定住外国人の参政権

ーあるいは国籍法の改正について

甲斐 素直

 

 

目次

[はじめに]

一 参政権における法的問題の所在

二 学説の状況

三 政策的視点のあり方

(一) 朝鮮系及び中国系定住外国人について

(二) わが国少子化・高齢化問題とその解決策

四 憲法上の国民の意義

(一) 参政権の主体

(二) 主権者としての日本人の概念

(三) 国籍概念と参政権

(四) 国籍保有者概念の区分的運用について

(五) 現行法制における永住権者を基準とする説及び法案について

五 公務就任権について

[おわりに]

 

 

[はじめに]

 平成七年に最高裁が地方レベルの選挙についての判決の中で、わが国に定住する外国人に参政権を認めるかどうかは立法政策の問題と述べた。その結果、第一四四国会に「永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」と題する法案が提出されるなど、定住外国人に地方参政権を認める方向へ、急速に事態は動き始めている。

 こうした動きを受けて、憲法学界においても、近時におけるもっとも「fashonableな問題」と評される(一)ほどに、多数の論者が意見を発表している状態にある。しかし、それらの論考には、共通した一つの問題点が存在すると考える。すなわち、いずれも、もっぱら純然たる憲法レベルの観点にとどまっている、という点である。参政権が憲法解釈上、外国人の人権たりうるか、という問題は確かに重要であり、本稿でも少なからぬ行数を投じて論じようとしている点である。しかし、この問題が、上述のように、法解釈論ではなく、立法論として論じられるものとなってきている以上、なぜ現在の時点でこれを論じなければならないのか、という基本的な視点を抜きにしては意味がないものとなってきている。すなわち、そのような政策を採用することにより、わが国にどのような利益があるのか、という国家利益の観点からの議論が必要な段階に達していると思われる。そうすることにより、はじめて、定住外国人に参政権を付与する立法内容の当否を判断することが可能になるからである。

 しかし、従来の議論では、政策課題を問題意識に取り入れた場合にも、せいぜい、わが国の第二次大戦後の混乱の中で、一片の通達で国籍を剥奪された朝鮮系及び中国系の人々の救済の必要性、というレベルにとどまっている。確かに従来からわが国に定住する中国系及び朝鮮系の人々との間の多年の軋轢を解決することが、わが国の安定にとって重要な課題であることは間違いなく、そのために参政権付与という形の解決策を導入することには大きな意味があると考える。

 しかし、二一世紀を迎えようとしているいまの時点で、考えなければならない真の政策課題は、二一世紀において、わが国の少子化・高齢化の進捗に伴い、これまでとは比較にならないほど爆発的な増加が予想される新たな定住外国人を、速やかにわが国に同化させる手段という点にある、と考える。

 このような問題意識に立つ場合には、定住外国人に対する参政権付与問題は、それだけで独立して存在しているわけではなく、さらに帰化の定形化も含めた総合的な政策の一環として考慮されるべき問題ということになる。

 本稿は、このような立場から執筆されたものであるので、ここで外国人参政権問題に関して存在している、きわめて多岐にわたる多くの論点を悉皆的に論ずる意図は全くない。本稿は、この執筆目的に関わりのある論点に焦点を絞ったものであることを最初にお断りしたい。

 

一 参政権における法的問題の所在

 国際人権規約が批准され、内外人無差別という原則が確立された今日、外国人人権の排除という議論は、一般的には意味を失ったが、その唯一の例外として、今も外国人人権排除が認められている領域が、本稿で取り上げている、いわゆる定住外国人、正確には国籍法上日本国籍を有しないままに、わが国にある程度長期にわたって在住する者に、どの限度でどのような参政権を認めうるかという問題である。

 広義の参政権には、選挙権、被選挙権、公務就任権、政治活動参加権等が含まれるが、本稿で問題としているのは、そのうち、もっぱら選挙権、被選挙権及び公務就任権である。

 これについて、市民的及び政治的権利に関する国際規約二五条は、他の条文が「人」を主語にしているのに対して「市民」を主語としており、少なくとも、これがすべての人に共通に認められる人権ではなく、自らが市民と認められる国との関係においてのみ、認めうる権利であることを明らかにしている。しかし、そこに言う市民とはどのような地位かと言うことは一つの問題である。

 欧州などでは、定住外国人は人口の数%から数十%という高い率に達するため、これら定住外国人をどのように処遇するかは、国家にとり深刻な問題であり、したがってそれを解決するため、様々な政策的取り組みが行われてきた。定住外国人に対する参政権の付与という施策も、そうした取り組みの一環として現れてきた、ということができる。

 これに対してわが国では、在日外国人が急速な増加を見せた現時点においてすら、外国人登録をしている人数は全国総人口の一%程度に過ぎず、さらに定住者と認めうるのはその七割程度(二)という低さから、本質的には大きな社会問題となり得なかった。定住外国人の参政権問題が顕在化してきたきっかけとしては、定住外国人が現実に大きな社会問題となっている欧州諸国で、問題解決のため、積極的な法的手段が執られるようになったこと、及びそれに刺激されてわが国に定住する外国人自身による参政権訴訟が相次いだことがことが大きい。

