黒猫と雨のシリーズ

 

 

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 火曜の夜、母は習い事に出かける。
 食卓の上には冷めたオムライス。
 それを囲う椅子は家族四人分、埋まっているのは二つ。
 年の離れた兄と妹の隙間を埋めるような話題は少なかった。
 だから、テレビの電源を入れる。
 高確率で流れてきたのは、簡単な憎悪で簡単に人を殺めてしまうようなサスペンスドラマ。
 いつからか、どちらからともなく、犯人当てゲームをするのが定番になっていた。
 そこそこ顔が知れている俳優が演じていて、主人公たちにいい顔を見せているのが犯人。
 この法則は十中八九外れなく、まったく面白くないと思われたゲームだったが、妹はいつも名推理、ではなく迷推理を披露した。
 犯人を当てるゲームだったはずが、いつからか、誰が一番悪いのか、を決めるゲームに色を変えた。

「だって私、こっちの人のほうが悪いと思う。どうして罰を受けないの?」
「いや、人殺しより悪いなんてないだろう」
「…… ないの?」

 ほんとうに?

 好奇心でいっぱいに膨らんだでかい瞳が、こっちを見ていた。
 幼い妹、年齢どおりのごまかしが効かない、かわいくない妹。
 殺されても仕方がない被害者。殺しても仕方がない加害者。
 そんな描き方するなよ、とドラマ制作者に文句をつけたくなる。説明するのが面倒くさくなるんだから。
 その頃はまだかろうじて兄の面目というのを気にかけていた頃だった。
 兄十五歳、妹九歳。
 机の上での議論は、罪と罰について。
 人殺しより悪い罪、それに課せられる罰、とは。

 

 * * *
 
 季節はずれの蚊が飛んでいる。
 ぼんやりと思い出すのは、高校時代に付き合っていた彼女のことだった。
 彼女は虫編の漢字を持つ生き物が大の苦手で、当然、虫に文と書くそれも例外ではなかった。
 叩き潰すこともできずにすがってくる、やわらかな記憶とともにある彼女だった。
 ぱんっと音を立てて、つぶす。
 永らえてしまった命はひどく重く、その動きをとらえることは容易かった。
 手の中にできた小さな赤いため池、その中心で死体はぷかぷかと浮いている。
 しかし、どこから入りこんできたのだろう。
 室内は窓を閉め切っているせいか、息苦しく感じられた。
 バイトから帰り、そのままベッドに直行して眠ってしまった。
 今日は週の半ば、断りきれなかったサークルの飲み会に顔を出し、疲れた体に鞭を打った。アルコールが悪いほうに回って、早く横になりたかった。結果、窓を開ける余力さえ惜しんだのだった。
 ベッドの上にあぐらをかいて座り、そんなことをぼんやりと思い出す。
 首周りにねっとりとした寝汗をかいている。
 さて、と全身を分析したが、どこにもかゆみはなかった。刺されずに済んだのだろうか。
 昔から、蚊にはあまり好かれない。
 体質なのか、一緒にいる人物が代わりに犠牲になることが多かった。
 ではいったい、この手のひらの上にできた池の血は誰が捧げたものなのだろう。
 首をかしげると、室内に広がる暗闇になじんできた瞳が、ベッドの下、狭いスペースを占領する丸いちゃぶ台から不自然なものが二本、伸びているのを見つけた。
 真っ暗な闇に浮かびあがる、二本の白い足。
 深く、ため息をついた。
 いつ入りこんだ、こんな大きなものが。
 ここからでは足しか見えないので、伸びたな、と感想を抱く。あと太った。
 ただの棒切れに、だいぶ肉がついてきた。
 最近は食べる努力をしている、と言っていた。
 オムライスが好きで、でも米は嫌いで、卵と玉ねぎだけを食べていた。偏食の影響か、小学生時代は風に煽られただけで骨折しそうな細さだった。
 高学年の頃からむくむくと縦に伸び、横にも少し伸び、足や腰や腕に肉がついた。人間らしい丸みを帯びた。
 机の下の狭い隙間にすっぽりとおさまっていた身体が、ぐるりと横を向く。
 ふくらはぎの裏、そして太ももに、点々と赤いしるしが見える。どうやら犠牲者のようだ。
 大方、蚊を招き入れた張本人でもあるだろうが。
「…… おい」
 呼びかけてみる。返事は、ない。
 暗闇に白く浮かび上がる肌に、点々とついた赤いしるし。
 それは、幼いころの記憶を呼び起こした。

