通信の秘密
secrecy of communication
甲斐素直
目次
通信の秘密は、近時、インターネットの発達や「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」(以下、「盗聴法」という)の制定と絡んで非常に問題になってきている。しかし、これまで必ずしも詳しい研究対象となってきたとは言い難い。そのため、多くの点で未解決の問題点を含んでいる。
特に問題となるのが、その限界を構成する概念であろう。従来、漠然と公共の福祉という言葉で表現されてきている。が、その中核を占めるものとして、国家の情報収集権と呼ぶべき概念の存在をきちんと正面から認めるべきであろう。公共の福祉などという曖昧な表現でごまかすことなく、国家はいかなる根拠で、いかなる限度で情報を収集する権利を有するかをきちんと論じていかない限り、通信の秘密の明確な限界を見いだすことはできないと考える。
従来、通信とは封書や葉書、電信・電話のように、「当事者間の地理的な隔たりのために、第三者の仲介に依拠する特定人どうしの私的なコミュニケーション」*1とか、「通信手段を用いてなされる私的な言論」*2を意味すると解されてきている。隔地者であるために通信手段を用いないでなされるコミュニケーションの場合には、憲法35条の住居の不可侵などによって保護されると考えるのであろう*3。
このように、通説が、隔地者であるとか、通信手段を使用しているということを通信の秘密が保護されるための要件として導入する理由は、二つあると思われる。一つは、日本語における「通信」という言葉の語感が、通信手段を利用したコミュニケーションという限定を伴っているからであろう。今ひとつの理由は、通信の秘密に対する侵害の歴史が、もっぱら隔地者間における通信手段を利用した通信を対象に行われてきた、という事実であろう。
第一の点についていえば、憲法の英文を検討することが、日本語の語感に縛られないその本来の意味を示してくれると考える。21条2項は次のような表現となっている。
No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.
これを見れば明らかなとおり、ここには限定文言は存在していない。それどころか、一切のコミュニケーションが保護の対象となっていることは文言上明らかといえる。したがって、本項にいう通信をコミュニケーションとする理解をとる限り、隔地者などであることを要件として導入することは不要の制約を課して、いたずらに権利保護の範囲を狭めるものといわざるを得ない。
第
2の点についていうならば、通信の秘密に対する侵害の歴史が、もっぱら隔地者間における通信手段を利用した通信を対象に行われてきた、ということは事実である。しかし、それは、屋内での私人間の直接的コミュニケーションに対する侵害は、屋内に侵入して盗聴するというような手段によらない限り不可能であった、という従前の技術的な限界から発生していたにすぎない。そのような手段しかない時代においては、確かにそれらの問題は住居の不可侵でカバーされるから、その余の部分だけを通信の秘密の保護対象とするのも理由はある。しかし、今日では、科学技術の発達により、屋内に物理的に侵入しなくとも、屋内での会話を聴取しうる様々な手段が存在している。また、私人の看取する屋内などについては35条で律しうるとしても、人から立ち聞きされるのを防ぐため、広いグラウンドの真ん中で密談を交わしたとしても、それを電子装置を使用して盗聴することも今日においては容易に行うことが可能であり、それらも保護の対象として考える必要があることを考慮するべきであろう。現実に米国における盗聴法は、そのような行為も対象として、裁判官の令状発行が要求されている。その背景には、米国憲法第
4修正の保障するのは、「場所ではなく、人である」という判例の見解が存在しているからである*4。わが国においても同様に、コミュニケーションとして保護されるべきは、その発信者となる人であって、場所あるいは手段と考えるのは妥当ではない。35条そのものについていうならば、これは手続き的保障であって、その背後にどのような実体権が存在しているかを明らかにしたものではない。35条を支える実体権こそが通信の秘密と考える。
21条の1項と2項の関連において通信の秘密を考えるとき、次のように理解するのが妥当と考える。すなわち、人が他人とコミュニケーションを行うとき、そこにはそのコミュニケーションの内容を一般に公開する目的で行う場合と、特定人に私的に伝達する事のみを目的とし、一般に公表することは予定していない場合の二形態がある。前者が、普通、表現の自由の問題として取り上げられる。これに対して、後者を問題とするのが通信の秘密である。これについて、棟居快行は、前者を公的言論、後者を私的言論と呼び分ける*5。両者の異質性を明確にする意味で、よい道具となりうる言葉と考える。
したがって、実質的に見ても、形式的に見ても、通信について、我が国において、隔地者に限定した狭い通信概念を使用することが妥当とは考えられない。広くいっさいの私的コミュニケーションと把握するべきである。定義的に述べるならば、通信とは、
「音声、書簡、電気通信その他、媒体の如何を問わず、特定人間において行われる私的コミュニケーション」
ととらえるべきであると考える。
通信の秘密の意義に関しては、現在、大きく分けて三つの説が存在している。
第一は、
