夜明け前より瑠璃色な a Lovers of SKY

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二話へ。


第一話「兄弟」

夜の闇をくり貫いた空間の中、一つの宇宙船が目的地へ向かっていた。
白い全体が丸みを帯びて、後ろに尾ひれがある当たり、海に生息する鯨のイメージを思わせるこの船は、月で王家が所有し、なおかつ三隻しかない地球と月を往航できるという希少な宇宙船、往還船。無論、船体の側面にはアーシュライト家の紋章が描かれている。
その船内では月の王女であるフィーナ・アーシュライトと付き人であるメイド、ミア・クレメンティスが楽しげに談話していた。
「姫さま、地球があんなに大きくなってきました」
「本当ね」
透明なキャノピー越しからは、十数年もの間眺め続けていた青い星、地球がもう目前と言うほど広大に、そして優しく迎えるように近づいていた。
「初めてなので少し不安ですし、どきどきしますね」
「そうね。私もよ」
何気ない同意に、ふとミアは小首を傾げた。
「わたしと比べると、姫さまは落ち着いていると思ってました」
その言葉にフィーナは、ふふっと上品に笑う。
「そんなことないわ。それに前に来た時は、まだまだ小さい頃だったから……あの頃のことはほとんど覚えてないの」
「そうなんですか」
そことなく残念そうにがっかりするミアを見て、フィーナは胸の内で謝罪していた。
確かに幾重もの日々という積み重なれた記憶によって、幼少の頃の地球での思い出はほぼ失っている、ただ一つの偶然からもたらせた出会いを除いては。
瞼を閉じて思い出すのは、色褪せることもないあの元気っ子な少年と遊んだ思い出、別れ際の誓いの言葉と決意を秘めたあの強い眼差し。あの人から伝言の言葉。
(きっとあの子は私に会いに、必死で勉強しているのかしら)
などと、到着地の街にいるであろう、彼にフィーナは想いを馳せた。
「あれ?」
丁度その時だった。ミアが何か異変に気づいて声を上げたのは。
「どうしたのミア」
「外に護衛宙艇の船が見えた気がして」
語尾になっていくうちに自信が失い、ミアの言葉が尻すぼみになっていく。
自分自身でも納得がいかない様子で、目線が宙を彷徨っていた。
「…………」
まさかと感じつつも、フィーナもミアが覗いていた空域に目を凝らす。
だが注意深く観察してみても、船どころかデブリの欠片すら目視できなかった。
さすがに大気圏突入用の装備も無しに護衛に来るとは考えられない。
ましてや反王族派ならば、こんな中途半端な場所で攻撃するはずがない。
するならば地球に降り立ち、何かしらあちらに自分達の所業を擦り付けられる状況にしなければならないし、何よりもリスクが高すぎる。
だとすれば地球側? いや、それはもっとあり得ないことだ。
かつての数百年前に停戦された戦争以来、地球の文明は月側に比べると大きく衰退しており、現在は莫大な予算と緻密なスケジュールによって打ち上げられるシャトルでしか宇宙に進出できない状態だ。しかも護衛艦に装備してある高性能のセンサーに掛からないほど、隠密性がある技術などありえるはずが無い。
そう結論付けたフィーナは安堵するように、一息つけた。
「きっとミアの見間違いよ。それに昨日は今日のことを考えすぎて、あまり眠れなかったのではないの?」
「ひ、姫さまどうして知っていらっしゃるんですかっ!」
全てが真実とばかりに驚愕したミアが、思わず席から立ち上がる。
「ミアのことなら私はいろいろと知っているもの」
「は、はぅぅぅ……」
瞬間に全身真っ赤に染め上げ、へなへなと座席に滑り込むミア。
そうこうしている間に、往還船は大気圏突入のための準備をし始めた。


『ねえ朝霧君。そろそろ起こさないと危ないんじゃない? 確か菜月って今日はアタリの日だよね』
『だよねじゃなくて、そうだ』
教師が教科書を読み、黒板にチョークで文字を書く間に音速を超える速度でアイコンタクトを取る朝霧達哉と遠山翠の二人の手際はまさに神業と言えるものだった。
……外野からすると夫婦がなせる業と冷ややかな揶揄が飛びそうだが。
(とは言っても、さすがに眠たいよな)
昼食後の授業となると血液が胃に行き、真昼の程よい温暖さ、さらには教師の発する平坦な声が睡眠を促がしており、気を引き締めないと暗黒の世界に引きずられそうになる。だが、それは確固たる意思を総動員して堪えきる。
「菜月、菜月起きろ。そろそろ当たるぞ」
小声で言いながら、ちょんちょんとシャーペンの先で菜月の頭を突く。
「んにゅ」
だがよほど溝に入り込んだのか、返事は奇矯だった。
何度試してみるものの、結果は平行線を辿るまま。
「じゃあ次は……鷹見沢、呼んでみろ」
「は、ひゃい!」
時間切れになったその時、悲劇は起きてしまった。
起き上がった菜月の後頭部に、ぶすっとシャーペンの先が貫いたのが。
「「あっ」」
二人して呆気に取られて、視線を横へとずらし、冷静に耳を塞ぐ。
同時にこれから悲劇に遭うであろう、哀れな子羊のために合唱した。
「………ーーーっ!!」
三クラス越しでさえ響く、大絶叫が木霊した。


