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 夢をみていた。
 ゆっくりと流れる川の水面をたゆたうような、とても心地のいい夢だったから目を開けるのがもったいないくらい。
 でも最近は少しだけ考える。
 いっときの気持ちよさに身を任せて、もっと大切なものを見落としてしまうことはないのだろうか?
 その、可能性について。


  な も の


 目を開けて最初に見えたのは、上履きの先、だった。
「ひの、せんぱい?」
「はい?」
 ひょっこり、という効果音付きで、頭がのぞく。髪がさらさらと下に向かって流れた。
 志水はきょろきょろと辺りを見回して、そこでやっと天井の低さに驚いた。
 いったいここはどこだろう。
 頭上に浮かんだクエスチョンマークを見破って、香穂子は先回りをする。
「今は放課後で、ここは練習室で、志水くんがいるのはピアノの下だよ」
 ああそうだった。
 今日は先輩と一緒に合奏練習すると約束をしたんだった。

「すみません、先輩の貴重な練習時間を……」
「え、いいよ?」
 鈴のような笑い声が響いた。
「うまく言えないけど、こういう時間も、きっと必要なんだよね」
 こちらの首が傾くのを見越していたように、声は続ける。
「志水くんを見てると、そういうふうにすごく感じるよ」
「僕を、ですか」
「そう。毎日当たり前みたいに過ごしていても、感じることは全部、音楽の源になるんだ」
 志水くんが、教えてくれたんだよ。
 目の前でつむがれる言葉の織りに、志水は不思議な心地になる。
 この口から漏れたのかと錯覚するほど、それは自分の言葉だと感じた。
 そして、この人の声が好きだなぁと、改めて、強く、思ったりもした。
 できることなら、目の前の人から奏でられる音をすべて拾って集めたいのだけど。
 録音して、聞いていたいのだけど。できることならずっと、永遠に。
 志水がこっそり耳を澄ましていると、ワントーン上げて、声は言う。
「そこで寝るのって、気持ちいい?」
「え?」
「ピアノの下、気持ちいい?」
 しゃがみこみ身を乗り出した拍子に、香穂子の耳にかかっていた髪の毛が落ちた。
 さらさらと、さらさらと。
「寝て、みますか?」
 志水の提案に少し虚をつかれた顔をしてから、香穂子はこくこくと勢いよく頷いた。
「お邪魔、します」
 志水は床のカーペットの上にうつ伏せになったまま、それでも新たな客人を招くためのスペースを若干横に作った。
 そこに芋虫のようにはってたどりついた香穂子は、仰向けに転がった。ぐんと猫のようにひと伸びをする。
「これはなかなか、きもちいいねえ」
「はい。……ああ、でももう一人いたら、川の字ができましたね。ちょっと残念です」
 思い浮かんだことを志水がそのまま口にすると、香穂子はぱちぱちと二回大きく瞬きをして、そして、少し眉を寄せてから、微笑んだ。


 
 

 志水は親指と人差し指を折り曲げてみた。
 こうやって、この人がの寝ている場面に遭遇するのは、たぶん二回目、だ。
 一回目は図書室だった。
 探し求めていた本の、その上で寝ていた。
 志水はわずかに上体を起こして、のぞきこむようにして見た。
 特別派手なわけでも地味なわけでもない顔立ち、だと思う。
(この人のすべてを手に入れるためには、どうすればいいんだろう)
 唐突に浮かんできた思いにさして驚くこともなく、志水は思考の底へともぐっていく。
 たどり着いた底から、子蟹が一筋の光が差すのをじっと待つように、静かに水面を見つめ続ける。
 目を、開けないかな。
 もしかしたら、いい夢をみているのかもしれない。
 やすらかな寝顔を見ながら思う。
 どんな夢をみているのだろう。想像してみる。
 でも、声が聞きたいな。
 すうすう、と漏れる寝息は一定のリズムを作っていて、そこに志水はそっと耳を近づけた。
 もっと近くで、もっと聞きたい。
 髪の先が触れてしまったのだろうか、予告もなくまぶたが開いた。

 あ、と思い、志水の口が動くよりも先に、甲高い悲鳴が鼓膜を震わした。
 驚いた志水は後ろにのけぞり、そのまま天井に、ずいぶんと低い天井に後頭部をぶつけた。
 ごつん、と鈍い音が響いた。

「だ、大丈夫?!!」
 はあ、と志水は頭をさすりながら、後ろのピアノをなでた。
「よかったです。ピアノ、無事みたいです」
「そうじゃなくて! いやそれも大事だけど!」
 先輩の手が伸びてきて、横を通過する。
 じんじんとした痛みが一瞬、触れた一点に集中した。
「ここ、大丈夫? タンコブとかできてない? ああ驚かせちゃって、ごめんね」
「僕の頭は平気です、たぶん。鍛えてますから。……それよりも」
 見た目が大丈夫でも、繊細な楽器のことだからわからない。へこんだりしていないだろうか。
 志水が気にするふうにすると、香穂子の手も同じあたりをなでた。
「先生とか、土浦くんとか、に見てもらったほうがいいかな?」
 背が高く、とても大きな手でピアノを奏でる先輩の姿を思い浮かべた。
 しばらくして、のそのそと今度は芋虫のように床をはって、ピアノの下から出る。
 志水くん? と、後ろから声が追いかけてきた。
「土浦先輩にはとても及びませんが……」
 そう言って、椅子を引き、腰かけた。

 それは、ピアノの下から出る、一歩前で落ちてきた。
 ぽつり、ぽつり、と通り雨のように、音が。
 肩に、手の甲に、まぶたに、順番に、全身に。
 どこから?
 香穂子が音の出所を見上げると、低くて狭い天井があった。
 

 思い描くとおりに動かない指。明らかに練習量が不足していた。
 最近はチェロだけを弾いていたくて、なかなかピアノに割く時間をなかなか持てずにいたから。
 でも、不思議かな、悪くはない。
 志水は最後の一音を弾き終わり、ほうと息をついた。なぜだろう、ちぐはぐな感覚だった。
 その原因解明に思考をゆだねていたせいで、少し時間がかかった。
 香穂子が出てこない。
 志水がピアノの下をのぞきこむようにすると、ぺたんと床に座りこんだままの姿があった。
「先輩?」
 反応がない。
 どうかしましたか、という言葉をさえぎってあふれるような拍手が響いた。 
「空から、音が降ってくるみたい!」
 最上級の賛辞を浴びせられて、志水は意外なほど、自分が満ち足りていることに気づかされたのだった。  
 

「すごくきれいな曲だった。なんて曲?」
 その問いかけにきょとんとして、志水は苦笑いをこぼした。
 まっすぐな言葉はときどき耳にくすぐったい。
「てきとう、です」
「テキ、トオ?」
 聞いたことのない題名だ、と首が傾いていく。
 その様子を見て、志水はさらに笑う。
「適当に、弾きました。あえて言うなら、香穂先輩の音を思い出しながら」
 水の底で小蟹が夢みていたような音を。
 いつも無条件で降り注いでくる、光のような音を奏でたいといつも、思っている。
 演奏でも言葉でも、うまく伝えるのは今の自分ではまだ足りない。
 でも、傾けてくれる耳があるのなら。寄り添ってくれる音があるのなら。
 もう少しだけこの心地よさに甘えさせてほしい。ダメ、だろうか。
 いつか、この音楽があなたに届きますように。
 祈りをこめて、音をつむぐから。







 

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