第1章 社会生活と法




〈ポイント〉

 法学は、言葉を使って社会規範を研究をする科学である。したがって、言葉の意味があいまいだと、いくら議論をしても噛みあわず、無意味なものになる。それを避けるには、予め言葉の意味を厳密に約束しておく必要がある。そのため、法学の研究は、はじめのうちは、言葉の定義の連続のような様相を呈する。本章は、法学の最初に位置しているので、法学の中でも一番基礎的な言葉の定義が多くを占める。そして、言葉の定義は、それ自体としては無味乾燥で、面白くないものである。しかし、それこそが、後から出てくる議論の基礎だから、よく注意して、理解するようにしよう。


 第1節 社会生活のルー

〈ポイント〉

 法は、社会秩序に関する規範である。規範とは、また、社会秩序とは、なんだろうか。

  第1 存在の法則と当為の法則

[1] 自然科学と社会科学の相違

 科学は大きく自然科学と社会科学に分かれる。どちらも、対象領域を支配している法則を探ることを基本的な使命としている。しかし、この2つの科学では、同じ法則といっても、意味に、大きな違いがある。自然科学は、自然の中に現にある=存在 SEIN している現象を支配する法則の探求を目的としている。それに対し、社会科学が探求しようとしているのは、人が、何かの理由で、あることに対してこうすべきだ、とか、すべきではないというように、人が自ら定めた法則である。人とは関係なしに存在している自然の法則は、ここでは対象にならない。このように「〜すべき(または〜すべきでない)」という概念を、一言で表現すると「当為 SOLLEN」という。したがって、社会科学は「当為の法則」を探求しているということができる*1

[2] 当為の法則の特徴

 「当為の法則」を一語で言い表すと「規範」という。規範の特徴の第一は、人間の行動を対象としている、という点である。昔、平清盛が、工事の最中に日が沈みかかったのを、まだ太陽が出ている「べき」だと、扇で太陽を呼び戻した、という話がある。そういうことが一般に可能であれば、自然現象を当為の対象とできる。しかし、ここで例に挙げた太陽の昇り下りとか、潮の干満とかのような自然の現象は、非常に人の生活と深い関係があるが、それを人の意思で左右することは不可能だから、規範の対象とはならない。したがって、例えば潮の干満の予定を厳密に記述した表を、仮に国会が法律として議決したとしても、それは真の法律、すなわち規範ということはできない。法の定めるところによれば、今は干潮であるべきである、と主張して、満潮の海の水を引かせることは、人には不可能なことだからである。
 その第2は、必ず例外がある、という点である。存在の法則では条件さえきちんと満たされていれば、その法則は例外なく実現する。例えば、純粋な水は、1気圧の下で0度を下回れば氷に、百度を上回れば水蒸気に必ずなる。このように存在の法則の支配している世界では、適用条件さえきちんと決まれば、例外はない。例外があるように見える場合には、その例外の場合を支配する第2、第3の法則が存在している。例えば、0度で凍らない水があれば、それは気圧が高いとか、塩分その他の不純物が含まれているという理由がある。そうした例外があれば、それを追求して、例外がなくなるまで法則を見いだそうとするのが自然科学だ、といっても良い。これに対して、規範を定める必要があるのは、すなわち「〜すべき」だということをわざわざ言う必要があるのは、それを守らない、ないしは守れない場合が当然予想される場合に限る。例えば学校でも職場でも、遅刻する人がいるものだから、わざわざ「決められた時間に登校(出勤)すべき」だという規則が作られる。同様に国が人権を侵す行動に出るので憲法が必要になるのであり、人が殺人その他の犯罪を犯す危険があるので刑法が必要になるのである。
 したがって、人の行動に関する法則でも、特に強制しなくとも誰もが守ることは、規範の対象とはならない。例えば、眠くなったら眠らなければならない、等という決まりをわざわざ作る必要はない。

  第2 生活規範と価値観

 規範には様々のものがあり得るが、そのうちで、人が生活を営む上で従う必要があるものを、特に「生活規範」という。生活規範の機能は、人間の生活がいかなる形態で成り立つべきかを指示することにある。例えば、ある人が、毎朝6時に起きるとか、食後にはからなず歯を磨くという、自分だけの規則を作っているとしよう。これが生活規範である。生活規範のうち、このように個人だけを拘束する規範を、特に「個人規範」という。
 個人規範は、何らかの理由で定められる。6時に起きる理由は、健康の増進のため、である場合もあるだろうし、職場や通学先が遠いので遅刻しないためにやむを得ず早起きしている、という人もいるだろう。この規範の基礎となる理由のさらに基礎にあるものを「価値観」という。人が、あることに対して事実上望ましいこととして欲する(あるいは是認、称賛、尊重等をされるべきこととして欲する)場合に、人はそれに価値を認めているということができるだろう。上の例だと、健康や遅刻せずに通学通勤することは、少々の犠牲を払っても良いことであり、望ましいことだ、という価値観が存在しているために、朝6時に起きるという規範を守ることが大切になる。