「い、痛かった」
後頭部と額を摩りながら菜月が涙目でとぼとぼと歩く。
なぜならば、後頭部に突き刺さったシャーペンの鈍痛と、先生が放った三点バーストチョークスリーパーの餌食となったためである。
彼女の両脇にはその元凶でもある朝霧と、遠山の二人が追従していた。
「そりゃあ極悪コンボ二連打されたら、誰でもそうなるって。でも面白かったよあれ」
「ごめん菜月。もう少し他の方法を取ればよかった」
遠山は始終笑止しながら、朝霧は居たたまれないように謝罪する。
「ううん達哉は私のためにやってくれたんだからいいよ。後、翠はあとで覚えてなさい」
音もなく菜月はマイ・ベスト・オブ・ウエポン、と滑らかな筆記で書かれたしゃもじを取り出して、怒り心頭とばかりに遠山を睨みつける。
見るたびに達哉は考える。どこにそれを隠し持っているかを。
その時どこからとも無く風に乗って、穏やかで温かみのある旋律が聞こえてきた。
考えるよりも先に、記憶が即座に演奏者の名前を浮かばせた。
「これは麻衣のフルートだな。他の人とは音色が違う」
「ほほー朝霧君。やっぱりお兄ちゃんは全てお見通しというわけですな」
どこか含み笑いを浮かべ、翠は達哉の脇を小突く。
「何度も聞いたことがあるから、覚えているだけだって」
照れ恥かしいばかりに達哉は、顔の前でぶんぶんと左右に振る。
「まあまあ、とは言っても麻衣のフルートはかなりの腕前だしね。聞きほれるのも無理は無いよ」
まるで自分ごとのように、誇らしげに胸をそらす翠。
が、ここに一人ふんっと鼻を鳴らす人物がいた。
「ふふーん♪ 翠、あなたは何も知らないのね」
にやりと含み笑いを滲ませて、菜月が腕を組む。
「ほぇ、なにが?」
「ただ素人だけの感想じゃないの。実は達哉はね、ピアノがすっごくうまいんだよ」
「え、朝霧君ってピアノを弾けるの!?」
初めて知ったとばかりに翠は大仰に驚き上げた。
「別にすごくうまいわけじゃなくて、ただ嗜み程度に多少弾けるだけだから」
さすがに話が拗れるのを防ぐために、先に防波堤を敷いておく。
「じゃあ朝霧君ぜひウチのにぜひ来て頂戴! すぐにレギュラーだよ! と言うか来てプリーズ!」
両手を大きく挙げ、翠が勧誘をし始める。
よほど人員不足なのか、演奏学部は?
「あのな遠山、三年は今度の大会で全員引退だろうに。今の時期に入部してもあまり意味が無いんじゃないか」
言い聞かせるように達哉は至極当然で、理路整然の反論を投げかける。
「あ、そうでした」
しまったとばかりに翠は可愛らしげに舌を出して、てへと笑う。
(にしても不思議だよな)
全学年の男子が秘密裏に行われている『彼女にしたい子、ベストテン』のうちに彼女こと、遠山翠の名が連ねているのは達哉も知っている。
顔も可愛いし、性格も明るムードメーカーで、クラス全体を引っ張るある種のカリスマを持っているのだが、なぜか彼氏を作ろうとしない。
これまでに何度も男子生徒が彼女に対して告白したのだが、全て拒否されたため、噂ではもう好きな人がいるのではないか囁かれているのは聞いたことがあった。
……だが彼は知らない、『今すぐボコりたい野郎ベストテン』のトップに自らの名が堂々と書かれていたのを。
「あ、お兄ちゃーーーん」
ふと名前を呼ばれて周囲を窺うと、いくつかのグループを構成していた輪の中から、朝霧麻衣がひまわりのような明るい笑みを浮かべてやってきた。
「どうしたの三人とも、一緒に」
麻衣」は心底珍しいとばかりに、三人を見渡す。
「ちょっと遠山が行きたいって言うから、一緒にな。ところで部活の調子はどうだ」
「うん。あそこにいる新入生しだいだよ」
肩越しに見やると慣れない楽器に、四苦八苦している一年生の姿が見えた。
なんとなく達哉に笑みがこぼれ、自分も同じことがあったなと思い出す。
「どうしたの達哉。笑いをかみ殺したような顔をして」
不思議に思ったらしく、首を傾げて菜月が問いかけた。
「いや、俺も兄さんに同じ経験したから、なんとなく理解してね」
「確かに私も先生にはいろいろとお世話になったな。今の私があるのは、あの人のお陰だし」
「俺だってあの人がいなければ、あの事を覚えていなかったかもしれないな」
二人してしみじみと一年もの間、旅行に出かけている人物に想いを馳せる。
「ちょっと、ちょっと、あの人って誰、あの人って」
置いてけぼりを喰らった翠が唇を尖らして、講義した。
そこにすかさず麻衣のフォローが入る。
「私達の義理のお兄ちゃん。と言っても、ここ一年ほど顔を会わせてないんですけど」
「これまた翠さん初耳なのですよ」
「遠山先輩に話すのは、これが始めてですから」
「ううっ、こんなに朝霧君のことを知らないなんて、やっぱり私はヒエラルギー最下位なのね」
のねーっと翠がエコー音を木霊しながら、地面に「の」の字を書き始める。
どことなく背中に哀愁が漂っており、何ともいえない空気が漂う。
「遠山先輩……」
沈痛な面持ちで、麻衣は落ち込む翠にどうすればいいか迷った。
「大丈夫よ、これくらい翠なら三分で立ち直るでしょ」
ため息を溢して、肩をすくめながら菜月がぞんざいに言う。
「三分って……菜月ちゃん。カップラーメンじゃないんだから」
これまた追い討ちをかけるかのような例えが、麻衣の口から発せられた。
「ま、まあ、俺達はそろそろお邪魔するよ。先に帰っているから、麻衣は遠山を頼むな」
「うん。頼まれたよ」
にぱっと笑って麻衣は、さっそく遠山の再起動の手続きを始めだす。
こうなった場合の遠山の対応については、彼女が適任だからである。
「さてと菜月、そろそろバイトの時間だから行くか」
「うん」


