前編 安藤春日。
あんどうかすが。ってわざわざ仮名までふってある。
角っこが丸くなっている独特のくせ字で。一見女の子の一人暮らしだと勘違いされるのも無理ないのかもしれない。
よく化粧品のセールスが来るって言ってたな、そういえば。
今となっては黒板で見慣れすぎた文字で。あの人以外の誰のものでもないって確信できる、けど。
ナオはもう一度表札を確認して、そのすぐ下にあったブザーを押した。
ブーと低い音がした。
しばらくの間があって。
結構の間があって。
もう帰ってしまおうかなんて思い始めていたら、のっそりと重たい感じで扉が開いた。
びっくり。
って顔で言われた。
いつもより頬の赤みが割増だなんて、ナオは冷静に観察する。
固まってしまった表情を促すように、ナオはにっこりと笑った。
「先生、大丈夫? お見舞いに来てみたんですけど」
片手にしていたビニル袋を持ち上げて。
これね、みんなから。と付け足して、渡した。
その重みを感じてやっと「あ、うん」なんて反応が返って来た。
恐ろしく鈍い反応で。
これはどうやら重症だと思った。
「……って、えっ? ナ、じゃない町田?」
動揺する部屋の主の横をするりと通り抜けて、町田ナオは中へと入った。
フローリングの床に本やらプリントやらが敷き詰まっていた。絨毯代わり、なのかもしれないと思った。
キッチンの流し台には食器とか少ない。けどその代わりに空っぽのコンビニ弁当が山を作っていた。
(先生、洗って再利用してそう)
その想像は妙にリアルで。ナオは少し顔をしかめた。
「あの、学校は?」
少し冷静さを取り戻した声が言った。
初めて見る部屋の感想も一通り出し終えたナオは、スカートをひらりとさせて振り返った。
学校からそのまま来た。だから制服姿なのは当然で。
今問題にされてるのは時間のほうだった。
「さぼっちゃった」
「ダメだよ」
即答される。
この安藤春日、身長170以上180以下、体重少なそうなのは、ナオの高校の世界史教師だ。
甘すぎず辛すぎず、あっさりとした顔と、とても27歳とは思えない可愛い性格。
こういうステータスからして、結構生徒から慕われている。実際ナオもいい先生だと思う。
こうやって心配して見舞ってくれる生徒がいるってのもそう。
その生徒に真面目な顔して注意してくれるのもそう。
「でも5限目、先生の授業だから」
「だから?」
「自習、だよ?」
う。と先生が口篭もる。
先生はジーンズにTシャツなんて普通の格好をしていて。
もっと楽な格好すればいいのに、なんて思うんだけど。
て言うか。
「先生、寝て。ちゃんと病人してください」
とりあえず着替えたらどうですか? ってアドバイスしたら、いつも下着姿で寝てるから……って言葉を濁した。
構わないですけど? ってナオがフォローしたら、いや構うから。って恨めしそうに睨まれた。
そういえば。って思い立って。
みんなからのお見舞い袋をガサゴソと探ってみたら、案の定青と白のチェック柄のパジャマが出てきた。
とっても似合いそうで、さすがだと思った。
そうしたら底の方に、可愛い柄の封筒を発見して。
「これ、みんなから」
と思ったから、そのまま両方きちんと渡した。
先生はありがとうって素直に受け取って封を切ってた。ちょっと照れていて、可愛いかった。
ナオはお見舞い袋からリンゴを一つ取り出して、キッチンを拝借する。
リンゴの甘い香りがする。実は皮むきとかあんまり上手じゃない。おかゆとかも、作れないし。
だからお見舞い大臣適任じゃないよ、ってクラスのみんなには言ったんだけど。
ナオしかいないよって押し切られて、代表して今こんなことになってる。
床きれいにしたほうがいいなとか思いつつ、とりあえず小テーブルの上にスペースがほしくて、積み重なってた荷物を一旦、床に下ろす。
デコボコな形のリンゴ、お皿にのせてちゃぶ台机の上に置いた。
反応がほしいのに、先生は唯一物の少ないベッドに座り込んで、さっきの手紙を片手に固まったまま。
「……」
そっと近づいて、ナオは手紙を抜き取った。
あ。と軽い悲鳴が上がって。
でもそれ以上抗議はなかったから、読んでもいいらしいと勝手な判断で。
ナオは落ち着く場所を求めて、ベッドの、先生の横に座った。
先生が一瞬困った顔をしたのには気が付かなかったことにする。
春日先生へお見舞いリスト。という文字が目に飛び込んできた。
リンゴ、パジャマ、おかゆの材料、そして、
町田ナオ+α
わざわざ赤ペンで強調しなくたって。とナオは思って溜め息をついた。
ごくり、と唾を飲み込む音が隣から、した。
先生はこちらを見ないようにして、お見舞い袋をそっと布団の中に隠そうとした。
ナオは目聡くそれを発見してしまった。
そうしたら、無視なんかできないじゃないか。
先生の後ろから回り込むようにして、手を伸ばす。
それに気付いた先生はうわぁとか悲鳴を上げつつ進入路を塞いだ。正確には塞ごうとした。
二人はからむような格好になりながらも、ただナオの手のほうが一瞬早く届いて。
「……」
気まずい沈黙が二人の間に流れた。
一瞬あの、熱を冷ますシートだと思ったんだけど。ちょうど大きさも手ごろで四角い箱だし。
見覚えはなかったけど、知ってた。裏書きの説明とか、読むまでもなかった。
もう高校生だし。知識として、知ってた。
(プラスあるふぁ、か)
「……ごめん」
先生が静かな声で謝った。
いつもより低いかすれた声。
先生病気なんだから寝てればいいってもう一度思った。謝る必要ないし、全然。
でもそうしたら妙に近い、この距離感が気になりだした。
意識した。
「パジャマ、着替えるな。さんきゅ」
頭をぐしゃぐしゃとされる。
先生の手は大きくてやっぱり少し熱い。
いつもの乾いているイメージがあるから、だから少し汗ばんでいて、そういうのすごく意識する。
どきどき、する。
先生は青と白のチェック柄のパジャマ持って、洗面台へと消えた。
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