 その中でも、次の二件については、最高裁が判決を下した。

(一) 在日英国人が参議院選挙権を求めるヒッグス・アラン訴訟(最高裁第二小法廷平成五年二月二六日判決)

(二) 在日韓国人の地方選挙における選挙権、被選挙権を求める金正圭訴訟(最高裁第三小法廷平成七年二月二八日判決)

 このうち、前者では、裁判所は、マクリーン事件最高裁判決を引用しつつ、参政権については日本人に限られるとして単純に退けているに過ぎず、内容に乏しく、表現にも新味がなかったため、社会にあまり大きなインパクトは与えなかった。

 これに対して、後者に対しては、最高裁第三小法廷は、その判決中で、立法論的には外国人の地方参政権を肯定する余地がある、と述べた(以下、「平成七年判決」という。)。外国人参政権問題に関しては、この判決から、にわかに議論が活発化した感がある。

 平成七年判決の中には、大別して二つの判断が存在している。

 第一の判断は次の箇所に現れている。

「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。」

 この点については、上記のヒッグス・アラン訴訟をはじめとする多数の定住外国人参政権問題に関する判決によって従来から示されてきたところから、ほとんど一歩も出ていない、ということができるであろう。

 それに対して、この判決が広く社会の関心を呼び、一般新聞の第一面トップにさえも掲げられたゆえんは、次の論述にある。

「憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。」

 こうして、この問題が立法課題として浮上したことが、社会に大きな反響を呼ぶことになったのである。

 

二 学説の状況

 「禁止」「許容」「要請」は、規範的命題の基本的カテゴリーであるが、本問題に関しても、この三類型の学説が存在している。すなわち、禁止説は、外国人に参政権を与えることは、憲法の禁止するところであると解する。要請説は、逆に外国人に人権を与えることが憲法の要請であり、したがって与えないことは違憲であると解する。許容説は、その中間にある説で、外国人に参政権を与えるか否かは立法裁量の問題であって、いずれも許容されていると解する。

 冒頭にも述べたとおり、国政と地方政とで分けて論ずる立場が増加しているから、その要素を加えてこれをさらに細分化すると、@全面(国政、地方の両者)禁止説(三)、A全面許容説(四)、B全面要請説(五)という従来から存在していた説の外に、最近では、その中間説として、C国政禁止・地方許容説(六)、D国政禁止・地方要請説(七)、E国政許容・地方要請説(八)など、組み合わせ的に考えられるかぎりのバラエティが出現してきている(九)

 この用語を使用して説明すれば、従来最高裁は一貫して全面禁止説をとってきたが、上記判決において地方自治レベルにおいて許容説を導入したことになる。なお、この最高裁判決は、その記述だけを取り出してみれば、国政レベルと地方政治レベルで異なったアプローチが可能であると述べたように見える。すなわち国政禁止・地方許容説(C説)を採用しているような印象を与える。

 近時、この説を採用する者が多数に上るようになってきた背景に、判例に対するそのような理解があると思われる。

 しかし、この訴訟が本来、地方政治レベルにおける参政権を求めて行われた訴訟であって、国政レベルのものではないことを思えば、国政レベルについては単に言及していないと考えるべきできであろう。前半の引用部分で、住民と国民とは同じ概念であることを明言していることから考えると、憲法理論的には両者を区分して論ずる理由は全くないからである。したがって、この判例は全面許容説(A説)を採っているものと考える。

 

三 政策的視点のあり方

 本問題において、定住外国人に参政権を与えることにより解決すべき政策課題は、大きく分けて、現時点でわが国に定住する外国人対策と、将来において、わが国に定住させるべく、海外から招致する外国人対策とが存在している、と考える。

 

(一) 朝鮮系及び中国系定住外国人について

 現時点で定住する外国人で、特に重大な問題となっているのが、朝鮮系及び中国系の外国人で、永住権を与えられている者であるので、前者については、それに限定して論ずる。が、そこでの論議は基本的に、その他の定住外国人にも及ぼしうるものと考える。

 朝鮮人や台湾人は、旧憲法下においては、わが国の国策の一環として日本国籍をいったんは付与されていた。しかし、第二次大戦後の混乱状態の中で、国民の間ではもちろんのこと、国会においてさえも本質的な議論を全く行うことなく、一片の法務省民事局長通達に基づいて、日本国籍を剥奪された(十)。植民地支配を行っていた国が、旧植民地に独立を認めるに際しては、旧植民地人に対して宗主国の国籍を保持するか放棄するかの選択権を認めるのが国際的な慣例であるのに、そうした選択の機会は全く与えられることなく、一方的に剥奪された点に、この時の大きな特徴がある。

 この結果、わが国が、大量の外国人を長期にわたり国内に抱えこむという非常に好ましくない状況が生まれて、今日に至っている。これら永住権者は、長期にわたりわが国社会の一員として生活してきているため、大韓民国ないし朝鮮民主主義人民共和国に居住する朝鮮人とは異なる文化的アイデンティティを持つに至っている(十一)。このため、今後とも実質的にわが国社会の一員として、わが国に永住を続けるものと考えるべきである。