もう十何年間も見慣れた平穏な閑静な住宅地を歩き、もうすぐ自宅に戻ろうとした矢先、意識しないと気づかないくらいの異変だが達哉は気づいた。
強いて例えるならば、自分の部屋にある私物の中に、見知らぬ物品が紛れ込んでいるような、違和感。
そして淀みの無く、ただ何かを試すように真っ直ぐと凛とした視線が感じ取れた。
「どうしたの達哉、急にぼうっとしちゃって」
ふいに立ち止まった達哉に、菜月が覗き込む。
「いや、この感覚はどこかで……って、まさか」
言うか言わんかの間、背後から風を切る音がした。
「っ!」
すかさず手に持っていた鞄で身体を防御しつつ、回避する。
振り返りながら観察すると、それは刃の欠けたダガーだった。
しかも時間差無く眉間、喉、心臓を貫通させるほどの精密さを持っていた。
「くそっ!」
状況把握を達する前に、まるで達哉の影から生えたかのように音も無く、襲撃者が達哉の胴体に目掛けてナイフを袈裟切りに振り下ろす。
身を捩ってかわすとお返しとばかりに、鞄を放り投げた。
よほど向こうも手馴れたのか、奇襲が外れたはずなのに動揺も見せず、よけた。
(そこはもう見切っている!)
それよりも先に回避位置を先見しておいた達哉は、すかさず殴りにかかる。が、
「んなっ!?」
間違うことなく直撃したはずなのに、拳が朧を切ったように虚空を舞った。
その直後、自分の世界が上下逆さまになるのにようやく気づく。
青々とした空が永遠と広がる中、一人の男性の顔が達哉を見下ろしていた。
「どうやら少しばかり反応速度が遅くなったのではないか、朝霧達哉」
頭上から降ってくる淡々と、嘲笑しているが温かみのある声。
眺めると長身で筋肉に無駄の無い体型の、髪留めのポマードを付けてもなお、癖っ毛のある柑橘色の髪を生やし、様々な激戦区を潜って来た歴戦の戦士のような精悍な顔立ちの男性が、投げ飛ばした姿勢で佇んでいた。
「な、和兄さん!」
「久しぶりだな、タツヤ」
そう言って和と呼ばれた男性は、唇の端だけだが笑った。





