に修正を行った場合には、当該修正個所は、理事会に差し戻される。

 理事会は、総会の修正を、特定多数決により再修正することができる。理事会が一五日以内に非義務的支出に関する総会修正内容を修正しなかったり、受け入れた場合には、この段階で最終的に確定することになる。これに対して総会修正を再度修正したり、総会修正を拒否した場合には、予算案は、再度総会に提出されることになる。

 総会は、受領後一五日以内に、総議員の過半数以上で、出席議員の五分の三以上の多数で、理事会の修正を拒否、もしくは再修正することができる。その場合、これで予算は確定することになる。それに対して、この期間内に、総会が何の決定もしなかった場合には、非義務的支出は、理事会案の通りに確定することになる。

 上記を要約するならば、義務的、非義務的いずれの支出に属する場合にも、予算審議の過程において、総会と理事会の両者が修正する権利を有しているわけである。ここに、この二つの機関が財政権を有するといわれる根拠がある。そして、義務的支出の場合には、総会は修正提案ができるだけで、最終的な決定権は理事会にあること、これに対して非義務的支出の場合には、最終的決定権は総会にあることになる。むしろ正確に言えば、どちらが最終決定権を有するかにより、歳出を二つに分類した、ということができる。この概念は、限界的な場合には、内容が必ずしも明確ではないので、時にどちらに属するかが問題となったりする。

 一九七〇年の予算条約では、義務的支出に関する予算と非義務的支出に関する予算とは別々のものと認識されていたから、別個に予算は成立していた。が、一九七五年の予算条約で、予算の一体性が確認された。その結果、総会が非義務的支出を問題として予算を否決すれば、予算全体が成立しないことになった。

 このように総会の予算権限が非常に強化されたが、それとともに増額修正権の限界が問題となった。EC構成国では、一般に財政に関する行政府の力が強い。例えば英仏では議会に増額修正権はなく、ドイツの場合にも厳しい制約がある。そこでEC総会の財政権にも制約を課するのが適当と考えられたのであろう。その結果、総会の増額には上限を決めることになった。すなわち、二〇九条九項は次のように定めている。

「@ この条約又はこの条約に基づいて採択された決定により必然的に生ずる支出を除くすべての支出額については、現年度中の同種の支出を上回ることのできる最高率が毎年度定められる。

A 委員会は経済政策評議会及び財政政策評議会と協議の上、次の要素に基づき右の最高率を定める。

 ー 共同体の国民総生産の量的変動

 ー 構成国の予算の平均変動率

 ー 前会計年度における生活費の動向

B この最高率は、五月一日までに共同体の全ての機関に通告される。各機関は、予算手続上本項第四段及び第五段に定める場合を除き、この最高率に従わねばならない。

C この条約あるいはこの条約に基づいて採択された決定から必然的に生ずる支出以外の支出に関し、理事会が確定した予算案における実際の増加率が、この最高率の半分を超えるときは、総会は、その修正権を行使して当該支出の総額を、なお最高率の半分を限度として増加することができる。

D 総会、理事会あるいは委員会が共同活動の必要上、本項で定められた手続により決められた増加率を上回る支出が必要と考えた場合には、理事会と総会の間の合意により、新しい増加率を定めることができる。この場合、理事会は特定多数決により決定する。」(○付きの番号は見易いように私が付したもので、原文にはない。)

 少々複雑な規定であるが、この中で、二つの場合に、委員会の定める最高率を越える増額修正が可能になっている。

 一つは、Cに書かれている方法である。つまり、理事会が最高率の半分以上に増額修正させた予算案を総会に提出したときは、総会はそれに加えて、最高率の半分を限度として増額修正が可能だというのである。例えば、理事会案が最高率ちょうどの増額修正を行っているときは、総会は、最高率の更に五割増まで増額修正することが可能になるということである。

 もう一つは、Dに書かれている方法である。つまり理事会と総会が話し合って、委員会の決定を変更して、より大きな最高率を導入してしまうというやり方である。

 実際に、総会は、両方のやり方を駆使して、その後、最高率を上回る増額修正を実現していこうとする。

 2 決算と免責決議

 決算機関に関しては、この二つの予算条約ではいずれも特段の修正を行ってはいない。修正されたのは、免責決議に関してである。免責決議というのは、ドイツにおいて、議会が決算審議の結果、内閣のその年度の財政運営に関する責任を免除する決議を行うことをいう。仮に免責決議が否決されれば、それは内閣不信任の効果を持つことになる。このドイツの制度がEEC等にも導入されている。

 免責決議について簡単に共同体における歴史を紹介すると、まず欧州石炭鉄鋼共同体だけの時には、そもそも最高機関の免責という制度そのものがなかった。

 一九五八年にEECなどが設立された段階では、監督委員会の報告を受けて、理事会だけが委員会の免責を行うことができ、総会は単にその結果の報告を受けるにとどまっていた。

 しかし、一九七〇年の予算条約により、一九七一年からは、理事会と総会の両者が免責決議権を持つことになった。順序としてはまず理事会が監督委員会の報告を受けて特定多数で決議し、ついで総会が同様に決議をすることになる。委員会は、両者から免責決議を受けて初めて最終的に免責されることになるわけである。