  第3 社会規範とその分類

 生活規範には、個人規範の外に、ある程度の人数の、相互に関わりのある人々の集まり〈これを社会と呼ぶ〉を規律している規範もある。これを「社会規範」という。社会規範には特定の人が定めた法則もあれば、だれが作ったとは特定できないけれど、長い間の習慣でいつのまにか皆が従うようになった法則(慣習)もある。それらを、その規範を支える価値観を基準にいくつかに分類することができる。代表的なものを示すと次の通りである。
 「宗教規範」とは、特定の宗教の教えの下に作られた規範である。例えばキリスト教には、安息日には労働をしてはならない、という宗教規範がある。
 「倫理規範」とは、一定の倫理観(社会道徳)の下に作られた規範である。例えば、年長者を敬い、病弱者をいたわることは良いことだ、という倫理観が存在している社会では、電車やバスの中では老人・弱者に席を譲るべきだ、という規範が生じ、さらにシルバーシートなどが作られることになる。
 「習俗規範」とは、ある社会の習俗、すなわち習慣とか風俗の下に生まれてきた規範である。例えば、民法によれば、人は、婚姻するには婚姻届を市町村役場に出せば十分である。しかし、実際には婚姻の時には結婚式及び披露宴を行うべきだと考える人が多い。結婚式は宗教規範かもしれないが、披露宴を行うのは、社会の習慣・風俗に基づく規範に従うからである。
 法学の時間で中心課題である「法」も、またこうした規範の一種であると考えられており、「法規範」と呼ばれる。

  第4 法規範と社会秩序

 法規範とは、ある社会の「社会秩序」の下に生まれた規範、ないし、より正確には社会秩序を支えることを目的に作られた規範といえる。社会秩序という言葉が何を意味するかについては複雑な議論が存在するが、以下では簡単に「社会的な予測可能性」のことだとしておこう。
 例えば皆さんが山の中で熊に出会ったとしよう。その時、熊がとる行動としては様々な可能性がある。熊が人間から逃げるかもしれない。まったく無視してそのまま歩いてくるかもしれない。襲いかかってくるかもしれない。皆さんとしては、熊がどのような行動をとるかを事前に正確に予想することはできない。その場合、熊が皆さんにとって最悪の行動、すなわち襲ってくる、という予想の下に、すばやく対応する必要がある。そこで一目散に逃げるか、悲鳴その他の騒音を立てるか、木に登るか、敢然と戦いを挑むか、あるいは死んだ振りをするか、は皆さんの性格や能力によって決まる。
 今度は、皆さんが日中繁華街を歩いていて、見知らぬ人と出会ったとしよう。そのたびに、起こりうる最悪の可能性、例えばその人が強盗かひったくりである可能性を想定し、それに対応できるように行動する人はまずいないはずである。それは、熊と違って、今日の日本では、人の行動は予想できるからである。
 すなわち人は、熊の場合と違い、他の人の場合には、どう行動するかが予測できるので、それを前提に、自分のとる行動を決定する。このように他の人の行動がかなり正確に予想できる状態が、社会の秩序がある状態といえる。 法規範が社会秩序を支えることを目的とした規範であるとは、法規範が存在することによって、人は同一社会に属する他の人の行動が非常な正確さで予想できるようになる、という意味なのである。刑法で、人を殺したり、人の所有物を盗んだりすると厳しい処罰を受けるので、人は他の人がやたらとそうした行動には出ないと予測できる。民法で、相続関係について細かく規定しているので、人は一々遺言書を書かなくとも、自分の死後に自分の財産がどのように処理されるかが予測できる。

  第5 規範の内面性と外面性

 法規範を、宗教規範や倫理規範と区別する大きな特徴は、法の「外面性」と呼ばれる性格にある。本来人の行動は、心の内面における様々な過程、状態が対社会的な活動となって外部に現れてきたものである。社会規範は、そうした社会的行動を規律するものだが、規律の対象を心の内面とするものと外部に現れた行動とするものとがある。心の内面を対象とする事を内面性と言い、外部に現れた行動を対象とする事を外面性という。
 宗教規範の場合には、心に疑いを持ちながらも守っている、というのでは、宗教心が揺らいでいるわけだから許されない。これが内面性である。これに対して、法規範は、人がどういうつもりで従っているのか、すなわち、その規範を心から正しいと思って守っているか、それとも下らないが、違反した場合の非難が恐いから守っているのか、というような内心のことはまったく問題にしない。外にあらわれた形として、とにかくそれを守っていてくれればよい。この点で、法規範は外面性があると言えるわけである。
 また、このことは、人がその心の中を無理に外に表明させられないということも意味している。現行憲法は、その19条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と包括的に保障するにとどまらず、特に刑事罰に関しては「自己に不利益な供述を強要されない(38条1項)」や「自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない(同3項)」などの個別詳細な保障規定をおいて、純然たる内面の問題が法規範という形で問題とされるのを防いでいる。