一話へ。

第二話「兄弟(2)」


「まったく和兄さんも人が悪いな。もう少し手加減してくれよ」
不満そうに抗議する達哉。その脇では菜月がくすくす笑っている。
もう少しすると朝霧家まであと僅かの位置で、久しぶりに再開した三人は談笑しあっていた。
「ふっ、きちんと対応しないほうが悪い。大体威力は抑えたはずだぞ」
ふっと嘲笑するように、だが陰もなく和は説明を続けた。
「そもそも一年もの間、多少は腕が上がってもおかしくない筈だがな。日ごろのトレーニング表も作ってあるはずだし、カレンにもたまには稽古してもらっているだろうに」
「すいません」
達哉は自分の不手際を他人に押し付けれない質。
だから素直に和に向かって、頭を垂れながら謝罪する。
言われている通りに自分は毎朝、和が作ったトレーニング表を元に練習をし、更には自分の姉と兄の無二の友人である月人、カレン・クラヴィウスに多少なりとは稽古してもらっているからだ。
「そう言えば先生って、この一年どこに行っていたんでしたっけ?」
「死海の方だ。なかなか殺風景なところでな、後で写真を渡しておくから、見ておくといい。あとお土産も買ってきた」
「ありがとうございます。いつもすいません、いろいろとお世話になって」
「別に構わない。おやっさんには貸しがたくさんあるからな」
腰に手を当てて、至極当然とばかりに答える。
だが視線はそっぽを向いていて、左手で右腕を掴む仕草を取る。
突拍子な際に困惑した時や、照れている時には必ずといって良いほどこの癖を出しているのだから、確実に和が気恥ずかしいらしいことが、容易く読み取れた。
「なんだ、いきなり笑い出して」
「いやいや、別に何も考えてないですよ」
湧き上がる衝動を堪えるものの耐え切れず、唇から笑いが漏れ出す。
途端に、むっと和が不愉快そうに眉を潜め、目を眇めた。
「やっぱり一遍、逝ってみるか?」
不穏な言葉を滲ませ、某アニメの人物のようなカンフーの構えを取る。
普段は徹底的な理屈家と言うか、現実主義派なのだがこうなると子供っぽく見えるから、不思議だ。
それにそう、一年も長い間顔を見ていなかったのに、つい昨日分かれた友人のように気さくに会話ができる所も。
「さあ懺悔の時間は終ったか、歯磨きの時間は終えたか、子供の時のようにおねしょはしていないだろうな。お陰さまでいろいろと面倒を喰らったぞ」
途中から変な方向に脱却しながら、和はじりじりと歩を縮める。
「うわ、懐かしい。そういえばあのアルバムって、まだ家にあったよね?」
「って菜月、お前はどっちの味方だよ!」
追い討ちをかけるような菜月の恥かしい台詞に、素で返す。
頬が熱い。忘れかけていた恥辱を掘り返したせいだろう。
「あ、ナポリタンだ。おーいナポリターン!」
と、そこで久しぶりに再開できた喜びのためか、菜月が一直線に駆け出す。
見やると和と共に旅に出ていたハスキー犬のナポリタンが、拾ってきた犬三匹ことイタリアンズと一緒に、はしゃぎ回って遊んでいた。
どうやらあちらも菜月の姿を確認したらしい、急にびしっとおすわりの姿勢を取る。
そんな様子に拍子が抜けたのか、和は臨戦形態を解除して、菜月の後を追う。
その様子に達哉は安堵と、悔しさの念が複雑に交じり合う。
「俺って一体……なんなんだ?」
誰とも無く呟いた台詞を返す人物は、誰もいない。


「よしよし、わーしゃしゃしゃ」
嬉々といった表情の菜月が撫でるのに対して、ナポリタンが気持ちよさそうに目を細め続けているのを和は見続けていた。
よほど菜月には先天的な部分があるのだろうが、きっとどんな動物に対しても愛情を注げるという点があるのだろう。きっと彼女ならば高名な獣医になれる。現にそうなれる可能性は十二分に高い。後は本人の努力しだいだ。
そうでなければ自分が十年もの間、根気よく知識を与えた意味が無い。
「それでどうなんだ菜月。例の学校の件は」
何気も無く、明日の天気のことを聞くような素振りで話を振る。
「はい一応、推薦で行こうと思っています。それにきちんと勉強してますし、大丈夫ですよ」
「ふむ」
納得したように和は深く頷き、もう一度確認を取ることにきめた。
「だがな鷹見沢菜月」
和は、菜月の名をフルネームで呼び捨て、空気を凝縮されたような息詰まる雰囲気を切り替えた。
「前にも言ったとおり、獣医とて万能でもないし神でもない。下手をすれば自分の手で介護している動物達を……」
「分かっています。もちろん覚悟の上ですから」
今だにナポリタンの毛を撫で回しながら、菜月は迷いの無い水晶のような透明の瞳で和へと向けた。それはとても真っ直ぐで、真摯で自分には無いもの。いや、とうに失ってしまったもの。
「ならばいい、もはや俺らから言うことはない。すまないな菜月」
そう言い終えると同時に、場に停滞する空気を雲散させた。
「そうそうイタリアンズの散歩だが、一足先に行ってきた。だから今日はしなくても大丈夫だ」
「一足先って、帰ってきたばかりじゃないんですか」
「実は君らが登校した直後に、家に帰ってきていたのだ」
「え?」
突拍子の無い言葉に、菜月の身が一瞬硬直する。
「じゃ、じゃあ隠れていたってこと!?」
「ありていに言えば、どうなるな」
あっけなく飄々と和は答える。
が、どうやら菜月は納得いかない様子で、猛然と立ち上がった。
拍子にイタリアンズ達が主4(菜月)の気迫にくぅんと泣きながら後退していく。哀れな。俺を恨むのではなく、彼女に向けてくれ。
「もう帰ってきたなら、帰ってきたって言ってくださいよ先生」
「別に悪気があったわけじゃないんだ。ただあちこちの近所に挨拶をしたり、お土産を渡したりとな」
「相変わらず先生は律儀というか、なんというか」
菜月は呆れを通り越して、暗澹なため息を溢す。
それを見て和はやれやれと腕を組んだ。
「とはいえ、それだけではないのだがな……」
小声で呟いて、和はそろそろ浮かび上がるであろう、月を見上げた。
「誓いは果すぞ、必ずな」
何年もの昔、例え生まれや身分が違えども“人間”として交し合った約束。
薄皮一枚の平和の世界を憂い、希望の光と二つの国を託した人物。
だからこそ今こそ誓いを果す。ただそれのために、自分はいる。
「全てはこれからだ、全ては……」