 最後に、一九七五年の予算条約により、総会だけが免責決議権を持つに至る。すなわち、理事会が特定多数決により行った勧告を受けて、総会が委員会に対して予算執行の免責決議を行う権限を持つに至るのである。

 3 事前調整の導入

 こうした財政面での総会権限拡大は、実際の運用において更に大きな影響を持った。理事会としては事後に総会に、理事会とは異なる議決をされては困るので、理事会として予算案を決定するのに先行して、総会代表の意見を聞く慣行が生まれたのである。この意見聴取の機会のことを調停委員会と呼ぶ。一九七六年には既にこうしたやり方が誕生し、八二年六月の理事会と総会の共同声明により、明確に制度化された。

 また、同様に、予算に影響を与える可能性のある法案についても、総会と理事会の間で事前に意見調整を行う慣行が生まれた。法案に関する調停委員会というわけである。こうして、総会は、財政権限を通じてある程度ECの立法過程に介入することが可能となっていったのである。

(三) EC会計検査院の設立

 総会の財政権限に関する第二次改正を行ったと同じ一九七五年に、予算条約とは別の修正条約により、三共同体に共通の外部検査機関として、欧州共同体会計検査院 Rechnungshof der Europaischen Gemeinschaftが設立される。

 つまり、それ以前に行われていた予算条約の結果、理事会と総会の二つに実質的な財政権が帰属することになったわけであるが、そのように制度が整備されるとともに、総会に、監督委員会による外部検査に対する不満が高まってきた。

 財政権を保有する者は、当然その権限の一環として財政監督権を有している。EC構成国では、議会と政府がその地位にあるわけであるが、各国議会はその権限を行使するに当たって、その国の会計検査院からの強力な支援を得ることができている。ところが、ECには、それに比較しうるような強力な財政監督システムそのものが存在していない。監督委員会制度の下においては、EC財政は、いわば片手間仕事として監督されているに過ぎないからである。なぜなら、監督委員には、ほとんどの場合、その出身国の財政監督機関の一員が就任していたからである。国によっては大蔵省に相当する機関の職員が派遣されている場合もあった。いずれにしても、彼ら監督委員達は本務の傍ら、ECの財政に対する検査を行っているに過ぎないわけであるから、各国会計検査院の行う、幅広く、充実した活動と比べるとかなり見劣りがしたのである。

 この時点の総会は、各国国会議員で構成されていた。したがって総会の議員達は、国内においては、各国会計検査院からの強力な支援を受けての財政監督権行使に馴染んでいた。そこで、ECにおいても、同様の、強力な外部検査機関を設立を希望するようになったのは当然である。

 委員会では、この総会の要望を受けて検討した結果、一九七三年一〇月に「欧州議会の財政権の強化に関して」と題する勧告を提出した(条約上は、マーストリヒト条約締結まで総会という呼称が使用されているが、総会は、一九六三年に議決を行い、欧州議会と称するようになっていた。委員会は、その呼称を尊重したわけである)。その中で、EC会計検査院の設立を提案した。

 一九七三年一二月にコペンハーゲンで開催された構成各国政府の首脳が集まって行った会議により、EC会計検査院の設立に利点があることが認められた。すなわち、首脳会議共同声明第七点第五項は次のように宣言している。

「共同体組織の活動は、特に財政監督において、独立した地位を持つ共同体会計検査院を設立すること、及び欧州議会の財政法上の地位を強化することにより、より有効たらしめられるべきである。」

 したがって、総会の財政権限の第二次強化と、EC会計検査院の設立が、同じ一九七五年に行われたのは、決して偶然ではないのである。

 EC会計検査院の構造及び権限は、ドイツの連邦及び諸州の会計検査院に共通に認められるものと同じである。すなわち、最高意思決定機関は、裁判官的独立性を有する検査官によって構成される合議体とされる。また、ドイツ連邦財政の一九六九年の財政大改革の後であるから、検査の観点も、決算の合規性や正確性にとどまらず、当然に財政運営の経済性に及ぶ。先に紹介した、総会が免責決議権を独占するようになった点も含めて、これら一連の財政規則の改革が、ドイツの主導で行われたことを示している*7

 この時点のEC会計検査院は、九名の検査官により構成されていた。すなわち、構成各国から一名づつということになる。検査官は個人として選任されるが、その母国において、会計検査機関に所属しているか、所属していたか、あるいはこの役職に特に適性を有することが必要とされる。検査官は、理事会が、総会の意見を聴取した後、全会一致で、六年の任期で選任される。この検査官選任について総会の関与が認められる点については、ドイツの場合、一九八五年の連邦会計検査院法改正前で、議会は何の権利もなかった時代であるから、ECの方が進歩的制度を採用したと言える。しかし、本来、一九六九年の財政大改革の一環として同時に行われるべきドイツ会計検査院法の快晴がこれほど遅延した理由の一つは、連邦議会が連邦会計検査院との関係を強化しようとして画策したためであり、また、州会計検査院レベルでは、このような例は既にあった。したがって、この点もやはりドイツの影響と考えて良いであろう。最初の検査官は、業務の継続性を確保するため、設立時においては、四名は任期四年で選任された。しかし、再任可能であった。