 このようにわが国に永住する者でありながら、わが国国民としての地位を有していない者に対しては、国民としての地位を有する者との間に、様々な区別が必然的に行われることになる。その区別に合理性が欠けるとき、これが差別として認識されるのは必然であり、ここから平等権に関する深刻な問題が発生することになる(十二)。国内に永住する者に対するこうした差別問題は、わが国国籍を付与して国民に同化する(この場合には再付与ということになるが)以外に、適切な解決手段はない。

 しかし、これまでのわが国の帰化政策は、単に日本国民への同化の域を越えて、日本の支配的民族である大和民族固有の文化への同化、すなわち自らの民族的アイデンティティの放棄を要求していたところがあり、帰化に当たっての無用な摩擦を生み出してきた(十三)。また、こうした日本側の受け入れ時の問題が解決したとしても、これまでの様々な行きがかりから、日本に帰化することが、民族に対する裏切りとして同胞から認識されるなど、帰化者側にも安易に帰化できない状況が存在している。

 在日朝鮮人の間で、地方参政権問題がいわれるようになったのは、まさにそうした一連の問題に対する中間的解決策として、すなわち最終的な解決に向けての段階的移行手段であると認識することができるであろう(十四)。今日、外国人参政権問題が議論されるようになったのは、こうした朝鮮系を中心とする定住外国人の側の努力の成果ということができる。その意味で、こうした段階的移行策は、私としても高く評価し、また、支持するものである。

 しかし、わが国として真に深刻な社会問題として認識し、その解決策として定住外国人参政権問題を論ずる必要があるのは、次項に述べる点であると考えている。

 

(二) わが国少子化・高齢化問題とその解決策

 わが国は、かっては国内人口の多さに悩まされ、棄民といわれるほどの過酷な形で海外に移民者を送り出す国であった。しかし、その後、一方において少子化傾向がきわめて強く現れ、他方において、医療水準の高さから高齢者の平均存命率が世界最高水準を推移していることから、近時においては世界に例のないほど急速に高齢化社会を迎えつつある。

 そして二一世紀に入るとともに、高齢化による人口増加が少子化による人口減少を補完しきれなくなる結果、ごく近い将来にわが国総人口そのものが減少に転じ、百年後には、総人口が現在の半分程度にまで落ち込むと予想されている。しかも、その減少は年齢階層別に見れば、社会活動を中心となって担うべき若年層に顕著に現れ、大変な高齢化社会を迎えることになると予想されている(十五)

 こうした人口推移から、近い将来において、わが国は老齢者や女性など、従来、十分に活用されてこなかった層を積極的に労働力化する努力を傾注したとしてもなお、数百万人規模の深刻な労働力不足に見舞われると予想されている。これを放置するならば、わが国産業は若年労働力を求めて海外に生産拠点を移し、わが国産業は完全な空洞化状態になるのは避けられない。

 こうした状況を見るとき、我々個々人が好むと好まざるとに関わりなく、二一世紀において、わが国が健全な国家として存在し続けていくためには、積極的に若年労働力を海外から受け入れる方向に政策を転じなければならないことは、OECDなどからの指摘を待つまでもなく、きわめて明白であるといえよう(十六)

 激しい人口減少のごく一部だけを移民で補完するにとどめたとしても、わが国に流入する移民の絶対規模は、かなり大きなものとなることは避けられない。この結果、日本もまた、現時点における欧米諸国と同様に、総人口の数%から数十%に達する大量の定住外国人を迎える時代がやってくるのである。その時に、それらの外国人と日本人との間に、現在の定住外国人との間に見られるような軋轢が生じることになっては、良質な労働力の世界市場から日本が忌避されるような事態が生ずる恐れが多分にある。激しい高齢化の中で、そのような事態が発生すれば、それは直ちに日本という国家そのものの存亡に直結するということができる。

 ここで必要となる労働力は、わが国で不法滞在外国人等が担っていた三K労働などに投入されてきた単純労働力もさることながら、社会を円滑に動かしていく上で欠くことのできない高度の知識、技能を伴う優秀な労働力である。これまでわが国では、こうした高いレベルの労働力に対しても、単純労働力と同様に、単に一時的に受け入れるにとどめ、将来的には必ず母国に帰国させる、という方針の下に、例えば家族の受け入れなどを厳しく制限してきた。わが国が採用しているこのような出入国管理政策は、そうした良質な労働力の安定的な受け入れに有効な方策とは到底いうことができない。厳しい人口減少による労働力不足に苦しむことになるであろうわが国としては、できるだけ早い時点から、彼らに対しては、積極的な招致政策を採るとともに、その一環として家族の呼び寄せも緩やかに承認することで、長期にわたり日本に定住するような状況を作り出すことが必要となって行くであろう。

 そうした移民を円滑に日本社会にとけ込ませる手段としては、単に定住を促すばかりでなく、最終的には完全な日本人として受け入れられることを視野においた政策が必要となるであろう。先に述べたとおり、国内に大量の外国人を、外国人という身分のままで長期にわたり抱え込むのは、国家の安定を害するからである。そこで、彼らの希望に応じて、適時適切にわが国国籍を付与することを可能にしていかねばならない。わが国は、ここで移民国家へと変質することになる。