なお、置いてけぼりの達哉を思い出したのは、それから数分後のことであった。


「誰か助けてくれーーーっ」
入店した途端、助けを求める男性の声が上から降ってきた。
「に、兄さん!?」
素っ頓狂に荒上げて、菜月は目を点にして天井を凝視する。
それもそのはず、菜月の兄である仁がロープで縛り付けられ、蓑虫のごとく天井から垂れ下がっているためである。さすがに達哉もこれには呆然と突っ立ってしまう。
これって新しい遊びか、何かなのか?
「おお二人とも帰ってきたか。すまんが和、仕込みを手伝ってくれんか」
「了解だ。すぐに取り掛かろう」
和は頷き、何事も無かったように着替え室に入ろうとする。
だがその前に達哉は前方に先回りし、立ちはだかった。
どうせまた馬鹿な所業をしたのだろうが、一応聞かざるを得ない。
「ちょっと和兄さん、これってどういうことなんですか」
「ん? ああ、あの馬鹿が満漢全席280円などと書いていたからから、その罰だ」
「じ、仁さん……」
相変わらず奇矯な行動をするなと、胸の内でため息をついた。
確かにそれは罰せらねばならない、断固として。
「というわけなんだ。達哉君、菜月、頼むからここから降ろしてくれ。というか、お願いプリーズ」
子犬のように目を潤せながら、懇願する仁。しかし、
「駄目ですね」
「そこで当分、反省して」
達哉と菜月の同時波状否定攻撃が、仁に浴びせられる。
「し、しどい……」
最後の希望、唯一の頼みの綱であったはずの二人に否定させられ、がっくりうな垂れる仁、これも自業自得ともいえるだろう。
とは言え、ディナータイム開始直前にはさすがに降ろさないといけなかったのだが。


