公務員の政治的基本権
Political fundamental right of Public servant
甲斐素直
公務員という言葉は、非常に意味の広い言葉である。すなわち、天皇や内閣総理大臣など憲法上その地位が明記されているものがある一方で、国家賠償法一条にいう公務員概念のように、憲法理念と法律上の用語を架橋する目的で非常に曖昧に解釈されているものまでが存在している。ここで取り上げているのは、そのうちで、主として現行国家公務員法及び地方公務員法に基づく一般職公務員を中心とした、本文に述べる能力制任用システム下にある公務員に限定して対象としている。
これら公務員については様々な形で人権制限が存在する。その中で最も重要な問題は、労働基本権の制限と政治的基本権の制限である。これまで、わが国で公務員の基本的人権の制約が論じられる場合、この二つを併せ論ずるか、もしくはもっぱら労働基本権についてだけ論じられるのが普通であった。しかし、適当とは思われない。
両者は、基本的人権の制約という点では共通するが、その内容において相当異なる問題だからである。最大の相違は、政治的基本権の制約は精神的自由権に属するから、現在の憲法訴訟における通説ともいうべき二重の基準説にしたがえば、公共性を内包しているということを根拠とした制約を一般的に肯定することができない、という点にある。また、その性質上、代償措置が不可能という点も重要である。これに対し、労働基本権は社会権に属するが、その本質は経済的自由権に近いものであるから、二重の基準説に準じて政策的観点からの制約を肯定する余地もあるといえる。したがって、労働基本権における通説的な制限の論理をそのまま持ち込む限り、政治的基本権の制限は必然的に全面的に違憲とされなければならないことになる。しかし、現実問題として、そのような観点から、公務員の政治的基本権制限を全面否定する論者はいない。程度の差こそあれ、公務員の政治的基本権を制限すること自体は、基本的に肯定されている、といってよいであろう。したがって、政治的基本権の制限については、その労働基本権との異質性を明確に認識した上で、政治的基本権としての特徴に立脚した議論が必要と考える。
平成一三年三月二七日に「公務員制度改革の大枠」が、内閣官房行政改革推進事務局公務員制度等改革推進室から発表された。それによると、本年六月には新たな公務員制度の基本設計を取りまとめ、その後、法改正作業等に早急に取り掛かるとのことである。一二月頃には法案を見ることになるであろう。
その一環として一般職公務員の労働基本権についても見直しが行われる、とされている。しかし、公務員の政治的基本権については、上記大枠の限りでは見直しが予定されていない。これは不思議なことといえる。なぜなら、労働基本権に関する規制は、様々な問題があるにせよ、業務内容に応じてある程度きめ細かな規制が行われており、また、人事院勧告という制度により、代替措置も講じられている、という意味で、比較的問題が少ないからである。これに対して、れっきとした精神的自由権に属する権利であるから、代償措置をとることが不可能であるということを考えると、せめて職種や業務内容に応じて、きめ細かな対応がしかるべきであるにも関わらず、現実には、それを全く考慮することなく、一律に規制している。すなわち、現行法制度は、憲法理論上、より広範な規制を許容しうる権利よりも、規制を許容するにしても最小限度に押さえるべきものとされている権利の方が、厳しい規制に服しているという黙過しがたい逆転現象が、ここには存在しているからである。このことを受けて、今日の学説は、圧倒的に現行制度を違憲と見なしている*1。
このようにきわめて問題の大きな問題が、今回の公務員制度の大幅改正時に、見直しの対象とすら考えられていないのは明らかに不当というべきである。こうした時期に、この問題を整理し、私見を明らかにしておくのは非常に有意義なことと考えて、本稿を執筆する次第である。
一般職公務員に対しては、国家公務員は国家公務員法一〇二条により、選挙権の行使を除いて、同条に列挙された行為と「人事院規則で定める政治的行為」をする事が禁じられている。そこにいう規則が人事院規則一四−七である。この規則では、「選挙で特定候補者を支持し又は反対すること、特定の内閣を支持し又は反対すること」など、その五項に一号から八号にわたって掲げる「政治的目的」をもって行われる、六項一号から一七号までに詳細に記された「政治的行為」を、「すべての一般職に属する職員」に対して、一律に、しかも「公然又は内密に、職員以外の者と共同して行う場合」であろうと、「自ら選んだ又は自己の管理に属する代理人、使用人その他の者を通じて間接に行う場合」であろうと、さらに「勤務時間外において行う場合においても」、全面的に禁止している(一頃〜四項参照)。この結果、一般職公務員は
「政治的行為の自由については、思想表現の自由の享有主体としての市民たる性格をほば否定されている観すらある」*2。