 従来、わが国では、「帰化」という言葉にシンボライズされるように、外国人を日本人として受け入れるに当たっては、従来の日本文化、すなわち圧倒的多数派を占める大和民族の固有の文化への同化を、事実上求めてきた(十七)。このように、帰化者に対して在来の文化との同化を求めるという姿勢は、決してわが国だけが示していたわけではなく、移民国家として知られる国々においても、同様であった。例えば、アメリカ合衆国については、これまで「人種のるつぼ」という神話が語られて、様々な民族、文化の出身者をアメリカ文化というものの中で溶解、融合させることにより、アメリカ文化をさらに前進、向上させていくことが可能である、と信じられていたのである。このような思想の下では、その素材となる異文化は、原則的には原型をとどめることは許されない。また、オーストラリアでは、異分子を受け入れることによる混乱を避けるために、悪名高い白豪主義が墨守されて、「一つのオーストラリア」を護っていこうとしていた。

 しかし、最近ではいずれの移民国家においても、こうした同化策の限界が明らかになり、多文化主義Multiculturalismを、程度の差こそあれ認めるようになってきている。アメリカ合衆国では、例えばスペイン語の公用語化が論じられるようになってきている。オーストラリアでは、人種の「サラダボウル」、すなわち個々の民族のアイデンティティを保持し続けながら、一つの国家の国民として共存するという方向が、激しい論争の末に明確に採用されるようになってきている(十八)

 したがって、わが国も、海外から優秀な人材の、積極的な誘致を図りたいのであれば、単一民族国家という虚構を捨てて、多民族国家として生きる道を模索しなければならない。そして、日本としても、移民国家化の道を選ぶ以上は、先行する各国の経験をふまえて、多文化国家の道を最初から進んで行かねばならない。それが優良な労働力の誘致手段だからである。

 なぜならば、海外から移民してくる者としては、単に外国で暮らすことから来るフラストレーションに加えて、帰化の道を採る場合には、自らの固有の文化と、帰化先の文化との間に挟まれて、激しいフラストレーションにさらされるからである(十九)。そこで、帰化をスムーズに進めるためには、そのアイデンティティの基礎となる固有の文化に対する敬意を受け入れ国側として示すことが必須の要求となるのである。したがって、その人々の固有の文化をそのまま日本に持ち込む形で共存する道を探る以外には、大量の外国人の安定的受け入れ手段は存在していない。これが上述のサラダボウル型社会の意味である。また、こうした多文化社会は、文化相互の刺激から単一民族国家に比べて大きな発展を遂げることが可能となることが知られている(二十)

 こうして、近い将来において、国会としては、国籍法をそうした積極誘致に対応できる形に改正する必要に迫られることになる。しかし、移民を受け入れる場合に、単純に帰化の促進により対応できれば問題は簡単である。が、わが国に直ちに帰化して、完全な日本人として振る舞うことには、移民の側にも、そして従来からのわが国国民の側にも、若干の抵抗感があることが予想される(二十一)。そうした抵抗感の存在は、移民国家として出発したアメリカ合衆国憲法が、帰化者に対して、米国民となった後一定期間にわたって、連邦政治に参加する権限を制限している(二十二)ことからも、理解できるであろう。

 ここで興味深いのが、欧州各国で、帰化に先行して一定範囲で定住外国人に参政権を授与することにより、段階的に市民権を授与する道を開こうという動きが存在していることである。特に北欧諸国に生まれた段階的市民権デニズンシップdenizenshipという考え方は注目に値する(二十三)。これは現実に多数の外国籍永住者が存在する欧州で、彼らが政治的決定過程から排除されるという国民国家における民主主義の矛盾を解決すべく、永住者に参政権を与えたり、または二重国籍dual citizenshipを認めて永住者の帰化を奨励するなど様々な方策を追求する一環として、登場してきたものである。ここでは、従来の国民と外国人の二分法から三分法へ移行し、国民と外国人の中間概念を明確に設定しているところに特徴がある。つまり、純然たる外国人と、参政権の全面的保有者である市民citizenの中間段階としてのデニズンdenizenという存在を考えることにより、外国人の内国民化を容易にしようとしているのである。

 確かに、定住外国人からわが国国民への移行をなめらかに進めるためには、中間の移行段階を設定することが、上述したアイデンティティの危機を乗り越えさせて、わが国国民となる決意をそれら移民に固めさせる上で、優れた政策手段となるであろう。

 ここで、国民主権概念化における国民概念の外延を論ずる必要が生ずる。なぜなら、わが国が国民主権国家である限り、憲法一〇条が国会に与えている日本国民であることの決定権においても、四四条が国会に与えている参政権に関する決定権においても、共通して日本国民概念の外延が登場してくるからである。

 このように説明すると、表題に掲げた外国人の参政権問題と、国籍法改正権の限界は、同じ問題の両側面、いわば盾の両面、であることが明らかになるであろう。

 定住外国人がせいぜい一%に過ぎないわが国のこれまでの状況だけを前提とするならば、硬直的な日本人概念の下に、外国人参政権を全面的に否定し、また、帰化に当たっても、従来採用されてきた日本文化への同化を強要するような方式でも、それにより現に差別を受けている在日朝鮮人等、現時点での定住外国人の苦痛を度外視すれば、社会的にはあまり問題は生じないかもしれない。しかし、近い未来に予想される大量移民受け入れ時代にあっては、そのような方式で、わが国の将来を託すにたる優秀な移民を誘致することは、おそらく不可能であろう。そしてそれができなければ、わが国は衰亡せざるを得ないのである。