 第2節 法の社会的基盤

〈ポイント〉

 法とは社会規範の一種であり、そのうちでも特に社会秩序を対象としている点に特徴があると述べた。そこで、法が存立の基礎としている「社会」とはどのような意味だろうか。

  第1 社会の概念

 社会という言葉を簡単にそれを定義すれば「人の集まり」である。一番小さな人の集まりは、2人の場合である。それでも法の基盤となる社会といえる。なぜなら、2人しかいない場合にも、それが円滑に活動するには、秩序が必要だからである。そしてその秩序を支えるのが法だからである。
 普通は、人はもっと大きな集団を作る。例えば我々日本人は、日本という一つの大きな社会の構成員である。この法の一番基本となる社会を「全体社会」と呼ぶ*2。その一方で、日本には、ある大学の教師と学生で作られれる集団とか、官庁や会社における職員の集団とか、家庭やクラブのような小さな社会も存在している。このように、全体社会に含まれていて、その一部をなしている社会のことを「部分社会」と呼ぶ。大学は部分社会であるが、その学部とか個々のクラスは、部分社会のさらに一部となる部分社会ということができる。
 最小の部分社会は、もちろん2人だけを構成員とする。2人の人が新しくクラブを作ったとき、2人の人が物の売買をしたとき、人が他の人に怪我をさせたとき、そこにその2人を構成員とする最小の部分社会が発生している。

  第2 全体社会と部分社会

[1] 法の基礎となる社会

 複合的に全体社会や部分社会があり、それぞれの社会ごとに法規範が発生する。すると、その社会の一つの法規範が、他の法規範と食い違うことが、これまた当然に起きてくる。例えば日本という全体社会では、殺人は禁じられている。これに対し、その部分社会であるやくざの社会では、自分の組織に敵対する組織の構成員を殺すことは許されるどころか称賛されるという内部規範が成立しているとしよう。この場合、やくざという部分社会の法規範と、日本という全体社会の法規範とが衝突することになる。そのとき、部分社会の法規範と全体社会の法規範とはどちらが優越するか、がここでの問題である。わが国の現実に即して言うと、裁判所が、紛争の解決にあたって適用する法規範は、どの社会の法規範か、ということである。

[2] 社会に関する説の対立

 現在、法の基盤となる存在に関する説は大きく分けて3つあると言われる。国家説、部分社会説及び全体社会説である。国家説とは、国家だけが法を形成することができる、という説である。部分社会説とは、部分社会内部のも立派に法足り得るとする説である。全体社会説は、法の存在基盤足り得る社会は全体社会だけだ、と主張する。
 このうち、国家説が最初に出てきた説である。中世封建国家では、法はすべて慣習によるものであった。したがって、法を守る根拠としては、昔からのしきたりだから、と説明すれば足りたわけである。それが近代中央集権国家になると、王や議会が作る法規範が生まれてきた。そうした法が、なぜ支配力を持っているのか、ということの説明はそれほど簡単ではない。そこで、学者は話を逆転させて、そもそも法を支えるのは国家だから、国家のみが法を作り、人に強制できるのは当然だ、という説明をするようになったのである。しかし、国家という概念は比較的近代の産物である。そうした意識や概念を持たない古代の社会でも、ないしは国家の一部に過ぎない村や部落でも、これまで述べてきた法規範は存在していた。なぜなら社会のある限り、すなわち複数の人がともに生活する限り、そこに何らかの社会秩序は必要だからである。社会秩序維持の規範は法規範である。そうした点から、国家説はあまりに法の外延を狭く考えすぎているので妥当ではない*3
 部分社会説を採ると、さっき例に挙げたやくざ社会の規範を、その社会に属しない一般国民まで全面的に無条件に承認しなければならないという問題が生ずる。これは明らかに社会全体の秩序を維持する上で好ましくない。 このように考えてくると、ここで言う社会の意味としては、全体社会説が採り得る唯一の説といえる。しかし、現実に部分社会には部分社会として固有の法が存在していることは事実であり、その存在を全面的に否定することが妥当でないことは確かである。仮に否定すれば、何らかの衝突が起こらざるを得ない。それを防ぐには、全体社会として、部分社会の法を一定限度で承認しなければならない。
 そこで、その調和点としては、部分社会の法が、全体社会の法と有機的な関連性をもって規範的統一性を有する限度において、部分社会の法は、全体社会において尊重されることになるという点にあると考えるべきである。