一般にこの制限を政治行為の制限と呼び慣わしているが、政治的活動の自由は、現代民主主義国家において、表現の自由の中枢をなす概念であることを考えると、このような「政治活動」というような緩やかな表現は、明らかに人権そのものの規制という本質を曖昧なものにする作用を果たしている、ということができる。本稿において、政治的基本権と称するゆえんである。
一般職公務員以外の特別職公務員に関しても、裁判所法五二条、警察法一〇条三項・四二条三項、自衛隊法六一条、独禁法三七条一号では、若干表現及び程度を異にするが、やはり同様の禁止規定がおかれている。本稿では、それらの公務員に対しては、一般職公務員と関連する限度においてのみ論及するにとどめるが、それらの場合にも、ここでの論理が適用になるのは当然のことといえる。
これら国家公務員に対して、地方公務員に対する制限もほぼ同じであるが、禁止される行為の範囲がやや狭く、程度も弱い。また、地公法(地方公務員法の意、以下回じ)自体に「政治的目的」「政治的行為」が定められている(三六条)、違反者に対する刑事制裁の規定がなく懲戒処分のみが許される点も(二九条)、大きな相違である。
この問題ほど、学説が大きな変化を見せた領域は少ない。すなわち、かって、公務員の勤務関係について、特別権力関係理論が支配していた時代には制限を全面的に合憲と考えるのが普通であったのに対し、それが否定されるようになるにつれて、違憲と考えるのが普通になったからである。
人の国家との関係は、国の一般的統治関係に服する場合の外に、特別の公法上の原因によって成立する国又は地方公共団体と国民又は住民との特別の法律関係がある。その代表が、本稿で問題としている公務員であるが、そのほか、例えば、監獄法による受刑者の在監関係、伝染病予防法により強制入院させられた患者の国公立病院在院関係、国公立大学学生の在学関係、公立図書館の利用関係などがある。
特別権力関係理論は、ドイツの立憲君主制憲法の下で支配的な地位を獲得した学説で、その特色は、特別権力関係に属する場合には法治主義の適用が排除されると説く点にある。例えば、
「一般権力関係においては、法治主義の原則が行われ、この関係は、原則として、法律によってのみ規律されるのに反し、特別権力関係においては、特別の公法上の法律原因に基づいて、いったんその関係が成立すると、公法上の目的のために必要な限度において、特定の者に包括的な支配権が与えられ、これに服する者に対しては、いちいち法律の規定によることなく、命令強制がなされうる。例えば、公務員は、必ずしもいちいち法律の規定に基づくことなく、公務員としての義務を果たさせるために必要な特殊の制限(例えば居住地の制限、服装の制限等)を受け」*3るとするのである。
ここでいう命令強制の内容としては、論者によりずれがあるが、オーソドックスな理論では、次のようなものがあるとされる。
「@特別権力の主体は命令権・懲戒権などの包括的支配権を与えられ、個々の場合に法律の根拠なくして当該関係に属する者を包括的に支配することができること、A特別権力の主体はそれに服する者に対して、一般国民として保障される権利・自由を法律の根拠なくして制限することができること、B特別権力の主体がそれに服する者に対して行う行為は、支配権の発動であるから、原則として司法審査は排除されること、という三つの原則である」*4
このような特別権力関係理論の採用を公務員関係に適用することを前提とする場合には、
「公務員という特別権力関係にある身分にてらし、右の制限には十分に合理的根拠がある」*5
というように、ほとんど内容を掘り下げることのない単純な議論の下に、無造作に合憲と判断されることとなっていた。
しかし、今日においてはこの説を採るものは非常に少ない*6。特別権力関係に属する国民が、その特別権力関係が存在している目的に応じて、国家との間で、一般権力関係にある国民とは異なる支配服従の関係に立つとしても、そのことから直ちに全面的に上記のような効果を肯定するのは明らかに不当であると考える。
判例は早くからこの理論に基づく基本的人権の制限を否定し*7、あるいはこの言葉を使用する場合にも、実質的には異なる意味合いから使用している*8。そして、最高裁判所においても採っている例はない。
特別権力関係理論に代わって初期の判例に採用されていたのが、全体の奉仕者説である。すなわち、「およそ、公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者でないことは憲法一五条の規定するところで」あるという理由から、ただちに「国家公務員法の適用を受ける一般職に属する公務員は、・・その職務の遂行にあたっては厳に政治的に中立の立場を堅持し、いやしくも一部の階級若しくは一派の政党又は政治団体に偏することを許されないもの」*9という結論を引き出している*10。