 したがって、外国人参政権から国籍法改正にまたがる立法改正の限界を探っておくことは、二一世紀を迎えようとする現時点における憲法学の最重要課題の一つと考えるものである。

 以下に述べるのは、国民主権という前提の下で、どのような法的論理を使用すれば、上記政策課題を可能にする立法が憲法論的に可能になるか、という研究である。

 

四 憲法上の国民の意義

 冒頭に述べた問題意識から、本問題に取り組もうとする私の視点からすれば、現行憲法の下において、禁止説を採らねばならないものなのか、それとも許容説ないし要請説を採りうるものなのかが問題となる。許容説か、要請説かという違いは、現時点で裁判的に争いうるか否か、という観点からは重大な問題であるが、立法論的に外国人参政権を導入する、という観点から見た場合、差異を示さないので、本稿では論じない。

 同様に、私の視点に立つ限り、憲法論のレベルで、国政レベルと地方政レベルを区分する、という立場は意味がない。両者を通じて、現行憲法的に許容しうる概念を定立する必要がある。その上で、立法府が、国政レベルと地方政レベルとを区分して立法するのは、その裁量の問題として、当然許容されると把握するべきことになる。

 このような観点から見れば、議論の中心が、国民概念にあることは明白である。以下、論じたい。

 

(一) 参政権の主体

 平成七年判決で、一番問題となる部分は、憲法一五条一項の規定は「国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものに他ならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有するものを意味することは明らかである。」とある箇所であることは明らかである。

 確かに、外国人には、一般に参政権を認める必要はないと考える。参政権の主体は、国民主権の直接の結論として、国民を構成する者に限られると解するのが妥当だからである。すなわち、国民主権原理は、憲法の基本原理であるところの個人主義から導かれる政治における自己決定権の一形態であるから、選挙人の範囲を少なくとも主権者たる国民の一員に属するものに限ることを要求していると解するのが妥当である。憲法一五条が、公務員の選定権を「国民固有の権利である」としているのは、この趣旨を示すものと解せられる。

 

(二) 主権者としての日本人の概念

 ここで問題となるのは、日本人という概念の定義そのものである。平成七年判決の表現に従うならば、この平成七年時点における国籍法により国籍を与えられている者だけが、国民主権にいうところの国民概念を充足する、ということになる。しかし、国籍法は、決して憲法の一部ではなく、いわんや不磨の法典ではない。他の通常の法律と全く同じように、社会の必要や問題意識のあり方に応じて、常に修正を受ける存在であるに過ぎない。

 現に、現行国籍法は、エステル・華子・シャピロ事件(東京高等裁判所昭和五七年六月二三日判決)によって、国籍法が従来疑うことなく採用してきた父系主義の憲法秩序的妥当性に疑問が表明され、国会がこれを受けて、父母両系主義に抜本改正していたものである。この改正の結果、その時点における多くの無国籍者が日本国籍を取得している。

 また、国籍を保有する者の外延を決定するのは、法解釈に関する通達である場合も多い。アンデレ・リース事件(最高裁平成七年一月二七日第二小法廷判決)で、血統主義そのものに疑問が表明され、限定的にではあるが属地主義が拡大された。この結果、この判決を受けて発せされた通達に従い、従来、日本人と認められていなかった多くの無国籍者に対して、その時点でやはり日本国籍が与えられたのである。

 このように見てくると、明らかに、特定時点で日本国籍を有する者の総体を、憲法でいう主権者たる国民と同視したのは誤りというべきである。

 そもそも近代国家においては、いかなる個人に自国の国籍を与えるかは、原則として国家の自由にまかされているといわれる。しかし、それは、日本国民の要件の決定を完全に国会の自由裁量にゆだねたという意味ではない。

 憲法一〇条は、日本国民たるの要件は法律で定めるべきことを規定する。これは国籍決定権の根拠は、主権そのものにあること、本条は、それを前提にして、この権力の行使権が国会にあることを明らかにしたものである、という点については、おそらく異論のある方はいないと思われる。

 国籍決定権の根拠が主権にある、ということは、国籍保有者の外延が、憲法でいう主権者たる日本人に限られねばならない、ということを意味する。その上で、その主権者たる者のうち、どの者に国籍を与えるかに関し、一定の裁量権が国会に認められるという意味であるに過ぎない。当然のことながら、主権者とは、特定の時点における法律のレベルで日本国籍を有すると定められている者の総体ではなく、憲法解釈上、それに先行して、日本国民と観念されるもののことでなければならない。すなわち、国籍法改正権の外延として、広い国民概念が要請されることになる。