21条を根拠に通信の秘密が依然として表現の自由の一環であることを承認しつつ、プライバシーの権利の一環であることも承認する、という折衷的な考え方である(以下「表現の自由・プライバシー説」という)。少なくとも教科書レベルではこの見解を説くものが多く、通説的なものと思われる。表現の自由の保障となるという根拠としては次のようなことがいわれる。
*6」「通信が他者に対する意思の伝達という一種の表現行為であることに基づくが、更に、公権力による通信内容の探索の可能性を断ち切ることが政治的表現の自由の確保に連なるという考え方もそこにひそんでいると解される。
あるいは次の表現の方が、より端的に表現の自由との関連を承認しているといえる。
*7「個人間の意思伝達が個人の意思形成にかかわり、表現活動の前提となるので、その秘密を保護し、公権力による監視を排除する趣旨を持つものである。」
この見解を採る場合、表現の自由と、この権利の内実としてのプライバシーの権利をどのように調和させて理解するのか、という問題が生ずる。この点については、その見解を詳述したものは、管見の限りでは見あたらず、はっきりしない。しかし、通信の秘密を対国家的権利と把握するのがこの見解を採るものの一般傾向であることから考えると、力点は表現の自由に掛かり、ただ、その性質がプライバシーに類似していると把握しているに止まると理解すべきであろう。
第二は、プライバシーの権利そのものであって、表現の自由とは独立の権利と考える立場である(以下、プライバシー説という)。この説は、上記表現の自由・プライバシー説が、表現の自由の法理を混在させることを批判しつつ、次のように説く。
13条の『幸福追求権』に基づくものであるが、それが当人の管理範囲内で行われる場合には35条の『住居等の不可侵』による。*8」「(通信の秘密)は本来プライヴァシイの問題と考えられる。意思・情報の人格間での伝達の保護が眼目となっており、この保護は個人の持つ秘匿欲求に応ずるものと見られるからである。かかる保障の一般的根拠は憲法
第三は、
21条に定められていることを直視し、プライバシーから峻別された表現の自由の一環として通信の秘密を理解しようとする立場である。すなわち、プライバシー説ないし表現の自由・プライバシー説で把握するときは、ここで秘密と呼ばれているものはプライバシーを意味する、という議論であるのに対して、表現の自由の一環として把握するときは、通信の自由が保護され、その消極形態として、通信の秘密も保護されるという論理構造をとることになる(以下「通信の自由説」という)*9。この説は、秘密の概念における異質性という点で上記二説と相違する。すなわち、秘密とは、第三者の知得を排除する意図があって初めて成立する概念であると説く。したがって、表面上も封鎖性が期待されることの明らかな封書や小包に限られる。葉書やインターネット通信のようなものには、第三者の知得を排除する意図があるとは認められないから、それらを対象に通信の秘密侵害という問題は起こり得ない。あるいは、先に論じた直接的な私的会話の場合、偶然脇にいれば耳にはいるような状態下で行われている私的会話については、通信の秘密の対象とはならないので、公権力が故意に傍受しても問題にならないと考えるべきである、と説く。
これに対して表現の自由・プライバシー説ないしプライバシー説に立つ場合には、それらについても私的コミュニケーションである限り、プライバシーが成立するから、そのコミュニケーションが実質的に保護に値する秘密性を有するか、また、通信の当事者が秘密にすることを欲するか否かに関わりなく、通信の秘密を侵害する行為と評価されることになる。
前節に論じたとおり、通信、すなわち私的コミュニケーションについては、
21条1項の保障する表現の自由、すなわち公的コミュニケーションの一環としての自由においては、本来、保護対象にはならないと考える。したがって、21条2項において通信の自由、すなわち私的コミュニケーションの保護を読み込むべきである、という点において、通信の自由説に賛同する。しかし、そのことと、通信の秘密の保護内容をどう把握するか、ということは必ずしも連動しない。すなわち、プライバシー説をもって妥当と考える。その詳細については、次節以下に詳述するが、理由を簡単に述べれば、第一に、私的コミュニケーションの本質は私事性にあるからである。公的コミュニケーションは、もっぱら国家からの侵害のみを念頭に置けば十分であるのに対して、基本的に私事性を有するコミュニケーションにおいては、むしろ私人からの侵害を重視すべきである。その意味において、通信の秘密の保護法益はプライバシーにあると理解するのが妥当と考える。自由権が一般に国家からの自由を保障するものと認識されているのに対して、プライバシーの権利は、ウォーレン・ブランダイスの創見以来、国家からの侵害もさることながら、私人による侵害から私事性を守る権利として発達してきた点にその最大の特徴がある。第二に、私的コミュニケーションが基本的にプライバシーに属することは明らかである。したがって、仮に
21条2項の保護法益としてプライバシーを読み込まない時は、同じ内容を13条で読むべきことになるだけである。結果に影響を与えない解釈の複雑化は避けるべきであろう。また、表現の自由・プライバシー説は、通信の秘密を表現の自由の従たる権利と把握する点で誤っていると考える。先に、紹介した棟居快行の用語を使用するならば、
21条は、1項で公的言論を、2項で私的言論をそれぞれ保障することにより、全体としてあらゆる言論を保障する機能を有している、と考えるべきである。すなわち、公的言論と私的言論は対等の存在であって、私的言論をして、公的言論に奉仕する存在と限定して保障していると考える必要はない、と解する。
