黒猫と雨のシリーズ

 

 答えは雨になった。

 

「大野くん、コレありがとう」

 がさ、と乱暴に机の上に置かれたのは、見慣れた部活のパーカーだった。
 透明な袋がかかったままで、どこからここに直行したのか、分かりやすかった。
 クリーニング店のタグをちらりと見やる。

 高橋達樹様。

「大野って、持月さんと知り合いなの?」
 隣の席の早川スミレが、クラス中の視線を独り占めにしながら出て行く黒髪を見送りながら言った。
「……もちづき?」
 慣れない発音で彼女を呼ぶ。
 しっくり来ないのは苗字が違っていたせいではなかった。
 そんな奴は知らなかった。

 クリーニング店のタグを引きちぎって、拳の中で握りつぶす。
 隣で、早川スミレが不思議そうに首をかしげるのが見えた。

 

 

 もうすぐ試合が迫っていた。

 気力と体力と体重と肌のつやと貴重な昼飯の時間を削って、ほしいのはその試合の、リングに上がる権利だった。
 とても謙虚だった。

 勝利にがむしゃらになるのはあまり好きじゃなかった。
 でも人並に負けるのは嫌いだった。
 だから、昼飯を抜いて、雨のシャワーに打たれるぐらいは仕方がない。
 靴箱からシューズを取り出して、床に落とした。
 貴重な青春の時間を削るのだ。一秒も無駄にしたくない。 

 昼休み、外は雨だ。

 こんなときに下駄箱に用事がある奴なんで、自分くらいだろうと思っていた。
 だから思いがけず、靴箱からローファーを取り出して、細い指を掛けてかかとをしまうまでの動作を観察してしまった。
 黒髪が翻ったと、気付いたときにはもう。
 素早い動きで昇降口を通り抜け、灰色の空、雨を降らす諸悪の根源をちらりとも見ずに。
 一歩、踏み出していた。

 慌てて、スポーツバックの中から、ぐしゃぐしゃに入れておいた部活のパーカーを取り出した。
 もっとも防水効果のありそうな素材。
 制服のジャケットを脱ぎ、着ていたトレーナーの上からそれを羽織った。
 フードをかぶり、それでも防ぎきれない雨のしぶきに一瞬、顔をしかめた。
 一歩、躊躇った。
 足取りは、一直線に校門を目指している。
 迷うことはなかった。

 削って削って削って手に入れたものは、裏切らない。
 スピードに負けて、フードが脱げる。
 ぬかるんだ土に足をとられても、なるべく泥が跳ね上がらないルートを選んだ。
 校門を出る前に、追いつくのに成功した。
 見事な黒髪だった。
 腰のあたりまでまっすぐに伸びた、それだけの髪だった。
 今はたくさんの雨を浴びて、そのつやを増している。

 ばさ、と乱暴に放り投げた。
 パーカーは黒髪を隠し、その小さな身体をすっぽり覆った。

 足が止まった。
 地面が、土からコンクリートに変化したところで。
 くるりと向きを変えた。
 その髪に負けないくらい黒い瞳に見とれる間もなく。
 雨を切り裂く音がした。

 削って削って削って手に入れたものは、裏切らない。

 不意打ちの右ストレートを、左腕でガードしてしのいだ。
 小さな拳が骨にのめりこむ音を聞いた、ような気がした。
 驚いた。
 どうやらお互い様だったようで、黒くてでかい瞳がさらにでかくなった。
 自分の有様と、相手の有様をまじまじと見比べて、臨戦体勢を解いた。
 ならって、左のガードを下げた。

「……痴漢かと思った」

 にやりと笑って見せて、パーカーに袖を通した。
 黒髪の存在感がパーカーの中に隠れたのに、あまり変わりがなくて不思議に思った。

「ね、なんで?」
 パーカーの、余る袖の先が指につままれて、持ち上がる。
 その質問は正しいように思った。けれど答えは雨になった。

 トレーナーはすごい勢いで水を吸い込み、急速に身体が冷えていくのを感じた。
 もうすぐ試合が迫っていた。あまりよくないことだった。
 早く教室に帰るべきだった。それは、お互い様だった。
 そうしたら、先越された。
 くるりと向きを変えて、後ろを向けたままひらひらと手を振って、消えていった。

 名前も知らなかった。
 だから、もしこのことを思い出すなら、代わりの名前が必要だと思った。
 見事な黒髪にちなんで、黒猫のパンチと名づけてみた。
 左手を閉じて開いて雨を掴んで、大野は首をかしげた。

「……なんで?」

 一人取り残されたグラウンドで同じことを呟いた。
 本当はもっと早くこの疑問にぶつかるべきだった。
 盛んに雨は警告したのに、それをすべて無視した。そして、この有様だった。
 答えは、髪をしたたる一滴になっていた。

 

 

 

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