 そのような広い国民概念の基準を何に求めるかについては説の分かれるところである(二十四)。私は以下のように考える。

 そもそも国家という理念は、近代民主主義革命の嫡出子である。近代国家が出現する以前は、ルイ一四世の「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、国家とは同一人に忠誠を誓う人の集団であった。したがって、その忠誠の対象である人が死亡、退位その他の理由で存在をやめたり、あるいは人々が忠誠の誓いを放棄した場合には、その瞬間に崩壊するような脆弱で一時的な存在でしかなかった。しかし、フランス革命に代表される市民革命の過程で、主権者としての君主に変わる概念として国民概念が必要となったのである。しかも、市民革命は、法理論的には自然法思想に立脚したものであったために、市民の概念は、国家以前に先験的存在するものと構成するほかはなかった。

 今日のわが国法学の基本である法実証主義の下においては、国民概念は、現実の社会を支配している理念にのっとって決定されなければならない。

 こうして、主権者である総合人としての日本国民の構成要素たる個々の国民概念について検討する必要がある。この場合、国民主権に関して、学説的には、狭義の国民主権と考える立場と、いわゆる人民主権と考える立場の対立がある。この点について深入りすると、本稿の論点がぼける恐れがあるので、ここでは、結論として、私は狭義の国民主権説を支持している、と述べるにとどめる。

 狭義の国民主権説に立つ場合、主権の主体としての日本国民は、例えば、憲法前文に「われらとわれらの子孫」という表現があり、また、一一条や九七条に、「現在及び将来の国民」という表現があることからも明らかなとおり、単に「現在」という一瞬に存在する日本人ではなく、将来の日本人をも含み、さらに現在という瞬間は絶えず未来に向けて移動していくことを考えると、過去の日本人をも含む概念と理解される。すなわち、過去、現在及び未来に存在するすべての日本人の総和が、憲法が考える主権の主体たる日本国民であると解されることになる。

 ここで問題は、何をもって主権者たる国民概念の外延を画する理念とするかである。

 狭義の国民主権概念を採用する場合、その基本理念は「治者と被治者の自同性」にあることは異論がないと思われる。したがって、治者としての日本人の外延は、被治者である点に求めることができる。すなわち、恒常的に日本国の支配に服している者は、同時に治者としての日本人の構成要素に他ならない、ということが、国民主権原理そのものから導くことができる。そして、現行国籍法により日本国籍保有者とされている者以外に、特定の時点において、この被治者としての地位にあるものは、わが国に定住する外国人である。こうして、定住外国人に国籍を付与することの可能性を導くことができる。

 また、国民主権理念においては、現在という一瞬に存在する国民は、全国民概念のごく一部を構成するにすぎない。過去及び将来の国民もまた主権者たる国民である。将来の国民が主権者たる国民に含まれるということは、将来において、わが国国民たらんとして来日する人は、すべて、主権者たる国民に含まれるということである。ここから、国会が広く、海外にわが国対する移民を求める意図で国籍法を改正する権限を有することを、主権論的に認証することができる。

 ただ、このように観念的に主権者たる国民とされるもののすべてを、あらゆる時点で日本国籍保有者とする必要はない。特に将来の国民の場合、未だ誕生していない外国人を含む概念である。ここから、国会が、特定の時点で日本国籍保有者として保護の手を伸ばす対象となる人の範囲を決定する権限を導くことができる。この裁量権を承認した規定が、憲法一〇条であると理解することができる。

 同時に、このような裁量権は、特定人に日本国籍を強制する力を持ち得ないことも認識しておく必要がある。優秀な人材を世界から招致するには、帰化を日本側の恩恵とするのではなく、法定の条件を満たせば、帰化をするか否かは個人の側が選択できるという状態にすることが必要であることは政策面からも明らかといえよう。が、それ以上に憲法的要請であるということができる。現行憲法を貫いている個人主義の思想は、権利といえどもそれを強制されることがないことを保障している。国籍に関して、そのことは、憲法二二条二項が国籍離脱の自由という側面において明記しているところであるが、同じ保障は、国籍獲得の側面においても働くものと考えるべきである。したがって国籍は、国家の恩恵として付与されるものではない。国会の裁量したところにより決定される一定の要件を具備している個人に対しては、個々人が希望した場合には、自動的に付与されるものでなければならない(二十五)

 

(三) 国籍概念と参政権

 普通に我々が、国籍と呼んでいるものは、実際には一連の権利の束であって、単一のものではない。現在のわが国では、この権利の束は、通常は、一括して行使できるかできないかの二者択一となっているが、これは決して論理の必然ではない。合理的な根拠があれば、国籍と呼ぶ権利の束を分割して、国籍概念を構成している権利の一部をある国民に保障し、他の国民には保障しない、とする立法を採用することが可能である。

 参政権は、この国籍を構成する権利の一つであるが、これもまた単一の権利ではない。そして、参政権に関しては、わが国もまた、明確に分割して一部の者に保障するという立法を採用している。このような分割が可能なのは、先に述べた国民主権論の一つの帰結である。すなわち、主権という概念について重要なことは、分有主権ということは考えられないということである。かって、ボーダンは、王権神授説を前提として、主権について、国家の絶対かつ恒久的権力であって、最高、唯一、不可分のものであり、すべての国家にとって不可欠の要素である、と説いた。その後、人民主権、国民主権など幾多の主権概念が出現したが、主権の基本的属性についての理解としては、今日においても基本的にこのボーダンの考えが妥当するとされている。

