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 一本目に続き、二本目も灰へと変わった。
 わずかにくすぶる先を押し付けて沈黙させる。
 箱の中身を探れば、どうやら最後の一本だったらしい、指先がさみしく空振った。
 くしゃりと箱をつぶして、部屋の隅のゴミ箱に向けて投げ捨てる。
 かちゃん。思ったより硬質な音とともに枠にぶつかり、床へと落ちた。
 テーブルの上の財布をひっつかんで、ポケットへねじこむ。ちらり、と自室へと続くドアに視線を寄越した。
 開く気配はなく、静かに佇んでいるドアの向こう。
 目を細めても見えない向こう側に、普段はいないはずの存在を感じて。


 模 範 回


「どちらに、お出かけですか」
 おや、と思い、金澤は声に振り返った。
 少し前から人の仕事机を独占しているはずの少女が、背後に立っていた。
 腰に手を当て、堂々たる仁王立ちだ。金澤は広い肩をすくめる。
「いや。ちょっと、そこまでな」
「ダメですよ。タバコは」
 少女の手の中には、くしゃりとつぶれたタバコの空き箱。
 しくじったなぁと、金澤は束ね損ねた髪をつまんで、言い訳を考えた。考えて、途中で面倒になった。
「だって、誰かさんが相手してくれないからヒマなんだもん、俺」
 ぱちぱちと、少女の大きな目が瞬いた。
 それから自分よりはるかに高みにある顔を仰いで、大きく息をつく。
「しょうがないじゃないですか。私、来週からテストがあるんですよ?」
 母親が子どもに言い聞かせるように、少し困ったように眉が寄った。
 その生意気な中心にぴんと人差し指を当てて、押してやる。
 きゃ、と小さな悲鳴とともに、一歩二歩、スリッパが後ろによろめく。
 その隙を狙う、下履きを引っ掛けドアノブを回した。
「もう先生っ!」
 閉じかけのドアの間から非難の声がすべりこんできた。
 その隙間をしっかりと閉じて、金澤は逃げ出した。


 少女は―― 彼女は、スタートが人よりも遅かったせいもあるのか、人一倍熱心な努力家だ。
 知識も技術も、ぐんぐんとスポンジのように吸収する、教えていて、大変気持ちのいい生徒である。
 学び舎が高校から大学へと変わっても、その評価は変わらずに、ますます高まりを見せるばかりで。
 どれも、「であった」と、過去形で表現できないのは、自分と彼女の関係が根っこの部分で変わっていないためだった。
 週末になれば、自宅へと遊びにくるような。
 そんな関係に変化しても、少女は自分を先生と呼ぶし、自分はそれに応え続けている。


 コンビニから一歩外に出てみれば、頭上には青い空が広がっていた。
 思わず陽気な鼻歌がついて出そうな、雲ひとつない晴天だ。
 まるで、このままただ屋根の下へと帰っていく、一人の男の罪悪感を煽るように。
 そろそろ解放されてもいいよなぁ? と、金澤は誰にともなく問いかける。
 あえて言うなら、この空に。
 いつかの、学校の、屋上の、澄み切った空にだぶる空に。
 青空の下、鳴り響いた音が、耳の奥に蘇ってくる。
 けれどやはりあいにくと、答えが返ってくる気配は、ないのだが。