以上のように、通信の秘密とはプライバシーを意味すると理解するとき、秘密とは、次の概念である。
第一に、通信の有無そのものが秘密となる。したがって後に論ずる守秘義務者は、公権力からの問い合わせに対して、単に特定当事者間に通信が存在した事実を明かすことも、また禁じられることになる。刑事訴訟法
197条2項は「捜査については、公務所または公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる」と規定するが、これは問い合わせの自由を保障したものであるにすぎないと解する。すなわち、これに応じて郵便官署や電気通信事業者が、通信に関する事項を報告するのは許されない。同条はその限度で限定的に理解されなければならない。第二に、通信の外形から知ることのできる事柄、すなわち通信当事者の氏名・住所、通信日時、通信の場所等もまた保護の対象となる。通信の回数もまた、保護対象である。
第三に通信の内容が保護の対象となる。先に述べたように、その内容が実質的に保護に値する秘密性を有するか、また、通信の当事者がその内容を秘密にすることを欲するか否かに関わりない。
これらはいずれも主としてプライバシー保護の論理から導かれる結論であることに注意するべきである。厳密な通信の自由説を採る阪本説が、第二の点を読み込むのはその意味で疑問である。
通説は、通信の秘密は国家からの侵害に向けられた保護であるので、私人による侵害までもカバーするものではないと説く。確かに、自由権は本来国家からの自由であるから、その限りにおいて、この見解は正しい。しかし、上述のように保護法益としてプライバシーを考えるときには、それが私法上の権利、すなわち私人間において専ら効力のある権利として出発し、発展してきたことを無視するもので、不当というべきであろう。表現の自由と異なり、通信の秘密は私人もまた名宛人とする権利と考えるべきである。
現行の電気通信事業法は、次のように規定して、私企業である電気通信事業者に守秘義務を課している。
3条 電気通信事業者の取扱中に係る通信は、検閲してはならない。
4条
1項 電気通信事業者の取扱中に係る通信の秘密は、侵してはならない。
2項 電気通信事業に従事する者は、在職中電気通信事業者の取り扱いに係る通信に関して知り得た他人の秘密を守らなければならない。その職を退いた後においても、同様とする。
従来、通説は憲法の自由権規定の私人間効力を否定する立場から、私企業に課されていた守秘義務の説明に苦慮し、NTTとKDDのわずか2企業だけが電気通信事業者であった時代においては、次のように説いていた。
「株式会社とされたのは経営上、技術上の都合に過ぎず、独占企業的性格があって、国民は利用を強制される状況にあることなどから、国家に準じて考えることができ」る*10。
が、通信が自由化され、全国に数千社の電気通信事業者が乱立している今日において、電気通信事業者に対して守秘義務が課せられる根拠としては明らかに不適切であろう*11。
これはこのような通信の秘密の持つ私人間効力から来るものと理解する事ができる。同様に、刑法が私人の信書開封行為を処罰している(133条)のも、通信の秘密の持つ私人間効力として理解することができる。
インターネットの普及とともに、今日、通信の秘密に対する私人からの侵害の危険性は、非常に高いものとなっている。例えば特定人にのみ公開するという明確な意思の下に、メタタグにもそのことを明記しているにもかかわらず侵入するロボットに対しては、何らかの法的規制が必要と考える。
同様に、会社内のコンピュータから発する私的なEメイルを会社側が全て検閲し、場合によってはそれを解雇事由として使用したりするのも、明らかにプライバシーの侵害として禁圧されるべきだと考える。
これらは、刑法の禁止している私人の信書を開披する行為に準ずる行為だからである。
通信の自由が、表現の自由とは異質の私人間コミュニケーション概念であることを直視する場合、検閲概念について、表現の自由との関連で論じられるものをそのまま継承することはできない。すなわち、表現の自由においては、表現が言論の自由市場に到達する前に、国家権力がその内容を審査し、その表現を許すか否かを問題とするものであった。しかし、私的コミュニケーションにおいては、そもそも言論の自由市場への到達があり得ないから、この検閲概念を維持することはできない。
事前・事後を問わず、公権力による通信に対する調査・探求を禁ずるのがここでの検閲の意味であると解せざるを得ない(通説)。
このように解する場合には、通説のように通信の秘密が対国家規定であると解する場合には、検閲と通信の秘密は完全に重複する概念規定となる。その点からも、通信の秘密は対私人効力も含むものと解するべきである。
通信の秘密には、憲法の文言的には制限を課することが明示されていない。しかし、それは絶対的な保障を意味するものではないと解される。その根拠について、従来は次のようにいわれてきた。
「(1) プライバシー一般の根拠たる幸福追求権が公共の福祉による制限を明示的に受けていること(13条)
(2) 通信の秘密と並列関係にあると考えられる住居等の不可侵は、その保障解除について詳しく規定する、ことなどから推測される。」*12