 したがって国民主権原理の下においては、総体としての国民が主権者なのであって、個々の国民そのものは決して主権者ではなく、単にその構成要素であるに過ぎない。その結果、総体としての国民を構成する者のうちの誰に参政権を与えるかは、国会自身が決定しうる、とする原理を導くことができる。フランス一七九一年憲法は、財産を基礎とする制限選挙を認めていた。同様に、イギリス、アメリカその他いずれの近代民主主義国家においても制限選挙が一般的形態であったのは、このような理論的必然性による。この段階においては、参政権は、国民固有の権利ではなく、むしろ公民としての義務であった。

 その後、各国で積極的に普通選挙運動が展開されて憲法的保障の対象となった結果、今日では、一般に、人種、信条、性別、社会的身分、教育、財産によって選挙権を制限することは認められなくなった。このため、参政権は一定の限度で、国民固有の権利としての性格を帯びることになり、今日では権利と義務の二重性格と捉えるのが通説となってきている。しかし、その義務的側面に基づいて、依然として参政権者の制限が可能となる。

 例えばアメリカ合衆国現行憲法は、先に紹介したとおり、帰化者について、連邦レベルにおける被選挙権を制限している。このように憲法自身で制限している場合は当然であるが、国民主権原理をとる限り、有権者の範囲は基本として国会の立法裁量に属するという原則が今日においても貫かれている。このことは、わが国現行憲法四四条本文で「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める」と宣言していることに明らかである。すなわち、それは日本でも国会の立法裁量に属するのである。

 現実に、公職選挙法は、現行国籍法上、れっきとした日本国籍保有者である者に対して、二〇歳未満の者、転居後三ヶ月以内の者、一定の犯罪を犯した者等の要件の下に、参政権を否定し、あるいは制限している。また、選挙の種類に応じて、被選挙権を、ある場合には二五歳以下の者に、ある場合には三〇歳以下の者に、それぞれ否定している。

 わが国では、これまで帰化者の参政権について、その一部を制限する、という立法政策を採用したことはなかった。が、アメリカ合衆国現行憲法と同様に、わが国でも帰化者の参政権の一部を制限するという立法政策は当然に許容されることとなろう。

 

(四) 国籍保有者概念の区分的運用について

 上述のように、国籍保有者概念なるものが、一定の権利の束であって、それを区分して個々の権利ごとに保障し、あるいは剥奪することが可能であることを前提とすると、観念上、国籍保有者という概念を、統一的に理解しなければならないという必要性は失われる。すなわち、ある法律関係では、国籍保有者としての権利が保障されるが、他の法律関係では否定されるという、区分的取扱いは、それを必要とする合理的根拠さえ存在すれば、憲法一四条に違反することなく、実施することが当然に許容されるべきである。

 また、国籍法と公職選挙法は、同格の法律である。しかも、国籍法が、日本国の庇護の対象となる国民の範囲を定めているのに対して、公職選挙法は、選挙人等の資格を定めている。すなわち、相互に適用範囲が異なる法であって、決して一般法と特別法の関係に立つものではない。したがって、わが国国籍保有者として旅券の交付を受け、海外において日本国民としてわが国政府の保護を期待する地位を有する者と、わが国国内において国籍保有者として参政権の主体となれる地位を有する者とを、同一の基準で統一的に決定しなければならない、という理論的理由はない。主権者たる日本国民に属すると憲法上観念される者の範囲に属してさえいれば、公職選挙法が、国籍法とは異なる独自の基準で国籍保有者の資格を定めることは許容されるものと言わなければならない。

 ここに段階的市民権denizenshipという概念を導入することが可能となる。現行国籍法上、国籍保有者とされない者、すなわち定住外国人であっても、公職選挙法としては、その独自の基準に基づいて、そのうち一定の範囲の者に対して日本国民として、参政権を授与することが許される。逆に、国籍法上日本国民とされる者に対しても、公職選挙法としては、その独自の基準に基づいて、一定範囲の参政権を制限することが、可能なのである。そして、後者については前述のとおり、既に採用されているところである。

 また、その過程において、地方参政権は許容するが、国政参政権は否定するとか、いずれについても、一定期間被選挙権を否定する、等の中間的な立法裁量の余地を認めることができるであろう。現に国政レベルと地方政レベルとで、定住外国人の参政権を区分して考える説が指摘するとおり、両者の間には様々な法的異質性があるのであるから、それらを踏まえて異なる法制をとることが当然に可能と言わなければならない。

 

(五) 現行法制における永住権者を基準とする説及び法案について

 定住外国人のうち、どのような要件を備えた者に対して、段階的にどのような市民権を与えていくかは、基本的には立法政策の問題であるが、ここで特に注意を要するのは、現行法制で永住権を与えられている者を対象として、一定の参政権を与えるという説が存在することである(二十六)。冒頭に紹介した一四四国会に提出された「永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」も、その名称に示されるとおり、現行法制において永住権を有する者に限定して地方参政権を与えると規定している(二十七)。しかし、そのような法制は、現行憲法四四条違反となって許されない、と解する。