学説的には、これを支持するものもないではないが、その場合にも制限を付するのが普通であった。例えば、全体の奉仕者概念の解釈として、一方において国会議員等には政治的中立性は要請されないとしつつ、次のように説くのが、その代表といえるであろう。
「一般のいわゆる行政的職員については、決定された国家の政治的意思を忠実に執行実現することが要求される。このことから、政党よりの中立が要請され、政治的な活動に制約が存することになる。しかし、どこまで公務員の政治的自由を制約しうるかについては、抽象的に言えば、公務員の職務の公正忠実な遂行に必要な限度での制限はあり得るが、憲法に定められた基本的人権としての言論集会結社の自由を全然否定することは許されないと解すべきであろう。」*11
このような考え方に対して、芦部信喜は次のように批判する。
「憲法一五条二項それ自体は、憲法体制が立憲君主制から民主制に移行したことにともなって変化した公務員の基本的性格を示す抽象的理念、すなわち、国民主権を基本原理とする民主的な憲法体制をとる国家に共通する原則を謳った規定である。このような広義の公務員一般の職務遂行原理である『全体の奉仕者』性に、公務員の具体的な人権制限の法的根拠を求めることはできないと見るべきであろう。」*12
これに賛同したい。
これは、公務員の政治的基本権制約を肯定できるか否かは、もっぱらその担任する職務の性質によってきまることで、「全体の奉仕者」性とは直接の関連はないとする説のことで、宮沢俊義の提唱にかかるものである。
宮沢俊義の説くところによれば、公務員が「全体の奉仕者」であることは、公務員が政党に加入しあるいは投票することと矛盾するものではない。そもそも政党は全体の利益のために活動するのであるから、政党をもって一部の奉仕者と見るべきではない。したがって、すべての公務員の政治活動が制限されるべきだという結論を生むわけではない。国会議員などは彼らの政党を通じて「全体」に奉仕しようとするのに対して、
「事務的職員は、これら政治的職員の指導の下に公務に従事することによって『全体』に奉仕するのことをその職務とするものであるから、その必然的結果として、彼らは公務を行うにあたって、彼ら個人の政治的意見によって行動することなく、多かれ少なかれ政府の政治的意見によって行動すべき拘束を受ける。そこに彼らの職務の本質がある。この種の公務員がその職務を合目的的に行うことを確保するために、その職務執行に関して、一般国民に比べて、政治的行動が制約を受ける可能性が生ずる。」*13
この職務性質説は、公務員の労働基本権に関する判例であるが、全逓東京中郵判決の採用するところとなった。しかし、政治的基本権に関しては、これに基づく判例はない。政治的基本権に関する代表的な判例としては猿払事件最高裁判例があるが、その理論の内容については、後に私見を述べる際に、併せ紹介することにしたい。
この職務性質説の指摘するところは基本的に正しいと考える。しかし、憲法学としての最大の使命は、その職務の性質の差がどこからもたらされるものか、という点である。それが明らかにならない限り、その職務の性質なるものは、所詮論者の主観によって決まることになるからである。
この憲法秩序構成説は、職務性質説の持つ上記限界を打破しようとして登場してきたもので、次のように説く。
「職務の性質の相違は、公務員の人権制限の根拠としての意味よりも、制限の範囲ないし限界を具体的に画定する場合の最も重要な基準としての意味を強くもつことに注意しなければならない。けだし『人権の制限は、憲法で積極的に規定されているか、もしくは、少なくとも前提されている場合にかぎり可能である』という原則に鑑みれば、公務員の人権制限の根拠は憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素としていること(一五条・七三条四号参照)に、求められねばならないからである。それが認められるならば、当然に公務員関係という特別の法律関係によって公務員の人権が犠牲に供されるようなことがあってはならないとともに、公務員の人権の保障を一般市民法ないし労働法秩序における場合と同じものとみなすことによって、公務員関係の存立および自律性が崩壊させられるようなことがあってはならない、という帰結が導き出されるであろう。そうだとすれば、政党内閣制の下においては、行政の中立性が保たれてはじめて、公務員関係の自律性が確保され行政の継続性・安定性が維持されるのであるから、このような中立性の維持という目的を達成するために合理的にして必要最小限度の規制は、憲法上容認されているということになるであろう。」*14
この説が議論の前提としている公務員の中立性、自律性の必要性そのものについては全く異論はない。この説の最大の問題点は、憲法そのものの文言の解釈にあるのではないか、と考えている。すなわち、現行憲法一五条は明らかに選挙によって任用される政治性ある公務員を前提としており、また七三条四号は次項に詳述する猟官制的な考え方で作られていると考える*15。したがって、これらの条文を根拠に、公務員の政治的基本権の制限を肯定することは不可能ではないか、と思われる。