いわれている内容そのものに反対はない。しかし、私は、冒頭に述べたとおり、このように漠然と公共の福祉という概念でこの問題を説明することに対して批判的である。通信の秘密について考える場合、その限界となる公共の福祉概念の中核的内容をなすものとして、国家の情報収集権という概念の存在を明確に肯定すべき時期にあると考える。ここで使用している「国家の情報収集権」なる用語そのものが、これまでわが国学界では、積極的内容を持つものとして使われることは、管見の限りではなかった。すなわち、これまでの通信の秘密をめぐる議論は、国家側に情報収集権があることを暗黙のうちに認めつつ、それを可能な限り否定的にとらえることで、通信の自由を確保しようという形で議論が展開されてきたように思われる。
しかし、国家の情報収集権は、一方に通信技術の著しい発展があり、他方に国家に対する社会権的要求が高まるとともに、単に通信の秘密をめぐる限界として把握するだけでは十分といえない重大な問題となりつつある。すなわち、国家として情報を収集することが一面において技術的に容易になりつつあり、それによる国民の自由侵害の危険が高まっている。例えばインターネット通信の傍受は、きわめて容易に行いうる。他面において、情報技術の進歩は、情報の内容に止まらず、発信者の氏名、場所といった外的情報も含めて、情報の秘匿性を高め、国家が積極的に情報収集を行おうとしても不可能な状況を作り出し、その結果、犯罪等への悪用の危険から、国家が市民社会を防衛することが非常に困難な状況になっている。例えば、犯罪者によるプリペイド型の携帯電話器の利用や、解読不可能な暗号を利用した通信により、従来からの警察技術では適切な情報収集がきわめて困難になってきていることは明らかである。
したがって、今、我々は一方において警察に対してより広範な調査権限を付与する必要があると同時に、そうした強化された警察機能に対する、より厳しい民主的もしくは司法的統制手段の確立を必要としているのである。
警察活動にはいくつかの類型が存在している。通信の秘密と関連して重要なのが、そのうち、刑事警察活動と公安警察活動である。
刑事警察活動に関しては憲法31条以下の条文がそれを明確に肯定し、様々な特権を認めるとともに、厳しい規制を予定している。したがって、通信の秘密との関係においても、それに対応した特権と、厳格な統制が要請されることは疑う余地がない。
情報収集活動は、刑事警察活動においては、その捜査の一環を占めるのにすぎない。これに対して、公安警察活動においては、その全活動が原則的に情報収集に向けられている。そのための組織としては、国内的には、狭義の警察機構内に存在する巨大組織に加えて公安調査庁及び自衛隊内の調査組織があり、国外においては外務省がその役割を担っている。そしてこれらを統合する存在として内閣調査室が存在している。公安警察は、このように巨大な国家的存在であり、多数の公務員と少なからぬ国費を投入して展開されている活動であるのに、その憲法的な根拠について、憲法学界において、これまでほとんど検討されてこなかったのは、憲法学者の怠慢と評価すべきであろう。
これに付き、私は次のように考えている。外国からの脅威からわが国の安全と平和を守るために行われる情報収集活動は、憲法9条が根拠規定となると考える。すなわち、9条についてどのような解釈を採る場合にも、わが国が自衛権を有していること、及び、わが国の安全と平和は、可能な限り武力によることなく維持すべきこと、の二点が憲法的要請であるという点に関しては、異論がないと考える。そして武力以外の方法で国を守る方法が具体的に何であれ、その方法を行使するに先行して十分な情報を取得し、それに基づいて的確な対策を立てる必要があることは明らかである。自衛隊という形で存在している武力の存在を、限定的に、あるいは否定的に考える方向に9条を解釈する場合、その限定や否定の度合いが強くなればなるほど、情報収集活動を通じた自衛権行使の必要性は、それに比例してより大きなものとなることは、自明の理といえよう。牙や爪を持たないウサギは、その分だけ耳を長くして、危険の存在を素早く的確に捉える以外に、生き延びる方法は持たないからである。
国内において、現行憲法秩序を破壊しようと試みる者から、現行憲法秩序を守ろうとするために行われる情報収集活動に対しては、憲法99条が根拠規定となる、と考える。わが国はドイツのように明確に戦う民主主義という原則を採用しているわけではないが、それでも現行憲法秩序を破壊しようとする者に対して、国家として戦う権利を有していることは当然である。そのことは、例えば刑法に存在する内乱罪や騒乱罪について、違憲とする主張が見あたらないことから見て、学説的にも異論がないものと考える。こうした憲法秩序の侵害行為に対しても、外国からの脅威と同様、それを未然に防ぎ、あるいは不幸にして事態が発生した場合に、迅速、的確にそれを鎮圧する方向に活動するためには、優れた情報収集を欠かすことができないのは当然といえる。ここに、公務員としての憲法尊重擁護義務の一環として、憲法秩序を破壊しようとするものに対する情報収集権を根拠づけることができると考える。
このようにして認められる国家の情報収集権が、現行憲法の下で、どのような制約の下に肯定されるべきかについて、いくつかの類型に分けて、以下、論じたい。
表現の自由の行使として行われる公的コミュニケーションの収集活動は、本稿の直接の対象ではないが、国家情報収集権との関係から、簡単に一言しておきたい。
警察活動の限界については、かってポポロ事件に代表されるように、大学の自治との関連で議論が展開されてきた。同事件を、本稿で問題としている情報という観点から見るならば、次のように考える。ポポロ劇団が行った講演活動は、一般公衆を対象とするものであり、したがって公的コミュニケーションに属する。このような公的コミュニケーションは誰にでも公開されているものであるから、警察だけを例外とする議論には賛成できない。