 すなわち、憲法四四条但書は、選挙権を認めるに当たって、「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産または収入」による区別を導入することを禁止している。これは、それらを理由に不利な取扱をすることを禁じているだけでなく、有利な取扱も禁じていると解するべきことは、普通選挙の歴史に鑑み、明らかである。

 現行法制では、永住権者には二種類がある。第一は出入国管理法に基づき永住権を与えられている者(以下「一般永住権者」という。)であり、第二は「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(平成三年一一月一日施行)により、永住権を与えられた者(以下「特別永住権者」という。)である。

 一般永住権者の場合、永住権を獲得するための条件は、独立の生計を営むにたりる資産または技能を有することである(出入国管理法二二条二項)。この結果、資産を有することを理由とする場合は「財産」による差別に該当し、技能を有することを理由とする場合は「教育」による差別に該当することになり、いずれも四四条但書に該当することになる。

 また、特別永住権者の場合、朝鮮民族または中国民族に属しているということを理由とする永住権であるから、同じく但書にいう「人種」による差別に該当する(二十八)

 したがって、現行法制における永住権者は、一般永住権者の場合も、特別永住権者の場合も、いずれも憲法四四条但書に抵触することになるので、そのような身分を持つことを理由に参政権を付与することは、違憲といわざるを得ない。永住権者という現行法上の明確な概念に変えて、定住外国人という、講学上の、したがってその限界が不明確な概念を使用しなければならない理由はここに存在する。国会としては、この定住外国人に該当する者の中から、憲法四四条に抵触しない範囲で裁量権を行使して、適当と認める基準をたてて、それを満たす者を対象として参政権を付与するべきである。

 

五 公務就任権について

 公務就任権という概念は、被選挙権を含めた意味で使用することができる。すなわち、国会議員や、内閣総理大臣をはじめとする閣僚に就任する権利は、被選挙権の一環として理解されるべきであるから、上述したところがそのまま該当する。

 これに対して、そうした民主的基礎を持たない一般の公務員については問題が異なる。公務員になるについて、国民主権がその限界を構成するという理論は、「当然の法理」と称して、理由付けを拒絶しているのであるから当然であろうが、いったいどこから導かれたのか、私には全く理解できない。

 わが国においては、かって御雇い外国人と呼ばれる多数の外国人が、政府の様々な役職にあり、実質的に国政を左右していたことがある。いま現在も、開発途上国の多くでは、やはり多数の外国人が、その国政に様々な形で参画していることは、広く知られた事実である。

 現在、わが国では、国政レベルでは、外国人の公務就任権を基本的に否定している。また地方公共団体レベルでも、内閣法制局の強い反対から、承認している地方公共団体はごく一部にとどまる。また、それら外国人を受け入れている地方公共団体においても、職務の重要性等を基準として、一部の官職については、依然として外国人を禁ずるというスタンスをとっているのが一般的である。どのような職に誰を補するかは、採用者側の裁量権の問題であるから、それ自体を違憲とか違法と考える必要はない。しかし、同時に、そうした官職に外国人を補することが憲法上、禁じられている、とする必要は全くないと考える。

 来るべき少子化・高齢化社会にあって、実施する必要のある行政活動を担う適切な能力を持つ者を、わが国国籍保有者の中に見いだしがたい事態が多発するであろうことは、想像に難くない。そのような場合には、是々非々の立場から適切な人物を登用すればよい。明治の昔に、ボアソナード等を招致したのと全く同様に、有能な者を直接海外から招致することも含めて弾力的に運用すればよいのであって、主権者の一員に限定する理由はない。したがって、これまで論じてきた定住外国人を採用する際にも、また全く憲法上の問題はない、と考える。

 

[おわりに]

 定住外国人に参政権を認める政策的必要性が、本稿に述べたように今後予想されるわが国の少子化・高齢化対策の一環として存在していると考える場合、この政策は、現在行われているような形で、単独で存在することは許されないというべきである。

 単純労働力の海外からの受け入れについては、慎重に対処する、という平成七年の閣議了解のままで問題はないであろうが、それと異なり、優秀な労働力については、むしろ積極的に受け入れ、定住化を促進する方向に政策展開が行われなければならない。そうして定住化を選択した外国人について、さらにわが国への同化を促進するために展開されなければならないのが、本稿で述べた段階的市民権制度なのである。したがって、単に、定住外国人の地方参政権だけが突出して法案化されている現状には、大きな不安を感じるものである。わが国人口の大幅減少は、間近に迫っている。いよいよ外国人労働力導入の必要が現実のものとなってから、突如として政策転換が行われた場合には、短い時間で膨大な外国人がわが国に流入することとなって、従来からのわが国国民との間に激しい軋轢を生ずるであろうことは間違いない。移民の日本への同化過程を円滑に最小限度の摩擦の中で進める手段は、ただ一つ、長期にわたる段階的な取り組み以外にあり得ない。二一世紀をまさに迎えようとしている今日、もはや残された時間はほとんどない、といわざるを得ない。

 本稿が、この問題に対して、学界及び社会で積極的な議論のきっかけとなれば、それに勝る喜びはない。