公務員のうちで、国会議員や地方公共団体議会議員のように、選挙を通じて選出されるものについては、その任用はまさに政治的に行われ、その職務の執行にあたっても、政治的判断に基づく活動を行うことは当然のことである。というより、憲法秩序上、要請されレいるといっても過言ではない。
これに対して、選挙に依らず、当事者の自由意思に基づいて任用関係に入る公務員の場合に、その任用に、政治性をどの程度反映するのが妥当かについては、大きく二つの考え方がある。猟官制spoils systemと能力制merit systemである。
選挙に依らない公務員の任用にあたって、政治性が重要な役割を果たす場合には、その職務の執行に当たってもある程度政治性が現れるのは当然であるから、それを規制するのは不当というべきであろう。それに対して、任用にあたって厳格に政治性が排除されるならば、その職務の執行にあたってもまた、政治性は排除されなければならない。すなわち、公務員の政治的基本権の制限の可否は、基本的にはこの任用システムの相違に立脚していると考えるべきである。
そこで、以下、両概念の内容を簡単に説明しておきたい。
猟官制とは次のような概念をいう。
「猟官制は、国王に奉仕することによって特権的地位を保障されていた前近代的官僚制に代わって、国民のために奉仕する近代的公務員制度が生まれたとき、いわばその論理的帰結として知られるようになった制度で、一口で言えば、従来のような固定した特権的官僚団を排除して、その時々の政治的抗争の後に、国民の支持を得て、勝利を得た政党が、自派に忠実な官吏を任用することをいう」*16
その結果、猟官制を採用している場合には、選挙によって政権党が交替する都度、全国の公務員のうち、野党に転落した政党との関係で任用されていた者が罷免あるいは降格され、与党系の職員に交替させられる、という形を採ることになる。選挙で勝利を得た政党が官職という獲物spoilsを得て、与党に協力した人々に配るところから、これが猟官制と呼ばれるのである。
行政の民主的コントロールという観点から見る場合には、一般職公務員といえども「これを選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である(一五条一項)」から、個々の一般職公務員の任免にあたっても、国民が直接か、間接かはともかく、そこに関与する権限を認めるのが妥当である。わが国憲法の採用する国民主権原理の下において、これは、一般職公務員の任用が国民を直接代表する国会の権能であることを意味する。そして、議院内閣制の下においては、その権限は内閣を通じて行使されることになる(七三条四号)。すなわち、憲法の文言に照らしてみる限り、内閣は、選挙に依らずに任用される公務員は、すべて自由に任免することができるはずである。このことは、司法権の独立により守られている裁判所に関してさえも、最高裁判所から簡易裁判所にいたるまで、すべての裁判官の任命権を内閣が保有している(憲法七九条一項、八〇条一項)点に、端的に現れている。裁判官は司法権の独立性保障の一環として身分保障を与えられている(憲法七八条)から、内閣の任用権は任命権に止まり、罷免権には及ばない。これとの対比から考えても、内閣を代表する内閣総理大臣の直接的指揮監督下にある行政各部(憲法七二条)に奉職する職員の場合、任命権ばかりでなく、罷免権も内閣が保有していると解するべきであろう。そのことを宣明したのが憲法七四条四号の規定であると解することが、同条のもっとも自然な読み方というべきであろう。というより、文言に関する限り、それ以外の読み方が可能とは思われない。すなわち、猟官制を憲法は予定していると読むべきである。
諸外国を見た場合、特にわが国現行憲法の母法というべき米国において、一貫して採用されている方式である。近時は、同国でも以前に比べると、その適用範囲は相当縮減されはしたが、それでも高級官僚の任免において揺らぐことなく採用されてきている。
このような猟官制による場合には、行政に対する民主的コントロールが十分に徹底するという長所を持つ反面、その官職に適した能力を持たない者が就任する危険は避けられないこと、行政内容が大きく政治によって左右される結果、行政の連続性が阻害されることなどの弊害が発生する。
猟官制のもつ上記弊害を重要視する場合には、一般職公務員については政治から絶縁させて、能力本位に任用、昇進させるべきであり、政治的理由からの任免、昇進・降格は認めるべきではない、という考え方が発生する。これが能力制である。
能力制を実現するには、行政の政治的中立性を確保する必要がある。このためには、憲法七三条四号にもかかわらず、内閣による一般職公務員のコントロール権を否定する必要がある。そのために設けられたのが、内閣から独立した行政委員会の一つである人事院である。また、政治の行政組織への不干渉を確保するためには、同時に、その反対の側面として、行政組織側から政治への不干渉もまた確保されなければならない。そうでない場合には、官僚団は、その地位や権利を政治的に侵害されることはない、という特権的な地位を利用して、自由に政治に干渉する事が可能になる結果、責任行政の民主的統制というわが国現行憲法の基本原則の一つが侵害されることになるからである。