 

 
 * * *
 
「もういいかーい」

 PTAだったか町内会だったか、とにかく母が役員の仕事で家を空けると、年の離れた妹の面倒を見ること、が兄の役割に加わった。
 放課後はだいたい友人たちと遊ぶ約束をしていたから、そこに妹を連れていくことになる。
 何が嫌だって、妹が混ざると、遊びが限定されるのが嫌だった。
 そして何より、友人たちがいつもと違う、よそ行き仕様の表情を浮かべるのを見るのがたまらなかった。妹は輪に加われば、当たり前のようにお姫様扱いを受け入れるのだ。
 その日も、近所にある神社の境内に集まり、さあ何をするか、と盛り上がったが、年少の女の子を交えても楽しめるような遊びなんて少ない。
「かくれんぼでもすっか」
 中学生にもなってかくれんぼかよ。
「なつかしくていいじゃん」
 鬼の不服顔を読み取りつつ、ぽんと背を叩いて友人たちが散っていく。
 妹に対するときはいつも、周りのほうが大人だった。
 遅れないようにと、妹の小さな背も友人たちに続いて消える。
 鳥居の柱に手をついて、鬼は数え始めた。
「もういいかーい」
「もういいよー」
 何度かのやりとりの後、笑い声交じりの返事が届いた。
 境内の中というルールはあるものの、結構広い。
 しかし、中学生にもなれば身を隠せる場所も少ない。
 次々と友人を見つけていく中で、妹だけが最後まで見つからなかった。友人たち総出で探しても、出てこなかった。
 境内をぐるりと囲んだ雑木林の、社の裏側から少し入った先、藪の下から、くすんくすんというすすり泣くような声が聞こえた。
 のぞきこんでみれば、頭が見える。ちょうど木漏れ日があたり、光の輪っかができていた。墨で染めたような真っ黒な髪だ。
「おまえ、なんで出てこないんだよ」
 とがめるように声をかけると、うつむいていた頭が、急に持ち上がった。
 つー、と目玉ごとこぼれそうな大粒の涙が頬を伝う。
 下に流れず鼻筋に届いて、涙なのか鼻水なのか判別できなくなった。
 なんとなく、ここに来たのが他の誰でもない、自分でよかったと思った。なんとなく。
 なぜ泣いているのか。問いかけたら、涙の理由を相手に尋ねるのはマナー違反だとのたまった。
 置いていこうとすると、ズボンの裾をつままれた。
「ひっぱるなって」
「オニ、でしょ?」
 かわいくない妹の今日の格好は、白いワンピースだ。手芸が趣味の母の手作り。
 地面に座り込んでいるため、土で汚れてしまっている。
 スカートから伸びている足には、赤いしるしが点々とついていた。
 膝小僧の上のやつは強く掻いてしまったようで、赤く腫れあがっている。
 白い肌の上、爪でひっかいたような生傷が痛々しい。むき出しの素足は集団に貪り食われたような有様だった。
 顔をしかめた。反射的に、母親の頭から角が生えている姿を思い浮かべた。
 母は、この妹に対してちょっと過保護だ。
 兄に対してはそうでもないのにどうして妹にだけ、と思うが、おそらくこの容姿が悪いのだろう。
 並んでも兄妹と判断されない、というか平均的な顔がそろった家族写真の中に一人、芸能人が迷いこんでしまったかのような姿が。
 妹の放課後のほとんどは、習い事に忙殺されている。
 たまの休みも、友達と遊んだりなんてのは許されない。せいぜい兄のお守り付きで近所まで出かける、くらいだ。この神社がギリギリ近所に入るかどうかだった。
 この妹の様子だと、こっちにまでお説教が飛んできそうだ。いい迷惑だった。
 血のにおいに惹かれたのか、新しい蚊が近づいてくる。
 それを叩き潰そうとして、大きな目がじっとこちらを見つめているのに気づいた。
 妹は、殺せない。虫という漢字を持つ生き物すべて正しく、殺せない。
 だからこんな有様になったのだろう。
 少し考え、さっと追い払うだけにする。
「おにいちゃん」
「なんだよ」
「かゆい」
 なんだか全身に疲れを感じたが、確かに足はひどい有様だった。
 掻き続ける手をつかんで、止めさせる。
 膝こぞうにあった真新しい赤いしるしに爪を立てる。縦と横、ぐっと皮膚を押しこむように×を刻む。
「これでもう大丈夫だろ」
「…… なにこれ?」
「おまじない」
 悪い虫が寄ってこないおまじない。
 目玉がこちらを見ている。貼りついたように動かない。
 気まずくなり、立ち上がり、今度こそ置いていこうとした。
 かわいくない妹。
 名前を、茗という。年の離れた、自分とはまったく似ていない妹。
 ととと、と後ろをついてくる気配がした。
 …… 袖をひっぱるな、と何度言えば伝わるのだろうか。