本事件の下級審判決は、元富士警察署員が東大内の情報収集を行っていたことを根拠に、
「かかる行動は、それ自体としては一見、逮捕、監禁、暴行等の可罰的違法類型に該当するかの如くに見える。しかし、被告人の右の行動は、憲法第23条を中心にして形成される重大な国家的、国民的法益の侵害に対し、徒らにこれを黙過することなく、将来再び違法な警察活動が学内において繰返されざらんことを期し、これを実効的に防止する手段の一つとして、逃げ走ろうとする警官をその場において捕え、氏名、官職、所属警察署等を確かめ警官の違法な学内立入りの事実を明かにしようとしたものと言えるのである。」
として正当行為とした。が、上述のように、国家の情報収集活動は、それが違法な手段によって行われない限り、一般に合法的な活動である。同事件の場合、ポポロ劇団の公演という一般に公開された場所において、一般人と同等の立場から行っていた情報収集活動であるから、憲法的にも是認されるものと言える。よって賛成できない。
他方、最高裁は、大学の自治を学問の自由を目的とするものであるから、学問の自由と関係のない政治的な活動等は、自治権の外にあると言う。しかし、何が学問の自由に属し、何がそうでないかを国家権力が判断すること自体が、学問の自由に対する国家権力の介入になり得る。したがって、そのような見解には賛成できない。現に、ポポロ劇団は、大学当局が公認している活動だったのである。
以上のことを総合すると、国家権力による情報収集は合法かつ民主的統制の下に行われる活動に限られるべきであり、かつ、公然と行われるべきではない。公然と行われるときには、その存在それ自体が、対象となるものに萎縮効果を与える結果、隠然たる事前抑制機能を発揮する可能性が高いからである。
具体的には通常の報道機関がわが国憲法上有している取材の自由と同等の、情報収集の自由は有するが、違法な取材とみなされるような活動は、警察活動においても許されないと考える。この考え方を採る場合には、ポポロ劇団の公演は一般公開されていたものであるから、当然、警察と言えどもその自由に観劇することが許されるのであり、その暴力的な排除は違法と考える。
なお、国外において行われている情報収集活動は、わが国の場合、原則的にこのような公開情報の収集に向けられており、そのような活動が合憲であることは疑う余地がない。ただし、それが相手国において同様に合憲・合法と評価されるか否かは別問題である。しかし、国家情報収集権の行使は、国の安全の問題であり、相手国内法秩序との整合性は、少なくともわが国憲法レベルにおいては問題にする必要はない、と考える。
私的コミュニケーションに対して、憲法が国家の情報収集権を承認していることは、憲法35条の存在により明らかである。それと同時に、裁判所の介在による厳しい統制をそこに予定している。
ここで特に問題とすべきが、現実に犯罪事件が発生する以前に、あるいは犯罪に何人がかかわっているかが明らかにならない段階で、犯罪関係者と疑われる者に対して行われる、いわゆる内偵捜査といわれる活動である。それが社会の安全を維持する上できわめて有益な活動であること自体を否定する方はいないであろう。
たとえば、東京の地下鉄内にサリンガスが撒かれる、という非道な犯罪が起き、社会が恐怖のどん底に突き落とされる、という事件が起きた。このとき、警察は、誘拐事件の捜査という別件名義の下に、ただちにオーム真理教施設に、自衛隊から借り出した化学防護服に身を固めた捜査員多数を投入し、教団こそがそのサリンガス事件の犯人であることを明らかにし、社会の恐怖を沈静化することに成功した。
あのように素早い捜査が、サリンガス事件の際に、現場に遺留された証拠品の捜査から可能になったわけはないから、明らかに、教団に対するそれ以前から展開されてきた根気強い内偵捜査の成果として評価すべきであろう。このように、犯罪から社会を有効、適切に防衛するためには、犯罪事実が確認される以前に、先行的な捜査活動が必要であり、これを法的にも明確に肯定すべきであろう。現在、刑事訴訟法は、犯罪が発生した後の刑事捜査だけをもっぱら対象としているが、このような問題を考えるならば、公安警察活動に対しても、その適用可能性を考えるべきであろう。
同時に、このサリンガス事件の陰の部分に対しても、我々は明確に認識し、論ずる必要がある。すなわち、自衛隊から化学防護服をわざわざ借り出すほどの明確な犯罪の疑いを、警察当局が当初から有していたにもかかわらず、その事実を裁判所に開示せず、あえて別件の誘拐事件の捜査という名目で捜査令状を取得した点は、あきらかに憲法35条違反と評価すべきである。もし、開示できるほどの証拠がないにもかかわらず、単なる見込みによる証拠あさりFishing Expeditionを行ったのであれば、それもまた大きな問題である。このような裁判所の統制を免れる形で犯罪捜査を行うことを防ぐためには、アメリカ同様に、捜査令状が目的としていない事件に関して偶発的に見つかった物の証拠能力を否定するなどの理論構成を、我々も必要としているというべきであろう。
通信の秘密の本質をプライバシー権と考え、かつ、プライバシー権の本質を自己情報コントロール権と考えるとき、そこで保護される情報には、プライバシー固有情報とプライバシー外延情報の二種があることになる*13。