[3] 部分社会と全体社会の関係

 このことを前提にすると、部分社会と全体社会の関係は大きく2つ分類することができる。 第1の類型は、全体社会の価値観と基本的に相入れないものである場合である。やくざ社会のような反社会的集団の場合が典型である。この場合には、裁判所は、その部分社会の法規範を全面的に否定し、代わって全体社会の法規範をその部分社会に強要して紛争を解決する。
 第2の類型は、部分社会の価値観が基本的に全体社会の価値観と合致している場合である。その場合には、部分社会の法は、全体社会の法と有機的な関連性をもって規範的統一性を有する限度において尊重されることになる。すなわち具体的紛争が発生した場合、裁判所は、その部分社会の生み出した法規範を探求した上で、それに従って判断を下すことになる。
 裁判所が部分社会の法規範を尊重する、ということの現行法秩序の上での意味は、民法を支配している私的自治の原則について考えれば一番理解しやすいと思う。この原則は私法上の法律関係は、その当事者たる個人の自由な意志によって決定させることが適当だ、とする原則で、その典型を契約自由の原則に見ることができる。
 しかし、部分社会の法と全体社会の法との間に規範的統一性が存在しない場合には、部分社会の法は排除され、全体社会の法が優越する。例えば、株式会社で、常に多数決で物事を決めることを認めると、少数株主は、多数の横暴の犠牲になることが考えられる。そこで、法は一定の限度で、少数株主に特別の権利を与えている(例えば商法237条)。この場合には、これに反する株式会社の規則は排除され、法律が優越して適用されることになる。

[4] いわゆる「部分社会」の法理について

 判例は、この第2の類型の中に、注目するべき第3の類型を作り出した。それは部分社会を尊重するあまり、その内部規律に関する事項については、これを司法審査の対象から除外する、というものである。
 例えば村議会は一つの部分社会である。その内部規則に基づいて特定の議員を処罰した場合、普通の第2類型の事件であれば、裁判所は、その処罰がない不規則を基準として正しいかどうか調査して、判断を下すはずである。しかし、村議会が、その議員に対して出席停止の懲戒処分を行った場合に、裁判所は、その処分が不当として訴えた者に対して、「自律的な法規範を持つ社会ないしは団体に在っては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも裁判にまつを適当としないものがある」として、判断を示すのを拒否したのである(最高裁昭和35年10月19日民集14・12・2633)。ここで「自律的な法規範を持つ社会」と言っているところが、ここで問題にしている部分社会を意味しているということが判るだろう。同じような理論は、国立大学における単位不認定等の違法が争われた事件(最高裁昭和52年3月15日民集31・2・234)とか、政党の内部規律(最高裁昭和63年12月20日判タ694・92)など非常に多数に上っている。
 これに該当する場合には、第2の類型の場合と異なり、多数の横暴による場合にも、被害者は救済されないことになる。この類型が認められる理由は、その部分社会そのものの憲法上の地位の重要性である。 即ち、村議会について言えば、これはわが国憲法がその第8章「地方自治」で保証しているところの自治権の問題なのだ。また、大学の自治は、第23条の学問の自由の、また政党内部の問題は第21条の結社の自由の問題である。このように、憲法が国からの自由を認めている領域内で発生した問題については、たとえ裁判所と言えども国家機関だから、その審査に服させるのは適当ではないからである。ここに、同じように部分社会でありながら、扱いが異になる理由がある。
 この第3の場合であっても、常に無条件で司法審査から外れるわけではない。司法権が立ち入らないのは、紛争があくまでも内部における自治の範囲にとどまっている限度においてのみである。構成員を除名したりする場合には、その構成員はもはやその部分社会の内部にとどまらないことになるから、司法審査の対象になる。例えば先の地方議会の判決で、最高裁は、議員の除名処分は「議員の身分の得喪に関する重大事項で、単なる内部規律の問題にとどまらない」ということを理由に、司法審査の対象になると述べている。しかしその場合でも、第2の類型に移行するのであって、第1の類型のように全面的に全体社会の規範に従って処理される、ということではない。

全 体 社 会
価値観の異なる部分社会 価値観の共通する部分社会
全体社会の法を適用 普通の部分社会 憲法上の価値を有する部分社会
全体社会の法と統一的規範のある部分社会 全体社会の法と統一的規範のない部分社会 裁判の対象外
部分社会の法を適用 全体社会の法を適用