「―― おいおい」
 それは、ただいまよりも先に、声になってあらわれた。
 金澤は低い天井を仰いだ。青空はもちろんここからでは拝めない。
 今ばかりは少々、自分に同情してやらないでもない。
 だが相手は、もともとコンクールに素人ながらうさんくさいバイオリン一つで挑んでしまうような傑物だ。
 三十越え独身男の部屋で居眠りぐらいは、朝飯前なのだろう。実際の時間的には昼飯後だが。
 コンビニから帰ってきてみれば、少女は舟を漕ぐなんて可愛らしいものではなく、完璧に眠りの海へと沈没していた。
 まったく感心してしまうほど、たくましい神経の持ち主だ。
 無鉄砲で鈍感で、純粋。嘘がなく、素直で、いっそ清々しくすらある。
 金澤は完敗を認めて、机につっぷすように眠っている少女の肩に手を掛けた。
「おい、起きろー」
 少し強めに揺すってやる。
 なんとか上半身を机から引き剥がすと、腕に下敷きにされたノートの末尾に、「先生のバカ」と、三回ほどつづられているのが見えた。
 さて、それはどのテストに出る予定の解答なのだか。金澤は苦笑する。
「日野」
 なんとか椅子に座る体勢にさせたものの、少女の目はうつろのまま、まだ眠りの淵にあるようだ。
「日野さん、日野お嬢さん、日野姫さまー」
 頬を指でつまんでやると、やわらかく伸びた。まるで餅のようだ。
 面白がって余計に伸ばしてやると、うー、と不満の声も伸びた。
「……せんせー?」
 はいはいそうですよ、お前さんの先生ですよ。
 肯定して、予防線をはってみた。
 注意勧告が警報に切り替わる前に、早く。
 急かすようにもう少し伸ばしてみる。本当に餅のようにやわらかい。
「やーめてくださいー」
 解放してやると、少女の頬には金澤の指のあとがくっきりと赤く残っていた。
 とろん、と、起きたばかり、緩慢な瞬きから溶け出した空気は甘そうだった。
 想像に舌なめずりをしておいて、金澤はやはり苦笑する。
「お前さん、ちと根を詰めすぎてやいまいか。それとも今さらジタバタしなきゃならんほど、さぼってたのか」
「いえ、そんなことはない、と思うんですけど」
「けど?」
「不安、で」
 デジャヴ。
 同じような台詞を、金澤は以前にも聞いた覚えがあった。そんなに前ではない、ついこの間のことだ。
 弾いていないと、不安で。
 音楽ソリストの道は孤独との戦いだ。
 不安に打ち勝つために必要なのは、地味な練習の積み重ね、結局はこれにつきる。
 だが、あいにく以前の彼女にはその地盤の基礎がなかった。
 コンクールと名のつく場所に、素人が参加する。
 魔法という不安定な舞台の上で、時々、彼女はうまく呼吸できずに溺れそうになっていた。ように見えた。
 それがどうして今、あのときと同じような目をするのか。

 金澤は、深くため息をついて、どうしたもんかねえ、と問うた。
 赤くなった頬をさすっている少女を。
 いち教師、いち大人、いち男、いろいろな方向から省みてみれば。
 そういえば、コンビニで買って来たタバコも、まだ手にしたままであった。
 金澤は、机のノートの上、ちょうど「先生のバカ」を隠すようにそれを置いて、代わりに、よっこいせ、と掛け声一つ、新しい荷物を抱きかかえた。
「ひゃ、っせせっせんせい?」
 耳元で、荷物の甲高い悲鳴が上がる。
 肉体労働は老体にしみるが、幸いすぐ横がベッドだ。
 そっとスプリングの軋みに合わせるように、手の中からベッドへと荷物を移動させて、頭まで布団をかぶせた。
 抗議の声が、シーツの向こう側からくぐもって聞こえる。
 金澤は、おそらくその頭があるあたりの膨らみを、ぺしぺしと叩いた。
「いいかね、若者よ。一度しか言わないから、耳澄ましてよーく聞いとけよ」
「はい?」
「いつでも全力で取り組むお前さんの姿勢は立派だよ。俺は尊敬する。でもな、勉強するときは勉強する。寝るときは寝る。大事なのはそのバランスだな」
 布団の下から頭がのぞく。
 前髪をすくってやると、指の隙間からするすると抜けていく。
「どれも全部、今のお前さんに必要なもんだ。きっと一つも欠けることなく、お前さんの身になるよ」
 布団の下から、ひょこりと顔が出た。目が、合う。
 そこに、金澤は見慣れた姿を見つけた。髭面の、情けない男の顔だ。
「だから、今はぐっすりおやすみ」
 金澤が笑いかけてやると、鏡映しのように少女もふわりと笑った。
 いち教師として、音楽を志した先人として、出来る限りのことをしてやりたいと思う。
 でもきっとこの先も、男を見る目を養え、と、助言することだけはしないだろう。
 悪い先生だ、と少々、申し訳なく思わなくもない。

 立ち上がろうした途中で、おや、と金澤は止まった。
 いつのまにか掴まっていたらしい、Yシャツの袖口がひっかかっている。彼女の指に。
 くい、と力を込めて引き寄せられた。
「先生、は?」
「ああ?」
「私に今一番足りてないの、たぶん先生分だと思います」
 金澤はぱちぱちと瞬きをした。
 その向こう側に、みょうに悟りきった生徒の顔が見える。
「だから、ください」

 さて、どうしたもんかね?
 金澤は苦笑して、問いかける。瞳の中の、髭面の男に。
 答えるように、ゆっくりとまぶたの幕が降りていく。
 ここはやはり、よくできました、と花丸をやるべきだろうか?

 

 

 

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