 EC会計検査院長は、検査官の互選により、任期三年で選出され、再任が認められる。EC会計検査院は、一九七七年度から正式の活動を開始した。この一九七七年以降現在までの歴代の院長の在任期間を見ると、一期の人もいれば二期勤めている人もいる。一般に、一度院長になったら、定年までその職にあると考えればよいようである。

 会計検査院の権限についても、従来とは比較にならないほど詳しく規定された。内容的には、現行制度と基本的に差異がない。詳細は別稿に譲ることとする。

 これまでの監督委員会や会計検査者との関係については、同条約二二条二項は、次のように述べている。

「EC会計検査院は、この条約発効とともに、EC監督委員会及び欧州石炭鉄鋼共同体の会計検査者に、それぞれの規定で与えられていた権限及び地位を引き継ぐ。これらの規定で、監督委員会及び会計検査者とある箇所は、会計検査院と置き換えられるものとする。」

 これにより欧州石炭鉄鋼共同体については、この時ようやく会計検査者制度が完全に廃止された。

(四) 欧州通貨単位の導入

 これまで、ECの財政は、一定量の金の法定平価を単位として算定されていたことは先に紹介したとおりである。ところが、一九七〇年代始めに世界市場を襲った為替危機のために、金の取引価格が乱高下するようになり、安定的な基準単価として使用することが困難になってきた。そこで、一九七七会計年度から導入されたのが、欧州計算単位Europaische Rechnungseinheit(略してEREという)。これは、いわゆるバスケット通貨と呼ばれるもので、構成各国の通貨を一定割合でバスケットに入れたように合成して作られた人工通貨とでもいうべきもので、作られた時点での構成国通貨の為替レートの合成額分の交換価値がある。

 このEREのアイデアには、それを発展させ、より有効なものとしうる萌芽が含まれていることに、財政関係者は直ちに気が付いた。すなわち一九七八年一二月には、理事会は規則という形で欧州通貨単位の導入を決定する。欧州通貨単位という言葉を英語で表記するとEuropean Currrency Unitとなり、その頭文字をとってフランス語読みするとエキュEcuとなる。これは、フランスの古い通貨単位と同じ言葉なので、国家主義的傾向の強いフランスは、この呼称が非常に気に入ったわけである。

 エキュは、その採用を決めた規則の定義によると「構成国通貨の特定の額の合計」である。すなわち、欧州計算単位と同じく、構成国の通貨を合成したものであるが、定期的に交換価値を見直す点で異なる。交換価値見直しの基礎にできるように、各構成国の中央銀行は、その保有する金とドル準備の各二〇%を欧州通貨協力基金に預託する。その結果、各国通貨のエキュに占める比重に応じて、為替市場での各国通貨の変動に応じた交換価値が把握できることになる。したがって、単にEC内部での計算単位ばかりでなく、公債を発行して市場から資金を獲得する手段としても使用できることになるわけである。

 一九八一会計年度から、このエキュが全面的に使用されるようになり、一九九九年一月一日に主要各国で、その固有の通貨に換えて使用されるようになる統一通貨オイロEuroへと発展していくことになる。なお、日本では、これを英語読みしてユーロと発音することが多いようであるが、英国では使用されていない通貨であるから、そう発音するのは間違いと考えている。

 

七 財政危機の進行

 このように、六〇年代から七〇年代に掛けて制度整備のための地道な努力が続けられたのであるが、八〇年代にはいると、独自財源体制が確立し、欧州議会が全面的にその権限を行使することが可能となった。しかし、一九七九年の第二次石油ショックをきっかけとして、欧州は第二次大戦後最悪といわれる厳しい不況を迎えることになる。しかも、この不況を米国はレーガン政権による経済政策で、また日本はエレクトロニクス技術を中核とする技術革新により乗り切った後、いずれも急激に生産を延ばした。更に、アジア諸国も安くて優秀な労働力を基礎に世界市場へと進出を始めた。その中にあって、欧州諸国はなかなか不況から脱出できなかった。それとともに、ECは財政面で深刻な危機を迎える。

(一) 農業問題

 この時期の不況が、ECだけに深刻な財政危機を発生させた原因は、EC構成国の農業にある。農産物統一価格支持政策のおかげで、農家は作物を増産すれば、その分だけ所得増となるから、一所懸命増産に努めた。そのおかげでECが誕生する以前の欧州は、食糧の純輸入地域であったのに対して、七〇年代くらいからは一部で過剰生産が生じ始め、八〇年代にはいると、ほとんどの農作物で過剰生産が一般化したのである。この結果、第一にECでは輸入食糧品に課せられる農業課徴金収入が激減した。そして、過剰農産物の処理のため、世界各国に積極的に輸出することとした。その手段として低い世界市場価格と高いEC支持価格の差額を輸出払戻金という形で農民に補填することとした。したがって輸出が順調に伸びるほど、この輸出払戻金支出が増大することになる。つまり収入が減るのに反比例する形で支出が増えたわけである。