 第3節 法規範の強要性と強制力

〈ポイント〉

 社会秩序とは社会的予見可能性のことであった。人が原則的にどのように行動するかが判っていれば、それに対応して、自分の利益がもっとも大きくなり、被害が少なくなるように行動することが可能になる。法規範が人の行動を十分に予見させる力、それをここで勉強する。

  第1 法規範の強要性

[1] 強要性とは

 社会秩序を法規範化すると、社会的予見可能性(Possibility)が蓋然性(Probability)に高まる*4。前に説明したとおり、規範とは簡単に言えば「〜べきである」という当為の法則のことであった。当為というのは、要するに、その対象となっている人(これを「名宛人」という。)に対する命令である。すなわち規範である限り、すべてその本質的な要素として、名宛人はそれを遵守すべきだという要求を、その本質的性質として有している。すなわち単なる社会秩序であれば、人がそうした行動をとる可能性が高いというに止まる。しかし、それが規範として意識されるようになると、その社会の持つ価値観を共有している人なら、そのとおりの行動をとらねばならないこととなる。
 規範の持っている、こうした遵守を要求する性質のことを「強要性」という。法規範も、規範の一種である以上、当然この強要性を持っている。
 この強要性のことを織り込んで、第2節で述べた法規範概念を言いなおすと、法規範とは「社会秩序に関して原則を定め、その原則に強要性を与えることにより、ある社会に属する人に、その社会に属する他の人がその原則どおりにどおりに行動してくれる、という蓋然性を与えることによって、社会生活の円滑な実施を確保するための規範」だということができる。

[2] 任意法規と強要性

 このことを逆から言えば、法規範といえるものは必ず、強要性を有している。このように述べたとき、一番疑問が生ずるのが、「任意法規」と呼ばれる法規範である。すなわち、ちゃんと国の定めた法律に一定の規定があるにも関わらず、それに従うかどうかは個人の自由だ、という性格のある規定である。これに対して、必ず法律に従わねばならないとされている法規範のことを「強行法規」と呼ぶ。
 例えば民法の債権編に定められている条文は、そのほとんどが、任意法規である。すなわち、人々が物の売買や賃貸借の契約をしたりする場合には、自分達で契約の内容を自由に決めることが許されている。民法の規定は、人々が契約の中に定めておかなかった事項で後で問題が起きたときに、民法に従おうという意思があったと認められるときにのみ適用される補充的な性格のものである。従うかどうかが個人の自由であれば、そのどこに強要性があるのか、という疑問が生ずるのは当然のことである。しかし、こうした疑問は、強要性概念と任意法規の両方に対する理解の不足によるものである。
 法規範の持っている強要性は決して一様のものではない。規範の種類に応じて遵守する方が好ましいという程度のものから、絶対に遵守すべきだとされるものまで様々な段階がある。法規範の強要性が強いものになればなるほど、人は原則どおりの行動を採る可能性が高くなってくるから、その行動の社会的な蓋然性も高まる。強要性を誤解して、絶対に守られなければならないと言う概念と捉えてしまうと、任意法規には強要性がないことになってしまう。しかし、単に守ることが好ましいという程度の強要性でも、人の行動を予測するに当たって十分な蓋然性を提供する機能を果たしていれば法規範としては十分といえる場合もある。そのような場合には、その必要の限度に応じた弱い強要性を持つ規範が形成されることになる。そうした弱い強要性は強要性ではない、と硬直的に考える必要はない。
 では、そうした弱い強要性で十分な規範とはどのようなものであろうか。
 前節で、法の社会的基盤の理解として、私的自治に基づく行為というのは、部分社会の法の一類型である、と述べた。部分社会は、全体社会の法と調和性を持っている限りにおいて、自由に法を形成することができるが、その場合に、一つの基準を提供するのが任意法規である。それを必ず遵守する必要はないけれども、国が部分社会の法として必要なあらゆる要素を検討して作成しているから、無意味にそれから離れた規範を作るとかえって不合理な事態が発生することになる。要するに、任意法規といえども、それを遵守することが好ましいのである。
 したがって、人は部分社会の法を作るに当たっては、まず任意法規を基本においてにおいて、それから自分の属する部分社会の特殊性に応じて、必要な限度でだけ、任意法規とは異なる規範を制定するのが普通である。こうして、任意法規は、社会の人々に、部分社会の法がどのような形に形成されるのかのおおよその情報を示し、また、それと違っている点を検討することで、容易にその全体像を示す機能を果たしていることになる。
 その意味で、任意法規は、個々の条文が問題なのではない。部分社会の法を形成している個々の規範は任意法規と乖離していても問題はない。ただ、その全体が作り出している一つの体系が、任意法規によって示されている価値体系と乖離することは許されない。すなわち、任意法規の形で示されている全体社会の価値観と調和性を持っていると認められる場合にはこれを全体社会が尊重することになる。「尊重する」とは、裁判所が、全体社会の法を部分社会に強要せず、部分社会の法に基づいて、部分社会に発生した問題を処理する、ということである。
 しかし、全体社会から見て、その部分社会の法規範の体系が任意法規の体系と全面的に食い違っている場合には、全体社会の法と調和性を持たないことになる。そのように認められた場合には、全体社会は、その部分社会の法を否定する。すなわち、全体社会は、その部分社会の法の不遵守を今度は強要することになる。このことを、民法は、公の秩序や善良の風俗に反する部分社会の法は、これを無効とする、という形で述べている(民法90条参照)。 もちろん、そのような判断が示されるのは、部分社会に属する人が裁判所の判断を自ら求めた場合に限られる。したがって、公序良俗違反の行為といえども、当事者が任意に遵守する場合に、それを国が積極的に介入して否定するまでの効果はない。刑事法規のような、強行規定違反の程度に達している場合はもちろん別の話となる。 