こうして、選挙に依らずして任用される公務員に関して、政治的基本権の制限という問題が発生することになる。すなわち、政治的基本権の制限という問題は、それら公務員という「特別の法律関係の存在」と、その法律関係内部を国会や内閣からの干渉から守る目的で「自律性」を確保するための代償ということができる。
四 制度の沿革
わが国では、明治憲法下に政党内閣が誕生した明治三一(一八九八)年当時は、基本的に猟官制が採用されていたといって良いであろう。その後、官僚の勢力を確立しようとする有司勢力と政党勢力の対抗の間にあって、猟官制と能力制のいずれを主とするかについては、一進一退を繰り返した。大正デモクラシー以降の政党内閣時代には、完全に猟官制が確立し、下級官吏に至るまで政権党の交代により、人事が異動するのが一般的となった。昭和に入って全体主義が強まるとともに、官僚の力も強まり、昭和七(一九三二)年に犬飼政友会内閣が首相の暗殺により崩壊したことから、わが国における猟官制の歴史は終わることになる。すなわち同年に実施された文官分限令改正により、文官分限委員会が設けられ、管理の身分保障が強力になった結果、内閣の交代により官僚が罷免されることはなくなったからである*17。
戦後、現行憲法が制定されたが、一般職公務員の管理について定めているその七三条四号は、前に述べたとおり、文言及び米国法制からの継承という点から、あきらかに猟官制を予定していた、と見るべきであろう。
そもそも、わが国官僚制度を改革するという予定は、当初、GHQ側にはなかった*18。基本的に猟官制を採用する場合、公務員制度を特に改革しなくとも、政治機構さえ改革すれば、それに引きずられて、自動的に改革されることになるからである。
しかし、占領開始から三ヶ月たった一九四五年一一月に、GHQ民政局のエスマン中尉Milton J. Esmanが官僚制の問題に気がつき、日本側から官僚制度に関するヒアリングを開始した。すなわち、エスマンは、わが国が基本的に能力制を採用しているために、その点に手をつけない限り、天皇制下の官僚団が民主憲法の下でも実質的に温存されることになる可能性に気がついたのだと思われる。
が、GHQによる日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案作成作業が始まったため、その作業はいったん中断している。エスマンは、憲法草案の作成にあたっては、内閣の章を担当した。が、米国の大統領類似の強力な内閣総理大臣制度にすることを主張して*19譲らず、草案作成の責任者であるケーディス大佐と衝突した結果、途中で草案作成作業からはずされている*20。
草案成立後に、エスマンは再び官僚制度の検討作業を再開し、中央人事行政機関の設置などを中核とする改革案をまとめて、日本側に迫ろうとしていた。しかし、同じ時期に日本側でも、官僚制度については独自の検討を重ねた結果、GHQに対して大蔵省から「政府職員の俸給、給与制度の改革についての援助要請」がなされていた。この要請は当初大蔵省の独走であったため、当時人事権を保有していた法制局はこれに強い難色を示したが、結局一九四六年五月一四日に閣議で了解がなされ、日本政府からの要請ということになった。この結果、米国本国から官僚制度の調査団が派遣されることになり、エスマン案は日の目を見ずに終わることとなった。
こうしてわが国に一九四六年一一月三〇日に来日したブレイン・フーバーBlaine Hooverを団長とする合衆国人事顧問団United States Personal Advisory Mission to Japanは、その後のわが国公務員制度に大きな影響を与えることになった。
すなわち、その中心人物であるフーバーは、官僚制擁護主義者で反組合的な性格を有していた*21から、五ヶ月に及ぶ調査活動の結果、一九四七年六月に片山内閣に提出した報告の中では、単なる勧告に止まらず、具体的な法律案を作成して、その完全実施を迫る、という、第二次大戦後に米国からわが国に来た顧問団としては、かなり異色の活動となった。この法案は、フーバーに法律知識が欠けていた*22ため、すでに成立していた憲法と整合性を欠く、独立性の強い中央人事機関(人事院)の設立や、公務員の争議禁止条項を盛り込むこととなった。そして、その完全実施を迫るため、GHQ民政局に新たに公務員かを設け、フーバー自身が初代の課長に収まってにらみを利かせるということになった。