 また、世界の農産物市場は、ドル建てで動いていたが、八〇年代半ばにドルが大幅な下落を示した。これは、ECから見ると、世界市場での農産物価格のエキュ建ての価格が急落することを意味する。この結果、輸出払戻金は更にいっそう急激に増加する傾向を示したわけである。一時はドルの下落は急激すぎたためにECが現金不足に陥り、農民への支払いが数ヶ月も遅れるという事態まで起きた。

 もう一つの収入の柱である関税収入も、東京ラウンドによる関税率引き下げ等による縛りのため、貿易量の順調な増加にも拘わらず、大きな増加はない。このため、負担はもっぱら最後の柱である付加価値税収入に掛かってくる。ところが、EC全体の経済がこの時期低迷しているため、各国の付加価値税収入も低迷している。

 この結果、ECの固定財源収入では、ECの歳出を賄うことができず、加盟各国が一時的に立て替える、という事態が生じた。そのかなりの部分は、結局、ECから返済を受けられず、各国の損失となった。仕方なく、一九八四年にフランスのフォンテーヌブローで開かれた首脳会議で、それまで付加価値税収入の一%を上限とするとされていたものを、一・四%にすると変更した。しかし、それが実施に移された一九八六年には、既にECの歳出はそれでも間に合わないほどの額に達していた。しかも、その八六年からは農業国であるスペイン及びポルトガルが新たにECに加盟してきたから、農業支出は更に増えることが予想されるという事態になった。

 つまり、この段階で、歳出面では農業政策の抜本的な見直し、歳入面では従来の三本柱に加えて、第四のより柔軟性のある固有財源の必要性が顕在化していた、ということができる。

(二) イギリス問題

 イギリスはその地理的位置からいって、ECに加わって何ら不思議のない国であるが、その加盟とともに、ECに様々な問題を引き起こした。

 第一に、イギリスは、その一人あたりGNPがECの平均以下であるにもかかわらず、EC財政への支出額が大きいという社会構造を持っていた。すなわち国民の貯蓄率が低く、その分消費率が高いため、付加価値税収入が相対的に高くなってしまう。この結果、付加価値税を固有財源としているECに対しては、いやでもそのGNPの割には多額の支出を余儀なくされる。例えば一九七九年秋のEC委員会の予測では、ECへの拠出額は、西ドイツ四六億エキュ、イギリス三一億エキュ、フランス三〇億エキュと、フランスを抜いて第二位の拠出国となるとされていた。他方、イギリス農業は、その過去における貿易大国時代に行われた囲い込みのため崩壊していたから、そのGNPに占める割合が極端に低いのである。西ドイツでさえも、イギリスに比べれば農業国であるといえた。この結果、加盟当時ECからの主力支出分野であった農産物価格支持政策による恩恵は非常に小さいのである。すなわち、ECとの資金のやりとりに関する限り、常に支出が多くて収入が少なく、拠出超過になるという構造を持っている国なのである。七九年の場合だと、ECからの受取額を差し引いたネットの拠出額だけを比べると、イギリスの純拠出額は一七億エキュとなり、ずば抜けた経済力を誇る西ドイツの一一億エキュを追い抜いて、文句なしの一位となってしまう。

 そこで、イギリスは加入に当たり、新たに地域開発基金を設立するように求めた。これにより、その時点でのEC条約には含まれていなかった、経済的に立ち後れた地域に対する援助政策を、ECの活動に加えることになったのである。これはECにとり、それまでの関税同盟から今日のEUに向けて踏み出した大きな一歩であった。しかし、上述のように、七九年になると、それでも大幅の拠出超過となってしまう。

 このような事態は、七九年に政権の座に着いた鉄の女、サッチャー首相としてはとうてい黙認できない。そこで、EC予算構造を改革して、イギリスの拠出額と交付額とが均衡するように強力に要求した。ここにイギリス問題が発生したわけである。しかし、このような原則が認められるならば、そもそもECは成り立ち得ない。ECは、その中核となる工業国が、関税がない、という他の国よりも有利な条件でその生産物を販売することができ、周辺農業国はその見返りに農業や地域政策を通じてECの援助を受けるという構造なのである。そして、イギリスは、こうした工業発展に因る恩恵は人一倍受けている。例えば日本企業も、EC内で工場を建設するような際には、多くは英国へ進出しているなど、直接投資額に関する限り、西ドイツを遙かに凌駕して、ずば抜けて大きな恩恵を受けていた。

 ところが、サッチャー首相は、こうしたEC加盟による恩恵は一切無視し、強硬に拠出と交付額の均衡を求めたのである。交渉に当たっては、理事会で重要法案の通過を阻止するなど、手段を問わない激しいものであった。他の構成国はこうした態度に激しく反発したが、イギリスをECにとどめたければ受け入れる外はなかった。ECは、八〇年度にはイギリスの拠出額のうち一二億エキュを返還したのを皮切りに、毎年一〇億エキュ内外の返還を行うようになった。