  第2 法的強制

[1] 法的強制の分類

 規範によって作為ないし不作為を行うべきであるとされている人(これを「名宛人」という。)に対して、規範を実行させるために加えられる力を「強制」という。法規範に伴う強制は、特に「法的強制」という。強制が力であることを強調する場合には「強制力」ということもある。
 強制の手段には様々なものがあるが、基本的には@名宛人の心に強制を加えて、規範的命令のとおりに行動しなければと考えさせることにより規範の実現を図る「心理的強制」と呼ばれる手段と、A規範の執行者の側で実力を行使して、名宛人が規範を遵守した場合と同じ状態を引き起こす「物理的強制」と呼ばれる手段の2つに分類することができる。また、法的強制は遵守させる手段の向けられる方向により、消極的、積極の2つに分類することもできる。消極的手段とは、規範に違反した場合に、人に不利益を与えることによって規範の遵守を強制するものであり、積極的手段とは、規範を遵守した場合に、何らかの利益を与えることにより遵守を強制するものである*5
 したがって、これらの組み合わせにより、法的強制手段は4通りの分類ができることになる。もっとも実際に使用される強制力は、多くの場合、これらの強制手段がさらに組み合わされた複雑な性格を示すことになる。

[2] 消極的法的強制

 法的強制は、不利益を与えることにより消極的に規範の遵守を行わせる形を採るのが普通である。

(1) 刑罰法規

 不利益を与える法的強制を伴う典型的な法規範は刑罰法規である。剥奪する人の権利の種類に応じて、人の自由を剥脱する刑(自由刑=懲役、禁錮等)、生命を剥脱する刑(生命刑=死刑)、財産を剥奪する刑(財産刑=罰金等)に分けられる。自由刑や生命刑の場合には、強制を与えることで、その人に犯罪を犯すことを物理的に不可能にするので、物理的強制に属する。しかし、自由刑の場合には、その辛い体験から、2度と刑務所に入るような羽目にはなりたくないと思わせるという意味において、心理的強制の要素も有する。また、財産刑の場合には、専ら心理的強制となる。このように、強制の対象となった人が、再び規範に反する行為に出なくなる力を持つという観点からの効果を「特別予防」という。 また、そうした刑罰が課せられるということが判っていると、人々は一般に、そうした強制を加えられることをおそれて、規範違反の行為に出なくなることが考えられる。刑罰など、強制にそういう効果があるとする考え方を「一般予防説」といい、わが国刑法の通説的な理解と言ってよい*6

(2) 行政強制

 刑罰に次いで強力な強制力を持つのは、税法などの行政法規である。例えば国税徴収法第5章滞納処分によると、税金を滞納した場合には、その滞納者の財産を税務署は差し押さえ、他の人に売ってお金にし、それを税金にあてるとされている。この場合には、強制執行によって本人が自ら税金を納めたのと同じ効果が発生する。つまり物理的強制である。しかしこの場合にも、社会的蓋然性確保という観点からみれば、そうした強制制度の裏打ちにより納税を促す効果を持つから、心理的強制効果も有していることになる。

(3) 民事執行

 任意法規の有する強要性を実質的に担保するための法的強制手段として、民事執行制度がある。この場合の強制手段には、強制執行、代替執行、間接強制の3種類がある。強制執行とは、国が権利者に属する財産を義務者から奪って権利者に引き渡すという方法である。代替執行とは、義務者の費用で、国が義務者のするべき行為を代わって行うという方法である。これに対して、義務者が自分自身で果たさなければ意味を持たない義務(例えば、名演奏家が演奏をする義務)の場合には、義務の履行が行われない間は、それに応じて違約金を取るなどの方法で、心理的に強制するしか方法がない。これが間接強制である。

