もうすぐ試合が迫っていた。 気力と体力と体重と肌のつやと貴重な昼飯の時間を削って、ほしいのはその試合の、リングに上がる権利だった。
とても謙虚だった。
勝利にがむしゃらになるのはあまり好きじゃなかった。
でも人並に負けるのは嫌いだった。
だから、昼飯を抜いて、雨のシャワーに打たれるぐらいは仕方がない。
靴箱からシューズを取り出して、床に落とした。
貴重な青春の時間を削るのだ。一秒も無駄にしたくない。
昼休み、外は雨だ。
こんなときに下駄箱に用事がある奴なんで、自分くらいだろうと思っていた。
だから思いがけず、靴箱からローファーを取り出して、細い指を掛けてかかとをしまうまでの動作を観察してしまった。
黒髪が翻ったと、気付いたときにはもう。
素早い動きで昇降口を通り抜け、灰色の空、雨を降らす諸悪の根源をちらりとも見ずに。
一歩、踏み出していた。
慌てて、スポーツバックの中から、ぐしゃぐしゃに入れておいた部活のパーカーを取り出した。
もっとも防水効果のありそうな素材。
制服のジャケットを脱ぎ、着ていたトレーナーの上からそれを羽織った。
フードをかぶり、それでも防ぎきれない雨のしぶきに一瞬、顔をしかめた。
一歩、躊躇った。
足取りは、一直線に校門を目指している。
迷うことはなかった。
削って削って削って手に入れたものは、裏切らない。
スピードに負けて、フードが脱げる。
ぬかるんだ土に足をとられても、なるべく泥が跳ね上がらないルートを選んだ。
校門を出る前に、追いつくのに成功した。
見事な黒髪だった。
腰のあたりまでまっすぐに伸びた、それだけの髪だった。
今はたくさんの雨を浴びて、そのつやを増している。
ばさ、と乱暴に放り投げた。
パーカーは黒髪を隠し、その小さな身体をすっぽり覆った。
足が止まった。
地面が、土からコンクリートに変化したところで。
くるりと向きを変えた。
その髪に負けないくらい黒い瞳に見とれる間もなく。
雨を切り裂く音がした。
削って削って削って手に入れたものは、裏切らない。
不意打ちの右ストレートを、左腕でガードしてしのいだ。
小さな拳が骨にのめりこむ音を聞いた、ような気がした。
驚いた。
どうやらお互い様だったようで、黒くてでかい瞳がさらにでかくなった。
自分の有様と、相手の有様をまじまじと見比べて、臨戦体勢を解いた。
ならって、左のガードを下げた。
「……痴漢かと思った」
にやりと笑って見せて、パーカーに袖を通した。
黒髪の存在感がパーカーの中に隠れたのに、あまり変わりがなくて不思議に思った。
「ね、なんで?」
パーカーの、余る袖の先が指につままれて、持ち上がる。
その質問は正しいように思った。けれど答えは雨になった。
トレーナーはすごい勢いで水を吸い込み、急速に身体が冷えていくのを感じた。
もうすぐ試合が迫っていた。あまりよくないことだった。
早く教室に帰るべきだった。それは、お互い様だった。
そうしたら、先越された。
くるりと向きを変えて、後ろを向けたままひらひらと手を振って、消えていった。
名前も知らなかった。
だから、もしこのことを思い出すなら、代わりの名前が必要だと思った。
見事な黒髪にちなんで、黒猫のパンチと名づけてみた。
左手を閉じて開いて雨を掴んで、大野は首をかしげた。
「……なんで?」
一人取り残されたグラウンドで同じことを呟いた。
本当はもっと早くこの疑問にぶつかるべきだった。
盛んに雨は警告したのに、それをすべて無視した。そして、この有様だった。
答えは、髪をしたたる一滴になっていた。
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