 最初のうちは毎年個別に決めていたのであるが、これをめぐって、毎年度、理事会と総会との紛争が起こった。先に一九八四年のフォンテーヌブロー首脳会議で付加価値税へのよりいっそうの依存を決めたことを紹介したが、これにより、いっそうイギリス問題は拡大することになる。そこで、同会議は、同時にイギリスへの拠出金の還付を明確にルール化することに決めた。すなわち、

「その相対的な富裕度に比べて、予算上過度の負担を引き受けているいずれも構成国も、適時に修正措置を受けることができる。その国の付加価値税シェアと現行の基準にそってその国に割り当てられる支出のシェアのギャップを修正の基礎とする」

とした。そして、八五年から、毎年度、このギャップの六六%を是正することにしたのである。これにより発生する負担は、他の加盟各国が付加価値税の課税標準を基準として均等に負担することとされた。しかし、このようにしてイギリスだけを補正すると、今度は西ドイツの拠出額が大きすぎることになるから、西ドイツだけは基準の三分の二しか負担しないでよいことにした。つまり、同じEC構成国なのに、付加価値税からの拠出率が最低のイギリス、中間の西ドイツ、そして最高のその他諸国と三段階になってしまったわけである。

 こうした補正により、ECはいよいよその財政基盤が苦しくなったことになる。

 

八 ECにおける財政紛争

 このように財政が逼迫してくると、その乏しい財政に関する主導権を巡って、農業問題やイギリス問題のように構成国同士が争うだけでなく、EC機関相互も紛争を起こすようになる。

 従来であれば、それは理事会と委員会の角逐という形を取るに過ぎなかったのである。が、一九七九年六月、総会は、初めて各国の国会議員ではなく、欧州市民の直接選挙により議員を選出されることができた。これにより、以後、完全に欧州議会の呼称が確立することになる。本稿でも、条約上の名称は依然として総会であるが、以後は、欧州議会と呼ぶことにする。選挙により、その存在の正当性を強化した欧州議会は、唯一実質的権限を有する領域である財政問題をてこに使って、より積極的に活動するようになる。

 議会というものは、普通の国でも選挙民にアッピールするために歳出予算を増額しようとする傾向を示す。まして欧州議会の場合、議会は積極的に欧州統合の理念を追求しようとし、その結果、予算の中にできるだけ新しい政策を盛り込もうとする。これに対して、各国政府の代表で組織される理事会は、そうでなくともECの義務的支出が膨れ上がり、EC構成各国の財政を圧迫しているので、できるだけ予算総額を抑制しようとする。したがって、両者の衝突は必然ということができた。

 これに、予算執行責任者である委員会と、EC構成各国が加わって、複雑な紛争が巻き起こった。パターン別に見ると次のようになる。

(一) 構成国による付加価値税の納入拒否

 最初の事件は、一九七八年一〇月に、欧州議会が七九年度予算について予算の増額修正権を行使するという形でおきた。これに対して理事会はこれを再修正しようとしたが、各国の足並みがそろわず、議会の議決通りに確定してしまった。これに抗議して、三ヶ国が付加価値税の納入を一時拒否するという事態になったが、結局折れざるを得なかった。

 また、一九八〇年一一月に南イタリアで大地震が起きたので、委員会は八一年度補正予算として社会基金の支出を一億エキュ増額する事を提案した。しかし、理事会はこの増額幅を六千万エキュに縮減した。これに対して欧州議会はまず八〇年度補正予算で三億三千万エキュ増額し、さらに八一年度補正予算でも大幅増を議決した。増額修正自体は議会の権限に属するので、ECとしてはこれを承認することになった。

 これに対してドイツ、フランス及びベルギーは、この八〇年度補正予算は単年度主義の原則に違反しているとして、付加価値税の一九八〇年度補正予算に対する追加支出分を拒否した。その結果、委員会は、これら三ヶ国に対して、EC裁判所に訴訟を提起した。他方、ドイツ及びフランスは、予算制定の違法を理由に、委員会を同じくEC裁判所に訴えた。この法廷闘争は、結局、一九八一年度補正予算の編成作業の中で政治的に決着が計られ、判決には至らなかった。

(二) 予算拒否権の発動

 一九七九年一二月に、欧州議会は、調停委員会で農業関係予算の抑制、地域・社会関係での予算の増額等を欧州議会が要求したにもかかわらず認められなかったことから、非義務的支出が承認しがたいとして、一九八〇年度予算全体を圧倒的多数で否決するという事件がおきた。初めての全体予算拒否権の発動である。八〇年度予算は結局、一九八〇年七月九日に、半年以上も遅れて成立することになった。

 これを皮切りに、一九八二年には追加・補正予算を否決し、一九八四年には一九八五年度予算を否決するという事態が起こっている。

(三) 責任解除の拒否

 一九八四年一一月には、欧州議会が委員会の責任解除を拒否するという事件が起こった。これはドイツであれば、先に述べたとおり議会の政府に対する不信任決議と同じ効果があると考えられている。そこで、この時にもEC委員会の総辞職が問題となったが、時のEC委員会の任期が後数週間という時点であったこともあり、また、欧州議会が別個不信任案を提出しなかったこともあって、結局、そのままになった。なお、この決算については、結局翌八五年三月に責任解除の議決がなされた。