プライバシー固有情報は、センシティブ情報ともいわれ、個人の生き方・生活・生存の基本的内容(全体像)を示す個人情報であり、その種情報を国家が収集する事は原則的に禁止されると説かれる。この結果、国家が警察活動の一環としてその種情報を収集するには、裁判所による令状が必要であると考えられる。米国の場合、連邦法は、合衆国大統領に対して外国からの特定の脅威に対して国を守るために電子監視に関して憲法上の許可を取らねばならないという制約を免除しており、したがって大統領は令状なしで電子機器による監視ができるとされている*14。しかし、わが国の場合、そのような立法は存在していないから、そのように要件を緩和して解釈する余地はない。
プライバシー外延情報、すなわち個人の道徳的自律の存在に直接関わりのない外的事項に関する個別的情報の場合には、正当な政府目的のために、正当な方法を通じて取得する場合には、ただちにはプライバシーの侵害にはならない。通信に関していえば、通信の秘密を構成する諸事項のうち、通信の外形から知ることのできる事柄、すなわち通信の有無、回数及び通信当事者の氏名・住所、通信日時、通信の場所等の事項は、特段の事情がない限り外延情報に属すると解する。したがって、合理的な根拠がある場合には、警察として、その種情報を令状なくして収集し、蓄積することが許される。が、他への提供の原則的禁止となると解する。
わが国現行刑事訴訟法は、対象となるものが有体物であると否とにより、捜査方法を分けて規定する。すなわちそれが有体物であって、国に占有を移すことが可能な場合には押収する(刑訴99条)。これに対して占有を国に移すことが不可能な対象の場合には検証する(刑訴128条)。すなわち写真、録音、文書化その他、人、場所、物の性質・形状を五感の作用で認識する行為である。
有体物の形態をとる通信を、以下、郵便物と総称することにする。すなわち、ここに郵便物とは、封書、葉書、電報のほか、小包、ビデオ、FD、CDその他、通信が有体物の形態をとっているすべてのものを意味する。従来は、郵政省及びNTTの行うサービスだけであったが、通信の秘密の本質がプライバシーであり、国家からの自由ばかりでなく、私人に対しても及ぶと解する以上、今日において宅配業者等の活動を除外する理由はない。
犯罪の捜査のための郵便物の押収は、35条の要件を満たす限り、問題はない。これにつき、刑事訴訟法100条は、通常の押収の「証拠物または没収すべきものと思料するもの」(99条)という要件を郵便物に関して緩和し、「被告人から発し、または被告人に対して発した郵便物」(同条1項)でありさえすれば押収可能としている。これについては、「通信の秘密の保障は、逓信官署に託された通信についても、これに私人の所持に属する文書と同様の保護を与えようとするものであるから、犯罪捜査の目的のためには、司法官権の発する正当な令状によれば、これを押収することができる」とする解釈が存在する*15。しかし、被疑者の管理下にある文書でさえも99条の要件を満たすものでない限り、押収できないことを考えれば、これは明らかに違憲といえる*16。さらに同条2項は「被告事件に関係があると認めるに足りる状況」にさえあれば、被告人と関係がない郵便物であっても押収可能としていることが問題となる。これについても、35条に違反し、違憲と解するべきであろう。
なお、郵便物の押収に当たり、多数の郵便物の中から、ある特定の郵便物だけが押収対象物であることを決定するには、そこにあるすべての郵便物からプライバシー外延情報を収集し、それに基づき選別する以外に方法はない。すなわち、プライバシー外延情報の収集に対しては令状は不要であるという原則が認められないと、そもそも郵便物の押収は不可能といえる。このことは、プライバシー固有情報とプライバシー外延情報の区別の有用性を示していると考える。
ここに電子機器による監視とは、単に通信の内容を密かに知得する行為ばかりでなく、先に述べた通信の外的要件、特に通信当事者の所在などを探知する行為(逆探知)を含む。
直接的対話、電話あるいは電子メールの盗聴については、場合を二つに分けて理解するべきである。すなわち通信の一方当事者の了解があって行う監視と、双方当事者の了解なしに行う監視である。また、通信内容に及ばない外延情報に関する監視についても考える必要がある。
身代金誘拐事件や脅迫事件においては、被害者側の了解を得て、警察による通信内容の盗聴・録取が行われ、また、電気通信事業者の協力による発信地の特定などの活動が行われることがよくある。この問題について判例はないが、内閣法制局意見(昭和38年12月9日付)によれば、犯人の「逮捕に必要な限度においては、事柄の性質上、現行犯人の私生活の秘密を含む基本的人権が即時的に侵害を受けるのはやむを得ない」ことで「日本国憲法33条及び35条も、このことを当然の前提としていることは明らか」としている。結論的には学説一般の支持を受け、そのような取り扱いが行われているが、理論的にこのことを論証するのは困難であり、一種の合理的緊急行為として許されるという見解が強い*17。
この点、米国においては、次のように考えられているという。
「連邦最高裁は連邦憲法においては当事者の一方が同意している場合には、政府公務員が当事者間の電話による会話を記録するために電子機器を使用することを禁じていないとの判断を示した(合衆国対ホワイト事件U.S. v. White 401 U.S. 745(1971)。同裁判所はまた、修正第4条は友人と思っていた人物が実は警察の情報提供者であった場合でも、会話している人間に対してプライバシーを保護しないと判決している。ここで人は、他人に話したことは何でもその人から警察に通報されるかもしれないという危険を負うことになる。このような場合は警察の『捜索』はない。したがって被疑者が友人だと考えていたものが、被疑者との会話を警察官が聞くことを承知した場合、被疑者の修正第4条の権利が侵害されたことにはならないし、収集された証拠は一方の当事者の同意があったという理由で許容性がある(オン・リー対合衆国事件On Lee v. U.S.,343 U.S.747(1952)*18」