が、実際に日本政府が国会に提出された法案では、その中心というべき、人事院の独立的地位を保障する諸規定が削除されており、内閣に完全に従属するものと変化していたから、猟官制を可能とするものということができる。この間の経緯についてははっきりしないが、法案提出時にフーバーが日本を離れていたことを奇貨として、マッカーサー草案を作成したGHQ民政局の中心人物であるケーディスの意向二より、このような変更が行われたと見るべきであろう*23。国会は、この法案を、さらに人事院の名称を人事委員会と替えるなど、人事院の内閣に対する独立性を弱める方向に修正したので、猟官制的傾向はさらに強まった。
この段階における国家公務員法一〇二条一項は次のような文言であった。
「職員は、政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与してはならない。」
すなわち、人事委員会(人事院)規則への白紙委任条項はこの段階では存在していなかったのである。
これが現在の条文に変わった原因は、いわゆる二・一ゼネストなどをきっかけとして、GHQが労働運動に対して批判的に変わったことが大きい。この結果、GHQは国家公務員法の改正を考えるようになり、争議権の禁止に関しては、それを待たずに「内閣総理大臣宛連合国軍最高司令官書簡に基づく臨時措置に関する政令」、すなわち政令二〇一号により規定されることになる。
この政令二〇一号を正規の条文の中に取り込むような形で実施された昭和二三年の国家公務員法の第一次改正では、人事委員会の名称を人事院に改め、その内閣からの独立性を強化するとともに、職員の団結権、団体交渉権、争議権とともに、政治活動の自由についても制限が強化されることになった。すなわち、一〇二条一項に関しては次の文言となったのである。
「職員は、政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」(傍線部が追加された箇所)
これを受けて、人事院規則一四−七が一九四九年九月に公布され、即日施行されることになったのである。同規則は、その後、一度も改正されていない。
(一) 問題の所在
公務員の政治的基本権制限の場合には、前述のとおり、基本的には職務性質説にしたが、個々の公務員関係のもつそれぞれの特殊性から、その制限根拠を導く必要がある。ここにおいて参考となるのが、「憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること」という論理である。
もちろん、この論理自体は、政治的基本権に関しても不当なものであることは明らかである。なぜなら、その説が根拠としてあげる憲法一五条において公務員と呼ばれているものがもっぱら国会議員等であることは、その四項が秘密選挙を保障していることからも明らかである。したがって、このような広範な公務員を主語とする形では、政治的基本権の制約という結論を引き出せるわけがないからである。
ここで取りあげようとしているのは、一般職公務員関係という「特別の法律関係の存在」とその「自律性」である。
(二) 判例の論理
この点については、判例は次のように説明する。
「公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もっぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。
すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損なうおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。」*24
この説明では、二つの論理が使用されている。
前半は、行政の政治的中立性に関するわかりやすい説明である。ただ、この限りでは、個々の一般職公務員の政治活動の禁止までを導くことはできない。その職務に忠実である限り、職務を離れてどのような思想信条を持ち、また、それを表明しようとも、毫も非難されるものではないからである。そして、従来問題となってきた公務員の政治行為のほとんどは、勤務時間外に、私人としての立場から行われた行動である。
そこで、後半において、その点をカバーするため、「国民の信頼の維持」ということがいわれる。しかし、なぜ行政の中立的運営が行われているということに対する信頼の維持のためには代償なく、基本的人権を侵害することがなぜ許容されるのかについては、全く論及されていない。
この点について、次に考えてみよう。
(三) 行政の中立性と裁判の中立性の異同
行政の政治的中立性に対する国民の信頼の確保という点に関する論理は、全く同一のものを、司法権の独立性に対する政治的中立性という議論の中に見いだすことができる。しかし、裁判官の場合には、非常に限定的な形でしか、政治的基本権の制限は行われていない。すなわち、「国会もしくは地方公共団体の議会の議員となり、又は積極的に政治運動をすること(裁判所法五二条一号)」が禁じられているに止まる。この規定の場合、前半の例示が後半の解釈を拘束するため、解釈の幅は狭いものとならざるを得ない。最高裁平成一〇年一二月一日大法廷決定の場合、国会が制定しようとしている特定の法律に反対する集会において、パネリストとして積極的に発言しようとした行為を巡ってのものであった*25。