(四) EC機関の、EC裁判所への提訴合戦

 一九八二年二月には、理事会が欧州議会をEC裁判所に訴えるという事件が起こる。一九八二会計年度予算を、欧州議会が一九八一年一二月に一方的に可決し、理事会の同意を得なかったというのである。この法廷闘争は、結局、一九八二年六月に、欧州議会、理事会、委員会の共同声明という政治的妥協によって決着し、判決には至らなかった。

 一九八六年にも、理事会は欧州議会をEC裁判所に訴えた。欧州議会の定めた八六年度予算は、裁量的支出の最高率を侵害したため、無効であるというのである。裁判所は七月に無効を確認する判決を下した結果、予算は作り替えられた。

 一九八七年には、こうした一連の紛争の解決手段として後述するドロール委員長によ利、財政改革案が提案されたのであるが、EC首脳会議がなかなか合意にいたらなかった。このため、財政基盤がはっきりしないので、理事会は条約に定められた期限になっても予算を編成することができなかった。しかし、理由が判っていても、条約違反であることは事実なのであるから、委員会及び欧州議会は理事会をEC裁判所に訴えざるを得ない。結局、八八年二月にブリュッセルで開催されたEC首脳会談で、新財源に関する話し合いがまとまり、同年五月に予算が採択されたことから、七月になって訴えは取り下げられ、判決には至らなかった。

* * *

 このような一連の紛争は、ECでは、立法権は理事会に属している一方、二回の予算条約の結果、財政権は、理事会と欧州議会に二重に帰属している、という跛行性に原因がある。そのため、欧州議会は、本来なら立法あるいは行政内容を問題にするべき場面で、その立法や行政に基づく予算内容を問題にするという手段を執らざるを得なかったからである。どちらの権限も一元的に理事会にのみ属しているという時代には、このような問題は起こり得なかったのであった。

 

九 統合欧州議定書の制定

 こうした欧州の低迷の打開に向けて最初に積極的に動き出したのは欧州議会であった。スピネリ制度改革委員長を中心に、欧州議会では、今日のEUに向けた発展の基礎となった条約草案を起草し、一九八四年二月、欧州議会はこれを可決する。これこそが、その後、統合欧州議定書*8に成長していったもので、委員会及び理事会に強い衝撃を与えた。

 しかし、これを現実のものとしたのはフランスの社会党政権で蔵相を務めたジャック・ドロールであった。彼は、一九八五年一月にEC委員長に就任すると、ECの低迷を打破するために積極的に行動し始める。六月に、EC委員会が発表した「域内市場白書」は、ECが目指す物、人、サービス、資本という、関税を超えた分野での域内市場の完全統合という政策目標を提示した。そして、構成国間にその時点で存在している障壁を物理的障壁、技術的障壁、税制上の障壁に分類し、それを解消するために全部で二八二項目のEC立法を一九九二年末までに達成するように提案したのである。このように速いペースで立法を行っていくことは、それまで理事会がとっていた全会一致方式では無理である。多数決方式の導入が必要になり、それには条約の改正が必要である。また、こうした市場統合から直接的利益を受けないEC内の後進国に対しては、不利益解消のための何らかの措置を執る必要があり、このためにも条約改正が必要になる。

 このようなドラスティックな改革をこの時期に推進できたのは、これまで述べてきたような長期にわたる欧州経済の低迷、EC財政の危機に加え、日本からの経済的脅威の存在が大きなものだったといわれる。それが、各国に自国の近視眼的利益よりも欧州統合の必要性を真剣に考えさせるようになったというのである。こうして、一九八五年六月にミラノで開催されたEC理事会は、EC設立条約改正のための政府間会議の開催を決定した。ここで、政府間会議という表現に注目してほしい。これは決して、ECの首脳会議ではなく、個々の政府の間の調整会議だったのである。ルクセンブルクでその年一二月に開催された会議で、条約改正にゴーサインが出た。そして八六年二月にEC構成九ヶ国によって採択されたのが統合欧州議定書である。これはEC基本条約の追加条項と改正条項をまとめたもので、八七年七月にこれが発効する。

 この統合欧州議定書では、一九九二年一二月三一日までに域内市場の完成を目指すことを明言している(一三条)。ここに域内市場とは、「もの、人、役務、資本が自由移動する、域内国境なしの空間である」と定義される(同条二項)。

 そしてこれをスムーズに進めるために、理事会における多数決制の大幅導入、委員会の執行権の拡大、市場統一に必要な各国法制を接近させる方法としての相互認証、等の諸制度を導入した。

 また、欧州統合に向けてより多角的活動が可能になるように、EECに新しい権限を与えた。すなわち、経済的及び社会的結合を目指して欧州地域開発基金を中核とする活動を行うこと(EEC条約一四編)、研究及び技術開発を行うこと(同一五編)、環境を保護すること(同一六編)等がそれである。