しかし、対話者の一方の同意が直ちにプライバシーに対する期待権を失わせると解するのが妥当とは思えない。例えば宴の後事件において、三島由紀夫は描写対象となった夫妻のうち、妻の同意を得ていたにもかかわらず、夫の同意を得なかったことを根拠として、夫に対するプライバシーの侵害が認められた*19。
むしろ誘拐や脅迫等の犯罪行為を行う自由は、本来通信の自由には包含されず、したがって、そのプライバシーも保護されないと考えることが妥当であろう。もちろん、それが犯罪行為であることは、裁判所の確定判決があるまでは証明されていない。しかし、当事者一方の証言により、それが少なくともプライバシー固有情報に属するものでないことは明らかになっているのであるから、令状なくして国家が情報を収集することが許容される状態になっていると解する。
犯罪捜査一般のための電子的監視は、理論的にいうならば、郵便物と同様の要件の下に許されると解するべきであろう。この場合、上記の通り、犯罪行為に奉仕する通信の自由は認められないが、監視対象となるコミュニケーションが犯罪に関わるものであることが、単なる行政機関の推定に止まる限り、プライバシー固有情報としての保護を直ちに剥奪することはできない。プライバシー固有情報に属する情報の収集は、令状に依るべきことは、21条2項、31条及び35条からみても、当然のことであろう。ただし、プライバシー外延情報が対象となる場合については、令状なくして可能な場合もあると考えること、前述のとおりである。具体的にどのような場合があるのかについては後述する。
問題は、郵便物と異なり、電話等の場合は、あらかじめ監視すべき対象を限定することがきわめて困難な点にあり、捜査の必要から電話の盗聴を認める場合には、勢いある程度包括的な許容を予定せざるを得ない、という点に問題性を認める。しかし、郵便物に対する捜査の場合にも、全ての郵便物が捜査の対象となり、その中から「証拠物または没収べきものと思料」されるものだけが押収の対象となるのであるから、対象の包括性それ自体は郵便物との決定的な相違ではない。問題は、令状は、逮捕や押収、検証の場合、原則として直ちに被疑者その他の関係者に提示される(刑訴法110条参照)のに対して、通信を電子機器により監視する場合には、その提示が行われない、という点に存在する。提示を行えば、そもそも監視を行う意味が失われてしまうからである。その結果、相手方としてはそうした捜査を拒絶する正当な理由を有する場合にも、不知の結果として拒否権を行使する可能性を封ぜられてしまう点に最大の問題がある、と考える。
問題となる理由をどのように考えるにせよ、その結果、通信の電子的監視に対して、次のような要件を最低基準にすべきものと説かれてきた。
「a 重大犯罪、とりわけ人の生命、身体に危害を生ぜしめる犯罪に限定すること、
b 特に盗聴に依らねばならない特殊事情が存在すること、
c@ある特定の犯罪がすでに犯され、または犯されつつあること、
Aその会話がある特定の電話または場所で行われるであろうこと、を信ずるに足る相当の理由があること*20」
妥当であろう。
平成12年8月15日に施行された「盗聴法」は、この要件の具体化を図ったものであるが、それがどこまで徹底しているかは問題である。
第1の要件に関しては、盗聴が許されるのは盗聴法の別表に限定的に列記されるものに限るとされており、明確な歯止めが存在する点で、妥当であろう。これに対して、第2及び第3の要件に関しては、同法3条の文言は必ずしも明確とは言い難い。
しかし、これを補完する形で、裁判所側の対応に関する部分については「犯罪捜査のための通信傍受に関する規則」(平成12年3月15日、最高裁判所規則第6号)及び「通信傍受規則」(平成12年8月8日国家公安委員会規則第13号)が公布されて法律と同時に施行された。さらに施行と同時に、警察庁から「通信傍受規則の制定について」(依命通達)及び「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律の運用に当たっての留意事項について」(局長通達)も発せられた*21。
これらの諸法規を総合すれば、かなり第2及び第3の要件も明確であり、今後、こうした法令に則って適切に運用されるならば、合憲という評価が許されるであろうと考える。しかしながら、人権の法律による保障という観点から考える場合、これら関係規則等に定められている事項のかなりの部分は、根拠法律そのものが明定すべき事項であったと考える。その意味で、憲法41条に照らし、問題ある立法というべきであろう*22。なお、本法が定めていない形式による通信内容に対する電子的監視手段をどうするか、ということも一つの問題である。
第一は、本法が、いわゆる刑事警察活動に対応した法であり、公安警察活動のためのコントロール規定が存在していないことが非常に気になる点である。神奈川県警による日本共産党幹部に対する盗聴事件に端的に示されるように、従来から公安警察もこの種活動を行っていることは明らかである。こうした公安警察活動を適切にコントロールし、暴走させないようにする必要は極めて高い。他方、オーム真理教のような危険な存在に対する公安警察活動を確保する必要が存在することもまた、きわめて明白な事実である。この二つの相反する要求を同時に充たすためには、こうした電子的監視を公安警察活動にも明白に肯定すると同時に、その場合におけるコントロール手段も明確化すべきである。したがって、こうした分野に対する法的整備を急ぐ要があると思われる。