これに対して、一般職国家公務員の場合には、「政党又は政治的目的のために、寄付金その他の利益を求め、もしくは受領し、又は何らの方法を持ってするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。(国家公務員法一〇二条一項)」とされて、はるかに包括的である。猿払事件の場合、問題となった事実は、単に選挙用ポスターを各地に貼付して回ったに過ぎず、議員になる行為に準ずるような積極的な政治活動とは言えない。
この違いの発生原因は様々な点に求めることができ、単一の要因ではない、と考える。一つは、裁判所との権限の差である。すなわち裁判所は、@重要な政治問題に関して自制が要求される、という点及びA裁判所は法の執行、換言すれば合法違法の判断だけに止まる、という点、そしてB裁判所の活動は、原則的に法廷という施設内で行われるという点等にあると考える。
これに対して、行政権は、第一に、それがどれほど政治性の高い問題であろうとも、司法権の場合と異なり、判断を下す行為を避けてとおることができない。必ずそれを処理しなければならないのである。
第二に、行政行為において一定の裁量権を行使する必要がある。行政裁量が要求されるということは、行政権は、単に合法な行為をすればよいのではなく、その時点における社会状況の中でもっとも妥当な行為をしなければならないことを意味する。換言すれば、政治的判断を下す必要に迫られる。その判断が、一党一派に偏せず、客観的に公平な立場から行われている、という信頼は、このような場合、きわめて重要なものとなってくる。
第三に、社会国家現象がある。社会国家は、個々の国民に関する膨大な情報を蓄積し、それをもとに、私人間への積極的な介入を行う。しかも、それに当たり、必ずしも法律の根拠を要しない。こうした強大な権力が、政治的に利用されるときは、精神権的自由権の保障などはほとんど意味を失うほどの、強大な影響力を発揮することは明らかである。しかも、その場合に、行政庁の活動は、行政庁の庁舎内に限定されることはほとんどない。広く、社会の中で活動は展開されるのである。
こうして、ある公務員の政治活動が、行政活動なのか、私人としての活動なのかは、必ずしもその外形からでは判別できない、という問題が生じてくる。このため、私人としての活動もまた一定の規制を行うことが、必要となってくる。それは、公務員がその地位を利用して、一般国民に自らの政治信条に従うように有形、無形の影響力を行使することの禁止である。
このように考えてくると、一般職公務員は、その職務の持つ公共性の故に、政治的自由権を一定範囲で認められないのは、その業務の性質そのものということができる。
現行法制が能力性を採用している公務員については、そのことが政治的基本権制限の根拠であると考える。すなわち、公務員としての身分に対し、政治的影響を受けないことを保障されている者は、その保障の代償として、政治的基本権の制限を忍受しなければならないのである。
問題は、むしろ、現行憲法一五条及び七三条四項が、その文言から見ても、立法経緯から見ても、上記解釈の対極ともいうべき猟官制を予定していると読める点にある。
確かに七三条四号は「法律の定めるところにしたがい」とあるから、法律により官吏に関する事務の掌理権をどのように定めることも可能であり、その極限として、現行国家公務員法に見られるように、実質的に内閣の干渉を排除した法制もまた可能と説く余地はある。しかし、このような法律の留保文言に関しては、すでに制度的保障説により解決済みの問題と見るべきであろう。すなわち、ここにいう法律には、内閣による行政官吏任用の民主的統制という制度の中核を侵害するような内容を盛り込むことは、違憲と評価されるべきである。
しかし、先に制度の沿革として紹介したとおり、内閣から独立した中央人事管理機関としての人事院制度は、現行憲法成立直後といっても過言ではない時期に成立し、以来、今日まで能力制は安定的に運営されてきており、明らかに国民の支持を受けてきていると考えられる。このような明文に反する事態を説明するには、これを憲法の変遷があったと把握するか、あるいは慣習法上の憲法が、実質的に憲法典を改正していると見る外はないものと考えている。
六 LRAテストと公務員の分類
このように能力制を採用していることにより、政治的基本権の制限が可能になるとしても、再三指摘したとおり、これが民主主義を精神的自由権の制約であることを考えれば、その制約が必要最小限度の規制に止まるべきであることは、当然のことといえる。