(4) 無効と取消し

 ある行為に対して法律が無効又は取消と定めている場合がある。 無効となる場合の一番典型的なものは、民法90条の定めている公序良俗違反の場合に無効とするものである。これにより、そうした契約を締結すること自体を抑圧する力が働くという意味で、ここにも強制力の存在を認めることができる。又、「権利の濫用はこれを許さず(民法1条3項)」としている。そうした濫用行為は権利行使に当たらないので、これも無効になる。
 取消の典型例は、民法96条の、詐欺又は脅迫による意思表示にみることができる。この場合、取消という意思表示をするまでは、それは有効である。取消をした瞬間から無効になる。つまり、詐欺等の場合には、被害者の側に選択権を認め、何かの理由から(例えばその後の経済変動から、本来は損をしていたはずなのに、実際に利益がでるようになった場合等)それを有効なものとしたい場合にはそのままにすることができるようにしてある。このような制度を採用されている場合には、相手方は、その意思表示が有効なままでいるのか、無効になるのかがなかなか確定しないという不安定な立場に置かれることになるので、確定的に無効とされる90条違反の場合の相手方よりも不利益を被る。が、それは詐欺のような犯罪行為をした者の自業自得というわけである。その意味で、その不安定性そのものに、純然たる無効の場合以上に制裁としての機能を認めることができる*7

[3] 積極的法的強制

 人々に利益を与えることにより、積極的に法規範を守らせるよう誘引するという形の強制は、以前の消極国家では珍しかったが、今日の福祉国家ではむしろ標準的な強制手段となりつつある。

(1) 免許、許可、認可等

 利益を与える強制の中でもっとも典型的なのは、事前にきちんとした行動をしたり、一定以上の技能を有することが確認できたものに限って、一般の人には許されていない行動をとることを、国や社会が許すというものである。例えば、前科がなく、一定以上の交通法規に関する知識と運転技術を持っていると認定できる人に対してだけ、自動車の運転免許を与えるというのがそれである。免許(特許ともいう。)の外、許可、認可等の名称が付されている行政行為は、皆こうした型に属することになる。

(2) 章、勲章その他の栄典の授与

 状況によってはさらに強い誘引を与える場合もある。原則的な行為をした場合に、何らかの社会的、物質的な見返りを与えることである。社会功労者や軍人などに与えられる勲章や年金は、人の名誉心などに訴えることによって、社会規範の遵守を強要するもの、ということができるだろう。

(3) 補助金等

 国や地方公共団体が私人に与える補助金や貸付金、債務保証などは、物質的な誘因の良い例である。

[4] 法的強制をもたない法規範

 法的強制は、法の強要性を確保するために必要な手段である。しかし、それが法としての基本的属性といえるか、については疑問がある。なぜなら、強制力を欠いている法律がかなり大量に存在しているからである。しかも、重要な法規範にそういうものが多い。例えば、憲法は、その典型である。又、国家機関を対象とし、一般国民に関係のない法律にも、強制規定はないのが普通である。また、国際法にも、強制力を備えていないものが多い。 こうした点から考えて、強要性は法の基本属性であるが、法的強制は必ずしも基本属性ではない、と考えるのが妥当である。



 第4節 法規範の一般性

〈ポイント〉 

 これまでに学んできた社会性と強要性という2つの法の基本的属性から、法を、@その対象となる人と、Aその人に対する指図、命令という、2つの異なるレベルで考えることができる。それぞれについて、一般性を考えることができる。両方のレベルで一般性が承認できて、始めて法は一般性があるということができる。このため、「二重の一般性」と呼ばれる。

  第1 2つの一般性

[1] 法の対象となる人ないし生活関係における一般性

 社会的規範は、その基盤となる社会の人々を対象とする。社会には、様々な人がいる。例えば注意力一つをとってみても、非常に注意深い人もいれば、軽率な人もいる。仮に、自動車を運転中に飛び出してきた人をはねてしまった場合、一人一人の能力を基準に「自動車運転時には前方に十分に注意を払わねばならない」という規範を遵守していたか否かを決める場合には、軽率な人は、その持てる力を振り絞っていたということで規範を遵守していたとされる一方で、注意深い人は、軽率な人と同程度の注意を払っていても、規範に違反した責任を問われることになる。
 法規範では、個々人の個性ないし特定の生活関係を問題にする場合としない場合とがある。問題にしない場合には、その法の基盤となる社会における平均的な人ないし平均的な生活関係を基準にする。換言すれば、法の名宛人は、それが規制している個々の場面で実際に対象となっている個性ある人、すなわち「特定人」である場合と、その法の基盤である社会における標準的な人、すなわち「一般人」である場合とがある。