「ありがとうございましたーっ」
元気溌剌の菜月の言葉を皮切りに、周囲の緊張が緩和し始める。
時刻は九時を当に過ぎ去っており、未だに営業中の忙しなさの余韻が漂っていた。
「今日も本当に忙しかったね」
などと言いながら、菜月は美容と健康のために毎日欠かさず飲んでいる野菜ジュースを取り出す。ついでに達哉も貰っておく。
「とは言え、今日は和がいてくれて随分助かったよ。すまんな」
マスターに話を振られた和は、片付けようとしていた食器の手を一時停止。
「いや、随分だったので腕が落ちていないか、不安でした」
「そんなことないです。和兄さん」
「うんうん。というよりももっと上がってるよ」
お世辞でもなく、本心からの言葉。なのだが、
「いやいやこう見ても、オレの腕なんか未熟そのもの。まだまだだ」
増長するでもなく、ましてや謙遜もしない、向上心そのものの台詞。
なんというかと達哉は、子供の頃の感想文に『あこがれの人』の例として、彼の名を上げて自分もいつかあの背に近づき、追いついて、同じ世界を眺めたいものだと、発表した。無論それは変わりはしない。いや、むしろあの頃からは強まっている。
もっともそんな事を考えている内は、未熟者だと言われそうなことも知っていた。
だからこそ今できることを、一歩ずつこなしていくしかない。この時も。
「あ、あの親父殿。僕はどうなんでしょうか」
戦線恐々と今夜の出番がなかった仁が、尋ねる。
「お前はまだまだ精進だな」
「そ、そんな」
大げさにガーン! と仁が大きく仰け反り、衝撃の大きさを身体で表す。
勢いをそのままに、よたよたと軽やかなステップでドアに近づく。
がんっ!
途端に頭上からヤカンでも降ったような、軽やかな音がなり響いた。
「で、出番が〜〜〜」
妙に間延びした捨て台詞と共に地面にうつ伏せになったきり、仁の身体はぴくりとも動かなくなる。なんとなく口から魂が抜け出そうなのは気のせいか?
「あわっ仁さん、大丈夫ですか!?」
まさか開いたドアの先に人がいたとは思わなかったらしい。
夕食をしに来た麻衣が大慌てで、介抱をし始めようとする。
「大丈夫、大丈夫。いつものことだから心配ないって」
笑い飛ばしながら、菜月は夕食の用意を整え始める。
無論達哉もおやっさんと一緒に二つの大きなテーブルを組み合わせては、椅子を運ぶなど体力面で貢献していた。
「お帰り麻衣。今回のまかないは俺が作るから楽しみにしていてくれ」
「わあ、和兄さんが当番なんだね。楽しみだよ」
「ふむならば妹の声援に応えて、思う存分に楽しんでもらおう」
ふっと笑みを溢しながら、料理の最終調整を整えだす和。
「それにしても姉さん、今日は少し遅いな」
いつもならば定時に終了しているはずの、彼女のことが気がかりだった。
ずどんっ!
噂すれば何とやら、直下型地震でも勃発したような揺れが周囲に走る。
「た、ただいまー」
妙に間延びした声と共に現れたのは、今の朝霧家最後の家族である穂積さやかが顔を覗かせた。
「姉さんさっき物凄い音でドアにぶつからなかった?」
「……そんなことないですよ」
嘘だ!! と、この場の全員が突っ込みたい気分に駆られた。
しかもその間はなんなのだ、しかも視線が逸らしまくりだし!
だが、追求してものらりくらりと回避しまくるので、しないでおく。
「おかえりさやか。本日のメインディッシュはオレの気まぐれメニューだ。後ドルチェには木苺のアイスとブルーベリーのジェラードを付けている」
「和君の料理って打率が九割九分九厘だから、お楽しみね」
「アイスクリームとジェラードの競演。今から楽しみ」
さやかと麻衣は甘い時間を思い描いては、うっとりと高揚し始めた。
「「って、和君(兄さん)いつ帰ってきてたの!!」」
気づくのが遅すぎだよ、二人とも。


「というわけでお土産を買ってきたから、後で各自好きなものを選ぶように。だからと言って奪い合うのは厳禁だぞ」
「はーい」
と食後の全員の同意を皮切りに、各自が思い思いの行動に出る。
菜月は向こうでの出来事を和に尋ねつつ、帰国途中で母親と会っていたことに驚き、さやかは向こうの工芸品を物珍しそうに眺め、仁とおやっさんは新たな料理の発想を得るべく、特産物と対面しあい、残った達哉と麻衣は食後に渡されたブツを巡って頭を悩ませていた。
「ねえお兄ちゃん」
「どうした麻衣」
「死海まんじゅうって言っていたけど、外国におまんじゅうってあったっけ?」
「うーん、エチオピアまんじゅうがあるって聞いたから、あるんだろ」
「それはそうだけど、なんだか味気ない気がするのはどうしてだろ」
「さあな」
小首を傾げながらも二人はひとまず、まんじゅうを被りつくことにした。
だが肝心なところは知らなかった。エチオピアまんじゅうは、別にエチオピアで作られたのではなく、店の人物が勝手に命名したことを。
「……ところでさやか、全員に話さないといけないことがあるのではないかね?」
ふいに談笑の輪を崩したのは、主役であるはずの和からだった。
家族の会話を尊重する彼が、滅多に出ない行動に首を傾げる。
なぜなら口調は柔らかいのだけど、微細に責めている雰囲気が見受けたから。
「話ってなんのことかしら」
「知らないと思ったら間違いだぞ。例の件、相当前から引き受けたと向こうで聞いたのだが」
「……どうしてそれを?」
「蛇の道は蛇、その手の者ならばもう知っているのはいないからな。どの道明日には来られるのだろう、あの方が」
後はどうするか決めろと言わんばかりに、和は口を紡ぐ。
その様子に怪訝そうに眺める達哉達。
「やっぱり和君には敵わないわね。本当はもう少し後で話すつもりだったのに」
幾ばくかの間を置いて、少しだけ残念そうに諦めると、顔を引き締める。
「実は私達に家族が増えることになりました」
脈絡も、前置きの無い台詞に一瞬として、トラットリア左門周囲の空間が氷河期に戻ったかのように凍えついた。