第二は、直接対話者間の私的コミュニケーションに対する電子的手段による監視である。対話者の一方の了解がある場合と、双方ともに了知していない場合とがある点で、隔地者間の私的コミュニケーションと同様である。前者については憲法理論的にどう解釈するかはともかく、前述のとおり、現行法制の下で令状なくして実施しうることについては異論はないと思われる。これに対して、両者が了知しない状態でその内容を把握することをどうコントロールするかは、本法では解決されていない問題である。かって判例は、盗聴器により室内の会話を盗聴した事件について、
*23「捜査に在り、その聽取器の取付け及び使用のため高橋信次方に出入するについては、同家屋管理者たる同人の承諾を受けたのであるが、同器は谷矢の居室の外側近くに取付けられたにすぎず、之によつて同室内の外観、音響等の利用形態には何等の影響をも来さなかつた」
と述べて、捜査の違法性を否定した。しかし、プライバシーの権利が確立した今日、このような主張が意味を持たないことは多言を弄するまでもなく、明らかであろう。今日では、密閉された室内における会話でさえも、室内に侵入するまでもなく、遠距離から電子機器を利用して聴取する手段が存在している。それらの装置によるプライバシー侵害の危険は無視し得ないほど大きなものがあることを考えると、これについても明確な法的対応を検討すべきであろう。
第三に、通信内容の暗号化の問題である。インターネット通信は、基本的に傍受に対する抵抗力が弱い結果、それを使用しつつ、通信の秘密を確保する手段として、様々な暗号技術がこれまでにないほどの熱意で開発されている。その結果、警察が正当な理由に基づいて、裁判所の許可を得て電子監視を実施しても、通信内容を把握できない、という事態が生ずる危険性が存在する。こうした事態に対応するには、アメリカで論じられているように、少なくとも市販の暗号については、あらゆる暗号方式とその解読キーを国家に登録させ、必要に応じて、厳格な規制の下でそれを利用して、電子的監視の結果了知した通信内容を解読する可能性を確保する必要があると思われる。
プライバシー外延情報に属する通信の秘密を電子的手段で監視する方法が存在する。アメリカで使用されている代表的な手段がペンレジスターである。これは被疑者の電話ではなく、電話会社の設備に設置され、特定の電話からダイヤルされた相手方の番号を記録するのみで、通話の内容そのものは記録しない。その結果、アメリカ連邦法は、「捜査官はこれらの機器を使用するのに電話盗聴のようなタイプの命令を必要としない」
と特に規定しているが、同時に電話会社が要求した場合における裁判所許可を取る方法も規定しているという*24。確かにこのような情報のプライバシー侵害の危険性は低いが、そこで何らのコントロールも必要としないと考えることには疑問がある。この点についても、内容にかかわる場合ほど厳しい要件は必要としないものの、それに準じた法制の整備が必要と考える。
インターネットの発達とともに、近時、公的コミュニケーションと私的コミュニケーションの中間的形態のコミュニケーション手段が出現してきた。チャットと呼ばれるものがそれである
*25。これらについて、基本的に国家がどの限度で監視することができるかが問題となる。これについては、未だ発展段階にあるコミュニケーション手段であるため、十分な判断を、現在の段階で行うことは難しい。基本的には公衆に開かれている場なのであるから、公的コミュニケーションに同視して警察は自由に監視しうると解したい。しかし、その結果、生ずる萎縮効果に対する不安も強く感じるからである。当面、プライバシー外延情報に属するものとして処理するのが妥当であろう。
これまで学界で、国家の情報収集権について正面切った議論が存在しなかったのは、学界の意識があまりに自由主義、すなわち国家による個人の権利の侵害の危険性を重大視していたからであろう。確かに、国家が恣に個人のプライバシーを侵害する警察国家という存在は恐ろしい。しかし、社会全体の情報化の進展とともに、今日において、我々は私人による権利侵害、すなわち犯罪組織の跳梁跋扈による我々の安全と生存に対する脅威の存在も否定できない事実である。
警察活動による私人の権利侵害の危険性と、犯罪組織による私人の権利侵害の危険性という二つの悪のいずれを選ぶか、と聞かれれば、私は躊躇なくの警察の強化という道を選びたい。なぜなら、我々の生きる民主主義国家において、我々が主権者としてしっかりした意識を持って行動する限り、警察活動をコントロールすることは十分に可能であり、警察がしっかりした活動を行っている限り、犯罪組織を抑圧することも可能である。それに対して、警察組織をあえて弱体にとどめた場合には、それは犯罪組織に対する有効な抑圧力として機能せず、警察力が不十分な状況の下においては、我々がどのように勇敢に行動しても明確な限界が存在し、ひいては民主主義そのものが崩壊の危険にさらされることになるであろう。いたずらに警察を危険視し、それを抑圧するときは「情報化社会の恩典を
100パーセント犯罪者に還元するだけのこととなってしまう」*26であろう。したがって、今日必要なことは、警察の活動能力を犯罪に対して十分効率的に対応できるよう高めるとともに、警察が、その主人たる国民の権利を侵害する可能性を可及的に減らすために必要なコントロール法制の研究であると考える。
本稿が、こうした問題に対する議論の端緒の一つとなれば、幸いである。