 

十 ドロールパッケージ

 統合欧州議定書は、確かに欧州統合に向けての偉大な一歩である。しかし、財政危機を打開しない限り、ECは、そこに盛り込まれた多角的な活動を実施するどころか、従来の権限を行使することすら不可能な状況に陥っていることは明らかである。この面での打開策を打ち出したのもドロール委員長であった。彼がドロール・パッケージと呼ばれる包括的な財政改革案を提案したのは一九八七年二月のことであった。これは八七年度から九二年度までの六年間を対象期間とする中期計画であった。

(一) 支出面での改革

 財政の混乱のかなりの部分は、単年度予算主義の下で、欧州議会が毎年度、積極的な施策を行おうとした点にあった。そこで、ドロール提案は、計画対象期間における予算の伸びや各種施策の伸び率を予め決めることにより、そうした混乱要因を事前に取り除くことを狙った。個別にあげれば次のような点を定めておくことにしたのである。

 1 八七年度予算は歳出総額で四二九億エキュであったが、これを年率五・八%の割合で毎年拡大し、九二年度には歳出総額五六七億エキュとする。ちなみにこの期間のEC構成諸国の年平均経済成長率は二・七%と推定されていた。この結果、EC財政がEC全体のGNPに占める割合は八七年度には一・一六%であったものが、九二年度には一・四%に向上する予定である。しかし、EC構成国財政の、各国GNPに占める割合は、三〇%から五〇%程度に達するから、それに比べればほとんど無視できるような少額である。

 2 農業政策に関する支出の伸びは年率二・五%に抑制する。この結果、九二年度歳出総額に占める割合を五一・五%にまで引き下げる計画である。これは農業国にとっては嬉しい話ではないが、それに対する不満は次の地域政策への支出増で解消する。

 3 地域政策への支出は初年度七二億エキュであるものを、年率一四・六%で引き上げ、この結果、九二年度における支出を一四三億エキュと倍増する。この結果、九二年度における歳出比率は二五%に達する。

 4 研究開発など、欧州議会が自由にファイナンスする事のできる「その他」政策への支出を、九二年度までに全体の九%に増やす。これは、長期にわたって財政権行使を縛られてしまう欧州議会の不満を解消するとともに、日米との貿易戦争で不利な立場にあるEC産業の輸出競争力の回復に役立つ。

 5 環境政策など、統合欧州議定書で導入された新しいECの活動に対する支出を、九二年度で五%程度確保する。

(二) 収入面での改革

 こうした支出の増加は、従来の三種の固有財源では賄うことはできない。すなわち、九二年度の段階では、従来の固有財源では、その歳出の七五%しかまかない切れない。しかし、これらについてはいずれも増額することは困難である。それどころか、関税は東京ラウンドなど、ガットの努力により減る一方である。また、農業課徴金も、この頃にはEC全体としてみれば過剰生産で、むしろ輸出補助金を付けて積極的に輸出している状況であるから、やはり減る一方である。ただ一つ付加価値税収入だけは、増やそうと思えば増やせる。しかし、イギリス問題に端的に見られるように、付加価値税収入の割合は、各加盟国のGNP比率とはかなり異なってしまう点に大きな問題があった。もし、この時点で採用されていた一・四%の税率をさらに引き上げることになれば、イギリス問題は、より規模を拡大した形で再燃してしまう。

 そこで、ドロールは、従来の固有財源はそれ以上手を付けず、不足分は第四の財源を新たに導入することで賄うということを提案した。その第四の固有財源とは、EC構成各国のGNPの比率にしたがった支出である。GNPそのものを基礎とすれば、イギリス問題の基礎にあった、イギリスがGNP比に比べて過大な負担をさせられている、という問題そのものが解消してしまうことはいうまでもない。

(三) 一九八八年EC財政改革

 ドロール・パッケージは、八七年度におけるEC首脳会談での中心議題となった。農業関係経費を削減するという総論では各国はいずれも賛成であった。しかし、その方法として、英国やオランダはドロール提案を支持して機械的に削減することに賛成したのに対して、ドイツやフランスは裁量的に削減していくことを主張した。また、地域政策の拡充に関しては、イギリスが三五%にまで増額することを主張した。こうした対立のため、八七年六月と一二月の首脳会談では結論に至ることができず、理事会が翌年度予算を編成できずに裁判所に訴えられるという異常事態になったことは先に紹介したとおりである。結局、八八年二月にブリュッセルで開かれた首脳会談で、決着が付いた。これを受けて八八年六月に理事会が下した決定によれば、実際の中期計画の内容は次のようになる。

 1 支出額の伸びは、一九八八年度でEC構成国合計GNPの一・一五%とし、八九年度は〇・〇二%増やして一・一七%とする。しかし、その後は毎年〇・〇一%ずつの伸びに押さえることとして、九二年度は一・二〇%に引き上げる。したがって、ドロール提案に比べて〇・二%低めとされたわけである。ただし、これは支出授権の話で、契約授権では一・三%に延ばすことが認められた。また、この数字は固有財源に関するもので、前年からの繰り越しや、固有財源以外の収入は計算に入らないこととされた。したがって、実際にはドロール案にかなり近い数字になることもあり得る訳である。また、この支出を賄うため、既存の三つの固有財源は特に改革しないままで、構成国のGNPに比例した支出を第四の固有財源として承認することも認められた。