…………しばらくお待ちください。

「さやちゃん、子供が出来たのかい! 何時、どこで、誰と!!」
「わわっ、お祝いをしないと、ってもう店は閉まっているし、どうしよう!」
「落ち着いて麻衣、まずは深呼吸よ、深呼吸! ふー、はーっ」
「おめでとうさやちゃん。名前は決まっているのかい」
仁、麻衣、菜月、左門とそれぞれが混沌と祝福と疑問の言葉を投げつけた。
「え? 子供?」
意味を把握したさやかの顔が、一瞬にして真っ赤に染め上がる。
「ちちち、違います! そう言ったことじゃありません! 相手もいないのに結婚や子供なんて」
珍しくさやかが、てんやわんやと慌てだし、手足をばたつかせた。
だがそんな中で動じていない二人の男性が居た。
つまり達哉自身と和の両名。
「多分違うんじゃないかな、きっと」
心底平静に取りつつ、達哉は冷静に発言を取った。
途端に同様の波紋が急速に収まっていき、視線が向かれるのを感じた。
いざとなれば顔役となる自分の行動。これも兄から賜った物なのかと、胸の内で達哉は苦笑した。
「姉さんの家族が出来るって、もしかして誰かを家に泊めるとか、そういった話じゃないの?」
確立の高い言葉を投げかけると、さやかがこくりと頷いた。
「実は家でホームステイをすることになりました」
「ホームステイ……」
さやかの言葉を反復しながら、考える。
確かに和が少し咎めるような言動を取ったか分かる気がした。
ちぐはぐで、血の繋がっていない家族。
一人一人が共に手を繋ぐことで、なんとかやっていけている。
なのにさやかは自分の判断だけで、重大な事を決定していた。
そのことに対して和は少し不機嫌になったのだろう。
同時にそうせざるを得ない背景を、会話の端々から把握し始める。
「姉さん、その話は始めて聞いたよ。俺達家族に秘密にしているなんて酷いじゃないか」
なるべく感情的にならないよう述べて、ほどよい苦さのコーヒーを啜る。
「ごめんなさい」
達哉たちの感情を知っているさやかが申しわけなく、頭を垂れる。
「別に構わないよ姉さん。それでどこから来るの?」
「スフィア王国と言えば分かるかしら」
「え、月から!?」
想像せざる場所からのホームステイに驚く麻衣。
「まさか月から達哉の家に泊まりに来るなんて、びっくり」
菜月も同様に同意見らしく、あんぐりと口を開き続ける。
「月から、ホームステイか」
眺めるともなく眺め、達哉はこれまで得た情報を元に様々な推測を巡らせる。
さやかと和の言動、現在の月と地球の情勢、月人たちの地球に対する想い、そんな荒唐無稽な話を可能にする権力、最近の領事館の激しい人員の増加、全てをひっくるめて一つの結論にたどり着いた。
「フィーナ・ファム・アーシュライト」
「え?」
和を覗く全員の目線が再び集束するのを感じつつ、自分の考えを言う。
「現在の月の王族である現在の王位第一後継者、フィーナ・ファム・アーシュライト王女。違う、姉さん?」
その答えは無言の肯定と言えるべきものだった。


