後編 「やっぱりダメだよ、帰らなきゃ」
なんて、そんな可愛い恰好で言われても。
口にすると怒られそうだから、黙っておく。
ナオはさきほどから床に散乱していたプリントやら本やらを片付け始めていたのだが。
なぜか隣で一緒に動く人影が。
「あのね、先生寝てくれたら帰ります」
青と白のチェック柄パジャマに着替えた安藤春日先生は、少し考える風にしてから分かった、と頷いた。しょうがないみたいに溜め息を添えて。
ナオは手提げ鞄を持って、立ち上がった。
「お大事に。お邪魔してゴメンナサイ」
少しだけ意地悪な言い方をした。お邪魔の部分に力を込めて。
実際なんでか、頭の三分の一ぐらい怒っていて。残り、悲しくて。
あと忘れずに、四角い小さな箱の入ったお見舞い袋はちゃぶ台机の上に置く。
「これ、たぶん先生のほうが使い道あると思うから」
じゃ、と踵を返してドアに向かおうとしたところで、二の腕を掴まれた。
先生の手、やっぱり熱があると思った。
だから寝てって言ってんだけど、なんで分かんないのかな、この人は。
「ごめんってオレ、足りてなかった?」
「……ごめんの意味、よく分かんないですよ」
「嫌な思い、させたから。……町田に」
「先生がじゃなくて、クラスのみんながでしょ? たぶん市川さんたちがでしょ?」
そもそもナオをお見舞い大臣にと強く推したのはクラス委員長の市川さんを中心にしたグループだった。
買い出しに行ったのも市川さんたち。ニコニコ顔で手渡してきたのも市川さんたち。
箱、封切られてなかったからわざわざ薬局とかで買ってきてくれたのかもしれないし、そこらへんのコンビニで普通に買えるのかもしれなかった。よく知らない。
「先生、別に悪くないですから。全然、だから」
だから早く寝て。とナオは言いかけて、言えなかった。
ぐっと強く腕を引っ張られて、引き寄せられて。
(熱い)
鼻の頭をこする新品の布は清潔な感じで。
ただ、伝わってくる熱さが尋常じゃなかった。
押し付けられてる胸板も、背中に回されてる腕とかも全部。
熱い。
「……ごめん」
随分経ってぽつりと吐き出された。
でも開放してくれる気配は、ないみたい。
ナオは窮屈な恰好に収まっていた。腕とか宙ぶらりんになっていて、とりあえず片手に鞄状態はきつくて、そのまま落下させたらカシャンって高い音がした。
「謝ったら全部オッケーじゃないんです。分かってますか?」
「ごめん。我慢できなかった」
「だから……」
言いかけて途中で、特大の溜め息に変わった。
所在の定まらなかった手を先生の腰のあたりに持っていく。
そうしたらもっとぎゅうっと強く抱き締め返された。
「ごめんね、好きで」
この安藤春日先生、隠し事が苦手な人柄のようで。
最初はよく目が合うなとかも、自意識過剰で片付けようとしていたんだけど。
なんかもうそれじゃ足りないって、ナオも本当は本能では気付いていて。
周りの生徒まで気付いていて。
先生だからって。
ナオも知らぬフリで通すわけにはいかなくなってしまった。
「……いいです。今日は病人だから。全部許します」
「ほんとに?」
ゆっくり頷こうとしたら、ひょいっとナオの視界がひっくり返った。
ええっと抗議の言葉を発する間もなく、ナオは両の手に軽々と抱えられて、気が付いたらベッドに仰向けに寝かされていた。
そのためにベッドの上にだけ物を置いておかなかったんだよ。みたいな顔して覗き込んでくる。
ナオは急いで口の前にバリケードを張った。手で。
なんで? って少し先生の顔が曇る。
「許す、って言わなかった?」
「だって、今ここで風邪うつされたら明日みんなに言い訳できないじゃないですかっ」
「みんな……?」
「そうです。だからダメ」
そうなんだ。って今度は少し無念な顔つきになって、でもまだ子供の目で、悪戯好きみたいな。困らせるの大好きだって目が言っていて。
口がダメなら、と首筋にキスを一つ落としてくる。
そういう問題じゃないっとナオは思った。
キスは最初はごく軽く、少しずつ想いを乗せて。
「ナオ」
って、この後に及んでそんな所で囁いたりする。
触れた部分の熱は更に強く、いちいち意識の底を刺激して。
先生だからとか病人だからとかそういうの、遠くに、関係なくなりそうになる。
慌ててナオは、ちなみにって指差した。ちゃぶ台机の上、みんなからのお見舞い袋があった。
先生は促されるままに、四角い小さな箱を手にとる。
「開けるとこ」
よく見ると、そこには目立たないように数名の生徒の署名が書かれていた。
一度使ったら二度と手に入らないように、おまじない。
「学校行ったら絶対これ提出させられます」
だからダメです。とナオが真剣な表情でもう一度念押しをした。
「でも、それ使わなくても他に予備あるし……」
そんなどうしようもない呟きをナオの眼光が遮る。ちゃんと病人してください。
……ゴメンナサイって先生は素直に謝った。それからおとなしくベッドにもぐった。
ベッドで丸くなってしばらくして、すぐ静寂がおとずれて。
スムーズな呼吸音が聞こえるだけになった。
片付け、しないと。とナオは溜め息とともに立ち上がり、とりあえず近くのプリントの束に手を伸ばした。
帰り際。
キレイになった部屋の中、ちゃぶ台机の上のお見舞い袋が目に入る。
プラスあるふぁの使い道、先生やっぱりすごく困りそうだ。とナオは考えて。
四角い小さな箱を、手提げ袋の中にそっと忍ばせた。
|