 

 * * *

 目がだんだんと暗闇になれてきたので、電気から伸びるヒモを引っ張るのをやめにした。
 床に落ちていたティッシュ箱を拾い上げ、手のひらの血をぬぐうと、音を立てないように立ち上がり、そっと冷蔵庫を開いた。
 わずかに漏れる光と電子音、後ろで身じろぎする音がした。
 しばらく様子を伺ったが起き上がる気配はない。熟睡らしい。
 ペットボトルを手に取り、水を口に含む。はーっと息を吹きかけると酒臭かった。
 二日酔いになる心配はしなくてもよさそうだったが、全身を襲う倦怠感は晴れない。
 何時だろうか。真夜中に近いように思う。ということはお泊りコースなのだった。
 母親が目を吊り上げている様が思い浮かぶ。
 嫌な予感に携帯電話に視線をやれば、灯りがともり何度か着信があったことを知らせていた。
 昔から、塾やら習い事やらで行動範囲は広かったが、すべて母の送迎付きであった。
 今年中学生になり部活動に所属し、習い事をすべてやめ、時間をもてあましたのか、たびたびここに訪問するようになった。おもに夜に。せめて明るいうちに来いと何度も言っているが、守られたことのない約束だ。
 実家と、通っていると聞く中学校、周辺地図を思い浮かべると、ギリギリ、駅を迂回するようなルートをたどれば、このアパートも徒歩圏内には入る。
 入るが、何かのついでにふらりと立ち寄るような位置ではない。
 そういう場所を選んで、越したのだから。
 
 できれば、シャワーを浴びてさっぱりしたかった。
 しかし物音を立て、侵入者を起こすことははばかられた。
 起きたときに相手をする元気が、今の自分にはない。面倒だ。
 一度目覚めてしまえばもう一度寝入るのは難しいように感じられた。
 夢が尾を引いている。足についた赤いしるしにデジャブを感じた。
 ふくらはぎと膝裏が見えている。そのちょうど中間あたりが、赤く腫れあがっていた。
 何の気もなかった、と言い訳を残しておく。
 手をのばし、爪を立て、赤いしるしの上に、×を刻む。
 皮膚はほどよい弾力感で爪を押し返してきた。

 作業を終えると満足して、再び布団へともぐった。
 振り返ってみれば、酔っていたのだ。
 どのくらい時間が経過した後だったのか、狭い部屋の中に、がんっと鈍い音が響いた。
 ゆらりと影が起き上がっていた。一瞬、幽霊のように見えてぎょっとした。

「…… めい?」
「帰る」
「はあ?」

 何時だと思って、の台詞を最後まで言わせなかった。
 突風のように部屋を横切り、ドアの向こうへと消えた。
 唖然として、閉まるドアを見ていた。
 ばたん。
 ドアが開いた一瞬、街灯に照らされたその耳の端が赤かったことを、今でもときどき夢に見る。
 まるでそれが、罰であるかのように。
 寝苦しい夜を運んでくる。

 

 

 

 

 

 

 

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