「フィーナ・ファム・アーシュライトか」
公園の階段を昇りながら、感情の籠もっていない言葉を吐き出した。
その後の彼女らの衝撃はまさに激戦区のごとき大騒動だった。
麻衣は『ちょうちょ、おうじょ〜』などと白昼夢を見ている患者のごとく、白目むいてあっちの世界に逝き、菜月はまるで精密で緻密な本人そのものの模型のように固まり、仁とおやっさんは今から腕を磨かなければと、意気込んでいたのを思い出す。
和とさやかは今頃、麻衣と菜月の面倒をみていることだろう。
達哉は気持ちの整理をつけるつつ、物見の丘公園を散歩していた。
加熱する思考をひんやりとした風が身体に当たって、心地よい。
「あの子が帰ってくる……」
どこか焦点が合わない様子で達哉は昔、出会った少女を思い出す。
月を目指すきっかけにして、最大の理由である人物。
きっと彼女は覚えているだろうか、あの時に交し合った約束を。
一方的で強引な誓い。だけど当時の自分の淀みのない思い。
『会いに行くから、たくさん勉強して必ず会いに行くから!』
今は行方不明中の父親に連れられて月居住区に来た際に出会った、少し変わった風貌の同い年の女の子。
毎日会いにいっては、いろんな人の目を盗んで様々な場所へ遊びに行ったり、かけ無しのお小遣いで購入した綿菓子を一緒に食べたりした甘い思い出。
そして黒ずくめに連れて行かれそうになった際の、今まで見せていた雰囲気をなり潜め、まるで王女のように振舞う姿。
頭の中に記憶する彼女の一挙一動を思い出しつつ、目的地にたどり着いた。
「今更ながら、一国の王女を街から連れ出そうなんて今やっていたら死刑だろうな」
幼い頃の自分の行動に、照れ笑いしつつこの公園にある塔のようなオブジェを観察する。
淡い月の光を反射して、それは天へ目指す階段のように聳え立っていた。
かつての父は言っていた。『あれは月に繋がっている』のだと。
つい父親のことを思い出し、ついでに気持ちの整理をつける。
……正直なところ、父親を憎んでいないといえば嘘だ。
これまで月の勉強と理由を付けては奇矯な行動をとり、最終的には身勝手なことに家を出て行って行方不明になり、その反動で母親が死んだようなものだから。
「いやいや何考えているんだ、俺は」
達哉は頭を振り、思い出すだけ嫌な頃の記憶を無理やり封じ込めた。
もうこれは終わりとばかりに月を見上げる。
一欠けらの無い、見事な満月だった。
「近いようで遠いんだな」
「遠いようで近いわね」
まるで相反する鏡のように、どこから凛とした声が降ってきた。
反射的に周囲をくまなく見渡し、ほどなく発生源を見つけた。
塔の反対側、ちょうど崖の淵付近で同じように夜空を眺めていたであろう少女と目が重なり合った。目が逸らせない。否、逸らすことができない。
場にそぐわない紺碧の中世の衣装を身に纏った、まるで御伽噺の月からやってきた王女のように彼女は同じ場所にいた。
「君は」
「あなたは」
再びに二人の声が同調し、沈黙が風に乗って吹き抜けた。
(この子、どこかで会ったことがあるような気がする)
考えるよりも先に脳の細胞一つ一つが、顔立ちがある少女の面影に似ていると判断している。知識では月では王族意外は着用するのを禁じられている、禁色とされている深い藍の服を着ていることを思い出す。
全てが全て、断定できる要素を持っていた。
それからどれくらい時間が経ったのだろうか、ひとまず口に出したのが
「こんばんは」
こんな陳腐でありきたりな言葉だった。
なのだが、心の中では再開に舞い上がる高揚感も、一市民として王女を敬うような感覚もせず、まるで静かな水面のように落ち着き払っていた。むしろ自分の半身が戻ってきたかのような温かな安堵感が胸に広がる。
「こんばんは」
彼女も同じ感情を抱いたのか、普通に挨拶をしてくれた。
「どうしたんですか、こんな夜更けに。女の子がこんな公園に来ているなんて」
「出来る限り行ける場所から月を眺めていたくて、ただそれだけのために来ているの」
「月居住区からじゃ、駄目なんですか?」
もう自分が月人であることを悟られていると知ったのだろう。
突如現れた達哉に対して、彼女は静かに平然と答える。
「それはそうだけれど、どうしてもここで眺めていたかったの。ここは私にとって大切な場所だから」
「正直なところ、俺も同じ気持ちだよ。なにせここはある女の子に連れて行きたかった場所だったからな」
「え?」
ようやく彼女の顔に疑念の影が過ぎった。深緑の瞳が大きく揺れる。
昔、約束を反故せざるを得ない、あの時の頃を思い出しているのだろうか。
今でもよく覚えている。わがままを言えない己の身を愁いた表情。
自分が一国の王女ではなく、どこにでもいる少女であればと、隠れた感情が言葉の端々から覗いていたこと。
どれくらいか知らないが、ほぼ全部記憶しているに違いない。
半ば確信のようなものが彼女から感じ取れた。
だから達哉は駄目押しをする。彼女が本当に昔のあの子かどうかを知るために。
「俺がまだ小さな子どもの頃、少し変わった感じの女の子とここに行こうと約束をしていたんだ。もっとも悪い連中に邪魔されたけどね」
やれやれとジェスチャーを加えて、達哉はため息を溢す。
「やっぱりあなたはもしかして、あの頃の男の子?」
信じられないばかりに、女は大きく目を見開き、両手を胸に当てる。
どうやら達哉の予感は的中だったようだ。
「ああ……僕の名前は朝霧達哉。君の名前は?」
彼女に向けて万感の思いと共に達哉は手を伸ばし、あの頃と同じ無邪気な子供と同じ笑みを浮かべた。
「フィーナ。私の名前はフィーナ・ファム・アーシュライト」
やや間を空けた後、少女……フィーナは達哉の手を重ね当てた。
なんとなく彼女の手袋越しから、心地よい脈音が聞こえる気がした。
なぜかやたらと全身が熱い。夜風がまだ冷たい時期なのに。
きっと季節外れの紅葉のように、真っ赤なのかもしれない。
だけどそれはあちらも同じだ。照れ嬉しそうに笑っている。
「また一緒に遊べるね、フィーナ」
「ええ、短い間だけどよろしく達哉」
月明かりの元、彼らは目的地で真の再会を果す。十年の歳月を得て。





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