この必要最小限度規制の要求があるということは、適否の判定に当たってLRAテストを使用することができるということを意味する。そして、現行国家公務員法の規定についていえば、地方公務員法三六条との比較が重要性を持つ。すなわち、同条は第一項で裁判官類似の積極的政治活動の禁止を定め、第二項ではかなり限定的に列挙したもの以外には条例という民主的根拠のある場合に限って制限を肯定するという姿勢をとる。地方公務員と国家公務員の非政治性の要求は、上述した政治的基本権の制限根拠としての能力制という点に照らす限り、本質的に差異はないのであるから、LRAテストからすれば、国家公務員法一〇二条の規定は、当然に過度に広汎と判定されるはずであり、したがって違憲という結論が導き出されることになる。この点については、先に紹介したとおり、今日、通説の圧倒的に支持するところと見てよい。
しかし、ではどの限度の規定ならば許されるのであろうか。すなわち、地方公務員法の規定を国家公務員法に移植すれば、それで問題は解決するのであろうか。
否定的に解したい。すなわち、一般職公務員のすべてについて一律に規制する、という姿勢を示している点において、地方公務員法もまた、過度に広範な規制を行っていると評価されるべきである。労働基本権の場合には、法律そのものが、現業部門の労働者、狭義の一般職公務員、警察等職員という三分類を行って、制限の程度に差異を設けていた。より制限の許容度の高い労働基本権でさえも、このような職務内容に応じた制限態様の区分が行われていることを基準に評価するならば、少なくともそれと同様に、その職務内容に応じた分類が行われていない限り、実質的内容を検討するまでもなく、違憲と評価することを、LRA基準は要求する、と解すべきである。
このことは、従来から多くの論者の指摘してきたところである*26。しかし、従来、これは抽象論に止まり、管見の限りでは具体性ある基準の提示は試みられていない。このことが、従来学説の厳しい批判にも関わらず、政治的基本権に関して見直しが行われようとしなかった一つの原因であろうと思われる。
そうした現状に一石を投ずるため、以下に、労働基本権における現行法制の分類方法に準拠しつつ、一つの試論を示したい。
(一) 現業部門の労働者
国営企業労働者の場合には、以上に述べたような政治的中立性に関する公務員業務の特徴を認めることはできない。その業務は、法に従った機械的な内容のものだからである。したがって、国営企業労働者については、管理職と否とを問わず、政治的基本権の制限は違憲と考える。したがって猿払事件の場合、最高裁判決は明らかに適切ではない。
(二) 警察等職員
警察官、刑務官、海上保安庁職員など、警察等職員の場合には、それが侵害行政の主体として、第一線に立つ者の場合にも広範な行政裁量権が承認されることを考えると、その政治的自由権が一般に大幅な制限を受けることは承認されると考えざるを得ない。ただし、その場合でも、国家公務員法の委任を受けて制定されている人事院規則の各条項が具体的妥当性を有するかは、個々の場合に応じて判断されなければならないのは当然のことである*27。
なお、ここで警察等職員と呼んでいるのは、労働基本権の場合と異なり、警察庁以下のいわゆる警察官や海上保安庁の職員ばかりでなく、行政法学上、警察行政の主体となる者、例えば労働基準監督官とか保健所の立ち入り検査を担当する者などのすべてを意味している。そのすべてが侵害行政の第一線に立つものという意味において、先に指摘した政治的基本権制限の要件を満たしているからである。同様のことは、税務署職員についても考える余地があるのではないかと思われる。
(三) 狭義の一般職公務員
現業公務員と警察等職員の中間に位置する、狭義の一般職公務員の場合には、労働基本権の場合と異なり、一律に論じることはできないと考えられる。行政職第二表に属する職員や研究職公務員、医療職公務員のように、行政裁量権を原則的に対国民的関係において有していない者は、現業公務員と同様に、政治的基本権の制限は否定されるべきであろう。
行政職第一表の職員の場合にも、必ずしも行政裁量権を有するとは限らない。管理職は一般に裁量権を有するといえるが、それが、内部関係にとどまる限りは、ここでの問題にはならない。
逆に、非管理職であっても、対国民的な関係において裁量権を法律上、あるいは事実上有する場合には、政治的基本権の制限が承認されるべきであろう。ただし、その場合に、現行法制における規制がすべてそのまま妥当するかについては、警察等職員の場合と同様に、個別的な審理が必要になると考える。
七 審査基準
個々具体的な場合の審理基準は、通常の政治的自由権であれば、精神的自由権の一環として厳格な審査基準となるはずである。しかし、公務員の場合には、基本的な制約可能性が推定されるから、基準も一段階緩和されると考えるべきであろう。すなわち、厳格な合理性基準のもとに、政府としては、国の重大な利益に関わることが証明できれば、規制の必要性を論証できたものと考える。その場合、この国の重大な利益を判断基準として、代償を提供することなく、権利を制限する場合の一般論として、最小限度規制の要求が現れる。したがって、LRA基準に従って判断するのが妥当ということになる。