[2] 規制方法における一般性

 法は、名宛人に対して一定の強要、すなわち一定の作為又は不作為を行うように指図をしたり命令したりする。その場合、人ごとに異なる指図命令を行う場合と、すべての人に同一の指図命令を行う場合とが考えられる。後者の場合には、指図命令に一般性があるということができる。
 例えば、生活に困窮している人がいる場合、その人ごとに困窮の度合いや健康状態等に応じて、生きていく上で必要な費用は異なる(病気であれば、単なる失業に比べて多くの費用が必要となる。)。したがって、生活困窮者に国が保護の手をさしのべるという規範がある場合にも、その個々の対応は、人ごとに異なることになる。この場合の法規範には常に一般性はない。
 これに対して、例えば国会議員の選挙の場合には、20才以上の者で、その地に所定の期間以上居住していれば誰でも、1人1票の投票権を持っている。知的能力が非常に優れている人でも、2票の投票権を与えられることはなく、老衰その他の理由から、十分に国会議員選挙の意味を理解しない者でも投票権を奪うようなことはない。このような法規範は一般性を有する。

  第2 一般性に関する定義

 一般性を有する法規範は、以上のことから、「一般的な人ないし生活関係を対象として、一般的な指図、命令を行う」ものと定義することができる。いずれか一方で一般性を欠いている場合には、その法規範は一般性を有するとはいえない。このように、一般性があると言うためには二重に一般性が要求されるところから、これを「二重の一般性」と呼ぶ。
 しかし、法規範は、常にその社会に属する人すべてを対象としているわけではない。むしろ、普通の法規範は、何らかの社会的指標によって、人々を類型に分け、それに応じた取扱いをしているのが普通である。例えば公務員という社会的身分を指標として国家公務員法や刑法(収賄罪、特別公務員暴行陵逆罪など)を定めていたり、あるいは公道で自動車を運転するという指標から道路交通法等の法律の対象となる人が定められたりする。この場合、同一の類型に属する人々は、類型的に同一の指図命令を受けることになる*8
 このことを重視して、一般性の定義を言い直せば、「類型的に同じ範囲に属せしめられた人々及び生活関係について、類型的に同一な指図命令を行なう」となる。また、以上の定義は、法規範からの視点を中心に言っているが、これを逆に、その法規範の適用を受ける個人の側から言えば、「ある人に、法規範に定められている特定の類型の生活関係が発生すれば、その人は、その都度その類型において一般的な取り扱いを受ける。」ということでもある。

  第3 一般性を法規範の基本属性と考える立場について

 一般性を、法規範の基本属性と考える立場がある。その立場では、行政活動や司法活動は、法規範の制定ではなく、その適用に過ぎない、と説明する。同様に、私人間の契約は、民法や商法の適用と説明する。
 確かに、法律に基づいて行政活動を行ったり、判決を下す場合には、法律の適用と説明できるかもしれない。しかし、国民の福祉が害されているような事態が発生している場合には、法律が無くとも、できるだけの国民のためになるように活動する義務が、行政庁にはある。また、裁判所が、法規範の不存在を理由として裁判を拒否することは、自力救済を許容してしまうことになるので、禁じられている。その場合、裁判所は条理に基づいて裁判するものとされる。すなわち、裁判官の良心に従って法規範を創造することになる。特に、裁判所に認められている法律の合憲性審査権(憲法81条)の実質は、あきらかに法の創造作用であって、単なる憲法の適用とはいえない。したがって、行政活動や司法活動のすべてを法の適用として説明することは不可能である。
 同様に、特定の人間で構成される部分社会の法規範は、ほとんどの場合、その部分社会限りのものであって、一般性を有していない。たとえば私人間の契約の内容が、民法と同一の場合にも、その契約が拘束力を持つのは、当事者がそれを自分自身の規範として定めたからである。それを、任意法規にすぎない民法が適用されたと説明するのは、任意法規という概念に反しており、無理がある。
 確かに一般性の概念は重要である。たとえば、わが国では、国会の制定する法律は必ずこの属性を備えている。正確に言えば、一般性を備えている法規範の制定権を国会が独占している(憲法41条参照)*9ことが、我々の権利が国から不当に侵害されないための、重要な保障手段となっている。しかし、一般性を重視するあまり、一般性を有しない規範が存在している事実を無視して、それを否定することは許されない。なぜなら、一般性を有しない規範は、その創設の基礎となった一般規範と全く同じ意味において全体としての法秩序の一部なのであるからである*10