 2 農業政策に関する決定は、各国首脳陣の対立を反映してかなり複雑なものとなった。第一に、この部門の支出成長率は、EC構成国合計GNPの七四%を超えてはならないというガイドラインが決められた。第二に、過剰生産を抑制するために、休耕に対する補償金を支出するようになっていたのであるが、これを考慮しても八〇%を限度とすることとされた。このガイドラインは、EC構成各国を法的に拘束するという厳しいものであった。第三に、農産物価格の上昇やドル相場の変動による国際市場での農産物価格の変動にどう対応するか、という点もきめ細かく決められた。

 3 地域政策は、スタートが一年ずれ込んだため、八七年度から九三年度までの六ヶ年を対象として最終年度に実質値で初年度予算を倍増することになった。

 中期計画の数値は、八八年度価格を基礎として定められているから、毎年度、その年度の時価に換算する必要がある。これを年次調整という。年次調整のやり方には二とおりある。第一は、技術的調整と呼ばれるもので、経済成長率と物価水準を基礎に行われる。ただし、両者を基礎にするのは農業分野だけである。それ以外の分野ではインフレ率だけを基礎に調整する。第二は、予算執行状況を勘案しての調整である。

 また、予期せぬ事態が生じた際にも修正が予定されている。

* * *

 蓋を開けてみると、EC財政は、中期計画で予定されたよりも遙かに順調に推移した。すなわち収入面でいえば、各国経済の成長が予定よりもよく、そのため、付加価値税収入の伸びは予定以上であった。また農業政策に関する支出も、予定よりかなり少な目に済んだ。これは世界最大の農業国である米国で干ばつがあり、国際市場価格が上昇したのに加えて、米国ドルの為替相場が上昇したため、エキュ建ての支出が少なくて済んだためであった。更に八〇年代に導入された過剰生産抑制のための諸施策がようやく効果を示し始めた、という点もあった。そのため、第四の財源であるGNP比例財源は九〇年度には全く必要がなかったほどであった。

 

十一 マーストリヒト条約

 こうして財政的な問題が解決すると、統合欧州議定書を超えて、欧州統合の方向に、より進んだ努力を払おうという機運が生まれてくる。

 しかし、最終的な統合への大きなきっかけを与えたのは、欧州石炭鉄鋼共同体の設立時と同様に、再びドイツであった。あるいは周辺諸国のドイツに対する恐怖であった。すなわち、一九九〇年に実現した東西ドイツの再統合である。ドイツは、こうした欧州各国に存在する根強い恐独症を和らげる手段として、欧州連合(EU)に対して国家主権を相当程度譲り渡すという方針を積極的に採用することとしたのである。フランスも、ドイツの再統一が現実のものとなった後は、その方針に賛成した。こうして、一九九二年にオランダの古都マーストリヒトで調印された欧州連合条約により、EU構成各国は、戻ることのできない決定的な一歩を踏み出すことになった。その後、一九九七年にはオランダのアムステルダムで締結された条約で、さらにその強化が図られている。国家主権の最終的な喪失につながる欧州通貨の統合も、一九九九年一月に、その第一歩が踏み出されている。こうした統合された財政の下、当然連邦会計検査院の活動内容にも様々な変化が訪れているし、将来ともに、それは拡大していくことと思われる。

 一口にマーストリヒト条約と呼ばれるが、これは実際には欧州連合条約という新しい条約と、従来のEEC条約、欧州石炭鉄鋼共同体条約、欧州原子力共同体条約の改正条約より成り立っている。したがって、その機関や権限に関しては、既存の条約特にEEC条約の改正による部分が大きいのである。

 このマーストリヒト条約下のEU財政について説明することは、即EU財政の現状について説明することである。それについては別の稿で改めて述べたいと思う。

 

[おわりに]

 ドイツ語によるEU財政に関する専門書籍は若干存在している(注2参照)が、EU財政法に対する関心は、EU諸国の研究者の間ですらもあまり高くはない。その結果、資料を見いだすのはかなり困難な作業であった。私は一九九八年から一年間、ミュンヘン大学において在外研究に従事したが、私の長年の友人であるDr. Hubert Weber氏が、その時点でオーストリア国を代表してEU会計検査院検査官の職にあるという幸運に恵まれ、彼の全面的な協力が得られたため、ルクセンブルクのEU会計検査院を訪問した際には、様々な資料に接することができ、また、資料の所在に関する情報を得ることができた。そして、ミュンヘン大学図書館及びバイエルン州立図書館の豊富な蔵書に助けられて、細かい条約制度の推移を把握することができた。本稿は、こうした在独中の研究をまとめたものである。従って、本文中の記述には、そうした口頭資料に依拠する部分も少なくない。